デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
27款 桃井可堂碑
■綱文

第49巻 p.276-280(DK490098k) ページ画像

昭和2年10月22日(1927年)

是ヨリ先栄一、埼玉県大里郡八基村教育会ノ企画ニ係ル、桃井可堂ノ碑名及ビ碑陰文ヲ揮毫ス。是日、同碑ノ除幕式挙行セラル。栄一出席シ、八基尋常高等小学校ニ於テ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一書翰 渡辺得男・白石喜太郎宛(大正一五年)八月一三日(DK490098k-0001)
第49巻 p.276 ページ画像

渋沢栄一書翰 渡辺得男・白石喜太郎宛(大正一五年)八月一三日
                   (白石喜太郎氏所蔵)
○上略
今日ハ桃井可堂と申往昔八基村大字北阿賀野と申地方より出身之志士ニ関する碑文起草之義ニ付、治太郎及富田泰三両氏当方まて来訪種々相談致候○中略
  八月十三日 栄一
    渡辺
       両兄梧下
    白石
   ○桃井可堂ト栄一ノ関係ニ就キテハ本資料第一巻文久三年八月ノ条参照。


渋沢栄一 日記 昭和二年(DK490098k-0002)
第49巻 p.276 ページ画像

渋沢栄一 日記 昭和二年         (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 曇 寒気昨日ト同シ○中略
高田○利吉氏来リテ○中略桃井可堂翁ノ碑文等ニ付種々ノ協議ヲ為ス○下略


集会日時通知表 昭和二年(DK490098k-0003)
第49巻 p.276 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年         (渋沢子爵家所蔵)
十月廿二日 土 午前八時  埼玉県八基村ヘ御出向(自動車ニテ)
        午後一時半 桃井可堂先生碑除幕式


竜門雑誌 第四七〇号・第九二頁昭和二年一一月 青淵先生動静大要(DK490098k-0004)
第49巻 p.276 ページ画像

竜門雑誌 第四七〇号・第九二頁昭和二年一一月
    青淵先生動静大要
      十月中
廿二日 埼玉県血洗島へ出向。諏訪神社へ参拝。桃井可堂先生記念碑除幕式。○下略


可堂桃井先生碑(DK490098k-0005)
第49巻 p.276 ページ画像

可堂桃井先生碑              (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
(表)

