デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
14款 其他 5. 東湖先生記念会
■綱文

第49巻 p.155-168(DK490045k) ページ画像

大正11年11月25日(1922年)


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是ヨリ先栄一、当会ノ会長ニ推サル。是日、東京会館ニ於テ、東湖先生記念講演会及ビ遺墨展覧会開催セラレ、栄一出席シテ開会ノ辞ヲ述ベ、写本「常陸帯」ソノ他ヲ出品ス。


■資料

竜門雑誌 第四一五号・第七一頁大正一一年一二月 ○東湖先生記念会(DK490045k-0001)
第49巻 p.156 ページ画像

竜門雑誌  第四一五号・第七一頁大正一一年一二月
○東湖先生記念会 本年は藤田東湖先生歿後七十年に相当するを以て故人の功績を景仰すると共に愛国憂世の赤誠並に忠孝両全の至情を記念する為め、十一月廿五日午後二時より東京会館に於て記念会を開き青淵先生・金子子等の追悼講演あり、又同先生の遺墨等の展覧をなしたりと云ふ。


東湖会講演集 川崎巳之太郎編 前付・第一―四頁大正一三年一〇月刊(DK490045k-0002)
第49巻 p.156-158 ページ画像

東湖会講演集  川崎巳之太郎編 前付・第一―四頁大正一三年一〇月刊
    記念会発起の由来
 東湖先生記念会は大正十一年十一月東京で催したものである。当時何故に斯かる企を為したかと云ふに、折柄戦後の欧米諸国では国民主義が熾んに高調せられた際でもあるし、丁度我国近代に於ける国民主義の偉大なる鼓吹者東湖先生の七十年忌の逼つた事とて、此際特に該記念会を起して先生の雄魂毅魄を追慕するよすがとしたのである。
 初め欧洲戦争の起るや、挙国一致と云ふ標語疾風迅雷の勢で到る処を風靡し、何れの交戦国に於ても国内人民又は民族の間に存する人種的、政治的、若くは宗教的の反感、疾視、又は敵対心を去り、宗教家も平和論者も甚しきは社会主義に至るまで共に剣を手にして祖国の急に赴いたものである。既にして戦役の艱苦は予想よりも甚しく、殊に其の長引いて惨害愈々激甚となるや交戦国の人民間には自ら疲労困憊の念が瀰蔓した。此の機に乗じて抑えられて居つた潜在思想が漸次其の頭を擡げて、国内的には政治上若くは経済上の改革が呼号せられ、国際的には平和促進の運動が猛烈となり、自由民本主義の確立、労働者や婦人の解放と云ふことが到る処に叫ばれた、此の傾向は講和条約成立の前後特に顕著であつた。
 併し夫れも一時的で平和愈々克復せられ、各国何れも戦役中の瘡痍を癒やし、互に陣容を立直して産業的に大競争を行はんとするに方りては、生優しい労働解放運動や、品を造る国際平和運動ではなかなか以て追ひ付かぬ。爰に於て保守的反動相期せずして起り、到る処に国民主義の勃興を来し、戦勝者たる仏国が益々軍備を修むるは言ふまでもなし、露国労農政府は依然として大兵を養ひ、平和主義の急先鋒たりし米国すら亜米利加第一主義を高調して在郷軍人会の組織及ひ活動を見、一時稍や左傾派の跋扈したる伊太利の如きもムツソリニーの鉄腕に由り国粋派空前の全勝を見た。蓋し斯くせねば恐らく大戦役後殊に重大なる其の国々の時局の急を救つて行けなんだであらう。本年に入りて英国にては保守党政府倒れて労働党の内閣出来、仏国にてはポアンカレーの国権派内閣倒れて稍や急進派なるヱリオ内閣之に代はり伊太利にては左傾派議員の身体紛失事件よりムツソリニー内閣に対する兎角の物議が起つた。併し右は何れも国内特殊の事情に由るもので
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其の燃え上りつゝある国民主義の根帯を揺がすものでない。
 翻つて我日本帝国を見るに、欧洲大戦後更に高まつた其の国際的位置に鑑み、進んで世界の檜舞台に出でては堂々一等国として振舞はねば成らぬし、退いて極東に於ては混沌たる諸般の緊急問題に付最も重き発言権を保持せねば成らぬ。然るに今や多年外交上に後援となつた日英同盟は解けて痕なく、華盛頓会議に於ては四面環海の帝国に取り特に重大の影響ある海軍の制限を約束し着々之を実行して居る。而して台湾も朝鮮も未だ新附の領土たるを免れざるに、西に接壌比隣する支那と露西亜とは火薬庫同様頗る物騒千万である。斯かる環境にありては縦令今日、米国議会で排日的移民法を制定し以て我が体面を脅かすこと無かつたとしても、尚且大いに国民主義を高調して益々挙国一致の実を固うせねば成らぬ。
 顧れば建国以来二千五百年の歴史中、文恬武熙上下挙つて三百年の泰平に酔ふて居た際に、突如として激烈なる外交難に遭遇したる幕末時代こそは実に空前罕古の難局であつた。当時憂世愛国の志士俊傑は雲の如く起り林の如く出でて、各々其の本分を以て君国に貢献した。就中其の雄大なる者の一人は東湖藤田先生であつた。先生は所謂『大号令』に由り、横に三百諸侯を打つて一丸と為し挙国一致以て外難に当るの大策を樹つると共に、縦には乃ち我国特殊の建国事情に鑑みて宝祚無窮、国体尊厳と云ふ千古不磨の鉄案即ち歴史的皇室中心主義に基ゐて之を運用せんとしたのである。先生の主義が如何にして欽定憲法の精神に入りしやは金子子爵の講演に於て諄々之を釈明し、其の主張が如何にして偉大なる明治・大正の我国を産むに与かつて力ありしやは是れ亦山川男爵の縷々説述せられし通りである。況んや其の為人至誠一貫鬼神を泣かしむるものありしに於てをや。
 先生不幸にして天寿を全うせず、安政二年の大震災に非業の最後を遂げられてより星移物換大正十一年の冬を以て足掛け七十年目になるので、吾等同人は法事代りに先生記念の大会を開き以て深く泉下の英霊を弔ふと共に、或意味に於ては時局の重大更に幕末にも優るべき大正の今日に於て、先生の遠大なる主義と高潔なる精神を偲んで見たいと思ひ、当時之を朝野の諸君子に諮つた所、幸にして諸方面より予想以上の熱烈なる賛助を得て、同年十一月二十五日午後東京会館に盛大な記念講演会を開くことが出来、席上金子・渋沢の両子爵の力籠つた講演を聴き、同夕同所に引続き晩餐会を開いて、席上江木千之氏等の烈公・東湖の史実に関する興味深い感想談があり、室田義文氏は東湖先生記念会を永続させたい希望を述べて来会者一同の賛成を得た。
 右の講演会に就き水戸家は特に宝庫を開いて、其の祖源義公に賜はりし霊元天皇の宸翰を初めとして、記念会に因んだる門外不出の珍品十数点を展観の為貸与せられ、圀順侯も亦臨席傾聴せられた。尚会長にして講演者の一人たりし渋沢子爵も亦水戸関係の珍らしい軸物や写本(「常陸帯」)等を出品せられた。之に現代諸名士の特に出品せられた遺墨及び其の寄贈に係る沢山の記念追悼の詩歌や語類を合せて、別室に賑しき展観を為した。其翌二十六日午後は、大日本私立衛生会館で更に東湖先生記念講演会を開き、緊張したる数百の来会者に対し阪
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谷・山川の両男爵、三上・金杉両博士の凱切な講演があつた。本書に収むるものは即ち前日及び当日の講演筆記である。
 右は何れも意外の成功であつたが、吾等同人は敢て之に満足せず、翌年秋冷の候を待つて更に大規模なる幕末志士の遺墨展覧会を開き、且得べくんば関係文献の出版をも為し、以て幕末混乱時代に於て吾等の父祖たる志士仁人の奉公殉国の念如何に熾烈なりしやを顧み、其主義精神を酌んで今日の時局に処する参考に供するやうにしたいと考へた。而して之を独り水戸の東湖先生に限ることなく、象山・松陰・景岳・南洲の諸先生を初めとし、一代の木鐸となりし幾多当時の先憂後楽の士に於ても之を試みたいと冀ふたのである。此は是れ決して保守反動の風潮を助長させんが為でなく、寧ろ其の反対に、恰も長途の競走を為す者が深い井戸より清新の水を浪々と酌むの必要ある如く、今日以後益々容易ならざる我帝国の内政外交に処して行く其の寸法を学び、其根気を養ふの一助となさん為であつた。
 然るに事志と違ひ、昨年九月突如とし勃発したる帝都の大震火災は是等一切の計画考案を葬り去つた。否其の手繙きなる東湖先生記念講演会の筆記をすら整頓して出版するのを妨げた、今や災後一年にして諸般の故障漸く除かれたるを以て、取敢へず爰に講演筆記を公刊し、併せて一昨秋計画当時の事情を叙することにした。
  大正十三年十月          東湖先生記念会発起人


