デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

8章 軍事関係諸事業
1節 第一次世界大戦関係
8款 世界大戦講和成立祝賀会 3. 全権委員西園寺公望歓迎会
■綱文

第48巻 p.595-602(DK480164k) ページ画像

大正8年9月8日(1919年)

是ヨリ先、パリ講和会議全権委員西園寺公望帰国ス。栄一、東京府知事阿部浩・東京市長田尻稲次郎・東京商業会議所会頭藤山雷太等ト共ニ発起人トナリ、是日、東京府市主催ノ下ニ、帝国ホテルニ於テ歓迎祝賀会ヲ開催ス。栄一、発起人総代トシテ歓迎ノ辞ヲ朗読シ且ツ感想ヲ述ブ。


■資料

中外商業新報 第一二〇一〇号 大正八年九月三日 ○園侯歓迎会 打合会 今日万事決定(DK480164k-0001)
第48巻 p.595 ページ画像

中外商業新報  第一二〇一〇号 大正八年九月三日
    ○園侯歓迎会
      打合会
        今日万事決定
今三日午後二時より東京商業会議所に於て田尻市長・阿部府知事・渋沢男等参集、特使西園寺侯一行歓迎会開催の件に就て協議する筈であるが、既報の如く多分八日帝国ホテルに於て質素なる歓迎会開催の事となる模様である。


中外商業新報 第一二〇一六号 大正八年九月九日 ○園侯歓迎会 東京府市民主催(DK480164k-0002)
第48巻 p.595 ページ画像

中外商業新報  第一二〇一六号 大正八年九月九日
    ○園侯歓迎会
      東京府市民主催
講和正使西園寺侯並に随員の歓迎会は、八日正午帝国ホテルに於て東京府市民主催の下に開催せられたり、零時卅分食堂を開始し、宴半にして総員起立の下に君ケ代の奏楽あり、次いで男爵渋沢栄一氏の発声にて両陛下万歳を三唱し、終つて発起人総代として同男より左記の歓迎辞を述べ、更に同男は世界に於ける日本の地位の向上に関し熱誠の籠れる一場の感想演説を試みたり、之に対して西園寺侯は答辞に兼ね別項の如き演説をなし散会したるが、当日の来賓は西園寺侯並に随員を始め原首相・加藤海相・高橋蔵相・野田逓相・内田外相、田中陸相・中橋文相・清浦子・徳川家達公其他主なる官公吏・実業家、商業会議所・府市会議員、新聞通信社員等五百余名にして頗る盛会なりき
      ▽渋沢男歓迎辞○次掲
○下略


