デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
4節 史蹟保存
3款 奈良大極殿阯保存会
■綱文

第49巻 p.312-323(DK490114k) ページ画像

大正2年2月(1913年)

是ヨリ先、徳川頼倫・岡部長職・阪谷芳郎・岩崎久弥・三井八郎右衛門及ビ栄一等ノ発起ニヨリ、奈良市郊外ノ朝堂院阯ニ標石二十八基ヲ、又大極殿阯並ニ内裏阯ニ記念碑ヲ建立シ、之等ヲ保存セントスル趣旨ノ下ニ、奈良大極殿阯保存会設立セラル。栄一ソノ評議員トナル。是月付ヲ以テ当会、発起人連署ニテ趣意書並ニ醵金勧誘状ヲ発ス。栄一、金五百円ヲ寄付ス。大正十二年ニ至リテ事業完成ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK490114k-0001)
第49巻 p.312 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四一年        (渋沢子爵家所蔵)
三月二十五日 曇 軽寒
○上略
午後十一時兜町事務所《(前)》ニ抵リ、川路奈良県知事ノ来訪ニ接ス、東大寺保存ノ事ニ関シ種々ノ依頼アリ○下略


渋沢栄一 日記 大正四年(DK490114k-0002)
第49巻 p.312 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
八月廿六日 半晴
○上略 第一銀行ニ抵リテ午飧シ○中略 徳川頼倫侯来リ大極殿敷地ノ事ニ付寄附金ノ依頼アリ、且大倉・古河二氏ヘノ勧誘ヲ請ハル○下略


(増田明六)日誌 大正一二年(DK490114k-0003)
第49巻 p.312 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一二年       (増田正純氏所蔵)
四月二日 月 晴
○上略
本日の面会者
○中略
(原本欠字)
四    奈良大極殿趾保存会寄附金ノ件
○下略


奈良大極殿阯保存会事業経過概要 国府種徳編 第二二―三三頁 大正一二年四月刊(DK490114k-0004)
第49巻 p.312-318 ページ画像

奈良大極殿阯保存会事業経過概要 国府種徳編
                    第二二―三三頁
                    大正一二年四月刊
    第三章 奈良大極殿阯保存会の設立
      第一節 朝堂院阯保存事業の経画
 明くる明治四十四年三月以来、棚田氏は屡々上京して、塚本氏の援助により、専ら貴紳を歴訪の上、事業の賛助を懇請せし結果、遂に徳川侯爵・岡部子爵並阪谷男爵の承諾を得るに至り、更に、徳川侯爵の斡旋に依りて、伯爵徳川達孝氏、男爵(現子爵)渋沢栄一君及岩崎・三井・大倉・古河の各男爵及安田善次郎氏の賛同ありしを以て、之に
 - 第49巻 p.313 -ページ画像 
若林奈良県知事を加へ、十一名発起人となり、奈良大極殿阯保存会を設立して愈確乎たる方針の下に、宮阯保存の途を講ずることゝなりたり。
 翌、明治四十五年七月卅日には、明治天皇崩御遊ばされしを以て、今上陛下御践祚、大正と改元せられたり。
 其の歳十一月には、戸川安宅・国府種徳・塚本慶尚の諸氏主となり関野工学博士校閲の下に宮阯保存工事の設計案を作製し、之と共に一面に於ては、奈良大極殿阯保存会趣意書等の草案を起稿し、之を発起人会の協議に附して決定し、其の他諸般の経画を確定したり。
      第二節 奈良大極殿阯保存会の設立
 平城宮朝堂院の基阯を保存するの使命を荷へる、奈良大極殿阯保存会の設立経画既に成り、準備亦緒に就きたるを以て、会は乃ち大正二年二月、徳川侯爵を会長に、阪谷男爵を副会長に推し、戸川安宅・塚本慶尚二氏を幹事とし、会長・副会長以外の発起人を評議員として、事務所を徳川侯爵邸に置き、同時に大極殿阯の保存を以て、大正四年に挙行せらるべき即位礼紀念の一端となすべき旨を声明し、広く寄附金の募集に着手することゝせり。