図表を画像で表示可堂桃井先生碑

  可堂桃井先生碑      正三位勲一等子爵 渋沢栄一書 



   ○碑陰ハ次掲。
 - 第49巻 p.277 -ページ画像 


竜門雑誌 第四六五号・第九五―九六頁昭和二年六月 ○青淵先生説話集其他 可堂桃井先生碑(DK490098k-0006)
第49巻 p.277 ページ画像

竜門雑誌 第四六五号・第九五―九六頁昭和二年六月
 ○青淵先生説話集其他
    可堂桃井先生碑
慷慨国を憂ひ率先義を唱へ、時運未だ会せず謀成らずして身を殞し、英魂慰する所なかりしも、適昭代の隆運に遭ひて恩賞枯骨に及ぶ、吾が可堂桃井先生の如きは寔に生前に否にして死後に泰なるものと謂ふべし、先生諱は誠、通称は儀八、字は中道、可堂は其号なり、享和三年八月八日武蔵榛沢郡北阿賀野村に生る、本姓は福本、忠臣新田氏の後裔なり、父諱は守道、世々農を業とす、先生幼より好みて稗史野乗を読み、能く其要を記す、一日父先生に謂て曰く、汝をして大儒に就て修学せしめんと欲するも、家貧にして資なきを如何せんと、言畢りて撫然たり、先生も亦切歯涙を垂る、時に甫めて八歳なり、幾もなく郷儒渋沢仁山に就て学ぶ、仁山深く望を属す、年二十二、蹶然江戸に遊び、東条一堂の門に入り、清川八郎・那珂梧楼と併せて三傑と称せらる、業成り帷を下して教授す、名声日に揚り交道月に広し、庭瀬侯賓礼を以て先生を聘し、亀山侯も亦師事せり、嘉永六年米艦渡来し、物情騒然たり、先生感ずる所あり、藤田東湖に因りて書を水戸烈公に上らんとす、適東湖の死に遭ひて果さず、尋で米国の通商強要、安政戊午の大獄等ありて、幕政日に非なり、先生慨然職を辞して郷に帰り窃に名族岩松某を推して謀首と為し、兵を挙げて外人を掃攘し、一挙幕府を倒さんとす、某期に臨み遅疑して起たず、事漸く漏る、先生責を一身に負ひ、衆に代りて川越藩に自首す、幕府先生を江戸に檻送し福井藩邸に幽す、先生憂憤自ら食を絶ちて死す、実に元治元年七月二十二日なり、享年六十又二、巍然たる大節、真に忠臣の裔たるに恥ぢずと謂ふべし、諡して義道院猛雲至誠居士と云ふ、麻布光専寺に葬る
大正天皇登極の年、特旨を以て正五位を追贈せらる、是に於て戚族相議し駒込吉祥寺に改葬す、先生二男あり、長は之彦、畳山と号し、次は直徳、山東と号す、明治の初予大蔵省に勤務するに及び、二人を薦めて民部・大蔵両省に奉職せしめしに、頗る循吏の聞ありしが、不幸短命にして倶に世を蚤くせり、山東五男あり、長可雄は早く横浜の渋沢商店に入りて、生糸輸出の業に従ひ、季健吾は石井氏を冒して現に第一銀行副頭取たり、是亦予の推薦する所にして、倶に経済界に令名あり、忠誠の報空しからずと謂ふべし、頃日八基村教育会、碑を村社の境域に樹て、其義烈を顕揚せんとし、文を予に嘱す、嗚呼、先生と同憂の士多くは玉砕し、其子其孫亦既に地下に入りて、相見る能はざるものあり、予は郷閭先生と相近く、壮時同じく尊攘を以て念とせしも、故ありて事を共にせず、瓦全今に至る、偏に聖世の恩沢に因ると雖も、亦曷ぞ命長くして悲傷多きの歎なきを得んや、往時を追懐して悵然たること之を久しうす
  昭和二年五月 正三位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書


可堂桃井先生記念碑建設経過について 八基村教育会編 第一―四頁(昭和二年)刊(DK490098k-0007)
第49巻 p.277-279 ページ画像

