デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
7款 滝野川町関係
■綱文

第48巻 p.359-368(DK480114k) ページ画像

大正7年11月3日(1918年)

是日栄一、飛鳥山邸ニ於テ催サレタル、滝野川町在住者招待園遊会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

滝野川町在住者招待園遊会書類(DK480114k-0001)
第48巻 p.359-360 ページ画像

滝野川町在住者招待園遊会書類       (渋沢子爵家所蔵)
拝啓 時下秋冷之候盛々御清栄之段奉慶賀候
偖而本町も幸に日進月歩の発展に処し、能く健全なる町治の実績を挙げ得られ候段、偏に各位御援助の賜と奉深謝候、於玆将来一層穏健なる町政の啓発を促し、和親共同以て本町の福利増進を希望仕候、就ては高天肥馬の好期各位と共に一日の清遊を試み益々親睦を厚し、之れが希望の達成を期せんと存居候処、偶々渋沢男爵閣下の御厚情に依り庭園遊歩の御快諾と種々なる御便宜に預り候為め、来る十一月三日午前十時同邸に於て園遊会開催の事に相成候間、万障御繰合せ御賁臨の栄を賜り度此段御案内申上候 敬具
  大正七年十月二十五日
               滝野川町長 越部浅五郎
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    当日の順序書
午前十時 開会
 挨拶            町長  越部浅五郎君
                   渋沢男爵
 園遊会
   露店
    天婦羅 三ケ所   煮込  二ケ所
    そば  二ケ所   寿司  二ケ所
    団子  二ケ所   かん酒 二ケ所
    生麦酒 二ケ所   甘酒  二ケ所
    シトロン 一ケ所
 余興
    奏楽  帝国劇場オーケストラ
    奇術  天玉斎天竜一座
    曲芸  支那人李有来・李金来


滝野川町在住者招待園遊会書類(DK480114k-0002)
第48巻 p.360-361 ページ画像

滝野川町在住者招待園遊会書類       (渋沢子爵家所蔵)
大正七年十一月三日午前十時於飛鳥山邸滝野川町在住者招待園遊会ニ主ナル来会者氏各
                 府会議員 浅賀長兵衛
                  前町長 野木隆歓
                  美術家 山田敬中
                  美術家 小山栄達
                  美術家 小杉未醒
                  彫刻家 北村四海
                   男爵 野田亀喜
                  陶磁器 板谷嘉七
                 小学校長 山崎菊次郎
                 小学校長 江口茂吉
                 同    上野春吉
                 同    川崎覚利
                蚕糸学校長 本多岩次郎
                 同校課長 恋田六造
               農事試験場長 古在由直
               同場農学博士 大工原銀太郎
                 同場課長 波多野庸
             醸造試験場事務官 佐藤悟郎
                 同場技師 山本敬三
           印刷局出張所会計課長 有馬於菟
                 田端駅長 高尾秀市
                 伸銅工場 大畑栄次郎
                古河家元老 葛西重雄
以下ハ渋沢子爵ヨリ案内セラレタル
