デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
4節 史蹟保存
7款 玉川史蹟猶興会
■綱文

第49巻 p.342-350(DK490121k) ページ画像

大正11年9月24日(1922年)

是年七月、石井扇吉・石井正義・羽場順承等、文政十二年ニ壊決セル、松平定信揮毫玉川碑ノ再興ヲ計リ、玉川史蹟猶興会ヲ起シ、是日、玉川史蹟講演会ヲ開ク。栄一史蹟ヲ踏査シ、「玉川碑と白河楽翁公」ト題シテ講演ヲナス。

十二月、当会成立シ、栄一顧問ニ任ズ。


■資料

(羽場順承)玉川碑再建ニ就テ(DK490121k-0001)
第49巻 p.342-343 ページ画像

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玉川史蹟講演会案内(DK490121k-0002)
第49巻 p.343 ページ画像

玉川史蹟講演会案内            (杉本寛一氏所蔵)
(印刷物)
    玉川史蹟講演会案内
 玉川を中心とする武蔵野数十里四方の住民に、深き関係を有する史蹟名勝の埋没し居るを嘆き、玆に其歴史的事実の宣伝を為すため、本会総裁渋沢子爵閣下の御来演を請ひ、左の順序に依り講演会相催度候間、御多忙中恐入候へ共万障御繰合御来会被下度、此段御案内申上候 敬具
     順序次第
一日時 九月二十四日(日曜)午後一時より
一場所 狛江村玉翠園内林間学校に於て
一開会の辞            府会議員 石井寅三氏
一詔書捧読            狛江村長 石井扇吉氏
一玉川碑の由来          郡会議員 石井正義氏
一史蹟保存に就て       東京府史蹟係 稲村坦元氏
一玉川史蹟に就て  帝大資料編纂官文学博士 八代国治氏
一玉川碑と白川楽翁公         子爵 渋沢栄一閣下
一閉会の辞(不思議の因縁と余の責任) 理事 羽場順承氏
          東京府北多摩郡狛江村役場内
  九月二十日○大正一一年       玉川史蹟猶興会


玉川碑と白河楽翁公 渋沢栄一述 前付・第一―二頁 大正一二年五月刊(DK490121k-0003)
第49巻 p.343-344 ページ画像

玉川碑と白河楽翁公 渋沢栄一述 前付・第一―二頁 大正一二年五月刊
    はしがき
 本篇録する所は、渋沢子爵が昨大正十一年九月二十四日玉川史蹟猶興会の請に依り、北多摩郡狛江村玉翠園内に開かれたる玉川史蹟講演
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会に臨みて試みられたる講話にして、其楽翁公に因める所深かきの故を以て玆に剞劂に附し、別冊歌集「もとの心」と共に、之れを此月十三日巣鴨分院に挙行せんとする同公記念会参列者に呈せんと企てられたるなり。
 抑も玉川史蹟猶興会なるものは、文化二年即ち今より百年の昔、楽翁公が里人の請を容れて自から万葉集より
  多摩河泊爾、佐良須手豆久利、佐良佐良爾、
  奈仁曾許能児能、己許太可奈之伎
てふ古歌一首を撰びて書し与へ、之れを石に刻して多摩郡猪方村(今の北多摩郡狛江村字猪方)に建てしめたるを、文政十二年の洪水に河岸壊決して碑石埋没し、今に其所在を発見する能はざるを慨げゝる同地有志の士が、其復興を図らんが為めに客年中組織したる団体にして我渋沢子爵の故公に私淑すること深かきを知れる同会員は、子爵の援助の下に旧碑の拓本を模刻して新たに一の記念碑を建つることゝし、客秋遂に子爵に請ふに該史蹟の踏査と講演とを以てしたり、之れ子爵が「玉川碑と白河楽翁公」なる題下に一場の講話を同地に試みられたる所以にして、此一篇は即ち当日の筆記なりとす、聊か本書印行の因由を語らんが為め一言を記す。
  大正十二年五月        東京市養育院にて
                       田中太郎識