竜門雑誌 第三七六号・第五六―六〇頁 大正八年九月 ○西園寺特使歓迎会(DK480164k-0003)
第48巻 p.595-597 ページ画像

竜門雑誌  第三七六号・第五六―六〇頁 大正八年九月
○西園寺特使歓迎会 青淵先生・阿部府知事・田尻市長・藤山商業会議所会頭の発起にかゝる東京府市民主催の講和全権委員西園寺侯爵並随員の歓迎会は、九月八日正午帝国ホテルに於て開催せられたり、来会者五百余名、主賓西園寺侯を始め西園寺八郎、佐分利貞男・奈良武次・藤岡万蔵・山川端夫・野村吉三郎・三浦謹之助・福井菊三郎・二宮治重・喜多又蔵諸氏の外、陪賓として原首相・内田外相・高橋蔵相・田中陸相・加藤海相・中橋文相・山本農相・元田外交調査会々員・清浦子・徳川公其他重なる官公吏・実業家・商業会議所議員・府市会議員・新聞通信社員諸氏主人側として参会し、宴半にして総員起立の裡
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に君が代の奏楽あり、終つて青淵先生の発声にて両陛下の万歳を三唱し、次で発起人総代として青淵先生の左記歓迎辞並に世界に於ける日本の地位向上に関して熱誠なる一場の感想演説あり、之に対して西園寺侯は起つて謝辞を兼ね講和会議の経過並に其感想を衷心より披瀝する所あり、終つて青淵先生の発声にて西園寺侯一行の万歳を三唱して三時散会せる由
      歓迎辞
 講和全権委員侯爵西園寺公望閣下、曩に大命を拝して海外万里に使せられし以来玆に八箇月、今や使命を了へて帰朝せらる、東京府市民感謝措く能はず、恭しく爰に閣下の賁臨を仰ぎ歓迎の微吏を申べむと欲す、惟ふに大正三年勃発せし世界の戦乱は其地域の広大なる其関係国民の多衆なる、其惨禍の劇甚なる、有史以来未だ嘗て見ざる所にして、我国亦世界の大道、国際の公義に拠りて大戦に参加し人類の幸福と文明の慶沢とを擁護すべき為め聯合諸国と共に最善の力を傾けしが、去歳十一月の休戦に継ぎ今年一月以来仏国ヴエルサイユに於て講和会議の開催を見るに及べり、而して我国は此会議に臨みて列国と共に幾多重要案件を決定すべき必要あるのみならず、世界永久の平和を招来すべき基礎を確定せざるべからず、斯の千載一遇の時に当りて閣下の大命を拝せられたるは良に以ありと謂ふ可し、閣下は曠世の才、恪勤の質を以て、君国の為め世界平和の為め此時機に於て渾身忠烈の誠を致され、古稀の高齢に躊躇せず決然挺身して仏京に使せられ、敢て難局に当つて従容迫らざるもの、誰か其神算鬼籌を揆知するを得むや、而して閣下は講和会議数箇月の間随員各位と共に重要なる機務に参画せられたる結果、大戦の終局として世界人類の為めに講和の条款及国際聯盟の内容を確立せられたる而已ならず、我国は講和会議中五大国の一に列し、廿七国並立の局面に在りて能く優勢の地歩を占め得たるもの、実に閣下の功勲と謂はざるべからず、今や我東京府市民は世界の億兆と共に平和克復の曙光に浴し、閣下の重任を了へ神身剛健にして万里の鵬程より帰朝せられたる温容を仰ぎ、感喜を禁ずべからず、此に閣下の功勲を頌し並に閣下及随員各位の万福を祈る
  大正八年九月八日
            東京府市民有志総代
                 男爵 渋沢栄一 謹句
      演説大要
 西園寺公爵は今迄幾度か欧米を漫遊せられたが、今回の御旅行ほど御感慨の深かつた事はなからうと思ふ。到る港に日本の
 △国旗を翻し た船舶の出入しつゝあるのを見られて、国力の発展の大なるものを感ぜられた事と思ふ。想へば日本の発展は驚くべきもので、幕末には外国の侵略を受けはせぬかと憂へたのが、今は二十七箇国の聯合国から擢んでて五大強国として講和会議の首班に列し、東洋の盟主たるの実を発揮した。侯爵が此の会議に列し力を以て大国として恥ざるの
 △効果を収め られたたのは国民の共に感謝に堪へない所である。
 - 第48巻 p.597 -ページ画像 
顧れば我対外外交の開始せられたのは今から六十七年前の嘉永六年米国使節彼理の来朝に始まつてゐる。当時の蕞爾たる一小国は今や世界の一大勢力となり、空前絶後の講和会議に於て、一方に重きを為してゐるのは、当時を知つてゐる自分の如きは、実に隔世の感がある。
 △自分は幕臣 として慶応三年渡欧した時、偶ま巴里に大博覧会があつて、其開場式に三世ナポレオンが、湧血躍肉的の開場式辞を述べたが、其威勢欧洲に並びなき三世ナポレオンはそれより三年を経たる千八百七十年幽囚の身となつた。三世ナポレオンよりも更に威を揮つたカイゼルの運命等亦同じである、自分が巴里にゐる時
 △支那の属国 だらうと嘲けられた日本は、今は世界の強国となつてゐるのであるが、急激の発展を見たからとて、驕奢は慎まなければ不可ぬことはナポレオンやカイゼルが範を示してゐる、強国となつた日本の国民は、此際驕らず慎み慎むが肝要ではなからう乎、歓迎会で斯様な言を云ふは異な者だが、之が老人の繰言であるが、邦家の前途を思へばである。云々(中央新聞)
 因に右青淵先生の演説は「八十の老齢を以てして、其矍鑠たる体躯に、満堂を圧する朗々たる音吐を以て、感極まつて泣かんずる真情発露の演説は、聴く者をして覚えず感奮せしむるの概ありき、吾人も此席に列して、翁が国事に奔走したる維新前後の日本を自ら追懐し、五大強国の列班に位したる現在の国情に欣快禁する能はざる其至情に同感を催せり」と朝日子の記せるを観ても、如何に青淵先生が其至情を披瀝せられたるかを知るべし。