可堂桃井先生記念碑建設経過について 八基村教育会編
                    第一―四頁(昭和二年)刊
 - 第49巻 p.278 -ページ画像 
    可堂桃井先生記念碑建設経過について
 客年八基村教育会は史蹟名勝保存の一新事業を加へ、本村出身の偉人名士等の事蹟を調査探究し、之を永遠に伝へ後人の亀鑑とし、且つは本村教育の資料と為さんことを可決せり。
 先其第一着手として明治維新の志士桃井可堂先生の事蹟を永久に伝へんが為め、記念碑建設の企劃をなす。
 地を先生の故郷大字北阿賀野なる鎮守境内に相し、撰文並書を子爵渋沢青淵先生に託したるに喜んで応ぜられ、八十八歳の高齢を以て表裏ともに揮毫せられたるは本会の最も感謝する所なり。
尚ほ可堂先生の遺族各位の多大なる捐助と先生父子の門弟諸氏の応援ありたる事は本会の感謝する所なり、殊に大字北阿賀野村民は挙つて一切の労務に献身的努力せられたる事実は蓋し先生の遺徳を景慕する念慮とはいひ本会の欣幸とする所なり、斯くの如くして文就り工竣りたるにより、昭和二年十月二十二日壮厳なる除幕式をなすに至れり。
      子爵臨場及式の光景
 子爵渋沢青淵先生は昭和二年十月二十二日、郷里埼玉県八基村なる可堂桃井先生記念碑除幕式へ参列された。
此の日昨夜来の小雨も霽れて天気晴朗となり、主催たる教育会員は大に喜び一同待ち居る程に午前十一時自動車にて大字血洗島へ着かれた村民の歓迎を受けられ村社諏訪神社を参拝、先生の生家である中ノ家に暫し休憩、之れより稍後れて到着せる野手埼玉県知事と昼餐を共にせられ、午後一時半本村大字北阿賀野稲荷神社の境域に到り建設地碑前の式へと臨まれた、稲荷神社参拝後兼ねて待ち設けたる本村最高齢者橋本弥平翁(九十九才)と邂逅、握手せられ八十余年前の物語、私も九十九までは生きるなど懐旧の情を掬まれ、野手知事と共に所定の位置に就き式に列した、式の次第は左の通りであつた。
      可堂桃井先生記念碑除幕式次第
○建設地碑前ノ式 午前十一時三十分着席
  一、挙式ノ旨ヲ告グ
  一、浄祓
  一、供饌
  一、祭詞
  一、除幕
  一、玉串奉奠
  一、撤饌
     休憩
○除幕式 (於八基小学校)
  一、式辞 村教育会長
  一、経過報告 委員惣代
  一、埼玉県教育会長閣下告辞
  一、来賓祭文及感想談
  一、渋沢子爵閣下訓話
  一、先生遺族御挨拶
  一、閉式
 - 第49巻 p.279 -ページ画像 
記念碑の撰文並書は八基村教育会がお依頼して青淵先生に託したのである。
 本日の来賓としては
   渋沢子爵閣下
   野手知事閣下
   渋沢元治氏
   渋沢敬三氏
   大里郡教育会長 高塚幾次郎
   埼玉県教育会嘱託 佐久間得三
   大里郡教育会幹事 東悌三郎
   深谷警察署長 四分一春吉の諸氏
   桃井先生の遺族
    桃井可直氏(可堂先生曾孫)
    桃井達雄氏(孫)
    石井健吾氏(孫)
    桃井義一氏
    其他関係親族
式は別紙次第の如く行はれ可直氏によつて除幕せられた。
碑前の式が終つて休憩の間、大字横瀬村民の懇望により、青淵先生は横瀬神社に参り恭しく参拝された、尚ほ華蔵寺の境内を眺め、小壮の時を偲んで村民一同と打語られた。
午後二時八基小学校の除幕式場へ自動車を進め、式次第の如く進行、最後に先生の感想談に移り、左の要領を話され、会員一同及参列者に多大の感動を与へられた。


