デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
8款 静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会
■綱文

第49巻 p.81-89(DK490027k) ページ画像

大正15年7月29日(1926年)

是月二十日、当会、阪谷芳郎ヲ会長トシテ成立ス。是日、東京銀行倶楽部ニ当会会合開カレ、栄一出席シテ、発起人総代トシテ創立ノ趣旨ヲ述ベ、賛助ヲ求ム。


■資料

縁山 第二三輯・第八号 大正一五年九月 静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会略記(DK490027k-0001)
第49巻 p.81 ページ画像

縁山  第二三輯・第八号 大正一五年九月
    静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会略記
本年五月十八日道重増上寺法主には静寛院宮五十年御法要奉賛会を創するに就て、増上寺興勝会副総裁たる渋沢子爵、同会々長たる阪谷男爵の門を叩き創設の趣旨に就き賛成を求めたる所ろ、両氏共非常に喜はるゝと共に天井未完成のまゝにて追恩の法要を厳修せんこと如何あらんか、此の際増上寺に於てせめては応急工事を速進して荘厳の完備を期する意図なきやとのことなりしも、増上寺の現状はにわかに残工事を完了するの用意なく、さりとて特に寄附金を募集する如き挙に出つるは、宮の御祥忌を名として寄附金勧募に利用したりとの誤解を招くの恐れあるを以て、具さに事情を述へ其の好意を謝したるに、渋沢・阪谷の両氏会商の結果、一夕増上寺に東京府知事・東京市長等の集会を催すことゝなり、協議の上、全く増上寺の関係を離れ、東京市民有志として御法要を機会に報恩の志を致すに代へて、残工事の応急完了を期すること、畳・障子の手入れをなす範囲にて市民有志より応分の醵金を募るに決し、銀行集会所に発起人会を催し、趣意書の草案・計劃要旨を議し、座長渋沢子爵より阪谷男爵を委員長に、植村澄三郎・星野錫・阿部吾市・山本留次・増田明六・槙忠一郎の諸氏を実行委員に推し、次て数次実行委員会を渋沢事務所に開き実動事項《(行カ)》を打合せつつ順次之を運ひ、一方河井弥八氏等の尽力に依り華族方面の代表者より同族諸賢の同情に訴ふる所ありて、着々予定金額の募集と応急工事監督の事務を進め、玆に御法要に際し市民追恩の微志を表し得たるは欣快に堪えざる所にして、各方面に亘り賛助を賜り所期の業を達成するを得せしめられたる甚大の同情厚意に対し、深甚の感謝を表する次第なり○下略


増上寺興勝会書類 (一)(DK490027k-0002)
第49巻 p.81-82 ページ画像

増上寺興勝会書類 (一)         (渋沢子爵家所蔵)
粛啓 新緑之候閣下益御健勝奉慶賀候、陳者本年ハ当山と因縁最深き静寛院宮五十年御祥忌ニ相当仕候、御承知之如く同宮ハ明治維新に於ける隠れたる大功労者ニ被為在、殊にその御婦徳ハ日本婦人の典型として万世ニ伝ふへきものと信し候、就而ハ老衲儀今回同宮の大恩を奉謝し併せて御徳讚仰之為め、別紙趣意書並御事蹟等御清覧被下、閣下に於かせられても是非御賛同奉願候 敬具
 - 第49巻 p.82 -ページ画像 
 追而老衲近日拝参親しく所懐申上度心得居候
  大正十五年五月十二日     大本山増上寺
                      道重信教
    渋沢栄一殿
  ○別紙静寛院宮御事蹟略ス。


