デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
5款 アンドルー・カーネギー自叙伝
■綱文

第48巻 p.34-36(DK480012k) ページ画像

大正11年5月(1922年)

是月、栄一ガ小畑久五郎ニ依嘱シテ翻訳セシメタル「アンドルー・カーネギー自叙伝」冨山房ヨリ発刊セラル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK480012k-0001)
第48巻 p.34 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
十一月二十九日 半晴 寒
○上略 午後四時〔 〕《(原本欠字)》博士来リ、頭本氏ヲ伴フテカーネギー氏未亡人ノ家ヲ訪ヒ、日光絵巻物ヲ贈リ、会見シテ種々ノ談話ヲ為ス、同氏自伝ノ訳書ハ近日上木発売ノ事ヲ告グ、未亡人ハ其良人ノ書斎ニ余等ヲ招シテ、鄭重ナル茶菓ノ饗応アリ、午後五時過帰宿ス
○下略
   ○栄一、第四回渡米ニ際シ、是日カーネギー未亡人ヲ訪フ。本資料第三十三巻所収「第四回米国行」参照。


竜門雑誌 第四〇七号・第一一―二八頁 大正一一年四月 ○米国訪問談 青淵先生(DK480012k-0002)
第48巻 p.34 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第一一―二八頁 大正一一年四月
    ○米国訪問談
                      青淵先生
 本編は去二月十三日より廿四日に亘り「米国に使して」と題して中外商業新報に連載せられたる青淵先生の談話なりとす。(編者識)
○中略
△カ氏の未亡人 夫からカーネギー氏の未亡人にもお目に掛つた、非常に佳い家で此処では大変結構なお茶を出して呉れた、未亡人は「夫は未だお前とはお目に掛ることが出来なかつたが、私は夫を非常に残念に思ふ、然しお前が今度来て呉れたのを深く喜ぶ」と云ふて写真等を呉れた。私は彼の人の教典をカーネギー教典として本にしやうと思つて、ヴアンダーリツプ氏にも話をして今序文に就いて多少研究して居るのである。彼の人の事業に対しての経営振は悉く経済学の本則に叶つた筋道を行つた人と思ふ、カ氏の富は何十億と云ふのであつたらうが、夫は決して子孫の為に蓄へられたのでなく、必要に応じては心良く之を散じ、そして其散じ方も誠に公明正大、偏せず謬らず誠に宜敷を得て居るやうに思ふ。
○下略


アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳 巻頭 大正一一年五月刊 【序 青淵 渋沢栄一識】(DK480012k-0003)
第48巻 p.34-35 ページ画像

アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳
                    巻頭 大正一一年五月刊
  序
「アンドルー・カーネギー」氏は米国財界の偉人にして其意志の剛健なる事業の雄大なる輓近の斯界に匹儔を観る能はざる所なり、想ふに十九世紀以来、世界産業の顕著なる発展は素より慶すへしと雖も、其
 - 第48巻 p.35 -ページ画像 
余弊たる人心自ら義を忘れて利に趨き、極端なる物質主義漸く坤輿に充満せむとす、此時に当りて氏は少年米国に移住し、精励刻苦、明敏の資質と抜群の胆略とを以て無比の大工業を画策し、経営宜を得て其富米国に冠たるに至るや、決然其財産を挙けて之を人類永遠の幸福に捧け、四海兄弟の平和状態を永劫に維持せむ為め「カーネギー」平和財団を組織して「ヘーグ」に平和殿を創建し、又知識を進めて文化の向上を図り、特に欧米諸国の各都市に多数の図書館を建設し、其蓄積せる鉅億の資財を以て子孫の為めに美田を買はす、一家の福利を犠牲として世界人類に貢献せしは、千古に渉りて史乗の載する所、口碑の伝ふるところ、未た曾て此の如き壮挙あるを聞かさるなり
是を以て余は、氏の此壮挙を彼の政治界に絶大の名声ある「ジヨージワシントン」氏の偉業に酷似する所ありと為す、蓋し「ワシントン」氏の新大陸に於て自由国を創立するや、毫も天下を家とするの私心なく、懇切なる告別の名文章を国民に残して三回の大統領就職を辞し、米国将来の大憲を定めたるは其心事の高潔なる用意の深厚なる千載の後人をして之が堅操と温情とに感泣せしむるものあり、「カーネギー」氏の事績が、此絶倫なる政界の偉勲に対して容易に評隲すべきにあらずと雖も、同しく米国に於て政財両界に此尊重すべき道義的模範を垂れられたるは実に奇遇といふへくして、而して二者の理想は全然公共的なるのミならす、共に自己の開拓せし功績を以て普く世界人類に及ぼし、恒久に平和親愛を実現せむとするに在れば、其途を異にするも其揆は一なりと謂ふを得べし、古より興国安民の大業を為したる政治家、鉅億の富を積ミたる実業家は、其人に乏しからすといへとも、崇高の理想と卓絶の才識とを以て能く之を実際に現出したるは、蓋し此二者あるのミ
余や不敏なりといへとも、東洋固有の道徳に拠りて生産殖利の事に任し、拮据経営玆に四十余歳、晩年財界を退きて聊か社会公共の事に奉仕せむとす、夙に「カーネギー」氏の盛名を聞きて欽慕措く能はす、常に臂を把つて一堂に相語らむことを期せしも遂に其機会を得ざりき客年第四回の米国行を為すに当りては、既に幽明界を異にす、豈千歳の恨事と謂はざるへけむや、然りと雖も余の衷情已ミ難きものあるを以て、紐育なる氏の故宅を訪ひ未亡人に請ひて、氏が「スキボ」の別墅に在りて記述せる自叙伝を得、今之を邦訳して我邦の後進に紹介し以て其遺範を同志に伝へむとするも亦是れ余が社会奉仕の一端といふを得へき歟
  大正十一年四月
                 青淵 渋沢栄一識
                       