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      主ナル出席者氏名
                 王子町長 大谷喜代志
               王子製紙会社 高島菊次郎
               東洋紡績会社 小野董
                 王子駅長 鈴木富太郎
               王子電気会社 植村俊平
                 同右   榛原良男
                王子分署長 児玉勝一郎
                北豊島郡長 正木虎蔵
               板橋警察署長 石川倉吉
               巣鴨警察署長 長谷川一治


青淵先生演説速記集(二) 自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本(DK480114k-0003)
第48巻 p.361-368 ページ画像

青淵先生演説速記集(二) 自大正七年十月至大正十年四月  雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
          (別筆)
          大正七年十一月三日飛鳥山邸ニ於ケル
          滝野川町諸氏招待園遊会ノ時ノ御演説
    渋沢男爵の演説
斯く町内の御多数の方々の御会集をなさる所で、玆に一言の所感を陳上致すことは、私の此上もない光栄にも思ひまするし、又一面には実に愉快極まる所でございます。昨日の日和では折角町長さんの皆様へ御通知を申上げ、私もお宿を致さうと待構へましたことが、雨の中でひそひそと話をせんならぬことではあるまいかと、夜に入るまで、心配致したのでございます。然るに今日は、実に意外な好天美日を得たのは、是は必ず宿を致した渋沢の後生の善いのでなくて、お集りの皆様の平日のお心懸がよいから、斯かる好天気を得たのと申す外なからうと思ふのであります(笑声)、それに就ても越部町長・有馬助役、其他此町役場の諸君が、今日の御会同に就きましては、寧ろ主人のお位置に立つて御心配を下さいましたので、私は唯ホンの俗に申す入物をお貸し申したので、中味は皆町長・助役――即ち役場の諸君の御骨折でございますから、若しお礼を仰しやるならば、渋沢に仰しやるよりは越部さんに仰しやつて下さるのが適当でございまするで、其事を念の為め申上げて置きます。唯私は何かの機会に相会して、此町内に住で居りまして、始終に御厄介になりますので、御礼も申上げたい、又大抵は皆様に――尽くはお見識り申しませぬけれども、朝晩に出たり入つたりして居りますので、道を通る場合に於てもお目に懸ることもございませうし、何かの機会に多くはお目通りをして居らうと思ひますけれども、どうも人は或る機会に一つの場所に集つて、主人となり客となり、話を相交はすと云ふことがございませぬと、情意が貫徹せず、意思の疏通も満足に行かぬものでございます。故に年久しく何ぞの機会に皆様との一日の会合を希望し居つたのでございます。只今越部町長の皆様へ御披露のございます通り、実は当年は彼此と当滝野川町にも種々なる喜ぶべき事と憂ふべき事がございますのです。其喜ぶべき事は何かと申すと、町役場を是非お拵へになると云ふことで、町長を始めとして種々御心配で、是非好い位置に、先づ滝野川として余
