デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
1款 財団法人中央乃木会
■綱文

第49巻 p.8-9(DK490002k) ページ画像

大正2年9月13日(1913年)

是日栄一、旧乃木邸ニ於ケル当会主催、乃木大将一周年祭ニ参列ス。


■資料

中外商業新報 第九八三八号 大正二年九月一四日 乃木将軍の一周年祭 初秋の風は悲しく賽客踵を聯ぬ(DK490002k-0001)
第49巻 p.8-9 ページ画像

中外商業新報  第九八三八号 大正二年九月一四日
    ○乃木将軍の一周年祭
      初秋の風は悲しく
      賽客踵を聯ぬ
一年は夢とすぎ十三日は壮烈鬼神を泣かしめたる乃木将軍夫妻殉死の一週年に相当するを以て、赤坂区乃木坂なる
△故将軍の遺邸 にては午前八時より乃木会主催の祭典執行されたるが、後庭なる霊祠の前に設けられたる斎場には阪谷会長・中野副会長以下会員及び参列者一同着席するや、祭主久保日枝神社宮司は数多の祭官・伶人を随えて祠前に奉仕し、奏楽の裡に神饌を供し祭祠を奉り阪谷会長始め順次玉串を捧げて玆に式を了り、引続き一般市民の参拝
 - 第49巻 p.9 -ページ画像 
を許したるが、折柄初秋の風清く参拝者あとよりあとゝ続きて、近衛師団の将卒・各中学校及小学校の生徒など大抵参拝せざるはなかりき主なる人々は元田逓相、木戸侯、徳川伯、石黒男、土屋・大久保両大将、山根・一戸・豊辺・押上・本郷・大島・今村・山根の各中将、阪本海軍大将、渋沢男、長松男、柴・亀岡・栗田・安藤・本郷・石橋・林・杉浦・宇都宮・山屋の各陸海軍少将、辰野博士、志賀重昂氏等ありき、尚
△青山の斎場 に於ては将軍の親族たる玉木少佐祭主となり午前九時より荘厳なる一年祭を執行したり、斎主千家尊弘氏、祭官・伶人を伴ひて着床すれば続いて数百の参拝者各席に着き、それより奏楽に次で副斎主の祓詞、太麻行事及招魂の式あり、幣帛を捧げ神饌を供し奏楽の間に一同起立、千家斎主は恭しく神前に起立して厳かなる祭詞を申し、終はりて久邇宮・賀陽宮・東久邇宮の御代拝あり、次で玉木祭主以下親族・知友逐次霊前に玉串を捧げ、長谷川大将親族を代表して一同に挨拶を為したり、当日の主なる参拝人は左の如し
 井上・奥・伊東各元帥、楠瀬陸軍大臣、正親町伯、石黒男、大迫学習院長、子爵小笠原長生、子爵太田原一清、伯土方久元、伯二荒芳徳、伯徳川達孝、伯松浦厚、男有地品之允、男福原邦樹、男大島富士太郎、本郷陸軍次官、伊集院海軍々令部長、八代海軍大学校長、陸軍中将木越安綱、同押上森蔵、同村田惇、同中村覚、海軍少将人事局長山屋他人、杉浦重剛、石橋商船学校長、外陸海将校・朝野紳士数百名
十時半式を了るや一般公衆の参拝を許可したりければ、待ち設けたる幾千の群集は我れ先きにと神前に押寄せ、去年の当日を偲びて厚き涙にくれゐたりき、而して一方
△将軍夫妻の墓前 は松浦伯及び赤坂在郷軍人等より寄せし大榊を始め玉串にて山を為し、夕に至るまで賽客跡を絶たざりければ、万一のため警官出張警戒し居たりき、而して墓地の近所なる玉窓寺の住職山志田普照氏は、乃木邸は鎖され墓地のみにては物足らぬ気のする参拝者のためにとて有志と諮り、今回同寺内に将軍夫妻及び両典氏の
△位牌を安置し 三日・十三日・廿三日及び先帝の御命日なる三十日に一般の参拝を許すことゝしたれば、、就中婦人の参拝者は同寺に参りて一とせ前を噂さし合ひ、御跡慕ひて逝きにし将軍夫妻の偉大なる教訓に袖を涙に濡してありき
△学習院の祭典 十三日は乃木大将夫妻一週年祭当日に付、同大将が院長として久しく貢献せし学習院にては、午前八時より正堂に於て厳かなる祭典を行ひ、大迫院長以下各教授・職員、高等科・中学科各学生着席、祭壇に安置せし同大将並びに夫人の写真に対し恭しく拝礼を為し、榊一対を霊前に供し、大迫院長故大将夫妻の肖像及遺品を蒐集して調製せし紀念の写真帳を献じ、続ひて院長は職員生徒の起立中に恭しく祭詞を申し、次に学生総代松平信造氏の祭文あり、終つて一同祭壇に向つて鄭重なる拝礼を為し、右にて式を終れり、又初等部・女学部にても等しく祭事を行ひたり