可堂桃井先生記念碑建設経過について 八基村教育会編 第九―一二頁(昭和二年)刊 【渋沢子爵閣下講演(除幕式上)】(DK490098k-0008)
第49巻 p.279-280 ページ画像

可堂桃井先生記念碑建設経過について 八基村教育会編
                    第九―一二頁(昭和二年)刊
    渋沢子爵閣下講演(除幕式上)
可堂桃井先生ノ除幕式ニ臨ム事ガ出来マシタ事ハ此ノ上モナキ光栄デアリマス。光栄ト云フヨリモ感慨無量デアリマス。単ニ光栄ト云フ人ガアルカモ知レマセンガ、迚モ光栄ドコロデナク申スコトニ差支ヘル程ノ感情デアリマス。今日御話ヲシテモ祝辞ニヨツテモ本当ノ感ジハ得ラレマセン。諸君ハ文字ノ上デアリマスガ、文字ノ上ニ於テ見タ丈デハ深ク感ヲ得ラレナイ。実ニ接シテ始メテ本統ノ感ジガアルノデアリマス、今日ハ斯様ナ事ガ軽ク見、軽ク取扱ハレ勝デアリマス。畢竟皆様方ハ国運隆盛ノ時ニ成長サレタノデアリマスガ、可堂桃井先生ガ生レマシタ当時ハ国ガヒツクリ返ル様ナトキニ生レタノデアリマス。
私ハ今老衰シマシタケレ共、可堂先生ノ徳ヲ慕ヒ且其実際ヲ始メカラ知ツテ居ルノデアリマス、村長サンヤ皆様方ヨリノ御話デ私ハ碑文ヲ書キマシタカラ、ソレニ付キマシテハ私ハ話サナイコトニシマス。
当時ノ模様ヲ知ツテ居ルノハ先程面会シタ九十九才ノ老人ト私一人ダケデアルト思ヒマス。
徳川幕府ノ末ト云フトキハ皆様方ハ歴史ノ上ニテ知ツテ居ラルヽ通リ此日本ノ国ガドウヒツクリ返ルカト云フ様ナ有様デアリマシタ。今日
 - 第49巻 p.280 -ページ画像 
デコソ一天万乗ノ天子様ガ国ヲ統治ナサレテ居ルトキデスカライザ知ラズ、其当時ハ中途ニ将軍ト云フ者ガアツテ支配シテ居ツタノデアリマス。ソコデ当時多クノ志士輩出シテ、尊王攘夷ト云フ様ナ事デ世ノ中ハ沸騰シタノデアリマス。可堂先生ハ実ニ其一人デアリマス。可堂先生ガ八ツノトキ家ヲ出テ学ビシコトハ、学者ニナリタイト云フ事デハナク、ツマリ東条一堂ト云フ学者ニ就キ勉強サレタコトハ、国家ヲ思フ一念カラデアリマス。丁度其ノ頃ガ外交問題デ喧シイ時デアリマシタ。東京ノ遺族ノ方々モ此ノ事ハ充分御承知ノ事デアリマス。私ガ先生ト面会シタノハ私ガ二十三才即チ文久三年ト思ヒマス。桃井先生ノ御孫様ガ御出デニナツテ居リマスガ、先生ハ山東《(マヽ)》ト云ヒ、尊王攘夷ヲ唱ヒ、江戸ヲ去リ中瀬ニ居ツタノデアリマス。私ハ先生ト二・三御話ヲシタ事ガアリマシタガ、下手計尾高藍香即チ当主定四郎ノ家ノ者ガ我々ノ中間ノ隊長デアリマシタ。屡々尊攘ノ感強ク論議ヲシテ居ツタノデアリマス。其事ハ国家ヲ此儘ニシテ置クコトハ出来ナイ、倒幕スルト云フ事デアリマシタ。而シ年齢ニモ方針ニモ多少ノ異ナツタタメ、行動ヲ共ニスルコトガ出来ナカツタ。
文久三年十一月八日家ヲ立チ京都ニ上ツタ。其ノ時ニ事ヲ挙ゲ様ト云フ事デアツタ。其ノ事ハ即チ討幕スルト云フ事デアツタ。此ノ事ハ国家ヲ乱ス其元ヲ断ツト云フ事ヲ論示ニ置イタノデアル。私ト同姓渋沢喜作ト二人ハ上方ニ旅行シタ。此レハ他ノ方面ニ活動シ様ト云フノデアル。其ノ時先生ハ自身訴ヘテ出タノデアル。私ハ文久三年ニ死スベキデアツタノガ今ニ至ツタ。ソシテ此ノ席ニ列スルコトガ出来タ事ハ幸ト云ヒマセウカ、又不幸ト云ヒマセウカ、感慨無量デ皆様ノ想像ニ御任セ致シマス。唯明治聖代ガ成立シタノハ偶然デナク、其ノ間ニ働イタ者ガ在リシ事ハ事実デアツタ。此ノ尊攘ヲ論ジタ者ハ随分アルガ身ヲ以ツテ之ニ投ジタ人ハ殆ンド無カツタト思フ。唯何人カノ学者ハアツタガ身ヲ殺シテ仁ヲ為ス人ハ少イノデアル。アレ程大志ヲ抱イテ自分一人之レニ至ツタノハ惜イガ、其志コソ必ズ賞スベキデアル。而シ形ヨリ見レバ是程ツマラナク情ナキコトハナイノデアル。
蔭ヨリ批評スルナラ如何ニモ其人ガ不仕合セデアツタカヲ思ハレル。
『生前ニ否ニシテ死後ニ泰ナル』モノト私ハ碑文ニ書イタガ、全ク左様デアルト評論セラルヽ。先生ニ五男アリテ孫ニアタル方々トハ懇意デアリ、長男可雄氏ハ横浜渋沢商店ニ入リ生糸輸出業ニ従ヘ、末男石井君ハ私ノ創立シタ第一銀行副頭取ニ推薦シ共ニ実業界ニ方針ヲ同ジクシテ居リマス、其他ノ人達モ皆御存ジノ事デアリマス。私ハ事実ヲ評シテ満場ノ人達モ定メシ左様思ハルヽコトデアラウ。私ハ此ノ事ヲ考イテ二十四・五才ニ立返ツテ若クナツタ様ニモ思へ、又老イタ様ニモ思フガ、一言ニシテ言ヒバ桃井先生ハ忠実ナ人デ如何ニモ不仕合セナ人デアツタト思フ。而シ死後今日アルニ至ツタコトハ冥スベキコトト思フ。私ハ今日ノ除幕式ニ自分ノ思出デアルコトヲ御話シタ次第デアリマス。 満場拍手
○下略