東湖会講演集 川崎巳之太郎編 前付・第五―七頁大正一三年一〇月刊(DK490045k-0003)
第49巻 p.158-159 ページ画像

東湖会講演集 川崎巳之太郎編  前付・第五―七頁大正一三年一〇月刊
    記念会主意書及び賛成者
 我帝国が維新の隆運を啓きて、内は憲政の化域に躋り、外は列国と富強を競ふは、嘉永癸丑米艦来航し外交の難一たび発してより、先覚の士尊皇の大義を唱へ、志士身を殺し、仁人生を舎て、天日を挽き頽瀾を回したるの賜に由らずんばあらず。当時国論の木鐸となり、国民をして嚮ふ所を知らしめたるもの、首として指を我東湖先生藤田氏に僂せざるを得ず。
 先生豪邁の資、経国の識、能く烈公を輔け、大勢に鑑みて藩政を改革し、天下の範となる。一朝讒を蒙り幽閉の厄に遇ふや、満腔の熱血迸りて正気歌と為り、回天詩史となり、常陸帯となり、弘道館記述義となる、到る処の志士仁人風を聞て起てるもの豈偶然ならんや。
 既にして烈公寃釈け幕政に参与するや、先生戸田忠敬と共に其帷幄に列し、内は幕政を革新し外は万国対峙の策を講じ、我帝国の為に万世不抜の基を建てんことを期せり、海防案及大号令に関する努力の如きは其一端のみ、而も俗論紛々回天の策未だ成らざるに、其身震災に惨死す、豈啻に先生の不幸のみならんや。
 然れども維新の大業は、原を源義公率先唱道の尊王論に発し、後先生の踔励風発、烈公を輔佐して国論を指導し士気を鼓舞したるに由るもの尠しとせす、宜なる哉 明治大帝之を照鑑せられ、憲法発布に際し特に先生に正四位を贈られ、翌年更に使臣を派して祭祀の御沙汰を賜はり、未亡人里子亦照憲皇太后の寵召を蒙り、優渥なる御沙汰と恩賜とに浴したるや。
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 顧みるに世界大戦の結果欧米思想界の劇変を招き、余響東方に波及して人心射倖征利に走り、奉国殉公の念日に消磨し、青年子弟動もすれば赤化的風潮の浸潤するあらんとす、是れ識者の斉しく浩歎禁ぜざる所なり。
 是に於て同志胥謀り東湖記念会を組織し、祭典を挙げ遺墨展覧会を催し、漸次に講演会並に遺著出版の業に及ぼし、先生の雄魂を慰すると共に聊か社会風教に貢献する所あらんと欲す。
 是近仏国のジヤンダーク祭を企て、米国のリンコルン記念館を建て更に国歌作者キー記念祭を営み、大統領親から式に参列して之を奨励せるが如き、列強の如何に国民的精神の頽廃を憂へて之を鼓舞作興するに努めつゝあるかを想見すべし、本会組織の微意亦此に存す、意を経世に留むる大方諸公、冀くば此志望を諒として賛襄の栄を賜はらんことを。
  大正十一年十一月

    △発起人
  杉浦重剛   床次竹二郎  細川潤次郎
  金杉英五郎  室田義文   菊地慎之介
  朝比奈知泉  西野元    大山鷹之介
  井坂孝    高橋義雄   小久保喜七
  飯村丈三郎  根本正    塩沢昌貞
  福原脩    宇田尚    川崎巳之太郎
  野村喜八郎
    △賛成者
  渋沢栄一○以下二一三名、氏名略ス


東湖会講演集 川崎巳之太郎編 第五六―五七頁大正一三年一〇月刊(DK490045k-0004)
第49巻 p.159 ページ画像

東湖会講演集 川崎巳之太郎編  第五六―五七頁大正一三年一〇月刊
 ○記念講演会及晩餐会の状況
    東湖先生七十年祭
      東京会館に於ける追悼会
 東湖先生七十年記念追悼会は廿五日○大正一一年一一月午後二時より東京丸の内東京会館に於て開会さる、発起人側より杉浦重剛・室田義文・床次竹二郎・金杉英五郎・飯村丈三郎・塩沢昌貞・井坂孝・西野元・小久保喜七・根本正・川崎巳之太郎等諸氏、来会者には徳川圀順・渋沢栄一・金子堅太郎・江木千之・長岡外史・上山満之進・朝比奈知泉・佐藤鉄太郎氏を始め朝野各方面の名士二百余名に及び、水戸旧藩士等参会し、金杉副会長開会の挨拶を述べ、次て会長渋沢子爵・金子子爵の追憶談あり。来会者に多大の感動を与へた。
    記念晩餐会
 午後六時より晩餐会に移り、宴後室田義文氏は弘道館在学当時の事を述べ、江木千之氏は東湖先生と共に会沢先生に就て語り、又名越時孝翁は東湖先生の晩年に就て、先生が烈公に従つて愈幕政参加の大事業に就かんとせる際震災に罹りて最後を遂げられたるは実に日本の為め大痛惨事たりしを語り、稀に見る厳粛敬虔の気に満ち会を閉ぢた。

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東湖会講演集 川崎巳之太郎編 第一―八頁大正一三年一〇月刊 開会の辞 子爵渋沢栄一(DK490045k-0005)
第49巻 p.160-165 ページ画像