玉川碑と白河楽翁公 渋沢栄一述 第一―一二頁 大正一二年五月刊(DK490121k-0004)
第49巻 p.344-348 ページ画像

玉川碑と白河楽翁公 渋沢栄一述 第一―一二頁 大正一二年五月刊
    玉川碑と白河楽翁公
                     渋沢栄一述
 此度御当地に埋没して在ります白河楽翁公の御筆になる玉川碑再建の事に就て、過日来石井・羽場の諸君から御相談を受けましたから、今日参上いたしましたので御座います。
 先年桑名藩の江間政発といふ人から楽翁公の事を承りまして、爾来公の御経歴を種々取調べて見て私は楽翁公の御人格に非常に敬服し、進んで其偉大なる功績をいろいろな方面から推究して、これを世の同志と共に広く一般に御伝へ致す事に努めて居りますが、公の方面と申しますと実に其範囲が広く、文学・歴史・地理・経済・博物等に渉られ、殊に徳川幕府の政治には非常に意を注がれまして、其上今日で申すなら社会政策とか済貧恤窮の方面にまで其御手が届かれて、遺蹟数多き中にも、地理的には吾々の住む東京が中心となつて居ります。
 元来私は学問も才能も乏しく、唯だ数年来公の事業調査に力を致し其人格に感応する処がありますので、特に其御事蹟に就ては何方までも参上いたすやうな訳で御座います、私は只今東京市の養育院に関係致して居りますが、この養育院も元来は即ち楽翁公の博愛に起因して居ります、即ち公の御遺蹟を此院が体得いたして、物質的に之れを拡充し、老いたるものも幼きものも保護養育するといふわけ合であります、但し現在直接には養育院と公との関係があるわけではないけれども、常に公の御徳に依頼致して居ります、私が此養育院に関係いたして居りますのは、如上の意味からして常に嬉しく思ふて居るので御座
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います。
 此度この狛江村の地に、往昔水害の為に埋没した楽翁公の書かれた玉川碑が再建されますのは誠に芽出度いことであります、此史蹟を永久に保存する最もよい方法として、私は差当り別にこれと云ふ具体的の考へもありませんが、兎に角実地を視察してからのことに致さうと存じまして、乃ち石井及羽場の諸君と一日を約し、遂に今日に至りましたわけであつて、斯く地方諸君の多数御来会を得ましたことは私として実に喜ばしく思ふのであります。
 前にも申上げました通り私は歴史家でもありませんから、たゞ今日は狛江の郷に参りまして公の事蹟に接し親しく公を偲ぶと云ふ心得で参りました、然るに何か演説をせよとの御希望でありましたので実は困つて居るのでありますが、兎に角私としては今日の場合公の御人格を切れ切れなりともお話し申上げたいと存じます。
 昨日は怪しい天気で御約束も果す事が出来ないかと心配して居りました処、公の遺徳の然らしむる処か、或は諸君の熱誠によりたる為めか、本日の快晴を見るに至りましたのは重ね重ね喜ばしいことであります、先程も御話を承りました通り、玉川を縦面に見ることの出来る此美しい自然の景勝、彼岸には鬱蒼たる樹林あり、而して下流の此岸には風光明媚なる此村荘あり、平素我が私淑する白河楽翁公の御話を此所で致すのは心から愉快なことであります。
 歴史の尊むべきことに就きましては今更申す迄もないことでありますが、人として歴史を重じ先祖の遺業を明確にして之れを追慕せねばこれ全く他の動物と同じことになります、即ち善き歴史を善く保存するのが人類文化の進歩する所以であります、野蛮人は過去を知らず歴史の保存を知りません、歴史を知り歴史を保存し、これを後世に伝ふると否とで文野の区別が分かるゝのであります、歴史を重んずる国民は即ち文化の発展に心を致す者で、また歴史は文化発展の資料として最も重且つ大なるものであります。
 単に歴史と申しましてもいろいろありまして、大革命とか又は君を弑し国を奪ふも歴史の一端であるが、善き歴史即ち偉人の功績等が伝はる程喜ばしき事はありません、私は若い時から漢籍を好み支那の書物を見ましたが、古文真宝といふ書籍の中に阿房宮の賦があります、実に名文である、つまり阿房宮の起原から其廃滅までを綴つたもので読者をして非常に感動せしむるのであります、その意味は秦の始皇帝が六国を亡ぼし其勢威に乗じて宮殿を造つた、然るに僅々四・五十年にして漢の為に亡びるといふわけで、其時代と趨勢と変遷とをよく現はし遂に六国を亡ぼす者は六国なりと断じてあります、末段を読みますと「楚人一炬可憐焦土。嗚呼滅六国者六国也非秦也。族秦者秦也非天下也。嗟乎使六国各愛其人則足以拒秦。秦復愛六国之人則逓三世可至万世而為君。誰得而族滅也。素人不暇自哀而後人哀之。後人哀之而不鑑之亦使後人而復哀後人也」とよくその時代の有様と興亡の因果とを、短い文章の中に編み入れて後世に残してあります、また有名なる蘇東坡の赤壁賦には三国志の魏と呉との戦争を引用し、哲理を加味してよくこれを言ひ現はし、当時の景状を物語つて居ります、蓋し私共