 是に於て会の設立発起人たる男爵岩崎久弥・侯爵徳川頼倫・伯爵徳川達孝・子爵岡部長職・現男爵大倉喜八郎・奈良県知事折原巳一郎・安田善次郎・現男爵古河虎之助・男爵阪谷芳郎・男爵三井八郎右衛門現子爵渋沢栄一(いろは順)諸氏の名に依り、大正二年二月附を以て奈良大極殿阯保存会趣意書を発表したり。
 該趣意書に於ては、特に宮阯保存の首唱者棚田氏、並宮阯所在地の篤志家溝辺氏の奔走尽力したる事蹟、及び、御下賜金の御沙汰等を記し、欧洲列国の顕彰保存事業に対する努力のことより、列聖が即位式を挙げられし殿阯保存の方途を講ずるは、即位の大礼を行はれんとするに方り、聖代第一の盛典を紀念するの一端たるべき旨を高唱し、大極殿阯並内裏阯を永遠に保存せんが為め、殿阯に標石二十八基を配置し、更に、両阯に紀念碑の建設を経画し、大正の盛代を不朽に祝福せんとして、大方の協賛を求めたるものなり。保存会設立の趣意書左の如し。
        奈良大極殿址保存会趣意書
 按ずるに大極殿は、奈良王朝の盛時に於ける、朝堂院の正殿として天子臨朝即位の儀を行はせられ、諸司告朔の典を挙げさせたまひし所に係れり。今や世は既に大正の新御宇に入りて、即位の大礼を行はせらるゝこと、将に年あらんとす。是の時に当りて苟くも大樹殿の名を聞かば、何人と雖も、必ずや油然として、往昔大礼の場所たりし、朝堂正殿の偉観を追懐するなるべし。
 今夫れ大極殿を正殿とせる朝堂院と、皇居たる内裏と、並に之を遶れる八省の官衙とを以て、大内裏を成すの規矱は、後代実に軌範を奈良の旧京に取れり。殊に朝堂・内裏の両址、儼然として今尚ほ田塍の間に、其遺型を存するもの、亦独り奈良の旧京あるのみ。玆に其址を総称して奈良大極殿址と曰ふ。蓋し大内裏の中、大極殿の名、最も人口に膾炙するを以てなり。其地現今奈良市の西郊、生駒郡都跡村字佐
 - 第49巻 p.314 -ページ画像 
紀に在り。世に其殿址を、大極の芝と呼ぶ。殿址の西北に当りて内裏址あり。何の幸か、犁鋤今に入らずして、両址共に尚ほ能く湮滅を免かる。況んや殿址なる竜尾壇・十二堂・朝集殿・歩廊・南門等の遺址も、亦内裏なる大安殿の址と認むべきもの、大内の芝と称するもの等と共に、今に其残形を留むるのみならず、是等大内裏の諸址を中心として建設せられし都域が、朱雀大路を中央としたる、左右両京の条坊並に其外を遶れる四周班田の条里に至るまで、何れも今に其遺型を指画し得べきに於てをや。方今欧洲の列国にして、貴重此の如きの遺蹟を有するもの、其れ将た幾許かある。是れ実に我邦史蹟の第一位に置くべきものたり。
 是を以て奈良市の篤志家棚田嘉十郎氏は夙に率先して、宮址保存の議を首唱し、労を厭はず費を吝まず、之が為め四方に奔走して、席煖かなるに遑あらざるもの、前後二十年に垂んとし、遂に殆んど其家財を蕩尽するに至れり。宮址所在地の篤志家、溝辺文四郎氏も、亦深く此挙を賛し、相協勠して、鋭意尽瘁する所尠からず。四方有志の士、乃ち更に之を輔け、明治四十三年は平城の遷都ありしより、恰も千二百年に当るを機として、記念碑建設の計画を立て、同年十一月、仮りに記念の標木を、当年の大極殿址に建て、以て将来保存の第一基石を置けり。是より先き事 天聴に達し、内帑の資若干を下賜せらる。爾来深く聖旨に感激する所あり、有志の士相促かして、必ずや宮址殿墟の保存を実にせんことを期し、怵心覃思すること数年、事未だ其緒に就かずして、以て今日に至れり。
 然るに顧みて当今欧洲列国の出づる所を察するに、史蹟名勝の苟くも保存すべきものは、力を傾け道を尽して、必らず其旧観を保持せんと勉め、夫の希臘・羅馬の旧址は言ふまでもなく、列国の地、何等か古蹟の存するあらば、各競うて之が庇保と顕彰とに拮据し、亦其余力を剰さず。是の時に当りて、往昔列聖が、即位の式を挙げさせたまひし朝堂院の正殿として、其規矱実に後代の軌範となりし原型歴然たる大極殿址並に当時の皇居たりし内裏址を、今も尚ほ従来のまゝに放棄し、更に保存の方途を講ぜざるが如きは、列国観光客の来探あるに対しても、我忠愛なる同胞、豈に能く忸怩たらざるを得んや。殊に近く即位の大礼を行はせたまはんとする今日、之が保存の道を立てゝ、聊か此聖代第一の盛典を紀念し奉るの一端とするは、蓋し臣子の至情に外ならず。