増上寺興勝会書類(一)(DK490027k-0003)
第49巻 p.82 ページ画像

増上寺興勝会書類(一)          (渋沢子爵家所蔵)
    静寛院宮五十年御法要奉賛の趣意
本年九月二日は和宮後の静寛院宮親子内親王の五十回御祥忌に相当致します。宮は孝明天皇の御妹宮として御降誕あらせられ、十六歳の御時、竹の園生を出でゝ徳川十四代将軍家茂公の御台所として関東へ御降嫁遊されたのは恰も尊皇攘夷の説、開国通交の論に天下騒然たる時であつた。御年廿一の秋御同齢の夫の君家茂将軍には親征中薨去せられ、孤鸞舞鏡の悲しみに加へて、内には継嗣問題あり、公武の葛藤あり、外には国際問題の相次ぎて起るありて、一瀾一波相畳りて大渦流となり、終に徳川幕府倒壊の悲劇となつた。此の際に於ける宮の御苦心御努力は、実に御見上げ申すも神々しきまでに雄々しく、一縷以て千鈞を繋ぐの観があつた。我国空前の大変革たる明治維新の大業が、最小限の損失を以て成し遂げられた裏面には、宮の優しい御力が籠つて居るのは否む事は出来ない。
維新の風雲漸く収りて、積る御心労を医し給ふ暇もなく、西南の戦塵に物情恟々たりし明治十年、御齢僅に三十二にして御生涯を終られたは御痛しき極みであつた。
宮は最も日本婦人らしき御性格を完全に備へさせられ、妻として、主婦として、将た国家重要なる主役者としての任務を自覚的に遂げられその崇高なる犠牲的精神はよく主家を万死のうちに救ひ、江戸百万の生霊を塗炭より脱れしめたるにも係はらず、飽まで優婉嫻雅、温容玉の如き婦人であらせられたは、実に日本婦道の権化として永遠に仰ぎ奉るべき御方様と拝せらるゝのである。
本年九月二日宮の五十回御祥忌を迎ふるに当り、奉賛の誠悃を致し、追資の法要を奉修せんとして大方諸賢の協賛を仰ぐ次第であります。
  大正十五年四月二日
               静寛院宮五十年御法要奉賛会
                    芝増上寺中
                事務所
                    電話青山{三〇七四 三〇七五
  ○静寛院宮五十回忌法要ハ、忌日ニ当ル大正十五年九月二日午前十時増上寺墓所ニ於テ、勅使並ニ皇后宮御使差遣、施主徳川家達外一門、内閣総理大臣以下各大臣参列ノ下ニ同寺ノ道重大僧正ノ導師ニテ営マレ、次イデ十月一日ヨリ三日間当会ニヨル法要執行サル。


増上寺興勝会書類 (一)(DK490027k-0004)
第49巻 p.82-83 ページ画像

増上寺興勝会書類 (一)         (渋沢子爵家所蔵)
謹啓
過光ハ参邸御多忙中拝謁を賜り且つ
和宮様御法要之御儀ニ関し不一方御高配を辱し難有御礼申上候、早速神林秘書ニ命し御下命通り午後二時案内状之発送を了し平塚府知事・
 - 第49巻 p.83 -ページ画像 
岡田市長代理槙・増田之諸氏へハ阪谷男爵之御名を以て当日の事委細御依頼申上置候、右御報告ニ併せ御礼まて如此御座候 敬具
  七月十二日○大正一五年        増上寺内
                         浄厳
    渋沢子爵閣下御侍曹

拝啓 益々御清福奉賀候
陳者和宮様御事後の静寛院宮様五十年御祥忌御法要奉修ニ付、別帋趣意書に基き御法要御場所修理後援会組織の件御相談申上度、御多忙中何共恐縮の次第に候得共、来る十六日午前十時有楽町銀行倶楽部へ御枉駕相煩し度、此段御願旁々得貴意度如斯ニ御座候 敬具
  大正十五年七月十二日       子爵 渋沢栄一
                   男爵 阪谷芳郎
                      平塚広義
                      岡田忠彦
        殿侍曹
  ○別紙趣意書後掲ニツキ略ス。


