デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
1款 財団法人中央乃木会
■綱文

第49巻 p.5-8(DK490001k) ページ画像

大正2年6月13日(1913年)

是年一月十三日、故陸軍大将乃木希典ノ遺言書ニヨリ、其邸宅東京市ニ寄付セラル。東京市長阪谷芳郎其保存ノ方法トシテ、是日、乃木会ヲ創立ス。栄一創立ニ参画シ、監事ニ選バル。


■資料

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年六月二日(DK490001k-0001)
第49巻 p.5-6 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編  昭和三年六月二日
                     (渋沢子爵家所蔵)
    財団法人中央乃木会 (中央乃木会書記 野村礼之助氏談)
○大正元年九月十三日大将御殉死の時の御遺言に従つて、乃木邸が東京市に寄附されました。当時の市長阪谷芳郎男爵は其保存の方法として、乃木会を組織し、此団体に依て乃木邸を記念物として保存維持する事にしました。尚ほ其隣地に木戸侯爵邸の園芸場一千三百二十五坪があつたのを寄附を受て、現在の乃木神社の敷地となつたのであります。
○大正二年六月十三日最初乃木会といふ名称の下に成立しました。後大正六年十一月廿九日に財団法人中央乃木会と改められました。
○創立当時の役員は阪谷男爵が会長、当時の東京市会議長中野武営さんが副会長でありました。尚ほ理事として陸軍側から一戸兵衛大将海軍側から阪本俊篤大将、帝国大学及学習院を代表しては白鳥庫吉博士の方々が御就任になりました。それから渋沢子爵・森村市左衛門男爵が監事でございました。其後中野さんは亡られました、そして副会長は欠員の儘として今日に至つて居ります。それから理事として代々の東京市長が御就任になりました。永田秀次郎さんの次に中村是公さん、それから西久保弘道さん、次に市来乙彦さんが現在理事でございます。
○基本金としては、創立から大正六年に財団法人に成る迄の寄附金五万千円の中より額面二万千六百円の東京市上下水道公債を買ひ、之を基本金に振当ました。尚ほ最近帝国四分利公債額面五百数十円の寄附がありまして、之を基本金に加へました。
○創立目的は趣意書を御覧下さると判ります。
○会の主なる仕事としては乃木神社の建設で御座います。現在では本殿・神饌所・社務社《(所)》、それに手水舎丈けが完成したばかりで、拝殿や参道などは目下進行中でございます。神社は九月十三日を大祭日とし、毎月十三日は月次祭を行ふ事にして居ります。(委細は別紙参照)尚ほ九月十三日には山脇高等女学校で講演会を催します。以
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前は地方講演も行ひましたが、神社建設に力を注ぐ為めに現在では中止して居ります。
○中略
      乃木大将遺言条写
前略
第二 両典戦死の後は先輩諸氏親友諸彦よりも毎々懇諭有之候得共、養子弊害は古来の議論有之云々、特に華族の御優遇相蒙り居り実子なれば致方も無之候得共、却て汚名を残す様の憂へ無之為め天理に背きたる事は致す間敷事に候、祖先の墳墓の守護は血縁の有之限りは其者共の気を付け申事に候、乃ち新坂邸は其為め区又は市に寄附し可然方法願度候
中略
 右遺言如此候也
  大正元年九月十二日夜         希典 花印
    湯池定基殿
    大館集作殿
    玉木正之殿
      静子殿
    (附属別紙)
前略
新坂町家屋地所
右は赤坂区又は東京市へ寄附し永世墳墓の保存維持に宛る事
後略
        以上
(右の大将遺言により新坂邸は、大正二年一月拾三日故陸軍大将伯爵乃木希典遺言執行者塚田清市及親族総代玉木正之の両氏の名を以て、東京市に寄附せられたり)


中外商業新報 第九七〇一号 大正二年四月三〇日 乃木会進捗す(DK490001k-0002)
第49巻 p.6 ページ画像

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中外商業新報 第九七二三号 大正二年五月二二日 乃木会創立総会(DK490001k-0003)
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中外商業新報 第九七三三号 大正二年六月一日 乃木会総会(DK490001k-0004)
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中外商業新報 第九七四二号 大正二年六月一〇日 乃木会協議会(DK490001k-0005)
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中外商業新報 第九七四四号 大正二年六月一二日 乃木会々員規定(DK490001k-0006)
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中外商業新報 第九七四六号 大正二年六月一四日 乃木会成立す 会長は阪谷男(DK490001k-0007)
第49巻 p.7 ページ画像

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中外商業新報 第九四八〇号 大正元年九月一八日 豈他意あらん哉 渋沢男爵談(DK490001k-0008)
第49巻 p.8 ページ画像

中外商業新報  第九四八〇号 大正元年九月一八日
    ○豈他意あらん哉
                    渋沢男爵談
乃木大将と余とは全然社会に於て別個の方面に立てる為め親しく相接して語る機会多からざりしも、大将の人格に対しては常に多大の尊敬を払へり、余が始て大将に会せるは明治十年、時の清国政府が我国に借款を求め来りしより、該交渉の為め三井の益田孝氏、三菱の岩崎小十郎氏と余の三人は上海に赴きたるが、其途次同行の福原大佐と云ふ乃木大将の先輩なる人の紹介にて面会せし時なりき、当時大将は聯隊長として西郷軍の討伐に出陣する途上と記憶す△其後日露戦役終りて余等実業家は東京市と協同して凱旋諸軍の歓迎会を日比谷公園に開催せし際、屡々御目に係り談話を交換せしが、此会終て挨拶の為余は一日新坂町なる大将邸を訪問せしに、大将は自身玄関に出迎られ破顔一笑「私の宅はこんな汚い処で貴下方の来らるゝ処でない」抔と打解たる御話抔ありたるが、如何にも世界に驍名を馳たる我陸軍大将の住宅としては質素過たる者にて、始て拝見したる余に取ては一面頗る驚嘆に耐ざりしと共に、一面言ふ可らざる床しさを覚えたる次第なり△而して今次大将及令夫人が先帝陛下に対し奉り殉死せられたる其心事は発表せられたる遺書によりて推せらるゝ如く、大将の高潔、純忠なる性格よりせば洵に已むを得ざりし事と信ず、大将の如く精神家にして唯君国の外他念なき偉人よりせば、一方軍旗紛失の責任を感ずる事甚だしく、一方先帝を御慕ひ奉るの念極めて切なるものあり、此間何等の余念他心を交へざる也、即ち此清澄なる感情の最高潮に達したる時遂に自尽を敢行せられたる事と推す、思ふに此外には何等期する処なく亦望む処なかりし也、而して大将及夫人今次の自尽により世道人心に及せし至大なる影響に至りては、固より大将の予期せられたる事にあらず、唯偉人の高潔なる人格の反映のみ、予は大将の活教訓は永く国民の精神を支配するものあるを確信す