東湖会講演集 川崎巳之太郎編  第一―八頁大正一三年一〇月刊
    開会の辞            子爵渋沢栄一
 今日○大正一一年一一月二五日当館に於て東湖先生の記念会を開かれたに就て、私は玆に開会の趣旨を一言申述べるの光栄を担ひます。
 私は藤田東湖先生と何等直接の縁故は持つて居らぬのでありますけれども、発起者の推薦に依つて、図らずも此会の司会者の位置に立ちましたから、開会の辞として、私が先生に対する感想を記憶に委せて玆に申述べたいと思ひます。
 水戸学が徳川幕府の末路に当りて国家の機運を作興して王政の復古を翼けたことは、今日更めて私の喋々を俟たぬのであります。而して水戸学の起源は水戸藩祖の尊王心より胚胎せられたものであつて、単に東湖先生のみを以て水戸学を論ずる訳には行きますまい。けれども天保以降嘉永・安政の頃に東湖先生が水戸に於て大義名分を唱道して皇室に対する幕府の態度に深い注意を払はれたことは、種々なる歴史が証明して居ります。惟ふに水戸は藩祖の威義二公、又は維新前には烈公等の各名臣《(君)》が在らせられて、追々に其の御家風を発揚されたのであります。殊に外国関係の起つて以来、我が東湖先生は別して此点に注意されて、朝幕の間に在つて所謂大義名分を明にすることに力を尽されたお人と私は確信して居ります。
 元来私は埼玉県での農家に生れて、深い学問を致した訳でもありませぬので、特に東湖先生に学んだなどと云ふこともありませぬ。去りながら少年の時分に私が漢籍の素読を受けたのが私の居宅に近い村塾で、私より十年の長者であつた尾高惇忠と云ふ人でありました。此尾高は少年より水戸学問を好むで十五六歳の頃烈公の追鳥狩を拝見しました。
 此の追鳥狩と云ふのは、閲兵調練の方法で、烈公は鎧を着し馬に跨つて之を統監されました。当時の世の中は泰平の余弊を受けて、幕府を首め、諸藩共に、武家が淫靡に流れ、驕奢遊蕩の風に染つて居つた際でありましたから、烈公は痛く之を慨し、斯様な時勢を矯正して士気を鼓舞振作する為に、此の実物教訓をなされたものと見えます。其後も此追鳥狩は水戸藩年中行事の一として、毎年三月頃に行はれたやうに聞いて居ります。私の素読の師は当時未だ十五の少年でありましたが、夫れを拝見して深く感激し、成程斯様でなければ成らぬと云ふ観念が、余程強く頭脳に這入つたのでありませう。此事を談する時は実に慷慨淋漓、満腔の熱血を以てしましたから、私共も亦非常に感動したのであります。
 追鳥狩の事は天保の末から弘化の始でありましたが、軈て嘉永六年には亜米利加から「コモンドル・ペリー」が来朝し、玆に外国との接衝が始まりましたから、当時の一般の人心は針で刺されたやうな感じを与へられて、烈公の御企図の通り日本が泰平の夢を貪つて居ることが出来ぬと云ふことを覚つて参つたのです。此有様が農民たる私共をも深く感化したのであります。未れ故に私共は我が日本は到底此儘にしては居られぬ。烈公若くは東湖先生の主義、即ち水戸学に依つて国
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政の建直しを致さなければならぬと云ふやうな意念が起りまして、詰り水戸学は自然と日本に於て最も時機に適するものだと思つたのであります。況んや水戸藩祖よりして皇室に対して尊崇の念が強かつたのであります。
 次に述ぶることは或は事実でないかも知れませぬが、水戸義公は常に家人又は臣下に示されるには、万一にも後日幕府が朝廷に対して臣節を奉ぜぬやうな場合が起つたならば、水戸藩は「大義親を滅す」と云ふ覚悟をせねばならぬと内訓されたと云ふことを、私は聞込んで、其頃尊王攘夷に熱中する私共は益々水戸学を崇拝すると同時に、烈公の人と為りを深く欽仰し、併せて東湖先生を敬慕し、其の著作の常陸帯や回天詩史抔を愛読したのであります。常陸帯は烈公が水戸家御相続当時からの有様を記事体に書かれた二冊の書籍であります。又回天詩史は一篇の七言古詩でありますが、実に先生の艱難辛苦を吟詠された深い意味を含んで居るものであつて、私は今日も尚之を暗誦することが出来ます。――
  三決死矣而不死、二十五回渡刀水、五乞間地不得間、三十九年七処徙、邦家隆替非偶然、人生得失豈徒爾、自驚塵垢盈皮膚、猶余忠義塡骨髄、嫖姚定遠不可期、丘明馬遷空自企、苟明大義正人心皇道奚患不興起、斯心奮発誓神明、古人云斃而後已、――
 左様に先生を欽慕して居りましたけれども、私は前に述べた如き農民で素より深い学問もなく、又水戸に遊んだこともありませぬので、終に藤田先生の謦咳には接することが出来ずに仕舞ひました。
 併し時勢は私の如き者にも郷土に晏居して居ることを許さず、終に二十四歳の冬、意を決して自分の家を出て、所謂浪人境遇になつて京都に遊び、続いて水戸に縁故ある一橋慶喜公、即ち烈公第八番目のお子様で一橋家を相続為さつた方の家来となりました。夫れは元治元年の二月のことであります。時恰も世間が騒然として或は兵を養ひ、兵器を備ふるの必要を生じ、私は関東に趣き志士を募つて一橋家に推薦すると云ふ内命を受け、其の人選の御用を帯びて関東へ下りました。夫れが元治元年の六月頃でありました。其時に東湖先生の四男藤田小四郎君に面会せむと希望しましたけれども、同君は既に水戸藩を脱走した後でありました。但し私が藤田小四郎君に会ふたのは是れより先きに、私が浪人にて未だ京都に上らぬ前、即ち文久三年の秋頃一度会見しました。夫れは竈河岸の宮和田又左衛門と云ふ撃剣家の紹介であつた、続いて春日町辺の割烹店でも会いました。小四郎氏は私よりも二歳の年下でありました。故に私が当時二十四歳であつたから、氏は二十二歳であつたと思ひます。年少なれども才気煥発で、実に愉快な畏友であると思ひました。其時の談話に私は頻りに尊王攘夷を唱へて水戸藩の人々を寧ろ鼓舞刺激する了見で、吾々農民が別に縁故の無い身柄でありながらも、国家の大事と思ふて斯くの如く身を捨て事に当らうといふ赤誠を有して居るのに、水戸は代々勤王を唱へ大義名分の明かなる藩風でありながら、殊に東湖先生の如き巨人もある、而して貴下は其の御子である、然るに何も為さずに単に議論ばかりして居ては相済まぬではないか――と云ふやうなことを論じたのであります。
 - 第49巻 p.162 -ページ画像 
併し此の会談は決して攻撃的の議論ではなく、共に世を憂へ時を慨する酒間の時事談であつた。小四郎氏は其時既に筑波挙兵の下心はあつたかどうか、兎に角未だ確定せられなかつたやうな感覚が私に残つて居ります。
 種々の談話の末、小四郎氏は私に対して、君方は吾々を水戸藩だから何か為せるだらうと容易く希望せらるゝけれども、君方が民間に在つて為せぬと同様に、水戸藩士だと云つても天下の大事を左様に軽易に為せる筈はない。と云つたやうな弁解的の言辞があつたやうに覚えて居ります。併し他日必ず何か発表するから見給へ、国家の為め必ず報ゐる事あるべしと云ふやうな、堅い決心が酒間談笑の裏に蔵せられてあつたやうに思ひます。
 右様なる関係から私は其の翌年一橋の家来となつて人選の為め京都から遥る遥る江戸へ下つて来た時に、何うかして小四郎氏と会ひたいと思ひ、其の消息を尋ねましたけれども、当時同氏は既に筑波山へ行かれた時であつた。其頃穂積亮之助と云ふ人がありました。是は常陸の人で神職であつた。又関宿領内の真弓と云ふ所に川連小一郎と云ふ人がありまして、小四郎氏と大分懇意にして居られて、筑波挙兵以後の景状を詳細に私に話されて、自分も終には共に死なねば成らぬと言ひました。其の人が筑波に往復して、私が関宿在なる一橋の領地巡回の際に、小四郎氏の消息を齎らして、私にも筑波に来れと言つて寄越したことがありましたが、私は一橋の家来だから、遽かに脱走隊に這入る訳には行かぬ故に残念ながら其の招集に応ずることは出来ぬと断つたのであります。其年(元治元年)の夏小四郎氏は筑波を発して水戸方面に向ひ、各所に転戦の後其の冬遂に中仙道に出て漸次越前敦賀に向つた時に、一橋は幕命に依つて、水戸浪士の京都へ這入ることを差留めねばならぬ位置に立ちて、そこで小四郎氏が武田部隊の兵を率ゐて京都に入るを防ぐために、其年の十二月一橋慶喜公は、民部公子を先鋒として江州海津迄進発されました。是等の事共は前後錯雑して明瞭に私の記憶には残りませぬが、要するに当時敦賀表へ押し寄せたのは、武田耕雲斎・藤田小四郎其他の諸隊で、総勢七・八百人許りの人数でありましたらう。而して是等諸隊の兵は沿道の各藩に沮まれ、或は北国名物の積雪に悩まされ、殊に長日の遠征疲憊した後に一橋の軍隊から喰留められたので、之に敵対も致し難い所から、已むなく其の軍門に降服されました。