中外商業新報 第一二〇一六号 大正八年九月九日 ○西園寺侯演説 排侵略主義を切言す(DK480164k-0004)
第48巻 p.597-600 ページ画像

中外商業新報  第一二〇一六号 大正八年九月九日
    ○西園寺侯演説
      排侵略主義を切言す
 八日の帝国ホテルに於ける西園寺全権歓迎会にて同全権は、渋沢男の歓迎辞に対する謝辞に代へ、左の如き極めて詳細なる講和会議に関する演説を試みたり
閣下・諸君、今日は吾々媾和会議より帰りました者の為に盛大なる歓迎の宴を催され、又只今渋沢男爵より懇篤なる御挨拶に接し誠に感謝に堪へません、私は帰朝匆々媾和会議の経過又は感想に付種々の方面より質問を受けましたが、当時尚復命前なりしが為め之に答ふることを得ざるを遺憾としました、然るに政治は輿論を基礎とし、外交は国民の後援に依らざるべからずといふことは私の持論でありまして、従て会議に関する私の所感を同胞に向つて披瀝せむことは私の切に希望する所であります、就ては今日の好機会に放て一言することを許さるれば誠に欣幸の至に存じます、独逸との平和条約は御承知の如く去る六月二十八日ヴエルサイユに於て調印されましたが、夫れ迄の
△媾和会議 の経過は大体二段に分れて居りました、即第一段は聯合与国間の協議にして、聯合国より独逸に示すべき媾和条件を決定することを目的とし、第二段は右の条件を基礎としての対独逸の交渉であります、聯合与国は初めより独逸に対しては媾和条件に付一切口頭の
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談判を禁じ、単に書面を以て質問を提起し又は意見を開陳することを許すに止めたる為め、第二段の独逸に対する交渉は寧ろ簡単でありましたが、之に反して第一段の聯合与国間の協議は、聯合与国の数も廿七ケ国の多きに達し互に利害の牴触あるのみならず、主として一切の問題を決定するの任に当れる所謂大国の間に於ても、夫々立場を異にし意見を異にするが為めに、問題を纏むるの困難なりしは実に想像の外でありました、媾和会議の結果に付いては各国共非難もあり不平もあります、固より人間の仕事で欠点も多いのでありまするが、与国間に於ける此の
△複雑機微 なる折衝の真相が他日世間に明かとなることもあらば、今日の非難の多くが自ら消滅すべきは私の信じて疑はざる所であります、今回調印せられたる対独平和条約は、十五篇四百四十条及之に附属せる条項百七十五条より成る大冊であつて、其中には純然たる媾和に関する条項の外、永久平和の基礎たるべき条項をも包含して居ります、媾和に関する条項は独逸の兵備を極端に制限して、危険なる侵略的軍国主義を打破すること、アルサスローレンを仏国に復帰せしむること、波蘭を再興すること、独逸の海外領土を悉く放棄せしめて其世界政策を覆すこと、独逸の国力の有らむ限りを尽して戦争に基く損害を賠償せしむること、平和条約履行の担保として莱因左岸の地域を占領すること等を主眼として居ります、此の如き条件は独逸の行へる暴行の甚だしかりしに鑑み已むを得ざるものなりといふのが一般の説であります