 是に於てか、不肖等敢て自から揣らず、同志、胥謀りて、叨りに郭隗率先の任に甘んじ、進んで第一歩を著せんことを期し、玆に、奈良京の大極殿址及内裏址を、永遠に保存するの計画を立て、大極殿址には、標石二十八基を配置して、其区域を明かにし、更に記念碑を両址に建て一は以て奈良盛時の旧型を、永く後昆に伝へ、一は以て大正聖代の隆運を、長へに不朽に祝福せんとす。仰ぐらくは、大方同感の諸君子、幸に不肖等微意の存する所を諒とせられ、為めに一臂の力を吝まず、大に翼賛を賜はらんことを。不肖等の最も冀望に堪へざる所なり。
  大正二年二月
 - 第49巻 p.315 -ページ画像 
 発起人 男爵 岩崎久弥      侯爵 徳川頼倫
     伯爵 徳川達孝      子爵 岡部長職
        大倉喜八郎  奈良県知事 折原巳一郎
        安田善次郎        古河虎之助
     男爵 阪谷芳郎      男爵 三井八郎右衛門
     男爵 渋沢栄一   (いろは順)
 尚本会発起人は、以上の如き設立の趣意書を発表すると共に、同様発起人の名を以てせる醵金の勧誘状を之に添付し、広く同情者の義捐勧誘を依頼したり。
 該勧誘状に於ては、設立の趣意書と同じく、朝堂院阯に標石二十八基を建て、大極殿阯並内裏阯に紀念碑を樹つること、及此等の為に要する所の地積を会に買収し、保存の道を確実ならしむることを陳べ、会の将来に於ける経画の概要を繰返して、之を記述したり。
其の醵金勧誘状は左の如し。
        醵金勧誘状
 粛呈
 益御清穆大慶之至奉存候、陳者近頃以て唐突の至に候得共、別書趣意書に認め置き候通り、今より千二百有余年前の史蹟にて、御即位式に因縁最も深き奈良大極殿址並に当時の皇居たる内裏址の保存と顕彰とに就き、偏へに特別の御援助を仰ぎ度、玆に殿址宮址の保存醵金なるものを設定致し、其一口を金拾円と致し、幾口なりとも是非に御加入被成下候上、更に本会の趣旨を広く御同情の諸君子にも御知らせ被下、併せて醵金口御加入方可然御勧誘被成下度切に不堪悃請之至候、此の如くにして御醵金に依り別紙予算書の目論見通り大極殿址に標石二十八基を配置して其区域を明かに致し、且つ殿址並に内裏の址には其記念碑を建て之が追憶を永遠にし、是等所要の地積に就ては之を保存会に買ひ取り、以て保存の方途を確実に致し度不堪切望之至候、斯て御蔭に依り此往昔御即位式ありし正殿址の遺型を長へに保全致し、以て大正の御即位式を記念し奉るの一端と致すことを得ば、不肖等の本懐此上もなき儀に御座候、不取敢御願用まで如此に御座候 敬具
 大正二年
       奈良大極殿址保存会発起人
      男爵 岩崎久弥     侯爵 徳川頼倫
      伯爵 徳川達孝     子爵 岡部長職
         大倉喜八郎 奈良県知事 折原巳一郎
         安田善次郎       古河虎之助
      男爵 阪谷芳郎     男爵 三井八郎右衛門
      男爵 渋沢栄一      (いろは順)
  追伸
  尚ほ御醵金御払込之義は、本年七月卅一日迄東京日本橋区坂本町第一銀行宛「奈良大極殿址保存醵金」と御明記の上にて御送金置き願上候、本会事務所は当分の内東京麻布区飯倉町六丁目徳川侯爵邸内に設け置き候、御用の節は右事務所内戸川安宅及塚本慶尚
 - 第49巻 p.316 -ページ画像 
両人の内何れへなりと可然願上候

 時は恰かも大礼を行はせらるべき歳に当れり。是を以て保存せんとする平城宮朝堂院の正殿たる大極殿の往昔即位礼を行はせられし所なるに因み、宮址保存の事業を、将に行はせられんとする即位礼の紀念事業たらしむべきものとし、別に添付するに此の趣旨を敷衍したる一文を以てしたり。当時昭憲皇太后崩御の為め即位礼は延期せられて、大正四年に行はせられしと雖ども、会の設立当時に於ける意気精神は固より尋常にあらざりしなり。その添付せられし一文は左の如し。
