公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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大正12年6月7日(1923年)
是日栄一、浅野総一郎氏寿像建設会会長トナル。同十三年五月十八日横浜市子安ケ岡ニ於テ、同寿像除幕式挙行セラル。栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。
浅野総一郎翁寿像建設之経緯 橋本梅太郎述 第八―二七頁 昭和一〇年八月刊(DK490067k-0001)
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浅野総一郎翁寿像建設之経緯 橋本梅太郎述
第八―二七頁
昭和一〇年八月刊
浅野総一郎氏寿像建設会趣意書
浅野総一郎氏は徹頭徹尾奮闘努力の人である、嘉永元年越中国氷見郡藪田村、医泰順氏の長男に生れ幼にして医術を修められしが、長ずるに及び翻然実業を以て身を立てんと志さるゝに至つた。斯くて明治四年齢廿四にして東京に出で先づ「冷つこい水」の行商を始められてより、今日遂に二十有余大会社の重役として我国実業界に重きをなすに至るまで、五十年の日月は一念只佶々として産業の発達、国富の増進に向つて奮闘努力して来られたのである。其の間には事志と違ひ事業の蹉跌を来した事も一再にして止らなかつたが、同氏渾身の英気は一難を経る毎に更に猛威を加へて何物の障碍と雖も其の前進を妨ぐる事は出来なかつた、其微職より起つて事業界に今日の大をなしたのも畢竟此不撓の精神と真摯なる努力の賜に外ならない、今や同氏は齢既に古稀を過ぎ其経営する各種の事業亦着々大成の域に向つて居るけれ共、同氏は更に一瞬の安逸を貪ることもなく黎明より深夜に至るまで尚ほ孜々として努力を続けられて居る、而して氏は常に此奮闘努力は其定紋である半開の扇子が遂に開き切る迄は、一刻と雖も止むることはないと言つて居られるが、此一事に就て見るも同氏の精力の偉大なることが知らるゝ、されば玆に吾等発起人となりて浅野総一郎氏寿像建設会を組織し、同氏の夙夜勤勉倦むことなき奮闘的精神に感ずる人人と共に、其寿像を横浜市子安在浅野綜合中学校構内浅野公園計画地の一角と、並に同氏生国富山県氷見町とに建てる事とした、是偏に同氏の奮闘主義を天下に紹介し努力の権化たる其風貌を永く後世に伝へんと欲する志に外ならない、冀くば世の同氏を識ると否とを問はず、苟も奮闘以て身を立て志を遂げんと欲するの士は奮つて此挙に賛意を表せられんことを。
大正十年八月廿五日
発起人(イロハ順)○略ス
賛助員(イロハ順)
子爵渋沢栄一○外二七三名略ス
会則
第一条 本会ヲ浅野総一郎氏寿像建設会ト称ス
第二条 本会ハ本会々員ニ由ツテ浅野総一郎氏ノ寿像ヲ横浜市子安在
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浅野綜合中学校構内浅野公園計劃地ノ一角ト、並ニ同氏生国富山県氷見町トニ建設シ、永ヘニ奮闘努力ノ権化タル同氏ノ風貌ヲ後世ニ伝フルヲ以テ目的トス
第三条 本会ハ浅野家一族、浅野家経営又ハ関係ノ会社・銀行・学校病院等ノ社員及使用人並ニ浅野総一郎氏ノ努力主義ニ共鳴スル一般ノ士ヲ以テ組織ス
第四条 一般会員ハ別冊名簿ニ記名シ、寿像建設資金トシテ一時限会費金二十銭ヲ醵出スルモノトス
第五条 本会ハ本部ヲ東京市麹町区永楽町壱丁目壱番地ニ置キ、必要ニ応ジ内外各地ニ出張員ヲ置ク
第六条 本会ハ左ノ役員ヲ置キ各々部署ヲ定メテ本会ノ目的ヲ貫徹ス
会長 一名 委員長 一名