△永久平和 の基礎なるべき条項の中最も顕著なるものは国際聯盟規約及労働協約であります、国際聯盟規約は今次平和条約の骨子であつて各国協同の力に依りて戦争を予防し、国際の案件を平和的に処理せむとするものであります、其の能く所期の目的を達成すると否とは職として実際の運用如何に依るは勿論であります、我国は大国の一たる資格に於て聯盟理事会の重要なる一員となり、此国際的大組織の善用に貢献し得るは最も愉快なる任務たることを十分諒得して、此恒久平和樹立の端を発せんとするの時に当り、将来再び人類の間に戦争の惨禍を見ざるに至る様極力最善を致さんことを期さねばなりません、労働協約は各国に於ける労働者の地位及生活状態を改善し、其の身神の幸福を増進するを以て目的とするのであります
△労働問題 の解決宜しきを得ると否とは一面には社会思潮の趨向に至大の関係があり、又他の一面には国民全体の経済上の能率に尠なからざる影響があります、是れ即ち欧米為政家の等しく該問題に腐心する所以でありまするが、我国に於ても速かに適当の方策を定め世界の趨向と背馳せざらむことを期すると共に、之に関し執るべき一切の措置は専ら公平を主とし、且つ堅実なる基礎を有せしめねばならぬことと存じます、以上の一般的問題の外帝国に特殊なる問題が三件ありましたことは諸君御承知の通りであります、先づ赤道以北に於ける独領南洋諸島は国際聯盟の委任に依り、帝国領土の一部として帝国之を統治することゝなりました、次に山東に於ける独逸の権利を帝国に譲与せしむる件に付ては之が解決に甚大なる困難を惹起しましたが、隠忍
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自重折衝久しきを経て終に与国の賛同を得、平和条約中に之に関する規定を見ることとなりました、最後に
△人種差別 待遇撤廃の件に関しては我委員は実に奮闘努力の限りを尽しましたが、遂に目的を達せずして本件の解決を他日に譲るの已むなきに至りましたのは、私等一同の深く遺憾とする所であります、今次の世界大戦の終局に際し我国が国際間に於て孤立の地位に立つが如きことなきやは、一部人士の憂慮したる所でありましたが、我国は媾和会議に於て克く列強と協調を保持することを得たるのみならず、同会議を機会として国際政局に於ける帝国の地位が著しく昂上したのであります、即ち我国は今回の媾和会議に於て世界五大国の班に列して欧洲の問題に関与するの端を開き、又国際聯盟成立つ暁には其の内部に在りて重要の地位を占め、洽く東西各般の案件に参画するの権利を獲得したのであります、こは実に帝国幾千歳の歴史に一新時期を画するものであつて、其の此くなるに至れるは専ら開国以来連続せる
△我国上下 一般の努力の結果に因るものなることは言を俟ちませぬ此の事は過日も或る機会に於て一言しましたが今日重て此の事に言及する所以のものは、此くの如く帝国の地位の昂上せると共に帝国の中外に対する責任の著しく重きを加へたることを、我国民の各階級を通じて深く自覚されむことを希望するが為であります、即ち此の世界改造に等しき時運に際し、我国は真正なる正義公道を基礎とする永久平和の確立に向て貢献せむことを根本義とし、内に在りては実力の涵養を怠らざると同時に絶えず文化の上進に努め、外に対しては国際の変局に処して克く機宜を制することを忘れざると共に、毎に公正不偏の態度を持して列国の我に対する信頼の念を厚うし、以て今日占得せる地位を維持するのみならず、益々之が昂上を計ることを努めねばなりませぬ、之に付きて更に一言附加したきことがあります、夫は欧米人中動もすれば日本を独逸に比し、武断主義旺盛の国、侵略好戦の民を以て目し居るものゝあることであります、此の事は滞欧中幾たびか私の耳目に触れて不快の感を懐きましたが