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が歴史を知り歴史を利用して、より善き文化へ進展せしむることを努力するのは実に有意義の事であまりす。
 歴史は誠に大切なものである、歴史を知り歴史を残し、過去によりて偉人の功績を偲び、そこに文化の華と実とを求める、これが私の歴史観であります。
 さて話は大分岐路に入りましたが、私の本日の主題は白河楽翁公の経歴である、而してこの玉川の土地で特に公の遺蹟を調査し、諸君と共に之を偲びこれを永久に伝へたいといふのでございます。之れに就て私は公の御行実を極く簡単に申上げたいと存じます。
 戦国時代は権力と威圧との時代であり、従つて当時の大人物は皆この力に依て自分の勢力を得地盤を築きました、徳川家康が元亀、天正の戦乱の後を受けて反対に文化を以て人心を和らげ、天下を安泰にしやうと心掛けたことは、政治的手腕の優れて居た点であると私は深く敬服致して居ります。
 人各長短あり、当時の歴史を按ずるに信長には信長の長所もあつたが一面頗る過激の性格を持つて居た、而して其滅亡もこれに原因したと思ふ、又秀吉も壮年までは実に機敏にして且勤勉なりしも、晩年の驕奢と其品行とは大欠点として挙げねばならぬ、独り徳川家康は人格者として無疵の人である、織田・豊臣が武力で一時を圧服したるに引替へ、徳川は文治によりて人心を和らげ統一の鴻業を完うした、殊に学芸を勧め儒教は朱子学、仏教は浄土・天台を以てし、藤原惺窩・林羅山又は黒衣の宰相天海僧正、金地院崇伝の如きは実に家康が文教を重んじた事から生れた産物であります、従て徳川の歴代は多くの偉人が生れて居ます、三代の家光、八代の吉宗、十五代の慶喜など皆個人としても出色の人格者であつたといはねばなりません、中に就て今私の尊敬して玆に説明する白河楽翁公が居られるが、公は実に八代将軍吉宗の孫でありまして、幕政紊乱の時に当り尾・紀・水三家評議の結果、この白河楽翁公即ち当時の松平越中守定信が難局に当つて大改革を企てられたのであります、時は天明七年八月で実に公の年齢三十でありました。
 故中村秋香と云ふ歌人が公の一生を小説的に書いた中に、越前侯に嫁した公の妹が公を訪問して「此の幕政の紊乱の際兄上は如何なる覚悟にて執政の職に当られるか」と申上げた時、公は直に「兄妹なればこそお前の心痛は誠にさる事なれども、今日の場合我覚悟はたゞ一死あるのみ」と答へられた、妹君はこれを聞て「然らば最早何も申上げますまい」といふて安心されたと書いてある、これを見ても公が如何なる決心で此難局に当られたのかゞ推察されるのであります、果して然り、天明七年八月就職後四五ケ月を経て天明八年正月に公は其祈願所たる本所吉祥院の聖天に、次の如き起誓文を捧げられたのであります、今こゝで其誓文を読んで見ます。
  「天明八年正月二日松平越中守義奉懸一命心願仕候、当年米穀融通宜く格別の高値無之、下々難義不仕安堵静謐仕、並に金穀御融通宜く御威信御仁恵下々え行届候様に、越中守一命は勿論の事、妻子之一命にも奉懸候而必死に奉心願候事、右条々不相調下々困
 - 第49巻 p.347 -ページ画像 
窮、御威信御仁徳不行届、人々解体仕候義に御座候はゞ、只今之内に私死去仕候様に奉願候生ながらへ候ても中興の功出来不仕汚名相流し候よりは只今の英功を養家の幸並に一時之忠に仕候へば死去仕候方反て忠孝に相叶ひ候義と可存候右の仕合に付、以御憐愍金穀融通、下々不及困窮、御威信御仁恵行届、中興全く成就之義偏に奉心願候、敬白」
 これを拝読致しますと公は赤誠を以て神に誓ひ、幕府の為め人民の為めあらゆる努力を尽さむとせられたのであります、今年は公の死後九十四年になりますから、尠くとも今日より百二十年以前にこの誓文の覚悟を以て国政に当たられたのであります、心ある者は誰れか涙なくして之れを読み得られませうか、当時に於て此誓文の精神は公ならでは持つことの出来ないものであつたと思ひます、世上往々にして見る所の徒らに我党派の勢力を張らんが為めに種々苦肉の策略を弄し、又は政権争奪の為めには如何なる手段をも辞せざらんとする政治家等に取つては、この一枚の誓文も或は一服の清涼剤となるであらうと思ひます。