委員 若干名 幹事 若干名
会長ハ本会ヲ代表シ、委員長ハ全般ノ事務ヲ統轄シ、委員ハ各自分担ノ事務ヲ執リ、幹事ハ一般実務ニ当ル
第七条 本会ハ役員会ノ決議ニヨリ内外知名ノ士ヲ賛助員ニ推戴スルコトアルべシ
第八条 本会ノ会計ハ委員長ニ一任シ、目的貫徹後ニ於テ収支決算ヲ作リ、新聞紙ヲ以テ之ヲ一般会員ニ報告ス
昔から壱万人塚と云ふことはあるが、これは二十五万人の人に依つて出来たもので寿像の土台石の廻りの銅板に二十五万人の人名を全部刻み込んである、外国人も共鳴し喜んで会員となつた。これは社長に徳望がなければ到底出来ないことである、私は自分の仕事の余暇を割いて、何等顧慮する処なく上流社会の人々に此の計画の話をして賛成を需めた、又或は会社に使はれて居る人、それから社長の関係ある会社の近所の人々に此の企の話をすると、皆浅野さんの奮闘努力……老年に至るまで毎日労苦を厭はず働いて居らるゝことは我々子々孫々まで模範にしなければならぬ、現に其の奮闘振を自分が目撃して居るからと云ふて二十銭――一人二十銭しか寄附を受けなかつた――それを喜んで寄附して呉れた、それが合計二十五万人、そして寿像が出来上つた次第である。如何なる人でも銅像を作る様な場合、大抵、寄附金に付ては思ふ様に行かず、種々の困難が起り、結局嫌や嫌やながら御交際に出すと云ふのが多い様だが、社長の寿像は二十五万の人総べてが心の底から喜んで二十銭を寄附されたのである。
それで、其の時、私は自分達ばかりで建てた寿像は如何にも光輝が薄い様に感じたから、除幕式を行ふ少し前に渋沢子爵に会長になつて戴くことを頼んだ処が「自分は一体、銅像や寿像は嫌ひだ、それは元来、世間で銅像や寿像を作る為めに、縁故を辿つたり、知名の士の紹介を得て、多額の寄附金を募ると云ふ風習がある、寄附の依頼を受くる方でも銅像を作つて貰ふ人に大して理解がないにも拘らず、義理に迫られ、又強要に余儀なく、心ならずも寄附をする、そして、辛ふじて其の銅像や寿像が出来上ると云ふ例が能くあるからだ、だが、君が浅野の寿像を建設すると云ふ主意は全然之と異り、零細な自発的の寄
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附に依て、浅野の奮闘努力を永久に記念する事は非常に賛成で、自分自身も此の浅野の偉績を後世に遺し置きたいと考へるから、喜んで会長になり、そして除幕式に臨む」と言ふて快諾され、当日欣然として臨場された次第である。尚一層の光輝を添へる意味に於て、実業界より大川平三郎氏、官界より内田嘉吉氏に副会長就任方を依頼したる処両氏共零細なる寄附金を醵集して浅野社長の巨大なる寿像を建設する事に頗る賛意を表せられ、直に快諾せられた。
如上の事実は、寿像建設敷地の一角に会長・副会長の名を印刷したる銅碑を建て以て永久に伝へ置いた次第である。
尚渋沢子爵家から態々執事を通して相当金額の寄附をしたいと云ふ申込を受けたけれども、必ず一人から二十銭宛寄附を仰いで居る故、御厚意は私共実に忝く感じて、又浅野家として、子爵家から斯の如き寄附を受くることは、誠に光栄とされることだと信じたけれども、一人二十銭づゝ二十五万人より醵金した趣意から円滑にそれを御断りした、其の時も子爵は非当《(常)》に感心されて、二十五万人の各人より零細な金を集めて此の偉大なる寿像が出来たことは、誠に本人の徳がなければ出来ることではない、又本人の奮闘努力を心の底から感じなければそして君の熱誠がなければ、此の大計画は成功しなかつたのである、と言ふて喜ばれた。