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り恥かしからぬ、地所も得たし建築も致すと云ふことに就ては、私は疾に御意見を伺ひ、多少の御相談を蒙つて居るのでございます。既往の有様を申上げますと、左様にまで当町内が人口が繁殖し、事業も進歩し、立派な町となつたと云ふことは、中には年取つた方も居らつしやいますから、私同様に既往を御記憶なさるでありませうけれども、先づ多数は未だ私の此処へ越した頃ほひにはお生れなさらぬお方が多いだらうと思ひますから、私は寄留人ではございますけれども、実は此滝野川町の土地が若し私を知つて呉れるならば、お前の方が親みは町内のお方よりは厚いぞと――必ずあの二本榎などは私を友達にして呉れるに相違ないと思ふのでございます(拍手)、既往の事を長々とお話して何等諸君の利益はございませぬけれども、私は明治十一年に御当地へ別荘を持ちましたのでございます。蓋し私は其別荘を持つと云ふことは至つて嫌ひでございまして、どうも左様に幾つも家などを持つて、贅沢三昧をすることは人間の宜しくない事、固より力がさう多いでもございませず、成べく人は雨露を凌ぎてセツセと働きさへすれば、それで宜しいと云ふ主義ではございますが、丁度――年取つたお方は御存じでございませうが、明治十年の虎列拉に、前の死なれた妻が頻に怖がつて、到頭虎列拉で死んだから死ぬ為めに怖がつたかも知れませぬけれども、どうか東京の市街を離れた、――其時には深川に住つて居りましたから、深川よりももう少し高燥な空気の清涼の所に行きたいと申すので、暫くあの亀山の方に病気を避けて仮住ひをして居つたことがございますものですから、其往返り此場所を見まして是は好い所だと云うて、あの無量寺の持つて居つた地面を少々引受けて、それこそ細少かなる家屋を造りましたのが始めであつて、丁度今それを勘定致しますと四十年の歳月を経て居ります、私が前申します通り、皆様の中四十以上のお方もありますけれども、多くはそれ以下でありますから、諸君より私の方が滝野川の地の利は能く知つて居らねばならぬ訳、滝野川の諸君にも御接触が多くなければならぬ訳であるのです。私の御当地に住つたと云ふ関係は右やうな次第であつたのです。併しそれは未だ他に宅を持つて居りました為めに、必ず定住と云ふ場合でございませなんだけれども、其後深川から兜町に移りまして、兜町の今は事務所として居ります場所をば、定住にして見ましたけれども、段々に其初めは前の水が幾らか清涼のやうに思ふたのが、市街の繁昌すると同時に、水は殆ど腐敗するやうになつて参りまするし、又埃は益々多くなる。何分定住の場所には不適当でありますので丁度既に此処に小さい宅があつたものでございますから、之を更に聊か増築致しまして、さうして丁度明治三十四年でございます、此処に引移りましたから、もうそれからも二十年近い歳月を経るのでございます。既往を顧みますると随分此往来の通りなどが狭く且悪かつたことは――年は忘れましたが布哇の王様が日本へ来たことがあります。其時外務省のお頼みであつたか、渋沢の家が――其前に亜米利加のゼネラル、グラントが参つて、一度午餐会をしたことがある。其両三年後でありましたから、そんな縁故から布哇の王様をもお招して、食事を出して呉れろと云ふやうなことから、其注文に与つて一午餐会をし
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たことがあります。其時に実に道の悪かつたことを覚えて居ります。丁度私の門前の向つてから右の方へ降り口の所は、殆ど泥濘が三・四尺あつて、迚も唯歩くことも出来なければ、車でも動けぬと云ふやうな有様、どう云ふ御趣意であつたか知らぬが、畳の古いのを其処へ抛込んだ。其の為めに一時は宜かつたです。ところが段々之を踏めば踏む程畳が切れて行つて、其崩れた畳が土と共に滅込むものでございますから、車が這入ると、どうしても出ることが出来ない。殆ど一生懸命、それこそ親知らずの険と云ふやうな有様で通つたことすらあるのであります。斯様な事を申すと其当時の町内のお世話をなすつたお方が、若し此処に居らしやつたら、其お方に対して私が四十年ぶりの苦情を申すやうになりますけれども、当時の事を御記憶の方がありましたならば、決して渋沢の今申すことが誇張でないと云ふことを御了解下さるであらうと思ふのでございます。