此の降服後の処分がよもや其時の虐殺的斬罪に処せられる抔のことは無からうと思ひましたが、実に意外の厳罰を受けたのを私共は驚嘆しました。又一橋公に在つても私情に於ては万々助けたかつたのではありましたらうが、幕府より田沼玄蕃頭が来て、右は幕命によりて一橋より田沼の手へ移され、主なる者三百五十余名は皆敦賀で斬られて従なる者四百六十余人は流刑又は追放となりました。其際私は一橋家の重役であつた黒川嘉兵衛と事《(云)》ふ人の秘書役の位置で従軍したから、何とかして小四郎氏を助けたいと、蔭ながら頻りに心配は致して見たが実際上何等力の施しやうもなくして、恨を呑んで傍観したので、終に小四郎氏と幽明相隔つることに成つたのであります。
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 東湖先生との関係を辿れば、更に今一つ私の厚い御世話を受けた人があります。夫れは原市之進と云ふ方で東湖先生の高弟である。今玆に記憶を辿つて其の人の事を述べますれば、原氏は其名を仲寧と称し水戸弘道館にて学を修め、東湖先生の姻戚であつた。且水戸藩でも相当な位置に居り、文久三年の春、水戸中納言に随従して京都に上り、其後一橋家に聘せられて慶喜公に眤近し以て其の帷幄に参した人であります。当時私も一橋家の家来であつたから、先輩として時々触接したのであります。慶応二年七月家茂公薨去され一橋公が入つて征夷大将軍の職を相続することになつて、一橋家の重臣であつた原氏は一躍幕府の御目附と云ふ位置に立ち、君公に親しかつたので、本職は御目附であつたが、一橋家に在つた時と同じく帷幄に参して居つたことと思ひます。
 此の一橋公の将軍家御相続に付ては、当時私は全然反対でありました。何故さう云ふ意見を持つたかと云ふに、向後幕府の維持は到底六づかしい。必然倒壊するに相違ない、故に慶喜公御自身の為を図れば其の倒れるに際して相続するは自ら倒れると同様である、何を以て其の如き事を為さねば成らぬのであるか、今日の時勢は最早や幕府を必要とせぬ、然るに今遽かに将軍となるとは真に其の理由を解することが出来ぬ、原氏なども居りながら何故之を諫争せられぬかと、頻りに原氏に対して論じましたが、他に余儀ない事情があつて、私共の反対は効を奏せずして終に将軍となられたのであります。是れは程経て私が親しく慶喜公に伺つて始めて疑団が解けたのであります。而して其時の公の御心事は実に言語にては現はし得られぬ程の深遠なるものでありました。
 原氏は前に申した通り慶喜公の帷幄に参じて居られたが、私は位置が低いから幕府の表方役人で殃々として楽まずと云ふ境遇に居つた。然るに慶応二年の冬、私は突然原氏から喚ばれて内談を受けたが、其の趣意は
  今度幕府より民部公子を仏蘭西の博覧会に大使として御遣はしになる。仏蘭西の博覧会には各国の君主若くは其の名代が参列して式典を挙げられるから、日本からも大使を出して呉れと仏帝から言つて来られた。是を以て民部公子を使節として出すことに成つた。而して今日は最早や攘夷の時代ではない。遺憾なく外国の事情を知らねば成らぬ。独り知る許りではなく充分に学ばねばならぬ。故に博覧会の式典が済んだ後は、此機会を幸ひにして、是非共少くも五年位は仏蘭西に御留学としたい。公子の御齢は未だ十四歳である。二十歳迄御学びに成つたならば、相当学問も修められるであらう。さうして日本に御帰りで其の智識を日本の政治に使はれるやうにしたい。併し今日は海外へ多くの人を出す訳には行かぬ。水戸からは七人の扈従を附けられるが、其の人々は攘夷論者ばかりで、海外の事を学ぶは日本男子の潔しとせざる所なりと云ふて居る。夫れでは民部公子をして十分に彼に親しんで修学致させることが出来ない。そこでお伴として誰彼と其の適任者を
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物色して見たが、余り年老いた者ではいけぬ。夫れにしては未だ位置こそ低くけれ、渋沢と云ふ男は元来は攘夷論者であつたが近頃は海外の学を修むる心があると聞く。依りて此際渋沢を随行させたが宜しからうと云ふお話であつた。……
是れは慶喜公が左様に思はれたか、又は原氏の考かは分明せぬが、原氏の言はるゝには、
  兎に角に左様な次第であるから、君は只今位置も低いが、君のやうな者を附けてやつたら将来の準備となり、万一の場合に用立つことにもなるだらうと云ふ考であるが、君は今此の内命を奉じて海外に行く気は無いか。
との内談であつた。従来私の攘夷論者であつたことは、原氏も能く知つて居られたから、頗る懸念しつゝ、君はどう感ずるか知らぬけれども、公子のお為は勿論のこと君の身に取りても行末は大に利益となるであらうと云ふ前置で懇々と内談があつたので、私は一議にも及ばずして即坐に受けて仕舞つた。夫れは誠に以て時機に適する御措置である。遉に我が君公である。実によい所へお気が附かれた。私は才学も少く且卑職に在りと雖も、私を御随行せしめたら宜からうとの御内命は百万石の領地を拝領したやうな心地が致します。真に喜ばしくお受けします。と云ふ私の返答を聞いて、原氏は予想に違つた即答に驚いて、君は真実にさう思ふのかと反問されたから、私は、無論である、真実喜悦して御受けするのである。何等の考慮すべき余地は無い。宜いと云ふたら確に宜しいのであると決答すると、原氏は愈々驚いて、是れは真に意外である、僕は君が或は辞退するであらうと思つて実は懸念したのである。想ふに君は年来頑固なる攘夷論者であつたから、若し辞退したら、百方説得しやうと思つたのである。然るに意外にも即坐に承諾とは其の理由那辺にある歟との質問であつたから、私は之に答へて、今日となつては外国に学ぶより外は無い。学ぶときは充分に之を修学せねば成らぬ。此故に私は旧来の持論を棄てゝ翻然大悟して将来真に勉学して帰朝しますと答へると、原氏は莞爾として夫れなら誠に良かつた是非に頼むと云つて訣れたのが慶応二年の十一月末でありました。
 其時原氏は私に言ふに、此内命を受けたのが実に気に入つたから送別の為に一つ書いてやると云ふて、韓退之の文章送殷員外使回鶻序を絹本二枚に書いて私に呉れました。是は君の態度が能く殷員外郎に似てゐるからと云つて貰つたのでありますから、私は之を好箇の紀念物として今日も保存して居ります。さうして私が海外出発の後、原氏は京都で刺客の為に殺されて仕舞ひましたのは何たる惨事でありましたらう、私は外国で之を聞知して真に暗涙に沈みました。
 以上述べましたことは、東湖先生に対しては何れも間接な話でありますが、令息の小四郎氏と時事を談じ、高弟の原氏より厚遇を受けましたのは、尋常一様の人と異り畢竟するに東湖先生の流を汲んだ者として、私は此席に於て直接の事柄でこそ無けれ、事実東湖先生の環境から起つたことを申述べた次第であります。右は先生を御追悼する趣旨にも適して記念の一資料とも思ふので、玆に東湖先生の記念会に図
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らずも推されて司会者の位置に立ちたるを名誉と致して二・三の懐旧談を試みた次第であります。


