デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

8章 軍事関係諸事業
1節 第一次世界大戦関係
8款 世界大戦講和成立祝賀会 3. 全権委員西園寺公望歓迎会
■綱文

第48巻 p.595-602(DK480164k) ページ画像

大正8年9月8日(1919年)

是ヨリ先、パリ講和会議全権委員西園寺公望帰国ス。栄一、東京府知事阿部浩・東京市長田尻稲次郎・東京商業会議所会頭藤山雷太等ト共ニ発起人トナリ、是日、東京府市主催ノ下ニ、帝国ホテルニ於テ歓迎祝賀会ヲ開催ス。栄一、発起人総代トシテ歓迎ノ辞ヲ朗読シ且ツ感想ヲ述ブ。


■資料

中外商業新報 第一二〇一〇号 大正八年九月三日 ○園侯歓迎会 打合会 今日万事決定(DK480164k-0001)
第48巻 p.595 ページ画像

中外商業新報  第一二〇一〇号 大正八年九月三日
    ○園侯歓迎会
      打合会
        今日万事決定
今三日午後二時より東京商業会議所に於て田尻市長・阿部府知事・渋沢男等参集、特使西園寺侯一行歓迎会開催の件に就て協議する筈であるが、既報の如く多分八日帝国ホテルに於て質素なる歓迎会開催の事となる模様である。


中外商業新報 第一二〇一六号 大正八年九月九日 ○園侯歓迎会 東京府市民主催(DK480164k-0002)
第48巻 p.595 ページ画像

中外商業新報  第一二〇一六号 大正八年九月九日
    ○園侯歓迎会
      東京府市民主催
講和正使西園寺侯並に随員の歓迎会は、八日正午帝国ホテルに於て東京府市民主催の下に開催せられたり、零時卅分食堂を開始し、宴半にして総員起立の下に君ケ代の奏楽あり、次いで男爵渋沢栄一氏の発声にて両陛下万歳を三唱し、終つて発起人総代として同男より左記の歓迎辞を述べ、更に同男は世界に於ける日本の地位の向上に関し熱誠の籠れる一場の感想演説を試みたり、之に対して西園寺侯は答辞に兼ね別項の如き演説をなし散会したるが、当日の来賓は西園寺侯並に随員を始め原首相・加藤海相・高橋蔵相・野田逓相・内田外相、田中陸相・中橋文相・清浦子・徳川家達公其他主なる官公吏・実業家、商業会議所・府市会議員、新聞通信社員等五百余名にして頗る盛会なりき
      ▽渋沢男歓迎辞○次掲
○下略