(増田明六)日誌 大正一五年(DK490027k-0005)
第49巻 p.83 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一五年     (増田正純氏所蔵)
七月十六日 金 晴                出勤
前九時半東京銀行倶楽部に於ける静寛院宮様五十年御祥忌法要奉修道場修理後援会ニ出席す、渋沢子爵より特に出席の命ありしに依る、来会者ハ子爵・阪谷男爵・平山成信男・平塚広義・星野錫・植村澄三郎の諸氏にして、同後援会の成立及び向後の施設ニ関し協議ありて、之が発起人・実行委員・趣旨書の決定等あり
○下略
七月十七日 土 晴                出勤
前十半日本倶楽部ニ於ける静寛院宮様法要後援会実行委員会ニ出席す阪谷男・平塚府知事・植村・星野・池貝・槙の諸氏来会、将来ノ事業進捗ニ関し種々評議す
  ○中略。
七月二十日 火 晴                出勤
午前九時芝増上寺ニ於テ和宮様五十年忌法要後援会実行委員会ニ出席阪谷男爵・植村澄三郎・星野錫・槙忠一郎・増田明六出席、趣旨書及後援会ニ関する書状の決定を為す
右ニ先たち一同増上寺僧の案内ニて和宮様墓前ニ至り、阪谷男爵より我等一同が実行委員として殿下の五十年忌法要執行の準備ニ従事する旨奉告したり ○下略


静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書 第一―二頁刊(DK490027k-0006)
第49巻 p.83-84 ページ画像

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書
                         第一―二頁刊
    一 緒言
大正十五年五月十五日、増上寺道重大僧正小石川区原町の拙宅を訪はれ静寛院宮五十年御法要奉修の儀に付懇談あり、余大に其挙を賛す。
 - 第49巻 p.84 -ページ画像 
然るに増上寺大殿の工事未だ完からず、挙式道場として礼に於て頗る欠くる所あり。是より先き、余増上寺の依頼により、大殿再建に付有志と共に後援会を起し、興勝会と名け、余会長に推さる。徳川公爵は総裁、渋沢子爵は副総裁たり。余依て六月二日二十八日の両度、興勝会正副総裁、同理事星野錫・池貝庄太郎・藤山雷太・根津嘉一郎の四氏、平塚東京府知事・中村東京市長・岡田東京市助役・工事監督伊東忠太氏等を増上寺に招請して内相談会を開き、御法要奉修道場として尊厳を欠かざる程度に於て急に修理を加へんことを謀り、新に静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会を組織するの議を定めたり。依りて七月十六日東京銀行倶楽部に於て、渋沢子爵・平塚広義・岡田忠彦の三氏、及余の名を以て、有志を集め、内相談に成れる計画の同意を求め、発起人総代及実行委員を選挙し、其互選に依り、余委員長となる。尚御法要までに余日少きを以て、修理工事は寄附金の集まるを待たず直ちに著手進行するに決す。
七月十七日実行委員会を日本倶楽部に開き、本会の趣意書、発起人氏名、庶務及会計主任、取引銀行等を定め、本会事務所を増上寺に置き又七月二十九日を以て東京銀行倶楽部に、各方面の有力者を集め、寄附金の勧誘を為すに決す。
七月二十日増上寺に於て実行委員会を開き、伊東忠太氏提出の工事箇所及工費見積等に付協議し、一同静寛院宮の御墓に参拝し、本会成立の趣旨を報告す。
七月二十九日東京銀行倶楽部に各方面の有力者を招き、発起人総代渋沢子爵より本会の趣旨を述べて賛助を求め、其後実行委員諸氏は手別けして各方面を歴訪して寄附の勧誘に力め、時々渋沢事務所其他に於て会議を開きたり。
○下略
  ○本文ノ末尾ニ大正十五年十一月三十日委員長男爵阪谷芳郎記トアリ。


中外商業新報 第一四五一六号 大正一五年七月二四日 静寛院宮の御徳をしのびて 今秋五十年の法要に追恩感謝のために増上寺改築(DK490027k-0007)
第49巻 p.84-85 ページ画像