私は道路の経営とか家屋の営繕だとか、さう云ふやうな事には寧ろ不得手でございまして、何等好い知識は持つて居りませぬけれども、唯度々欧羅巴若くは亜米利加へ旅行して、彼の国の家を造るに先づ道から造ると云ふ有様を見まして洵に羨しく感じました。如何にも文明の国民は斯くありたいと思ふ辺から、実に此道路の今申上げたやうな有様であることは、殆ど国辱ぐらゐに自分で思うて大に憂慮したのでありますが、それ等の昔を顧みますると決して私の力でも何でもありませぬが、丁度此電車関係からでもございますが、東京市の経営から――未だ郡市電車の聯絡せぬだけは、諸君と共に或る場合には市長に対し、市の関係のお方々に対して、多少の苦情は言ひたうございますけれども、併し此道の良くなつただけは事実で、其昔を顧みますると、真に懐旧の情に堪へぬのでございます。丁度其頃三上文学博士が、愈々道を直すと云ふことを新聞か何かで見られて、若しあの二本榎を伐つてしまふと云ふやうな事があると、甚だ惜しい事である。あれは却々に由緒ある樹であるから、道の直るのは頗る喜ぶけれども、榎を伐るだけはどうかしたくないものである。幸に渋沢は彼処に住つて居る。それ等の由緒は大抵心得て居る人であるから、お前一つ何とか心配して、あの樹を伐り倒さぬやうにしたら、それこそ榎は実に涙を溢して喜ぶに相違ないと思ふと云ふ忠告がございました。私は其由緒を審かに知りませぬが、三上氏の取調に依りますと、慶長九年に二代の将軍秀忠と云ふお人の治世の時に土居大炊頭に命じて、此江戸を中心として四つかの街道を定めた。さうして未だ是は全国に布令しなかつた場合でせう、此処は岩槻街道と当時云ふた。丁度其頃に重立つた所へは皆一里塚を築かせて、沿道に多く松杉を植え、適当な距離毎に塚を立て、さうして其塚の上には榎を植えたと云ふことが古記録に明かにある。其榎が今日に遺つて居るのだ、詰らぬものだと云へばそれまでゝあるけれども、併し左様な由緒ある樹を、未だ枯れもせぬものを伐つてしまふと云ふことは、洵に其土地に居る人々の余りに心なき無惨の仕打になるから、どうぞさう云ふ事の無いやうにしたい、斯う云ふ趣意でございました。承つて真に御尤に感じましたから、丁度其時には縁者の阪谷氏が東京市長で居られましたので、今の次第を詳しく申しましたら、何とかそれは伐
 - 第48巻 p.364 -ページ画像 
らぬやうに詮議しやうと云うて、即ちあの樹を遺して、道は著きましたのであります。併し其一を知つて其二を知らない私共の遣方で、樹さへ伐らなければ宜からうと思うて、唯其注意に止めたものですから樹は遺されて道は二股にされましたけれども、併し其下の場所を其儘にして置いたから、彼処に家が出来たり、又一方には榎の側に薪が積まれたり、折角樹を保存すると云ふけれども、或は恐る此家に火が点き或は積上げたる薪に火でも点いたら、此樹は忽に枯れる。申さば仏作つて魂入れずと云ふことに相成るのを恐れたのであります。爰に於て私共折角此樹を保存した以上は何とかしなければならないと云ふので、色々協議の末に、有志のお方の醵金を仰ぎて、彼処の土地を買取り、之を東京市に納めて、彼処を飛鳥山公園の附属地として、丁度両方の榎と共に先づ其斧斤の災を受けぬのみならず、或は類焼を恐れると云ふやうな事もない設備に相成つたのは、右やうな次第でございます。あの碑を建てましたときに、近いお住居の方々にはお集りを願うて、三上氏なり市長なり、私共も其際に斯様な由緒があると云ふ今陳上したやうなことをお話したこともございますけれども、古い昔を思ひ出しますと、例へば道の変つたと云ふことに附帯して、斯う云ふ関係もあつたと云ふことを、今此処で重複ながらお耳に入れるのでございます。殊に彼処に碑を立てましたのは、其時に色々評議を致しまして、実は此飛鳥山なり或は王子の権現なり、此辺は先づ東京市郊外の名所、又或る場合には大に散歩でもする遊息地と申して宜いのである故に昔種々なる文人墨客が此場所を殆ど自慢的に、或は書物を作つたり、八景とか十二景とか云ふやうな絵を描いたりして、世間に披露をして居るのでございます。