竜門雑誌 第三七六号・第五六―六〇頁 大正八年九月 ○西園寺特使歓迎会(DK480164k-0003)
第48巻 p.595-597 ページ画像

竜門雑誌  第三七六号・第五六―六〇頁 大正八年九月
○西園寺特使歓迎会 青淵先生・阿部府知事・田尻市長・藤山商業会議所会頭の発起にかゝる東京府市民主催の講和全権委員西園寺侯爵並随員の歓迎会は、九月八日正午帝国ホテルに於て開催せられたり、来会者五百余名、主賓西園寺侯を始め西園寺八郎、佐分利貞男・奈良武次・藤岡万蔵・山川端夫・野村吉三郎・三浦謹之助・福井菊三郎・二宮治重・喜多又蔵諸氏の外、陪賓として原首相・内田外相・高橋蔵相・田中陸相・加藤海相・中橋文相・山本農相・元田外交調査会々員・清浦子・徳川公其他重なる官公吏・実業家・商業会議所議員・府市会議員・新聞通信社員諸氏主人側として参会し、宴半にして総員起立の裡
 - 第48巻 p.596 -ページ画像 
に君が代の奏楽あり、終つて青淵先生の発声にて両陛下の万歳を三唱し、次で発起人総代として青淵先生の左記歓迎辞並に世界に於ける日本の地位向上に関して熱誠なる一場の感想演説あり、之に対して西園寺侯は起つて謝辞を兼ね講和会議の経過並に其感想を衷心より披瀝する所あり、終つて青淵先生の発声にて西園寺侯一行の万歳を三唱して三時散会せる由
      歓迎辞
 講和全権委員侯爵西園寺公望閣下、曩に大命を拝して海外万里に使せられし以来玆に八箇月、今や使命を了へて帰朝せらる、東京府市民感謝措く能はず、恭しく爰に閣下の賁臨を仰ぎ歓迎の微吏を申べむと欲す、惟ふに大正三年勃発せし世界の戦乱は其地域の広大なる其関係国民の多衆なる、其惨禍の劇甚なる、有史以来未だ嘗て見ざる所にして、我国亦世界の大道、国際の公義に拠りて大戦に参加し人類の幸福と文明の慶沢とを擁護すべき為め聯合諸国と共に最善の力を傾けしが、去歳十一月の休戦に継ぎ今年一月以来仏国ヴエルサイユに於て講和会議の開催を見るに及べり、而して我国は此会議に臨みて列国と共に幾多重要案件を決定すべき必要あるのみならず、世界永久の平和を招来すべき基礎を確定せざるべからず、斯の千載一遇の時に当りて閣下の大命を拝せられたるは良に以ありと謂ふ可し、閣下は曠世の才、恪勤の質を以て、君国の為め世界平和の為め此時機に於て渾身忠烈の誠を致され、古稀の高齢に躊躇せず決然挺身して仏京に使せられ、敢て難局に当つて従容迫らざるもの、誰か其神算鬼籌を揆知するを得むや、而して閣下は講和会議数箇月の間随員各位と共に重要なる機務に参画せられたる結果、大戦の終局として世界人類の為めに講和の条款及国際聯盟の内容を確立せられたる而已ならず、我国は講和会議中五大国の一に列し、廿七国並立の局面に在りて能く優勢の地歩を占め得たるもの、実に閣下の功勲と謂はざるべからず、今や我東京府市民は世界の億兆と共に平和克復の曙光に浴し、閣下の重任を了へ神身剛健にして万里の鵬程より帰朝せられたる温容を仰ぎ、感喜を禁ずべからず、此に閣下の功勲を頌し並に閣下及随員各位の万福を祈る
  大正八年九月八日
            東京府市民有志総代
                 男爵 渋沢栄一 謹句
      演説大要
 西園寺公爵は今迄幾度か欧米を漫遊せられたが、今回の御旅行ほど御感慨の深かつた事はなからうと思ふ。到る港に日本の
 △国旗を翻し た船舶の出入しつゝあるのを見られて、国力の発展の大なるものを感ぜられた事と思ふ。想へば日本の発展は驚くべきもので、幕末には外国の侵略を受けはせぬかと憂へたのが、今は二十七箇国の聯合国から擢んでて五大強国として講和会議の首班に列し、東洋の盟主たるの実を発揮した。侯爵が此の会議に列し力を以て大国として恥ざるの
 △効果を収め られたたのは国民の共に感謝に堪へない所である。
 - 第48巻 p.597 -ページ画像 
顧れば我対外外交の開始せられたのは今から六十七年前の嘉永六年米国使節彼理の来朝に始まつてゐる。当時の蕞爾たる一小国は今や世界の一大勢力となり、空前絶後の講和会議に於て、一方に重きを為してゐるのは、当時を知つてゐる自分の如きは、実に隔世の感がある。
 △自分は幕臣 として慶応三年渡欧した時、偶ま巴里に大博覧会があつて、其開場式に三世ナポレオンが、湧血躍肉的の開場式辞を述べたが、其威勢欧洲に並びなき三世ナポレオンはそれより三年を経たる千八百七十年幽囚の身となつた。三世ナポレオンよりも更に威を揮つたカイゼルの運命等亦同じである、自分が巴里にゐる時
 △支那の属国 だらうと嘲けられた日本は、今は世界の強国となつてゐるのであるが、急激の発展を見たからとて、驕奢は慎まなければ不可ぬことはナポレオンやカイゼルが範を示してゐる、強国となつた日本の国民は、此際驕らず慎み慎むが肝要ではなからう乎、歓迎会で斯様な言を云ふは異な者だが、之が老人の繰言であるが、邦家の前途を思へばである。云々(中央新聞)
 因に右青淵先生の演説は「八十の老齢を以てして、其矍鑠たる体躯に、満堂を圧する朗々たる音吐を以て、感極まつて泣かんずる真情発露の演説は、聴く者をして覚えず感奮せしむるの概ありき、吾人も此席に列して、翁が国事に奔走したる維新前後の日本を自ら追懐し、五大強国の列班に位したる現在の国情に欣快禁する能はざる其至情に同感を催せり」と朝日子の記せるを観ても、如何に青淵先生が其至情を披瀝せられたるかを知るべし。