除幕式には三万の人が出席した、そして皆欣躍して除幕式を盛にして呉れた、其時は旧藩主前田利為侯・後藤新平子・渋沢栄一子・井上康哉・阪谷芳郎男、実業家からは藤山雷太・大谷嘉兵衛其他歴々の人達、それから時の野田逓信大臣等が臨席されて、各々社長の奮闘努力を絶賛し寿像に就て祝辞を述べられた。○下略
浅野総一郎翁寿像建設之経緯 橋本梅太郎述 第四〇―四五頁 昭和一〇年八月刊(DK490067k-0002)
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浅野総一郎翁寿像建設之経緯 橋本梅太郎述
第四〇―四五頁
昭和一〇年八月刊
浅野総一郎翁寿像建設経過記録
大正十年
五月中旬 橋本梅太郎氏の主唱により二・三同志と共に浅野総一郎翁寿像建立を企劃す
○中略
大正十一年
四月卅日 会員応募者十四万四千四百五十九名に達す
○中略
十二月廿二日 本山白雲氏と寿像鋳造契約を締結し同時に原型(全長十六尺背広服半ズボンの立姿)製作に着手す
大正十二年
○中略
六月三日 寿像敷地地鎮祭を挙行す
六月五日 会員二十五万人に達し工事万端整ひたるを以て発起人会を開催し之を報告し、次で会長に渋沢子爵、副会長に内田嘉吉・大川平三郎の両氏を推挙する事に決す
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六月七日 渋沢子爵及内田・大川両氏何れも就任承諾せらる
○中略
大正十三年
○中略
五月十八日 除幕式挙行
当日天気好晴にして朝来参会者殺到し定刻前既に会衆三万余を算す
午前十一時橋本梅太郎氏の開会の辞に始り、井上孝哉氏・大谷嘉兵衛氏・前田侯爵・野田卯太郎氏・藤山雷太氏・後藤子爵・渋沢子爵・阿部吾市氏・大川平三郎氏等の祝辞に次で翁の嫡孫浅野一治氏の手により除幕せらるゝや会衆期せずして歓呼す、此間浅野翁は感激に満ちたる謝辞を述べられ壮厳裡に式を閉じ、終て模擬店及余興を開始し盛況を極め、午後五時散会せり
六月六日 収支決算を了し会則の規定に従ひ時事新報に之を公告す
○中略
会長 子爵 渋沢栄一
副会長 内田嘉吉
同 大川平三郎
委員長 橋本梅太郎
中外商業新報 第一三七二一号大正一三年五月一九日 努力主義の権化、浅野総一郎翁の寿像 横浜子安ケ岡に除幕式挙行(DK490067k-0003)
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中外商業新報 第一三七二一号大正一三年五月一九日
努力主義の権化、浅野総一郎翁の寿像
横浜子安ケ岡に除幕式挙行
東京湾を眼下に見下す横浜市子安ケ岡に努力主義の権化浅野総一郎翁の
銅像は建てられた、でその除幕式は昨十八日午前十時半からいとも盛大に同所浅野綜合中学校で挙行された、来会者は後藤子・渋沢子・前田利為侯・藤山雷太・阿部吾市・大川平三郎等の諸名士を始め、浅野関係の諸会社・病院・学校の事務員、職工
学生等の関係者無慮五千名、先づ橋本委員長の報告があつて後、建設会長渋沢子の挨拶、井上孝哉・大谷嘉兵衛・前田候・藤山雷太・後藤子その他の祝辞演説があつて翁の令孫浅野一治さんの手によつて、紅白の幕は切り落とされ脚半姿の翁の巨像は
晴れ渡つたみどりの空に浮き立つて雄々しそびえ、さながら奮闘努力主義の翁をしのばするものがあつた、続いて、翁は感激にたへぬ面持でその銅像のもとに立つて謝辞を述べ、万歳を三唱して午後零時半式を終つたが、式後模擬店を開き余興の神楽相撲その他の競技、また絶えず花火を打上げ、戸山軍楽隊と東洋汽船の楽隊の奏楽もあり、空からは勝飛行場の飛行機が低空飛行を行ひながら「かせぐに追ひつく貧乏無し」と書いたビラを散布して興を添へ、一同日の暮れるのも忘れて歓を尽した