併しそれは多くは元文頃から天明頃までの話で、マア其後の東京の人が不風流になつたのか、抑々此滝野川にお住ひなさるお方が、我左程の好い場所にも一向お気著が無いのか、或は是ぐらゐの所は何処にもあると云ふやうに、好い場所が沢山世間に出来たのか、其原因は分らぬが、昔珍重した如くに今日は珍重されぬやうになつたのでございます。是は私はどうもお集りの滝野川の諸君に、一歩進んでは隣町の王子の諸君がもう少し――無暗に我仏尊し、己れの物がえらい、己れの物がえらいと自慢するのも宜くないけれども、併し事実好いものを好いと云ふに何の遠慮があるものですか、実に此処等の場所は――只今日は煙の多い為めに少し自慢に出来ない点はありますけれども、此煙は一方から云ふと所謂「民の竈は賑ひにけり」で決して煙を気になさらぬでも宜い。さすれば斯の如く王子権現と云ひ、飛鳥山と云ひ、或は音無川と云ひ不動の滝と云ひ、斯かる名所は如何にも名所として都人を遊息せしむるまで心を用ゆると云ふことは甚だ必要ではないかと思ふのです。然るに今の二本榎の如き今申すやうな由緒があるに拘らず――若し吾々が紹介したならば、世間弥が上に之を慕うて見に来るであらうと思ふのに、何だか殆ど道端の邪魔の材木の如く視ることは、実に二本榎も今までは多少諸君をお恨み申したかも知れぬと思ふ位である。それで其理由を成べく明瞭にして置いた方が宜からうと思ひまして、彼処に三上君に文章を書いて貰つて碑を建てました。唯其碑の有様が四角形である為めに腰掛か何かの
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やうに見えて、どうも体裁が面白くないのでありますけれども、併し是も大層由緒がある。あれは虎の門の石で、虎の門の出来たのが今の慶長九年だから、石と樹は昔親類でもなかつたらうけれども、能く識つて居つたに違ひない。石は樹に対して、お前はさう云ふ訳で存生して居るか、私は取崩されてお前の所へ来たと、必ず述懐談をするであらうと思ふのであります(笑声)、それ等の理由を詳しく仮名文字で書きましたから、何方が御覧になつても洵に解り宜いと思ひます。是に就ても説がある。私は飛鳥山の碑と云ふものを一覧しましたが、甚だ失礼な申分だが王子の皆様でも又当滝野川の諸君でも、あの成島鳳郷の書いた飛鳥山の碑がお解りになつたら、私はそれこそ三拝九拝致します。何方も碑のあることは御承知でございませうが、碑に何が書いてあるかと云ふことを御承知のお方は殆ど無からうと思ひます。それは徂徠と云ふ人の門人で成島鳳郷――丁度私共友人としました成島柳北と云ふ人がありまして、朝野新聞と云ふものを起してやつて居りましたが、此人の先祖でございます。所謂古学者で古文字を書く人である。其古文字と云ふものは極く六ケ敷い文字を拾うて書くのが流儀です。それで熟字なども大層古体に書いて、所謂古隷体と申して、四六文と唱へる文法で書いてある。故に却々能く解りませぬ。殊に近頃は漢文は甚だ読む人が少くなつて参りましたものですから、此成島の飛鳥山の碑に就ては、寧ろ懲りたと言ひたいくらゐ、是では折角碑を建てゝも誰にも解らぬから、どうぞもう少し解り易いやうに此二本榎の碑は建てたいと云ふので、三上君に仮名文で書いて貰ひたいと言つて頼んだのであります。けれども是は諸君に申上げて置きます。仮名文も読まねば矢張解らぬ。読めば直ぐ解るけれども読まなければ些とも解らない(笑)、さうすると今の成島鳳郷の碑と同じになつてしまひますから、仮令あの碑が横に寝て居つて、見ともないにしても、どうぞ滝野川の皆様方或る折柄には行つて、斯う云ふ訳で此碑を建てられたと云ふことを能う御記憶下さるやうにありたいと私は思ふ。必ず榎はさう云ふお方に向つて御利役を与へるに相違ないと思ひますから(笑)是は序ながら申し上げて置くのでございます。