  奈良大極殿の保存を以て御即位式記念の一端となさん
  顧ふに我邦皇居ありしより、大極殿を正殿とせる朝堂と、皇宮たる内裏と、並に八省官衙とを以て、所謂大内裏を成すの規矱は、奈良の旧都に於ける大極殿址、並に内裏址を以て、其原型と為す。而して奈良の旧都は、実に元明天皇の、親しく地を卜して、造営を命じたまひし所に属し、東に春日・高円の諸山を眺め、北に佐保・佐紀の諸山あり。西に生駒の連山を望む。是を以て和銅二年、遷都の大詔を下したまひし当時、夙に四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並びに従ふと宣したまへり。奠都の区域は、旧添上、添下の両郡に跨り、広袤一里に亘りて、内裏は其中央の北部に位置し、朝堂院其左側に在りて、之が正殿たる太極殿は、其後方小安殿を控へ、屋宇に金銅の鵄尾を安じ、画桷丹楹、黄金の鐺を列ね、玉石の礎を置き以て結構の壮を極はめ、輪奐の美を悉くし、東西両楼の簷牙は参差として雲表に交錯し、相対して共に竜尾壇の両側に屹立し、左右の歩廊は、翼を張り甍を連ねて、遠く十二堂の外を周匝し、諸門其間を点綴して、扉を四面に開き、西南の閣門は、東西の両朝集殿を左右にして南外門と相対し、禁垣は大内裏の外を囲遶して、十二門を其四面に開き、禁垣の外、亦左右両京の条坊、朱雀大路を中央として区劃井然、四通八達の街衢を成せるあり、之を遶らすに城隍を以てし、一望数里、班田の条里は、其外に連亘す。皇宮の瑰麗、帝都の雄偉なること此の如きは、当時に在りて、既に唐土の京洛を凌駕し、前後中外に、其比儔を求むべからず。
  蓋し、天皇は、我邦中興の英主たる、天智天皇の第四女に在はし遠くは父帝が、夙に孝徳大化の御字に摂政として、朝儀典章、一に唐制に拠りたまひたる、更始一新の鴻謨に基き、近くは先帝文武天皇が、律令を修補して、文華を扶植したまひし、大宝守成の遺緒を纘述したまひて、遂に此希代の造営を遂げられ、内は黎庶をして帝居の尊厳を仰がしめ、外は外藩をして皇都の崇大に服せしめたまひし也。
  然れども其後七十有余年を経て、桓武天皇の一たび平安の新京を奠めたまふや、爾来平城の旧都永く廃して、殿址宮墟は、都城道路の旧型と、共に一変して、忽ち田畝と為りしに、奇なるかな、上下千載を相隔てゝ、当年の遺模、今尚ほ壠塍の間に存し内裏の跡、大極殿の址は言ふを俟たず、竜尾の壇、左右の歩廊等、居然として其墟を留め、十二堂亦多く其遺址を撫するに足る。加ふるに当年の巨
 - 第49巻 p.317 -ページ画像 
祠名刹、概ね依然として当年左京右京の区域内に存するあり、人をして坐ろに南都往昔の盛観を追緬せしむ。此れ豈に真箇神佑鬼護の深きに由るものにあらずや。
  今夫れ大極殿を正殿とせる朝堂院を以て天子大礼を行ふの所となすの制は、素と皇極文武の際に肪まり、後平安王朝の世に及びては時に大礼を紫宸殿に挙げたまひしことありしと雖ども、前後を一貫して、大礼を朝堂に行はせられしことは、依然として奈良旧都の往時に異らず。然れども治承以後は、災余復た大極殿を造営したまはず。遂に紫宸殿を以て、朝堂に代へたまひ、爾来中葉は、戦乱相踵ぎ、皇道陵夷して、王室漸く式微となりしが為め、亦旧制を復したまはず、前後此の如くして、七百有余年を経、以て今日の定制を成すに至れり。是を以て俯仰一千二百有余載の下、玆に最古の造営に係りし大極殿址の、独り奈良旧都に存するを視、之が盛時の壮観を想像して転た無量の感に勝へず。
  是れ不肖等が、自から微力を顧みず、敢て之が旧址の保存と顕彰とに従ひ、以て大正御即位式の大礼を記念し奉るの一端に供し、聊か涓埃の微意を捧げんとする所以なり。
 前記の趣意書、及添付の文面に記されし経画に伴へる、設計の概要は、左の如し。
  奈良大極殿址及内裏址保存石標及記念碑建設設計書
 金壱万七千円也      総設計費