中外商業新報  第一四五一六号 大正一五年七月二四日
    静寛院宮の御徳をしのびて
      今秋五十年の法要に
        追恩感謝のために増上寺改築
最近婦人問題の運動が漸く盛になつて、婦人の地位は、男子と同等に認めらるゝやうになつて来た、しかも婦徳向上の必要はますます高調されてゐる、この時今日の
 日本の 基礎を作つた明治維新史に織込まれた尊い女性の力――雲深い宮中から徳川家茂将軍に御降嫁遊ばされ、当時の天下国家に隠れたる一大勢力となつて、将来の幸慶を齎らし婦徳高い静寛院宮――和宮内親王が逝去されて丁度今年が五十年に当り、江戸城の円満を図つて完全な今日の東京を育てられた感謝のために、渋沢子・阪谷男・平塚府知事・伊沢市長・星野実業組合聯合会長などの東京に
 縁故の 深い名士方が同宮さまの御法要奉賛会後援会を起し、来る十月一日・二日・三日を芝公園増上寺で盛大に執行される御法要に、目下はほとんど破れ寺のやうになつてゐる同寺本堂の天井や畳替及び
 - 第49巻 p.85 -ページ画像 
欄干などを作り直し追恩感謝の意を表す事となり来る廿九日主として
 女学校 長、婦人思想家その他知名方面約七百名丸の内銀行クラブに会合し、会の主旨徹底を図り国民一般の誠意に依る喜捨でこの改築をなす相談をする事になつた、これに就て星野錫氏は語る「今日まで徳川家でのみ御法要して来てゐたが、我国
 女性の 最高典型として男女ともに謹んでその徳を賛仰したいわれ等国民の希望で、今年から満天下の同胞が奉賛会に参加する機関を作る事になつた」と


竜門雑誌 第四五五号・第七二頁 大正一五年八月 青淵先生動静大要(DK490027k-0008)
第49巻 p.85 ページ画像

竜門雑誌  第四五五号・第七二頁 大正一五年八月
    青淵先生動静大要
      七月中
廿九日 静寛院宮御法要後援会の件(東京銀行倶楽部)


(増田明六) 日誌 大正一五年(DK490027k-0009)
第49巻 p.85 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一五年     (増田正純氏所蔵)
七月廿九日 木 晴                出勤
午前九時丸の内銀行倶楽部ニ於ける静寛院宮五十年忌法要後援会の義ニ付開催の会合に出席す、此会合は同後援会ニ要する資金醵集ニ関する事なりしが、通知先四百七十人ニ対し出席者ハ僅ニ十数名なり、資金醵集の問題が斯くも出席者を妨けたるかと熟ら感心したり
  ○中略。
八月二日 月 晴                 出勤
朝九時丸の内事務処ニ於て静寛院法要後援会の会合あり、寄附金募集ニ関する事務の打合ハセを為す
○下略