今道が悪いと云ふことから起きて遂に此新道が出来た。其新道から聯絡して二本榎が斯様に相成つたと云ふことは、甚だ余談で余計な事を申上げて、何等諸君を益することではございませぬが、併し是以て今の滝野川町の一の名所たり得ると思ひますから、それ故にあゝ云ふ碑を建て置いた方が宜からうと思ひ、当時の町長さんと相談して、主には私が心配を致しましたから、斯う云ふ事は斯る機会に成べく多数の方のお耳に入れて置いた方が宜からうと思うて、丁度其昔斯の如く道が悪かつた、今は斯の如く善くなつたと云ふことは、大抵相対照したならば成程と御合点が行くだらうと思ふのでございます。実は此越部町長・有馬君などとも相談して、さて道は善くなつても東京は風が多い。又埃が立つ。始終の注意を怠ると其善い道が善い道にならない。と云ふのは水撒のことです。頻に御相談をして、どうぞやつて貰ひたいと云ふことを申しました所、実は隣の農事試験所若くは蚕糸学校などでは己れはさう云ふ仲間に這入ることは厭やだと云うて、酷く反対
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した。私は農商務省へ懸合に行つて、そんな事を言つてお役所風を吹かせては、埃が一層余計に飛ぶから、どうか其お役所風を鎮める為めにも水撒を致したいと言ひまして、やつと同意をして呉れましたが、未だ水撒の費途が極く完全でないやうで、時々有馬さんが困る困ると云ふことのお噂話がある。是は諸君もどうぞお聴き置き下さいまして左様に大なる困難の仕事でもなからうと思ひますから、成だけにお役所風を鎮撫するやうなる水撒は務めて見たいと思ふのでございます。それから今の通り道が広くなりましても、段々雨が降つては真中が掘れる。所々穴が出来る。寧ろ道幅の広いだけに穴が余計に出来ます。お前が道を広くしたから、あの通り穴が余計に明く、却て道の狭い方が宜つたと云ふお小言を頂戴しては真に残念でございます。そこで道普請の常備が無くてはいけませぬ。丁度町長・助役其他二・三の人と申合せまして此常備兵の幾分を備へて置きますが、是はどうも段々諸式高直、色々なものが思ふやうに行かない為めに此道普請が時々穴が明きますやうで、丁度此前の雨の上がりの時でございました。私が丸の内を通りますと、皇居の前の所を大勢人が出て、小さな小砂利で穴を埋めて居りました。雨の上つた所でなくてはいけないですが、此方は未だ掛つてゐない。それから早速有馬君にどうしても金が足らないなら一つ加役をしませうと相談しましたが、あの穴だけは唯暫くの間是位なら宜いと云つて居る間に段々大きくなる。大きくなつたら却々直すのに困る、又大きな穴になると、それを埋めても、埋めたやつが矢張車でも通ると脇へ食出して、直に又穴か出来てしまふ、ですから極く穴の小さい中に之を防禦しますと、いつも完全の道で居ることが出来ますので、此道を直すことに就ても尚ほ町長・助役にも御相談致さうと思ひますが、是も沿道のお方々などは幾らかお心掛下すつて、成たけ文明国の道路は斯くあると云ふまでに致したいものでございます。随分狭い東京の町の通りを行きますと、マア私は自動車に乗つて往来する為めに、我儘を申すと或は仰しやるかも知れませぬけれども是は遠方に住つて、成べく用を余計足さうと思ふと、到底自分の身体では思ふやうに動けぬものですから、余儀なく自動車に乗つて歩く、私ばかりではない皆さうして歩く、交通が便利でなければ矢張人文の進歩とは言へないのである。さすれば矢張自動車に乗るから悪いのだ穴は其儘に明けて置くが宜いと云ふ斯う云ふ反対御論は、ヨモ皆様にありはすまいと思ひますので、どうぞ成だけ道を善くすると云ふことは、御同様に能く心掛けて行きたいものと思ふのでございます。