  内訳
 金六千六百円
   大極殿各殿堂、各門阯及廻廊各隅六箇所(一箇所に付四坪宛)
    此敷地総坪数四千六百七拾坪
     内現存せる芝地壱千参百七拾坪
       所在村より寄附に付控除す
   差引不足買上げ坪数参千参百坪
        但し壱坪に付金弐円
 金壱千参百九拾円
   通路用敷地延長六百八拾五間幅一間
    此坪数六百八拾五坪
        但し一坪に付金弐円
 金五拾円
   耕地用水路暗渠弐拾五箇所
        但し壱箇所に付金弐円
 金壱千円
   大極殿及内裏址記念碑
     凡高弐拾尺二箇所
        但し一箇所金五百円
 金弐百八拾円
   各殿堂及各門址並廻廊各隅石標
    弐拾八箇所 但し一箇所に付金拾円
 金五千六百八拾円
 - 第49巻 p.318 -ページ画像 
   各殿堂、各門、各道路、大極殿等の置土、及地平均、手間共一切
    此坪数平面五千六百八拾坪
         但し平一坪に付金壱円
 金弐千円
     諸雑費


奈良大極殿阯保存会事業経過概要 国府種徳編 附事業計数報告・第四―四〇頁大正一二年四月刊(DK490114k-0005)
第49巻 p.318-321 ページ画像

奈良大極殿阯保存会事業経過概要 国府種徳編
                附事業計数報告・第四―四〇頁大正一二年四月刊
中扉
   奈良大極殿阯保存会事業計数報告

  第二 保存会の事業に対する金五円以上の寄附者調
 奈良大極殿阯保存会は、明治四十三年、平城奠都一千二百年紀念祭並に建碑地鎮祭の挙行ありし以来、奈良県当局の管理に属して取扱ひ来りたる寄附金を引継ぎ、引続きて之を県当局の管理に託すること、したりし当時、夙に保存会設立の趣旨に基き、平城宮址の保存事業を完成するを以て、会の主なる目的とし、宮址建碑の事をも、併せて保存事業中の一たらしめたるに因り、其の後受け入れたる寄附金も従来の寄附金と同一名目に依り、すべて之を建碑に対する寄附金とし、引続き之を取扱ひ来れり。
 本来は、会の成立と共に、当然保存会事業への寄附金といふの名称を用ゆべき筈なれども、此の如き慣例もあることゝて、玆には従来の名目をも用ゐ、保存会事業並平城宮阯建碑への寄附者として、五円以上の寄附調を掲記することゝせり。其の寄附者調は左の如し。
    保存会事業並平城宮阯建碑金五円以上寄附者調
○中略

一、〇〇〇・〇〇〇 東京市本郷区湯島切通町一   男爵 岩崎久弥
一、〇〇〇・〇〇〇 同  麻布区今井町四二    男爵 三井八郎右衛門
一、〇〇〇・〇〇〇 同  本所区横網町二ノ七      安田善次郎
一、〇〇〇・〇〇〇 東京府北豊島郡滝野川町西ケ原 男爵 古河虎之助
  五〇〇・〇〇〇 東京市赤坂区葵町三      男爵 大倉喜八郎
  五〇〇・〇〇〇 東京府北豊島郡滝野川町西ケ原 子爵 渋沢栄一
○中略
四、九三四・三九〇 東京市麻布区飯倉町      侯爵 徳川頼倫
五、五〇〇・〇〇〇 同   特別寄附金         同上
一、〇〇〇・〇〇〇 大阪市 同上            匿名篤志者
〔備考〕右の表中、徳川侯爵の寄附に係れる合計一万四百三十四円三十九銭、並に匿名篤志者の寄附に係れる一千円を併せて、一万一千四百三十四円三十九銭を算す。右金額の中、特別寄附金は、別掲の寄附金収支明細表中に之を含まず。
  第三 保存会収支決算と事業終了に関する収支予算
 奈良大極殿阯保存会は、大正二年を以て設立せられたるも、設立以前に於ける御下賜金並寄附金収支決算を経たる後、其の繰越高を収入として納入したるに因り、会の収支決算書中には、奠都紀念祭並建碑
 - 第49巻 p.319 -ページ画像 
地鎮祭ありし明治四十三年以来、会の事業終了を告ぐる大正十二年の二月に至るまでを計上しあり。更に附するに事業終了に関する指定寄附金の収支予算を以てしたり。
    奈良大極殿阯保存会収支決算書