東湖会講演集 川崎巳之太郎編 第五三―五六頁大正一三年一〇月刊(DK490045k-0006)
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東湖会講演集 川崎巳之太郎編  第五三―五六頁大正一三年一〇月刊
    記念講演会及晩餐会の状況
 大正十一年十一月二十五日午後二時東京会館に開きたる記念講演会に於て、徳川圀順侯以下約二百の来会朝野名士に対し、金子堅太郎子は、其の少時東湖先生著述の弘道館記述義を読んで深く我国体の真価を学びたる為、後年伊藤公を輔佐して憲法草案起稿の大業に参与するに際し、如何に我憲法の根基なる国体論に貢献するを得たりしやを詳述し、剰さへ右の如く貴重なる弘道館記述義をば、今日も尚漢文教科書として一般学生に読ましめたしとの希望を述べた、渋沢栄一子は、其の少壮時代に東湖先生の次男小四郎氏と数次会合したる往事を追憶し、子を擢用して、折柄将軍代理として遠く巴里博覧会に差遣せられたる徳川昭武公の随員に加はらしめ、偶然外遊の機会を与へて、子一代の新運命を開拓するに至らしめたる恩人原市之進(水戸藩士にして慶喜公の重臣)の史実に及び、声涙共に下りて多大の感動を来会者に与へた。
 当日の模様に就ては都下及び水戸方面の諸新聞に委しい記事が出たが、左に一班を紹介する。