甚だ尊来を戴いて、唯古い昔の且つ自分の多少お世話を申した事を彼此と喋々するのは、決して私の本旨ではございませぬが、前に申しました通り長い間住ひ居りましても、或機会でなければ、斯う集つて、共に愚見を申し又お話合をすると云ふことも出来ぬものですから、丁度今日は好い機会と思うて、昔は斯様であつた、私の身体の経過は斯様である。将来滝野川町は斯くありたいと思ふと云ふことを、洵に私の思ふ存分を皆様のお耳に達するのでございます。
此町役場の新築のことに就きましても、冒頭に一寸申上げましたが、至極結構なことで、其昔私の此処に住ふ時分には、寔に二軒か三軒し
 - 第48巻 p.367 -ページ画像 
か平塚神社から此処へ来る間に家はなかつたやうに覚えて居ります。それが家並が続いて町と云ふことが言ひ得るやうになつたと云ふことは、実に滝野川町の進歩否日本の富が増したと云うて宜いのですが、随て此町役場も未だ私は其御場所は詳しく拝見しませぬ。一寸見た位でありますけれども、今の有様では余り見窄しいと思つて居つた。丁度先頃から越部・有馬両君から、是非町内有志のお方も希望して居るので、良い地面を得て新築を致したいと云ふこと。至極尤もと思うて二・三の人にお勧めをしまして、私も聊かながらお力添をして先づ第一に敷地が必要と云ふので、確か昨年の冬でありましたか、敷地だけの経営は出来た。続いて是から其上に建てまする家屋でありますが、是は又更に其敷地よりは費額の多いもの。幾分は町費として御支出なさるやうなことになるか知らぬが、蓋し左なきだに費用の増すものでありますから、或る有志のお方々の御同情を得て、さうして建築になつたならば、左様に立派なものが出来ても、町費として皆様が命令的に負担するやうなことなしに運ぶと、洵に結構な訳である。総て経営すべき家屋などは、所謂文王の霊台を経始するやうに経之営之、庶民攻之、不日成之、経始勿亟、庶民子来と云ふ詩経の文章があります。さう云ふやうな有様に出来たなら、寔に仕合せでありますから町民の有力のお方に少しお力入をして戴いたならば、町費として負担せずとも、立派なお場所が出来得るやうになりはせぬかと云ふことをお話致しましたら、是非さうする積りだと云ふことで段々お取運びになつて、先刻伺ひますと、建築に属する費額も多分町内の有志のお方から多数の御寄附があつて、遂に大概は町費として町会議員のお方々の議決を乞ふに至らないで済むやうに承知しました。是等は寔に私は滝野川町に於て最もお芽出度いことで、或はそれは多過ぎると云ふたり、少な過ぎると云ふたり、物議が起きたり小言が出ると云ふことは先づ世間普通の習である。随分東京市あたりでも、さう云ふ評判を聞くことは毎々ありますが、之に引替へ滝野川町に左様な物議が一言も無いと云ふことは、蓋し美談と云うても宜からうと思ふ位、此お集りの皆様の中で、大いに御奮発下すつて、お力入をして戴くお方があるだらうと思ひまして、私が別にお勧めした訳ではなかつたけれども、町長・助役のお喜びの言葉を承りましたから、斯かる機会に自身も多少お力添を致しました縁故を以て、皆様に其お骨折のあつたことを謝し上げるのでございます。
要するに申上げますことは、左様に唯従来の経過を申上げ、且つどうぞ是から別して御懇親を敦うして戴きたいと思ふ衷情を、玆に陳述するに過ぎませぬのでございます。折角御多数の尊来を得ましても、天気だけは前に申上げます通り皆様の御持参のお品で、大変に是は結構でございますが、此方の取設けは甚だ微々たるもので、どうも召上るものも少なし、余興として御覧に入れるものも余り面白いものはなからうと思ひますけれども、併し今日は休日でもございまするし、且又先帝の天長節の紀念日でもございますし、旁々以て充分お寛ぎ下すつて庭の内を御随意に御逍遥下すつて、粗末ながらの取設けを充分にお食り下すつたならば、洵に此上もない有難い仕合せと思ひます。玆に
 - 第48巻 p.368 -ページ画像 
御礼と共に古い昔語をお聴に入れたのでございます。是で御免を蒙ります。(拍手)