            (自明治四十三年至大正十二年二月)
      収入ノ部
 一金二万二百二十二円七十二銭一厘  受高
   内訳
  金五千八百五十四円六銭一厘    前建碑経画団体の収入高
    内
   金三百円            御下賜金
   金五千三百六十円十七銭一厘   寄附金
   金百九十三円八十九銭      預金利子
  金一万四千三百六十八円六十六銭  本会収入高
    内
   金八千三百七十円七銭      寄附金
   金百五十円           県郡補助金
   金九百十四円二十銭       預金利子
   金四千九百三十四円三十九銭   徳川会長寄附金
      支出ノ部
 一金二万二百二十二円七十二銭一厘  払高
   内訳
  金一千九百七十一円四銭七厘    前建碑経画団体の支出高
    内
   金二百四十一円七十八銭二厘   寄附募集費
   金一千七百二十九円二十六銭五厘 紀念祭典費
  金一万八千二百五十一円六十七銭四厘
                   本会支出高
    内
   金一千六百八十三円五十六銭   寄附募集費
   金一万二千九百六十一円九十六銭五厘
                   土地収得費
     小訳
    金一万二千六百九十八円二十七銭
                   土地買入費
    金百十五円六十九銭五厘    土地収得報酬
    金百四十八円         補償費
   金二千六百十六円七十二銭五厘  諸税及登記費
     小訳
    金一千百四十円六十四銭五厘  諸税
    金一千四百七十六円八銭    登記費
   金二百七十二円十二銭      設計及測量費
   金七百十七円三十銭四厘     雑費
     小訳
 - 第49巻 p.320 -ページ画像 
    金五百六十七円九十四銭    会議並調査費
    金二十四円          道路工事費
    金二円十銭          振替貯金加入費
    金百二十三円二十六銭四厘   実費弁償其他費
  差引    零
外に本会事業終了に関し指定寄附金の収支予算左の如し
 一金壱万壱千五百円         収入総額
    内訳
   金五千円            史蹟名勝天然記念物保存協会ヲ経テ内務省下附金
   金壱千円            匿名篤志者寄附金
   金五千五百円          会長徳川侯爵特別寄附金
 一金壱万千五百円          支出総額
    内訳
   金壱百円            紀念碑除幕神事費
     小訳
     弐拾五円           現場設備費
     五円             神饌費
     弐拾円            神職謝礼
     拾五円            掃除費
     参拾五円           撤供費
   金弐百五拾円          故人石碑建設並墓参費
     弐百円            棚田氏石碑建設費
     参拾円            同上に付寺へ志納金
     拾円             棚田氏墓前香花及謝礼
     拾円             溝辺氏同上
   金壱千五百円          功労者其他へ紀念品費
   金壱千円(別紙予算ノ通)    追悼法要及終了式費
   金六百円(約百人分)      宴会費
   金五百円(東京ニテ使用)    新聞宣伝費
   金五百円(東京ニテ印刷)    事業報告書印刷費
   金四百五拾円          雑費
   金四百円            予備費
   金参千五百円(東京ニテ印刷)  平城宮阯考印刷費
   金弐千七百円(会長ニテ処分)  功労者賞与其他
                       以上
