公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第49巻 p.146-150(DK490041k) ページ画像
明治45年3月17日(1912年)
是年、福地源一郎ノ七周年ニ当リ、栄一等発起人トナリ、三月十五日ヨリ十日間追善演劇会ヲ歌舞伎座ニ於テ催ス。是日栄一、同座ニ赴キテ挨拶ヲ述ブ。
渋沢栄一 日記 明治四五年(DK490041k-0001)
第49巻 p.146 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四五年 (渋沢子爵家所蔵)
三月十七日 雨 寒
○上略 午後二時東京ニ着ス、直ニ歌舞伎座ニ抵リ桜痴居士追善演劇ニ出席ス、午後四時過キ一場ノ挨拶ヲ舞台ニ於テ演説ス、発起者ノ一人トシテ観客ノ厚意ニ謝シ、且故福地氏ノ経歴ト才学トヲ叙シ、且余トノ交誼ヲ詳説ス、夜十時過演劇畢リテ帰宿ス、此日観劇セシハ兼子始メ家族ノ一部分、八十島夫妻モ同伴ス、演劇ハ春日ノ局、義士ノ誉、春雨傘等何レモ桜痴居士ノ脚本ニ係ル、夜十一時王子ニ帰宿ス
○栄一、前日、梅浦精一ノ危篤ヲ見舞フタメ大磯ニ至リ一泊、是日ソノ臨終ヲ見テ帰京ス。
福地桜痴居士追善演劇会番組(DK490041k-0002)
第49巻 p.146-148 ページ画像
福地桜痴居士追善演劇会番組 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
福地桜痴居士建碑追善演劇会の主旨
一代の文豪として其の文に劇に遍く天下に欣賞せられたる桜痴居士福地源一郎氏の簀を易へられてより玆に七年を経たり、其の間世変なきにあらざりしも氏が名声は嘖々として衰へず、文を欣する者劇を賞する者並に争うて其の遺著を求めんと欲す、是に於て坊間書賈が桜痴叢書出版の挙あり、盛なりと謂ふべし
我がやまと新聞社は氏と夙契あり、氏は其の晩年を我が社に寄せ健筆を以て木鐸と為し、而して其の文に劇に大に天下を提醒せられき、曩に賢嗣信世氏去る一月四日を以て其の七周忌辰の法会を芝増上寺に行はれたりしも、是れ唯その親戚故旧の参列せるに過ぎざりき、天下の文を欣し劇を賞する者に至りては之を知る者甚だ尠し、豈に遺憾の至ならずや
我が社爰に氏と旧誼あるの士と謀り将さに其の七周年追善演劇会を開
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き、氏が遺著中の傑作を歌舞伎座に上場し、天下の氏を慕ふ者をして其の文と劇とを併観せしめんとす、而して其の観覧料より得たる利益金を基礎として氏の為めに一大石碑を建設し、以て長く其の声名を伝へんと欲す、庶幾くは天下の其の文と劇とを欣賞する者は奮て我が社の主旨に賛同あらんことを
明治四十五年三月 やまと新聞社 松下軍次
発起人(イロハ順)
伊藤欽亮
池上仲三郎
井上角五郎
原亮一郎
星野錫
徳富猪一郎
利光鶴松
伯爵 大隈重信
大倉喜八郎
小野金六
岡崎邦輔
大岡育造
大橋新太郎
和田梅子
川合晋
横山一平
田中平八
田村成義
竜野周一郎
角田真平
塚原靖
永井素岳
東京朝日新聞社長
上野理一
野村宗十郎
山田喜久次郎
益田孝
馬越恭平
松田精一
越山太刀三郎
江沢金五郎
榎本虎彦
朝吹英二
朝比奈知泉
佐竹作太郎
箕浦勝人
男爵 渋沢栄一
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広岡幸助
東京日々新聞社長
本山彦一
関直彦
○賛成人・世話人氏名略ス。
番組
第一番目 春日局 四幕
○中略
中幕 芳哉義士誉 二幕
○中略
第二番目 侠客春雨傘 三幕
○中略
大切 新歌舞伎十八番之内新七ツ面
○中略
一特等 (桟敷) 御壱名 金五円
一壱等 (高土間) 同 金参円五拾銭
観劇料 一弐等 (平土間) 同 金参円
一参等 (中等場) 同 金壱円弐拾銭均一
一四等 (三階桟敷) 同 金五拾銭
○下略
やまと新聞 第八三〇九号 明治四五年三月一八日 渋沢男大に桜痴居士の功績を説く(DK490041k-0003)
第49巻 p.148-150 ページ画像
やまと新聞 第八三〇九号明治四五年三月一八日
○渋沢男大に桜痴居士の功績を説く
「今日当座に於て故桜痴居士即ち福地源一郎君の追善演劇を致しまするに就て斯く諸君の多数御来場を見まするのは、発起人として非常に満足を表する次第で御座います、私は故福地氏とは明治初年からの古い御馴染を持て居りまするに依つて、此の度も発起人の一人に立ちましたので御座います
そこで諸君に対して一寸居士の経歴を申述べたいと思ひまするが別段面白い事でも御座いません、何れ後から面白い余興を御覧に入れ私の面白からぬ話と相殺する事に致しまするから、何卒御静聴を願ひたいのであります、元と私と氏とは非常な縁故があるのです、年から申しても福地氏とは一年違ひの旧友であります、即ち今尚存生して居られたならば当年七十二歳であるのです、私の交を結んだのは
明治元年の初でそれから三十九年迄丁度三十