増上寺興勝会書類(一)(DK490027k-0010)
第49巻 p.85-86 ページ画像

増上寺興勝会書類(一)          (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓 益御清祥奉賀候、陳者今般和宮様御事後の静寛院宮様五十年御祥忌御法要に関し、別紙趣意書の通御法要奉修道場修理後援会組織仕候に付ては、御相談申上度義有之候間、御多忙中何共恐縮の次第に候得共、来る二十九日午前九時有楽町東京銀行倶楽部へ御枉駕被成下度此段御願旁々得貴意度如斯に御座候 敬具
  大正十五年七月 日
                   発起人総代
                   子爵 渋沢栄一
                   男爵 阪谷芳郎
                      平塚広義
                      伊沢多喜男
    (宛名手書)
    子爵 渋沢栄一殿
(印刷物)
    静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会趣意書
和宮、後の静寛院宮親子内親王は、畏くも孝明天皇の御妹宮として、
 - 第49巻 p.86 -ページ画像 
弘化三年閏五月十日御誕生あらせられ、文久元年十月十六才の御時、竹の園生を出でさせ給ひ、徳川十四代家茂将軍の御台所として御降嫁あらせらる。慶応二年七月、家茂将軍には征長軍出陣中俄かの薨去あり、此の時宮の御年二十有一。孤鸞舞鏡の御悲みは申すも更なり、内には公武の葛藤あり、外には国交の難関あり、一瀾一波相畳り大政奉還の大路を辿りて、維新の大業全く成就するに至る。此間に処して宮の御苦心と御努力とは、神々しきまでに雄々しく、真に一縷以て千鈞を繋ぐの観ありき、就中、伏見鳥羽の戦争と為りて、惜しくも朝敵の汚名を受けし主家を万死の裡に救ひ、又江戸開城に依りて、市民百万の生霊を能く兵火の災より脱かれしめ給ひたる、裏面の御活動は維新史上特筆大書すべき御功績として、長へに国民の忘るべからざる所の鴻恩なり。
明治十年九月二日、宮御齢僅に三十二、御痛しくも箱根塔の沢に於て御他界あそばせられてより、玆に五十年、今秋五十回御祥忌を邀ふるに当り、徳川家累代の香花院たる芝増上寺が、特に十月一日より三日間、礼讚の誠悃を致して、追恩の大法要を奉修せんとする美挙に対し国民上下誰か徒に傍観に附すべけんや。況んや直接間接、宮御苦心の恵沢に浴せるもの甚大なる我等東京市民に於てをや。然るに同寺の本堂は、明治以来二回の火災に遭ひ、朝野援護の力を集めて、近く再建を告げたりと雖も、天井其他の諸工事未だ完きを致さず、加へて癸亥大震災に際し、罹災者の難を此所に避くるに任せて之を開放したるを以て、汚損甚しく今日に及べるが、今や宮五十回忌追恩の大法要を奉修すべき道場として、尊厳を欠くの感なき能はず、依て玆に同感の者相会し、協議の結果、江湖の仁人君子に謀り、見苦しからざる程度に於て、天井其他の工事を完成し、以て御法要の荘厳を添へ奉り、聊か東京市民が宮に対する、報徳謝恩の微衷を致さんと欲す。大方の諸君幸に我等の懇請を容れ、趣旨を賛して御援助を賜らんことを。
  大正十五年七月
    発起人
     伊沢多喜男   池貝庄太郎  服部金太郎
     星野錫     大橋新太郎  河井弥八
     中村藤兵衛   中野勇治郎  馬越恭平
     藤山雷太    藤田謙一   小島七郎
  男爵 阪谷芳郎 子爵 渋沢栄一   平塚広義
  男爵 平山成信    関屋貞三郎
      計画要旨
一、御法要奉修道場修理費ヲ概算金五万円トス
二、右ハ有志諸君ノ御寄附ヲ仰ギテ之ニ充ツ
三、御用向ハ芝公園増上寺内静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会委員長男爵阪谷芳郎宛御申越ノ事
四、現金御払込ハ東京市丸ノ内第一銀行支店トス
五、募集金ノ使用方法ハ発起人ニ委任ス
          以上

 - 第49巻 p.87 -ページ画像 

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書 第九―一四頁刊(DK490027k-0011)
第49巻 p.87-89 ページ画像