中外商業新報 第一二〇一六号 大正八年九月九日 ○西園寺侯演説 排侵略主義を切言す(DK480164k-0004)
第48巻 p.597-600 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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中外商業新報 第一二〇一六号 大正八年九月九日 ○府市が中心になつた西園寺侯歓迎 帝国ホテルに集る六百人=写真攻めに園候迷惑=(DK480164k-0005)
第48巻 p.600-601 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕竜門雑誌 第三七六号・第五八―五九頁 大正八年九月 ○西園寺特使の帰朝(DK480164k-0006)
第48巻 p.601-602 ページ画像

竜門雑誌  第三七六号・第五八―五九頁 大正八年九月
○西園寺特使の帰朝 講和全権委員西園寺侯は、去八月二十三日神戸に入港帰朝し、翌二十四日朝同地出発、午後八時四十五分東京駅に到着せるが、右に就き翌二十五日の「中央新聞」は青淵先生談として左の如く掲載せり
 △西園寺侯 が講和使節たる任務を了へ、万里の海路恙なく愈二十四日夕を以て帝都に帰らるゝことゝなつた、侯は病気の為め牧野男爵よりも後れて出発され、仏の地に於ても御病気なりしやに聞いたが、夫れにも拘らず今や使命を尽され無事帰朝せらるゝに対して、予は国民の一人として衷心より其辛労に向つて
 △感謝を表す るものである。侯の帰朝に対し何か面白からざる事を言説して、国民が感謝の意を表するを沮止せんとする如き忌はし
 - 第48巻 p.602 -ページ画像 
き報道を耳にするのであるが、余は実に斯かる事は耳にしたくない講和会議に於ける帝国の地位並に同会議に於て得た獲物に就いて甚だ不満足であるとの批評もあれど、併し合同の大戦に於ては帝国は其中心力であつた訳ではないから、其跡始末たる
 △講和会議に 於ても、如何に帝国より最も偉い人や最上の人が出たからとて、該会議の正座に坐り其第一番の獲物を得やうと云ふことは到底出来ない相談である、是れは何うしても戦争に於て一番骨折つたもの、一番働いたものが自ら第一番の獲物を手にする道理であるのだから、日本の立場が悪いと云ふて之が国力不足の結果である、外交拙劣の為めであると言つて了ふのは全く苛酷に失するところの批難と言はねばならぬ、勿論余は講和会議の内容は単に新聞紙に依りて知るのみで、何等的確の知識を持たぬが、今度の講和外交の中
 △対支問題の 如きも決して今度のみの関係でなく、全く従前の地位より来つたものであるから、一概に今度の事のみを以て批判することも出来ぬのである、尤も講和会議の内容の個々に就いてはソレは勿論種々なる事もあらうが、夫れは別の話で、要するに今日は帝国使節の一方ならざる労務に向つて、兎に角国民は十二分に感謝の意を表して然るべきことゝ思ふ、此際国民が此感謝の意を表せんとするを強て
 △阻止せんと 試むるが如きは実に自から卑しむものであつて、余は帝国民の中に斯かる者なきことを信ぜんと欲するものである云々



〔参考〕外交史 清沢洌著 現代日本文明史第三巻・第三八五頁 昭和一六年六月刊(DK480164k-0007)
第48巻 p.602 ページ画像

外交史 清沢洌著  現代日本文明史第三巻・第三八五頁 昭和一六年六月刊
 ○第四篇 第一章 世界大戦と日本
    第九節 パリ講和会議と日本
 四年四ケ月の日子と、八百万の戦死者と、二千万の負傷者を出した欧洲大戦は、一九一八年(大正七年)十一月十一日を以て休戦状態に入つた。続いて翌年一月から、パリにおいて講和会議が開かれることになつた。日本は英・米・仏・伊の四大国と共に、重要なる位置を占めた。
 日本の全権は、本国からは侯爵西園寺公望・子爵牧野伸顕を派遣しこれにロンドン駐箚大使珍田捨巳、パリ駐箚大使松井慶四郎、ローマ駐箚大使伊集院彦吉を加へた。西園寺は首相原敬・外相内田康哉の勧説に対しては健康の故を以て謝絶したが、牧野は自ら侯を助くることを条件として説得し、その承諾を得たのであつた。会議の書記局に通告した人員のみでも、英国は百八十四名、仏国八百三十六名、米国は百八名、日本は六十四名といふ多人数であつて、その規模の大を知るに足る。講和会議に参加した聯合国の数は総計廿八ケ国であつた。
○下略