 以上の如く予算は、既に奈良県に於て編製せられ、之に基き東京並奈良両事務所に於て、事業終了に関する準備を進行せしめたり。三月東京並奈良の両地に於て事業終了に関する準備を進めたりしに、同月六日に至りて事業終了事務機関を設置するに非ざれば、到底予定の如く準備の進捗を期し得ざるべき状態にあることを知り得たるが為め、同九日を以て事業終了東京事務所を、南葵文庫別館内に置くことゝなりし結果、更に事業の終了をして有終の美を済さしむるが為め、必要なる経画と準備とを補充するの必要を感ずるに至れり。
 此に於て之に要する経費を計上し、追加予算を編製して之を評議員
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会の議に附することゝなれり。同二十二日、東京会館に開かれたる、徳川会長の評議員招待会に引続きて催されたる協議会の議決を経、追加予算も確定すると共に、之に対し会の創立当時に於て各評議員より発起人として寄附ありしと同額の寄附をなすことを決議し、此日出席なかりし評議員に対しても、その決議を通知して、同じく寄附を求むることゝなりたるが為め、此等寄附の金額に依り、優に追加予算の経費を支弁し得るに至れり。
追加予算は左の如し。
 一金四千円
   内訳
  一金七百円   紀念碑石柵建設及桜樹植込費
  一金八百円   報告書編纂及印刷費追加(本五百円)
  一金五百円   宣伝費追加(本五百円)
  一金千二百円  本会終了事務費
  一金八百円   遺族功労者給与追加
        以上
 二十二日、評議員会に引続ける協議会の結果、各評議員より新に申出ありし特別寄附金左の如し。
 一金壱千円也   男爵 岩崎久弥氏
 一金五百円也   男爵 大倉喜八郎氏
 一金壱千円也      安田善次郎氏
 一金壱千円也   男爵 古河虎之助氏
 一金壱千円也   男爵 三井八郎右衛門 氏
 一金五百円也   子爵 渋沢栄一 氏
             (以上いろは順)
        以上
 事務終了の準備に就ては前記の如く事業終了予算並追加予算、及之に対する特別寄附金は既に確定したり。是を以て保存会事業終了の進行を敏活ならしむるの道、此に確立せられ、予定の如く四月上旬を以て終了式を挙行し得ることゝなりしも、遺憾乍ら宮城県牡鹿郡稲井村(石巻附近)の石工に付したる平城宮阯保存紀念碑の鐫刻意の如くならず、約定の期日たる三月二十五日迄に、奈良へ到着せしむることを得ざるに立至りし結果、終了式の期日を、已むを得ず五月十二日に延期することゝなれり。徳川会長並匿名篤志者を始め評議員諸氏の特別寄附金に依り事業の終了をして有終の美を済すに十分なる見込を立て得るに至りたるは、終了準備に従事する者の、一同深く感謝して措く能はざる所なり。


奈良大極殿阯保存会事業経過概要 国府種徳編 第六〇―六三頁 大正一二年四月刊(DK490114k-0006)
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奈良大極殿阯保存会事業経過概要 国府種徳編
                    第六〇―六三頁
                    大正一二年四月刊
○第七章 保存会事業終了事務所の設置と寄附準備の進行
    第二節 朝堂院阯の寄附準備進行
○上略
 是の日、両氏○主幹木田川奎彦副主幹国府種徳は更に徳川会長を宮内省に訪ひ、協議
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を重ねたる末、会の創立当時に於ける発起人にして、引続き会の評議員たる人々に対し、一応事業の終了を告くるに至りし顛末を報告し、併せて終了に際し、一切の点に於て有終の美を済さしむるに就き、協議する所あるを至当となすとの議出で、徳川会長に於て是等の人々を招待せらるゝことゝなり、事業終了と寄附準備進行との為めに、事務執行の機関を設置するの必要を生じ、九日に至りて、東京並奈良両事務所の設置せらるゝと共に、評議員招待会の準備に著手せり。会長は主として評議員子爵渋沢栄一氏の都合に基づきて、期日を二十二日に定められ、東京会館を会場とせられたり。
