デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
5節 新聞・雑誌・通信・放送
1款 新聞・雑誌 6. 新日本
■綱文

第48巻 p.227-228(DK480060k) ページ画像

明治44年(1911年)

是年栄一、大隈重信ノ主宰セル雑誌「新日本」ノ顧問トナル。


■資料

冨山房五十年 冨山房編 第五二四―五二五頁昭和一一年一〇月刊(DK480060k-0001)
第48巻 p.227-228 ページ画像

冨山房五十年 冨山房編 第五二四―五二五頁昭和一一年一〇月刊
  ○第三部 四、明治大正の交代期
    貴族的大雑誌「新日本」
 「新日本」は大隈重信侯(当時は伯)を主宰とし、有賀長雄・青山胤通・加藤弘之・阪谷芳郎・桜井錠二・沢柳政太郎・渋沢栄一・坪内雄蔵・坪井九馬三・富井政章・横井時敬・渡辺渡等十二博士を顧問とした、政治・経済・科学・文学・社会各般にわたる堂々たる大雑誌で高田早苗博士はこれが産婆役として、陰に陽に雑誌の生育を助けられた。大隈侯自らこれを主宰するが、一党一派に偏しない公論の機関とするため、顧問を上記社会の各方面を円満に代表する名流に求めたほか、主宰侯を輔翼するため、早稲田系より永井柳太郎氏、帝大系より樋口竜峡氏両主筆として、毎号政治・文芸の論説及び記事を分担し、編輯には楠山正雄氏、読売新聞社より転じて専らこれに当り、安本重治氏、「東日」より来つて政治経済部面を担当した。そして山崎純孝
 - 第48巻 p.228 -ページ画像 
内ケ崎騰次郎・佐藤元郎・中谷徳太郎・溝口駒造等の諸氏は、当時交る交る入社して編輯の実務を扶けた人々であつた。
 「新日本」には、このほか絵画に関しては、和田英作氏が顧問であり、また毎号世界の最新思潮を紹介する一欄があつて、当時の東京帝大法文理工各部の研究室に錚々たる新進の学者たちが、特定の寄稿家として、まじめなしかも大衆雑誌としては恐しく不向な学究的のエツセイを寄せて来た。これだけの陣容を記しただけでもほゞ想見しえられるやうに、半ば学術雑誌のごとく、半ば政論雑誌のごとく、文芸と趣味と、そしてかんじんなジャーナリズムは小さく片隅に押しやられて、この四六倍判百七十六頁の大雑誌は、外見の堂々たるわりに甚だ脂肪分には乏しいものであつた。
    大隈老侯と「新日本」
 大隈老侯の巻頭論文はしかし、題にふれ事に当つて尽きるところをも滞るところをも知らない博弁宏辞であつて、明治四十四年四月の創刊から大正六年八月の終刊まで前後七年、通巻八十四号、たゞの一回も休むことがなかつた。○下略