      東湖七十年祭
 伝ふる所に拠ると渋沢・床次諸氏の発起で藤田東湖七十年祭が挙行せられ、東京では今明日記念晩餐会・講演会等が催され、金子・渋沢阪谷・山川・三上諸氏の講演が行はるるとの事である。吾人は此際に当つて聊か所感を吐露して置きたいと思ふ。
 顧るに藤田東湖は幕末に於ける俊傑の一として、人も我も熟知する所、今更紹介する迄も無いけれど、兎に角、其の文化三年三月に始まり、安政二年に終つた五十の生涯を検すると、後人をして景仰措く能はざらしむるものが多いのである。その当時として気概と言ひ、学才と言ひ、見識と言ひ、実行力と言ひ、東湖程の人物は少なかつたのであるが、其の僅に二十四歳の時、水戸藩襲封問題で難を冒して烈公の為に尽瘁したる忠節、次て有名な弘道館の創設に於ける実際上の首脳者として教育に尽したる功労、孰れも特記せざるを得ぬ所である。併し吾人が東湖に推服する所は、先づその勤王を鼓吹すると共に、我国の挙国一致、各藩を超越する国民的一致を図り、以て我国の維新の大業成立の根礎を造つたことであらねば成らぬ。次に東湖が至誠の人であつたことであらねば成らぬ。西郷隆盛などが痛く東湖に傾倒し「吾れ先輩に於て藤田東湖氏に服し、同儕に於て橋本左内を推す」と称して居たのも此二点に在つたことは疑を容れない。
 吾人は見識と至誠とを欠いて居る我国の政治家等に対し、此際大いに東湖の如き人物を回想し、之に学ぶ所あらんことを熱望するものである。     (大正十一年十一月二十五日、東京朝日新聞社説)
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      東湖の遺徳を記念すべく
        諸名士が集まつて記念講演
 水戸の烈公を補けて彼の維新の大業の緒をひらいた藤田東湖先生が安政二年の地震の為に斃れてから今年は六十九年になる。維新以来五十五年、漸く変化し来つた世態は欧洲大戦の後に於て一層著しくなつて、ややもすれば浮薄の人心赤化に傾く風があるを見て、曩に渋沢子爵其他の有志が東湖記念会を組織して東湖の霊魂を慰めると共に社会風教に貢献しやうと、左しあたり東湖の命日に当る廿日を繰延べて二十五日午後二時から丸の内東京会館に記念講演会を催した。
 先づ渋沢子爵の挨拶に次て金子堅太郎子は「東湖先生の感化」と題して其の人格識見を激賞し、渋沢子も例の雄弁を以て感想を述べた。発起人側としては床次前内相・金杉英五郎・西野大蔵次官・小久保喜七・根本正其他諸氏、又来賓としては清浦子・浜尾男・岡野法相・山川健次郎男・阪谷芳郎男其他百余名が参列して講演に耳を傾けた。
 其他東湖が塾を開いた時塾生として親しく訓育を受けた人の子息や孫達が態々水戸から出掛けて来て居たのが目を惹いた、夫れから引続いて床次副会長の司会で記念晩餐会を六時から同所に開いて席上数氏の感想があつた。(下略)(大正十一年十一月二十六日、中外商業新報)