△此の誤解 は意外に根柢が深いのであつて、現に日本の友人として知られたる某政治家よりも、此の事に付懇切なる注意を受けたることもありました、今や永久平和の基礎将に成らんとし、独逸の危険なる軍国主義を打破したることを世界を挙けて歓呼しつゝあるの秋に当り独り我国が此種の疑懼誤解の目的物となり居ることは、当面の我国家及国民の活動に莫大の不利益を及ぼすは申す迄も無く、帝国前途の為めにも真に寒心に堪へないのであります、又列国の側より見ても此の如き謬見を懐く結果、列国が我国に対する態度を定め、極東に対する政策を決し、延ては世界の問題を処理する上に於て意外の錯誤に陥るが如きことなきや憂慮せざるを得ぬのであります、抑も此の如き誤解を生するに至りたる原因は、為めにする者の悪意の宣伝に因ること多きは勿論でありまして、この恐るべき罪悪たる虚偽の宣伝に基く
△誤解を匡 すことは目下の急務であつて、列国に於いても我国の実情を究むると同時に、我国に於ては朝野を問はず其の対内対外の行動に付特別の注意を払ひ、日本国及日本国民の決して武断的侵略的に非
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ざることを事実の上に証し、以て我真意を疑ひ、我行動に反対するの余地無からしむること極めて緊切なるは言を俟たぬのであります、顧みれば、半世紀前我国が門戸を開きて外国との交通を開始したる際に於ては、国力極めて微弱にして、外に対して国家の独立を確保する為め先づ力めざるべからざりしものは国防の事でありました、是を以て開国以来軍備の為めには尠からざる努力を致したのであります、而して我国家の存立を擁護する為已むを得ず戦ひたる日清・日露の両役を経て武名を世界に輝かすに至りましたが、其の結果として皮想な観察を為す者が日本を以て軍事のみに長ぜる
△好戦国民 なりと誤解したる点も無いとは申されません、然し乍ら我文明の美質精華は決して軍事上に限られざることは過去の歴史が之を証明するのみならず、欧米に於ても識者は夙に諒解して居る所であります、今日一面に於ては我国家存立の基礎鞏固となり、又一面に於ては世界に永久平和の組織成らむとするに方り、吾国が武備を怠らざると同時に、学術文芸及農工商業の方面に向て大に奮励すべきは誠に大勢の然らしむる処にして、今日我国を以て好戦的国民と誤解せる者が、遠からずして平和的事業の貢献者として我国を謳歌し、又平和的発展の成功者として我国民を認識するに至ることは期して俟つべきであります、又此の如くにして初めて我国が真に其世界的地位を堅実有力ならしむることを得るのであらうと思ひます、然るに我国民が此の時運の変遷を十分に諒解せず、徒らに眼前の小事に区々として大勢の趨く所を察せざる如きことあらば、其の時こそ我国が孤立の地位に立ちて世界を敵とすることゝなるのであります、維新以来幾度かの危機を経て毎に大局を謬らざりし我国民が、今更かゝる重大なる錯誤に陥るが如きは有り得べからざることとは存じまするが、万一かゝることありては
△九仭の功 を一簣に虧くことともなりますれば、婆心を以て一言致す次第であります、私は今回微力を以て重任を負ひ、克く其職責を尽し得るや否やを絶えず懸念して居つたのでありまして、固よりかゝる歓迎を受くるに至らむことは予期せざりし所でありました、今日此機会に於て、敢て所思を率直に吐露致しましたのは、此の重大なる時局に際し諸君と天下の憂ひを分たむことを冀ふが為であります、微衷の存する所を諒とせらるれば幸甚の至りであります、玆に閣下並に諸君の御健康を祝します