 事務・編纂両主任は、協議の末、先つ招待状案を作製し、之を会長に提出したり。其文案は左の如し。
      招待状案
 謹啓 向煖の候に御座候、愈御清穆之段大慶の至に奉存候、偖而久しく御高配を仰き居り候奈良大極阯保存会の平城宮阯保存事業を今回国家の管理に移し候ことと相成り候に付、四月上旬を以て会の事業終了を告け度、因て之に先たち予しめ事業経過の御報告に併せて御協議申上度、御多用中恐縮の至に候得共、来る二十二日(木曜日)午後五時より東京会館へ御枉臨被成下度願上候、不取敢右御案内まて如此に御座候 不備
  大正十二年三月十二日
            奈良大極殿阯保存会会長
                   侯爵 徳川頼倫
   評議員
    何爵 何某殿
 発起人にして評議員たる人々の中、奈良県知事として在任したる者並物故したるの人あり。後者は安田善次郎氏にして、前者は折原巳一郎氏なるも、今は成毛基雄氏之に代はり、前知事たりし木田川奎彦氏亦事務進行の関係上、依然として評議員たり。今その姓名を掲くれば左の如し。(いろは順)
                 男爵 岩崎久弥氏
                 伯爵 徳川達孝氏
                 子爵 岡部長職氏
                 男爵 大倉喜八郎氏
                 男爵 古河虎之助氏
                 男爵 阪谷芳郎氏
                 男爵 三井八郎右衛門氏
                 子爵 渋沢栄一氏
 成毛奈良県知事、木田川前奈良県知事、亦此の列に在り。奈良県社寺課主任今井文英氏は、成毛知事に代りて出席することゝなり、招待状は、前記八名宛にて発せられたり。
 木田川主幹は、九日を以て大阪方面に旅行し、十三日夕を以て帰京あり、国府副主幹は十二日夜を以て出発、岩手県に向へり。評議員招待会の準備は、著々として其の間に進行し、二十日、副主幹の帰京するや、同日午後三時より、徳川会長、木田川主幹、国府・橘井両副主
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幹並に事務・編纂両主任、両主事、皆な事務所に参集して、招待当日の準備を取纏めたり。其の間、今井奈良事務所事務主任は十二日栄転して南葛城郡長に任せられしも、知事代理として、二十一日朝著京せり。
 二十二日、定刻たる午後五時には、三井男爵・大倉男爵、岩崎男爵代理桐島像一氏の来会せらるゝと相前後して、徳川会長・阪谷副会長岡部子爵・徳川伯爵の出席あり。必らず出席せらるべき筈なりし渋沢子爵、遽に支障ありて欠席せられ、古河男爵も亦出席なき旨を伝へ来れり。木田川主幹・国府副主幹・今井奈良県南葛城郡長・宮沢編纂主任、亦列席ありて、玆に協議会は開かれたり。
 徳川会長先づ起ちて、事業終了を告くるに至りし顛末の概要を陳べられ、木田川氏亦事業報告をなし、かくて協議会に入りたるに、岡部子爵先つ事業の終了をして有終の美を済さしめたきに付、木田川氏説明の如き追加予算の要求額に対し、適当の方途を講せられたき旨を希望せられ、協議の末、阪谷男爵の発議に依り、各発起人の創立当時に於けると同額の寄附をなすことゝして決定し、尚ほ此の日決定したる事項を、出席なかりし人々に通知して承認を求めたしとの希望あり、追加予算亦承認を経たるに因り、是れにて協議会を終はり、三井男爵は直ちに退席せられ、一同は其れより食堂に入りて、款談に時を移し午後九時を過ぐるころ、相前後して退散せり。引続き事務所関係の諸氏、徳川会長・岡部子爵・徳川伯爵に対して、記念の揮毫を索め、十時半を以て散会したり。是の夜、出席なかりし評議員に対する通知状の文案を議定したる外、事業終了式挙行の期日を、五月十二日となすことに改定せり
○下略