      潜水艇は日本が元祖
       諸名士の出席百五十余名
        藤田東湖の記念会
 渋沢子爵の会長で床次竹二郎・金杉英五郎両氏が副会長で成立した水戸藩の碩儒藤田東湖先生の記念会は、二十五日午後二時から丸之内の東京会館で開かれた、列席名士は江木千之・杉浦重剛・塩沢早大学長・入沢東大医科部長・岡田医学博士其他百五十余で、二つの大ホールに東湖先生に関する書画文書数十点を陳列して縦覧させた。中に
 △門外不出 の珍品として霊元院帝宸翰、後西院帝宸翰(義公へ下賜)及び衣冠束帯の義公・烈公四十三歳時代の甲胄騎馬の大幅肖像画に東湖先生の讃あるもの、和洋両画の東湖先生像、徳川慶喜公和歌、東湖先生肉筆の「正気の歌」などが異彩を放つた。
 △開会劈頭 金杉博士が一場の挨拶を述べ、夫れに次て渋沢・金子両氏の講演あり、金子子は
  私は筑前の藩校に学んで国事には奔走しなかつたが、東湖先生の弘道館述記義には非常な感化を受けた。私は同述義許り音誦した為め朱子学の異端者として排斥せられ、師匠に叱責された事がある。皇祚無窮なれば国体玆に尊厳なりとある一齣は私が漢学より国学、英学と進んだ後までも偉大なる教訓として服膺した。此一文は正に明治維新の大業を遂げた水戸学の精髄である
と述べた。斯くて後一同は食堂に入り
 △江木千之 老は述べて云ふ
  私は明治二十九年茨城県知事として水戸に趣いた。水戸学は兎もすれば米を喰つて頑固な事許り論じて居るものの如く思はれて居るが、実は精神修養と知識の開拓に最も奮闘した学風である。当時常
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磐神社にあつた烈公の反古の中には、大きな紙に潜水艇の設計図や大砲の実物、短刀に仕入んだピストルなどがあつた。
  維新から何年前には西洋でも未だ潜水艇製作の計画などは無かつたと思ふ。烈公は実に開国主義者の先駆で、同時に文明生活の率先者であつた。朝は牛乳を呑み且冷水摩擦等をやつて居られた。
  要するに東湖を知らんとする者は同時に会沢先生や烈公を知らざる可からずと
 尚次に二・三子の卓上演説があつて午後八時半散会。(下略)
        (大正十一年十一月二十六日、朝刊国民新聞)