中外商業新報 第一二〇一六号 大正八年九月九日 ○府市が中心になつた西園寺侯歓迎 帝国ホテルに集る六百人=写真攻めに園候迷惑=(DK480164k-0005)
第48巻 p.600-601 ページ画像

中外商業新報  第一二〇一六号 大正八年九月九日
    ○府市が中心になつた西園寺侯歓迎
      帝国ホテルに集る六百人
        =写真攻めに園候迷惑=
八日正午帝国ホテルの玄関へ清躯鶴の如き西園寺侯爵が降り立つた、黒モーニングの釦をキチンとかけて=洋服屋の看板のやうに正しく姿勢よく=例の
△写真班 が取囲む「待つて下さい今ちやんとそこへ立ちますから」と自働車の横で自由に撮らせ、風の如くスーツと玄関へ入つた、田尻
 - 第48巻 p.601 -ページ画像 
市長・渋沢男・藤山東商会頭が、大型や小型や中型の頭を乱調子にペコペコ下げて口々に「今日はお暑い処を恐縮致します」と述ぶれば、侯爵一寸腰をかゞめ「ヤー有難う」と悠然、猶ほも奥へ進む
△受付係 が「閣下徽章を」と言ひさま白菊の造花を捧げると「ホー折角の勲章、序でに付けて下さい」と心持胸を突き出す、無作法の写真班に取囲まれ乍ら大広間の休憩室へ通る、此処には所謂朝野の貴顕紳士=憲政会員を除く=が五・六百名、紫煙の渦中を彼方此方とぞめき歩く、侯爵は先づ一番に随員の三浦博士を
△見付け て「どうも肩が痛くて困りましたが何か膏薬のやうなものがありましたら……他には別条はありません」が皮切り、室中の者、知るも知らぬも一遍は伺候して「御無事で御目出度う御座います」と申し上げる、写真班が五月蠅くぼんぼんマグネシユームを焚く、侯爵さも迷惑さうに「どうも眼へ粉が入りましてネ」と傍の清浦子を顧みると
△子爵の 後に控へて居た岡警視総監が「オイ諸君好い加減にして止し給へ、何枚撮る積りなのか」と一喝、それでも肯かないので、遂に「食堂は一切許可せず」と厳かに命令を下した、侯爵は室を一巡りして上品なお世辞を撒いた後で中央に腰を下す、三多摩政友派の首領森久保作蔵老が打ち解けて「あなたあなた」と侯爵に話しかけるのが衆目を惹く、そこへ藤山雷太氏がやつて来て
△初対面 と見え「私が商業会議所会頭の藤山です」と言上する、実業聯合会々長星野錫氏も同じ初対面組が、之は阪谷男を紹介役に引張つて来る、振つたのは山下亀三郎氏、清浦子爵が紹介して「此方が有名な船舶業者山下亀三郎君です、教育や社会事業などには大変御奮発になつて居ります」と云ふ、それから清浦子と侯爵とはクレマンソー論を始めた
△清浦子 は「媾和会議をあれ丈けにこなして行つたのはクレマンソーの力ですな、私が行つた頃には競馬道楽、外に艶聞の方が盛でしたが」と笑ふ、謹厳な侯も思はずおチヨボ口して軽く笑ふ、そして彼が負傷当時の事を身振し乍ら話す、十二時半食堂に流れ入る、そして型の如く万歳やプロジツトがあつて三時侯は帰つた(一記者)



