デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
4節 史蹟保存
1款 財団法人星岳保勝会
■綱文

第49巻 p.298-300(DK490109k) ページ画像

明治44年4月22日(1911年)

是ヨリ先栄一、大倉喜八郎等ト共ニ、埼玉県川越町星野山喜多院ノ復興保勝ノタメ、財団法人星岳保勝会ノ設立ニ尽力ス。是日、同院ニ於テ、当会発会式挙行セラル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK490109k-0001)
第49巻 p.298 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年        (渋沢子爵家所蔵)
四月二十二日 晴 軽暖
午前六時起床洗面シテ朝飧ヲ食シ、午前七時五十分飯田町停車場ノ汽車ニテ、川越ニ抵ル、大隈伯爵及多数ノ随行者同行ス、十時川越ニ着ス○中略 川越ニテ喜多院始地方人士多数来リ迎フ、人車ニテ一同喜多院ニ抵リ休憩シテ後財団法人発会式アリ、大隈伯ト共ニ一場ノ演説ヲナス、畢テ午飧ヲ院内ニ食シ○下略


竜門雑誌 第二七六号・第六二―六三頁明治四四年五月 ○星岳保勝会発会式(DK490109k-0002)
第49巻 p.298 ページ画像

竜門雑誌 第二七六号・第六二―六三頁明治四四年五月
○星岳保勝会発会式 青淵先生が大倉喜八郎氏等と共に、埼玉県川越町の古刹星野山喜多院の復興保勝の為めに設立者となりて尽力せられたる星岳保勝会は、去四月二十二日同所に於て発会式を挙行せられたるが、青淵先生には当日大隈伯爵・松平伯爵等と共に之に臨席せられ一場の演説を試みられたり、尚先生には同会解散後大隈伯爵と共に、同地に開かれたる埼玉県出身早稲田大学校友会に出席して、又一場の演説を試みられたり。


竜門雑誌 第二七七号・第二三―二五頁明治四四年六月 ○星岳保勝会に就て 青淵先生(DK490109k-0003)
第49巻 p.298-300 ページ画像

竜門雑誌 第二七七号・第二三―二五頁明治四四年六月
    ○星岳保勝会に就て 青淵先生
 本篇は四月二十二日埼玉県川越町の古刹喜多院に於て開催せる星岳保勝会に於ける青淵先生の演説なりとす。
閣下並に臨場の諸君、今日此保勝会の寄附行為に就き、其発会式を玆に御挙げになりまするに依り、私も此席に参加する光栄を荷ひましてございます。実は私は此寄附行為に就ては、設立者の一人に加名致して居りまするで、私が玆に申上ぐることは此会に御賛同申すと云ふのではなくして、寧ろ反対に皆様に御依頼すると云ふ地位に立たねばならぬのでございます。
当御寺院の履歴に就ては私は審には存じませぬ、唯今現住職亮中師の御述べになりましたことに依つて、皆様も之を御了知下されたであらうと思ひますが、私が是に関係致しました趣意を簡単に申上ますると私は東京に於て上野の寛永寺の檀家に属して居りまするので、それで当亮中師は上野寛永寺から当寺の現住持に御上りになつた方故に、従
 - 第49巻 p.299 -ページ画像 
来の御知合がございます、殊に寛永寺現住職からして、御紹介を被つて御知合を厚く致して居りますのでございます、唯今亮中師の御述べになりました如く、当御寺院も、終には衰頽腐朽に至りはせぬかと云ふことを慨れて、先頃よりして段々懇談がございましたに依つて、如何にも御尤もと御同情を表し、終に其話が進んで、玆に財団法人を組立て、此寺院をして永遠に存続せしめたいと云ふことの、現御住職の御希望に御賛同致した次第でございます。
斯様申しますると唯私の檀那寺に縁故深い喜多院であるから、それを保存致したいと云ふ簡単の意味のやうに聞えますけれども、私が此希望を持つに至りましたのは、単にそれだけには止まらぬ積りでございます、広い意味で申しますると、凡そ国なり郡なり町村なり、何れの地方に於ても、其土地の繁盛、其土地の人文の進歩を観察するには、其土地に在る公共物から目を附けるが宜しいとは、独り欧羅巴人の申すばかりではない、東洋にも往古から其土地を観察するに就て伝つて居る言葉である。或る土地へ行つて其地の公共物は如何なる有様であるかと云ふことを見れば、地方の風俗なり、人情なり、貧富なり、其他総てのことに目の届くものであると云ふことは、殆んど動かす可らざる学説と言つても宜い位に思はれます。我国には到る処に名所古跡が多うございますけれども、併し或る場所に於ては恰度唯今亮中師の御演説のありましたやうに、世の隆替に依つて、或は其廃頽腐朽に終らんとするものが無いとは申されませぬ、故に其地方の人が努めて此の如きものを保存すると云ふことは、前にも申す通り其地方の大体の気象を其処へ現はすと云ふのではなからうかと思ふのであります。
今日徳川家の事に就て彼此れ申すのは、或は偏頗の説になるかも知れませぬけれども、三百年の昌平を致した武徳と云ふものを知るには、先づ徳川家康公時代の事を深く観察しなければならぬのである。公の武功に就て、所謂黒衣の宰相として之を佐けた所の天海僧正は、決して功績のある人では無いと云ふ事は申せぬであらうと思ふ、況んや其学識と謂ひ、仏法に於ける功徳と申し、殊に其天寿を保たれたこと、或は百二十八と云ひ、或は百三十と云ひ、其年寿のハツキリ分りませぬやうではございますけれども、蓋し百歳以上の寿を保たれて、仏堂隆興に大に力を尽されたことは明瞭である、東叡山寛永寺の設立も実に同僧正の力である。其僧正の最も力を入られましたる此古刹であれば、前に申した如く唯々一郷一村の公共物を保存すると、同じ意味に止むものではなからうと考へるのであります。斯かる理由に依て、私は当御住職の御企が頗る道理あることゝ考へ、又此事は単に古刹の頽廃を免かれるばかりでなしに、広く言へば延て国家社会に貢献する意味であると云ふ御言葉は、決して浮誇の言では無いと深く信じましたに就て、私も其一人に加り、玆に寄附行為の設立に及んだ次第でございます。殊に埼玉県出身の者でございまして、当県に対しては深き縁故を有つて居ります。尤も前に申した一般の意味から、我が生れ故郷であるから、若しくは同県下であるから竭すと云ふのではありませぬが、近きより遠きに及ぼすとは、古人の教にもありますことで、兎に角己れの生れました県でもあり、又前に申した理由もあり、広く論ず
 - 第49巻 p.300 -ページ画像 
れば国としても斯かる名勝を成べく頽廃に帰せしめぬやうにしたい、又前に申した如き高徳の人の功績をば、長く将来に伝へ得るやうにありたいと、斯く希望する次第であります。
私は玆に此事に賛成するに至つた理由を一言述べ、尚当席に御在りなさる皆様は、多く此地方の諸君で居らつしやると思ひますから、唯今申述べた通り、斯かる名刹をどうぞ頽廃に属せしめぬことに努めて下さる様、只管希望致す次第でございます。


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一五頁 昭和六年一二月刊(DK490109k-0004)
第49巻 p.300 ページ画像

青淵先生職任年表 (未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
               竜門雑誌第五一九号別刷・第一五頁昭和六年一二月刊
    明治年代
  年 月
四四 四 ―財団法人星岳保勝会(川越市)設立者―