   ○右ハ栄一ノ自書ヲ石版刷トナセルモノ。


アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳 凡例・第一―二頁 大正一一年五月刊(DK480012k-0004)
第48巻 p.35-36 ページ画像

アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳
                    凡例・第一―二頁 大正一一年五月刊
    凡例
一本書は渋沢子爵の委嘱に因り米国の鋼鉄業に盛名ありしアンドルー
 - 第48巻 p.36 -ページ画像 
カーネギー氏の自叙伝を口語体に翻訳したものである。蓋し子爵は先年氏の著書の翻訳なる「富の福音」に序文を書かれた際に、氏の致富の心事と方法とに共鳴せられたことがあつた。今又此自叙伝を得て益々氏の人格を推重し、本書が我邦の実業界に裨補する処尠からざるべきを想ひ、終に氏の未亡人の許諾を得て之を翻訳刊行するに至つたのである。
一本書は氏が流暢の筆を以て其生涯を随筆体に記載したのを、氏の親友にして文学に造詣深きヴアンダイク氏が心をこめて編纂したのである。而して其引用された聖書の格言又は詩句殊に論語の章句を引用した所に至つては実に巧妙を極めて居るから、之を達意に訳するは頗る難事である。特に余が文の拙劣なるが為に此翻訳が原書の美玉を瓦石とした憾がある。是亦已むを得ざる次第で、偏に読者の諒恕を請ふのである。
一原書には長き註が加へてあるが、之を本文の次に訳出するのは体裁が悪いから末尾に掲げる事とした。
一本書に挿入した写真は未亡人より特に子爵に寄贈せられたものを複写したのであるから、稍々鮮明を欠く感のあるのは事情已むを得ないとしても遺憾のことである。
一本書の翻訳及び出版に就いて増田明六、田中太郎、細貝邦太郎三君の助力に待つものの多かつたことを記し、玆に深厚の謝意を表する
  大正十一年四月
                翻訳者 小畑久五郎識


アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳 奥付 大正一一年五月刊(DK480012k-0005)
第48巻 p.36 ページ画像

アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳
                    奥付
                    大正一一年五月刊
大正十一年五月十二日印刷 カーネギー自叙伝 大正十一年五月十五日発行 定価四円 著作権所有 訳述者 小畑久五郎 発行者 東京市神田区裏神保町九番地 合資会社冨山房 代表者 合資会社冨山房社長 坂本嘉治馬 印刷所 東京市神田区猿楽町十七番地 中外印刷株式会社 発兌元 東京神田(明治廿九年六月設立)合資会社冨山房 電話 長 三〇一四・三七六〇・電信略号(ヤマフ) 神田 三六六三(編輯局)振替口座五〇一番
   ○本資料第四十巻所収「外国人トノ往復書翰」大正十一年七月十二日ノ条参照。