〔参考〕竜門雑誌 第三七六号・第五八―五九頁 大正八年九月 ○西園寺特使の帰朝(DK480164k-0006)
第48巻 p.601-602 ページ画像

竜門雑誌  第三七六号・第五八―五九頁 大正八年九月
○西園寺特使の帰朝 講和全権委員西園寺侯は、去八月二十三日神戸に入港帰朝し、翌二十四日朝同地出発、午後八時四十五分東京駅に到着せるが、右に就き翌二十五日の「中央新聞」は青淵先生談として左の如く掲載せり
 △西園寺侯 が講和使節たる任務を了へ、万里の海路恙なく愈二十四日夕を以て帝都に帰らるゝことゝなつた、侯は病気の為め牧野男爵よりも後れて出発され、仏の地に於ても御病気なりしやに聞いたが、夫れにも拘らず今や使命を尽され無事帰朝せらるゝに対して、予は国民の一人として衷心より其辛労に向つて
 △感謝を表す るものである。侯の帰朝に対し何か面白からざる事を言説して、国民が感謝の意を表するを沮止せんとする如き忌はし
 - 第48巻 p.602 -ページ画像 
き報道を耳にするのであるが、余は実に斯かる事は耳にしたくない講和会議に於ける帝国の地位並に同会議に於て得た獲物に就いて甚だ不満足であるとの批評もあれど、併し合同の大戦に於ては帝国は其中心力であつた訳ではないから、其跡始末たる
 △講和会議に 於ても、如何に帝国より最も偉い人や最上の人が出たからとて、該会議の正座に坐り其第一番の獲物を得やうと云ふことは到底出来ない相談である、是れは何うしても戦争に於て一番骨折つたもの、一番働いたものが自ら第一番の獲物を手にする道理であるのだから、日本の立場が悪いと云ふて之が国力不足の結果である、外交拙劣の為めであると言つて了ふのは全く苛酷に失するところの批難と言はねばならぬ、勿論余は講和会議の内容は単に新聞紙に依りて知るのみで、何等的確の知識を持たぬが、今度の講和外交の中
 △対支問題の 如きも決して今度のみの関係でなく、全く従前の地位より来つたものであるから、一概に今度の事のみを以て批判することも出来ぬのである、尤も講和会議の内容の個々に就いてはソレは勿論種々なる事もあらうが、夫れは別の話で、要するに今日は帝国使節の一方ならざる労務に向つて、兎に角国民は十二分に感謝の意を表して然るべきことゝ思ふ、此際国民が此感謝の意を表せんとするを強て
 △阻止せんと 試むるが如きは実に自から卑しむものであつて、余は帝国民の中に斯かる者なきことを信ぜんと欲するものである云々



〔参考〕外交史 清沢洌著 現代日本文明史第三巻・第三八五頁 昭和一六年六月刊(DK480164k-0007)
第48巻 p.602 ページ画像

外交史 清沢洌著  現代日本文明史第三巻・第三八五頁 昭和一六年六月刊
 ○第四篇 第一章 世界大戦と日本
    第九節 パリ講和会議と日本
 四年四ケ月の日子と、八百万の戦死者と、二千万の負傷者を出した欧洲大戦は、一九一八年(大正七年)十一月十一日を以て休戦状態に入つた。続いて翌年一月から、パリにおいて講和会議が開かれることになつた。日本は英・米・仏・伊の四大国と共に、重要なる位置を占めた。
 日本の全権は、本国からは侯爵西園寺公望・子爵牧野伸顕を派遣しこれにロンドン駐箚大使珍田捨巳、パリ駐箚大使松井慶四郎、ローマ駐箚大使伊集院彦吉を加へた。西園寺は首相原敬・外相内田康哉の勧説に対しては健康の故を以て謝絶したが、牧野は自ら侯を助くることを条件として説得し、その承諾を得たのであつた。会議の書記局に通告した人員のみでも、英国は百八十四名、仏国八百三十六名、米国は百八名、日本は六十四名といふ多人数であつて、その規模の大を知るに足る。講和会議に参加した聯合国の数は総計廿八ケ国であつた。
○下略