東湖会講演集 川崎巳之太郎編 第五七―五八頁大正一三年一〇月刊(DK490045k-0007)
第49巻 p.167 ページ画像

東湖会講演集 川崎巳之太郎編  第五七―五八頁大正一三年一〇月刊
 ○記念講演会及晩餐会の状況
    記念展観
 当日別室に於て先生の遺墨、水戸家・渋沢家等の所蔵貴重品並に現代名士の詩筆展覧を為し来会者一同は熱誠に之を観覧せり、左に杉浦重剛氏其他二・三氏の寄せらるゝものを採録せん
      東湖先生記念会賦供
                     杉重重剛《(杉浦重剛)》
 遺墨伝観感慨多、当年辛苦想如何、毅然今尚支風教、
 一脈神州正気歌
      東湖先生記念会恭賦一詩
      以代蘋蔬           南甲賀人
 天地正大気、塊然生巨物、范韓従措揮、伊呂可髣髴
 刀水源迢々、筑峰神鬱々、乃教遺烈長、百世護哀蔽、
 (記者曰南甲賀人とは金杉英五郎博士也)
     藤田東湖先生を憶ふ
                      小笠原長生
 国のため尽しゝ君のまこゝろはとし経ていよゝひかりをそ増す
      追憶東湖先生
                      清浦奎吾
 天賜名君以尽臣、一藩風気日清新、勤王志士如星衆、
 真伯斯人是北辰、
      東湖祭所感
                     箕浦勝人
 回天鴻業偉、唱首功遺墨、有霊美極翻風


東湖会講演集 川崎巳之太郎編 第五八頁大正一三年一〇月刊(DK490045k-0008)
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東湖会講演集 川崎巳之太郎編  第五八頁大正一三年一〇月刊
 ○記念講演会及晩餐会の状況
    私立衛生会館に於ける講演会
○上略
 当日東京会館に於ける記念会に展覧用の為秘庫を開いて門外不出の珍品を貸附せられしは
 ○水戸家 霊元天皇の源義公に賜はりし御宸翰、義公・烈公の画像
    其他十数点
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 ○渋沢栄一子「常陸帯」筆写本及び水戸家の秘訓(公武相合はさる時は寧ろ弓を宗家たる徳川幕府に挽くも朝廷の為粉身すべき旨)
  軸物
 ○高橋是清子 東湖先生遺墨
 ○金杉英五郎氏 烈公の戯画及び東湖先生の借金証文其他関係書類数十点
 ○井坂孝氏 東湖先生の親友立原杏所の画幅
 ○吉田氏 東湖先生遺墨「正気歌」の大幅物
 ○東京市水道局員某氏 烈公着用の肩衣
  外数氏にてありき。
○下略