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書
                        第九―一四頁刊
    四 寄附金募集に関する書翰
      一 一般有志に対する書翰の一
拝啓 益御清祥奉賀候、陳者今般和宮様御事後の静寛院宮様五十年御祥忌御法要に関し、別紙趣意書の通御法要奉修道場修理後援会組織仕候に付ては、何卒趣旨御賛同の上多少に不拘御寄附被成下度希上候、此段得貴意度如斯に御座候 敬具
                  発起人総代
  大正十五年八月 日        子爵 渋沢栄一
                   男爵 阪谷芳郎
                      平塚広義
                      伊沢多喜男
      二 一般有志に対する書翰の二
拝啓 益御清適奉賀候、然は本会の趣旨御賛助方御願の為め去七月二十九日丸の内銀行倶楽部へ御来会御願致候処、御差支の為め御来会無之候ひしが、当日御来会の御人々へは発起人総代渋沢子爵より本会設立の事情を篤と申上御賛助願上たる義に候間、何卒貴兄に於ても御賛助被下、別紙申込書を以て御寄附御申込被下度候、此段及御願候
                         匆々拝具
        静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会
  大正十五年八月六日     委員長 男爵 阪谷芳郎
追伸
一 当日御会合の御方々及其他より本日迄に御申込有之候金額氏名表を御参考迄に相添置候
二 勝手の義に候へ共来八月三十日迄に御申込被下候様特に願上候
      三 東京府・市・区会議員、商業会議所議員諸氏
        に対する書翰
拝啓 炎暑の候益御清祥奉賀候、陳者既に御承知の事と存候得共、旧江戸が東京と移り変りの際、孝明天皇の御妹宮にして第十四代将軍家茂公に御降嫁遊ばされ、間もなく将軍薨去未亡人とならせ給ひたる和宮様、御法名静寛院宮様には、当時朝廷と幕府との間に介在して、朝廷の御為と徳川家の無事との為に、人知れず深き御苦心遊ばされ、当時江戸の市民が幸に兵火の難を免れたるは、実に宮様の隠れたる御力に負ふ所不尠次第と存候、爾来星移り物変り宮様には明治十年九月二日御齢三十二にて御他界遊ばされ、今秋は五十回の御祥忌に当り候に付、徳川家に於ては九月二日を以て同族にて御法要奉修あり、翌十月一日・二日・三日間宮様の御墓所にして徳川家累代の香花院たる芝増上寺の発起により、一般公衆に開放して大法要の奉修有之候、右に付本会は、宮様に対する東京府市民報恩の一端として、御法要奉修道場修理後援の為め、府市有志者申合成立したるものに御座候、何卒貴職に於かせられても、本会の趣旨普く府市民諸氏に徹底候様御援助願上候、尚御法要当日府市民として敬意を表する方法に付ても御考慮の上可然御高配願上候 敬具
 - 第49巻 p.88 -ページ画像 
        静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会
  大正十五年八月九日     委員長 男爵 阪谷芳郎
                        (芝増上寺内)
追て為御参考別冊差上置候
一 本会趣旨書
一 静寛院宮御事蹟
      四 華族諸氏に対する書翰
拝啓 盛暑之候益御清福奉賀候、陳者徳川幕府の末に当り尊王攘夷佐幕開港の論争起りて海内漸く混乱の状に陥り、亡国の端此に開かれんとするや、官武一致の必要上孝明天皇の御妹君和宮様には、文久元年御年十六を以て第十四代将軍徳川家茂公に降嫁遊ばされ、次で将軍の薨去に因り御年二十一にて已に寡独とならせられしも堅く貞操を守らせ給へり、間もなく徳川幕府は倒れて明治の御代と為り其の十年九月二日、御痛ましくも僅に三十二の御年を以て御他界遊ばされしに因り御遺骸は芝増上寺家茂将軍墳墓の傍に葬り参らせ、御法名を静寛院宮様と申し奉れり、斯くて本年は早や五十年の御祥忌相当に付、徳川家に於ては九月二日を以て同族間に御法要を奉修せられ、越えて十月一日より三日間に亘り増上寺の発起により公衆に開放して更に一大法要を営まる
抑々和宮様には女性の御身を以て我邦内外最も多事多難の際人知れざる御苦心を遊ばされ、当時朝廷と幕府との間に介在して大義名分を明かにし無用の干戈を弄することを避けしめ、又平和の回復を速かならしめ、殊に江戸開城に際し市民をして兵火の厄難を免れしめられたることは、宮の隠れたる御尽力に負ふ所頗る大なるものありしは素より言を俟たざる次第にして、今や宮の五十年御祥忌を迎へ奉るに当り、朝廷と幕府とに多年関係を有せる我々華族としては、文久より明治に至る間政界の多事にして変転の極りなきを想起し、実に懐旧景仰の情に堪へざるなり
就ては宮様に対し報恩の敬意を表する為め別紙後援会の趣旨に賛成被下、金額の多少に拘らず御寄附相成、且つ十月の御法要に参拝相成候はゞ世道人心に及ぼす効験亦不尠儀と存候条何卒御同意相成度、此段特に得貴意候 敬具
  大正十五年八月十五日
        公爵 近衛文麿   男爵 加藤定吉
        侯爵 蜂須賀正韶  子爵 青木信光
        侯爵 山内豊景   子爵 大河内正敏
        伯爵 柳沢保恵   子爵 前田利定
        伯爵 柳原義光   子爵 水野直
        伯爵 松平頼寿   子爵 八条隆正
        伯爵 樺山愛輔   子爵 渡辺千冬
        伯爵 小笠原長幹  男爵 阪谷芳郎
        伯爵 酒井忠克   男爵 山内長人
       殿
追て為御参考別冊差上候
 - 第49巻 p.89 -ページ画像 
一 静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会趣意書
一 静寛院宮御事蹟