九年間交誼を厚くした間柄であります、今日臨場の諸君の中には居士に対して其種々なる方面から御観察でありませうから玆に私が喋々する必要はないけれど、氏は随分と経歴に富み種々なる歴史を有せる人と云つて然るべきであります、其の初め私の氏と交を結んだのは氏も私も共に幕臣であつて、仏蘭西から日本に帰りましたときに私は或人の紹介で氏と初めて交際したのであります、其の初めは唯の交に過ぎませんでしたが、明治三年に故伊藤公が財政経済取調の為め米国に行かれまするとき其旅行に就て人を要するに就き種々書物はありまするが、実際に於ける観察力を有つて居る人が欲しいと云ふので、即ち私
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が故福地氏を選んで其随行員に推したのであります、即ち氏は外国には大分顔を知られて居りまするから、伊藤公に取つて極めて適当であらうと私が申したのであります、それで明治三年十月西洋へ渡られ、翌年の春伊藤公と共に米国から帰られたのです、而して其齎らし来れる事は
今日の経済界に種々なる基礎をなして居る事が
多いのです、今日私が本業として居る銀行の如きも氏が橋渡をして米国の制度を移し、伊藤公が之れを充分行へる様にしたのであります、即ち氏は此事業に非常に尽力されたので御座います
又更に今一つ申せば公債証書の制度で御座います、其頃日本には貸借を公にすると云ふ制度が無かつた、処が氏の云ふには、西洋には有価証券なるものがあるから我国にも是等を設けて之を公にしなければならぬ、是非共此制度を行はしたいと云ふ事で非常に尽力されました、即ち此制度の紹介者は故桜痴居士であると申しても過言ではないと思ふ、それは明治四年の事で、続いて其年の冬岩倉公を大使として派遣するに書記官が入用となつた、それには其頃専ら欧洲の事に精通せる福地氏が適任だと云ふので、即ち此任務を以て氏を派した様な訳であります、其後氏が事業経営に活動されたのは丁度十二三年の頃であつて、多く官途に留まつて居たので御座います、然し元来桜痴居士は、官途を以て終る人でなかつたのであります、自ら期する所は、其頃欧洲に行はれて居る
新聞紙を紹介して新聞によつて成功をしやう
と云ふ心を抱かれたのであります、玆に於てか明治十二年でありますか新聞紙に専ら力を入れる様になつたのであります、其頃私は銀行を経営致しました為、丁度其頃からして今の商業会議所……今は立派になつて居りますが……あの会所を創設し、大に福地氏と共に経営致しましたので御座います、今尚皆様が記憶に残つて居りませうが、明治十二年に米国のグラント将軍が日本に参られた時に、商業会議所から東京市民の代表者として此将軍を歓迎に行つた事もありました
其当時は世間から種々の批評もありましたけれども、爾来会議所も漸次発展し時世とも伴つて来たので、世の中に大に尽す事があつたと申さなければなりません、併し後に至つて自分の思ふ事が完全に世の中に尽す事が出来なかつたので、之は私の友人として故福地氏に対して遺憾と思ふ処であります、誠に
奥底の知れない学問と充分なる才識とを有し
乍ら充分なることがなし得られなかつたと云ふのは今尚ほ同氏にとつて感慨の情に堪へないのであります、蓋し私が福地氏を玆に批評……致しますならば、実に文才と申し学問と申し又世に処する思慮と申し何事もなし得る人で、覇気もあり、其学問等に就て申せば大抵の専門家を凌ぐと云ふ有様で御座います、試みに一・二の文学上の事を申せば、皆様も御覧でも御座いませうが「白氏文集」若くは「藻汐草」等の著述をしたので御座います、又「幕末政治史」と云ふ著述を致しました、又他の方面に於て桜痴氏の事を詮索すれば経学に於て氏が孔子を研究した事は非常なもので「孔夫子」と云ふ一の小冊子を著述しま
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した、之は、吾吾有志の十人許が集つて経学の談を致されました時の産物です、此
「孔夫子」と云ふ小冊子は私は世間の道学先生
を凌ぐと称しても、宜しいと思ひます、かくの如く多芸多才で尚且つ充分技能を世の中に現はす事が出来なかつたのは、蓋し世の中が悪いのか同君が悪かつたのか私は之を論ずる事が出来ないが、所謂「才多而物難成」で或は多芸が却て当人の望を全うせしめざりし所以でありますまいかと私は深く惜む次第で御座います、さりながら私は玆に聊か申上て置きたいのは、特に晩年に於て此演劇に就いて非常に心を用ひられました事であります、此演劇も我国の政教と考へるよりは特に社会風俗の改良と云ふ事に心を注いで力を入れられたのは、大に皆様も諒として頂きたいのであります
今此の追善会に於て諸君に御覧に入れる脚本は殆んど桜痴居士の心を入れられました
傑作の其粋を抜いて玆に演ずる様な訳で御座
います、氏は演芸のみならず政治界経済界の方にも非常なる才能を以て居りましたが、また風俗上教育上等にも非常に意を注ぎ、特に教育に対しては演劇等を用ひて今日世の中に示すと云ふ様な方針を持て居られた様な次第でありました
されば此度の追善も斯の如き劇場に於て其当時最も心を用ひられたものを以て追善の意となし、諸君の御覧に入れる次第で御座います、どうか諸君も同情を表してよろしく此演劇を御覧被下なば発起人の一人としての私も満足の次第でもあるし、又故人としても充分に瞑する事が出来やうと思ふのであります、又特に諸君に申上て置くのは、渋沢が深く居士と三十九年の間交誼を結んで居つたと云ふ処の意味から、私が一寸御挨拶申上げた様な次第で御座います
○本章第三節碑石ノ中「福地桜痴記[福地桜痴紀]功碑除幕式」参照。