 世の中には言ふ人と考へる人と行ふ人とありますが、言ふ人必ずしも考へ行ふ人ではなく、考へ行ふ人必ずしも好く言ふ人ではありません、いや一面から申すと巧言令色鮮矣仁で、好く言ふ人こそ却て誠意も少なく唯だ言葉の上で巧に云つて人を惑はす者が多いので、忠実とか誠意とか云ふ方面から申すと何等の価値は無いのであります、私は性来他人の言ふことを善く聞き取るものでありますが、総てを軽信して後に誠意なきに心付ても最早致し方はありません、若しも世間の人が皆公の誓文のやうな精神を持たれたならば言ふ人必ずよく行ふ人で誠に心地よきことであらうと思ひます。
 公は始め田安家で学に就かれ、六歳から漢書を読み、十一歳にして詩を作られる程文学に就ては天才を持て居られました、十三歳の時に自教鑑と云ふ書物を書かれて、神に対し人々に対して自分のとるべき心掛けを委しく述べられたものである、其稿本に田安家の儒者広瀬氏が手を入れて相当に作成された、其御褒美として公は父上から史記を頂戴したといふことが公の自叙伝にあります、此一事を以てしても公が年少よりよく其身を省みるに努められたと云ふことが知り得られます、僅かに十三歳で此自教鑑を書かれたことから察して見ても、公は幼少から負けず嫌ひの御人であつたらしい、十七・八歳位の時には随分側近の人々を困らせたので、公が疳癪を起されると何時も周の大公望垂鉤の画を床にかけて其疳癖を止められたと云ふ逸話もあります、其後公も自分から此欠点を直さんといろいろに自省克己され、遂に完全な人格を造られたが、其克己の念の強かつたことは私共の模範とすべきであらうと存じます、公が能楽と弓術とに長じられたのは御自分の性癖を矯めむとして之れを勉強せられたものと思ふが、二十歳前に感ずる所ありて能楽は全然廃止されたと自叙伝にあります。
 先日私は或人から贈られた書物を見ましたが、其書の中に徳川幕府の外交上最も重大であつた長崎出島の耶蘇教の事が書てありました、それには公の名は出て居りませぬが、寛政二年に公がこの出島に就て意見を述べて居られたことが書てありました、公が地理に関する智識
 - 第49巻 p.348 -ページ画像 
は該博なものであります、就職の後房総地方を巡遊されて其土地に就て詳細に取調べ、国防上其他種々重要の意見を定められました、又博物に就ても今の学者が三舎を避くる程の智識を持つて居られた様であります。
 公には徳川初代の血が伝はつて居たからかも知れませぬが、幕府の事には注意深く、隠居後は幕政に就て決して云々されませぬ、友人と談話する際にも在職中のことに就てはお互に無言と云ふ約束の下に面会をされた、従兄弟でありながら一方の家斉は将軍として権勢を張り自分は其臣下として老中の職にある時も、又た隠退後も、毫も不平の色はなかつた、兎角に人は感情に走ると、直ぐ他人を譏り又は嘲笑する、然るに公の態度は実に謹直和平であつた、是れは私共の常に注意しなければならぬことであらうと存じます。
 何分御話しが纏りませぬが、此度御当地に於てこの偉大なる楽翁公が文化的に最も意義あるこの玉川に建てられた石碑が水害の為めに埋没されたのを諸君の尽力により再興されると云ふのは実に近来の快事であつて、最好の歴史を後代に残すものと歓喜して居ります、而して諸君から御相談を受けて共に此挙に力を致しますことも私が平素深く公に私淑して居ります関係上甚だ愉快に思ふのであります、此意味に於て私は今日の演説を畢ると共に有志各位に深厚の謝意を表します。


石井正義回答(DK490121k-0005)
第49巻 p.348 ページ画像

石井正義回答           (財団法人竜門社所蔵)
一、大正十一年十二月二十日玉川史蹟猶興会成立《(マヽ)》
一、大正十一年九月二十四日玉川碑再建ニ付玉川和泉猪方地方御踏査玉翠園にて御講演あり、文学博士八代国治氏・東京府史蹟掛稲村坦元氏其他
一、本会に関係せらるゝに至りしは羽場順承が玉川碑再興を子爵に謀りし也
一、本会に於ける職名は顧問にて総裁の資格であつた
○下略
   ○右ハ当資料編纂所ノ問合セニ対シテ昭和十三年十月一日付回答セラレタルモノナリ。


玉川史蹟猶興会書類(DK490121k-0006)
第49巻 p.348-349 ページ画像

玉川史蹟猶興会書類          (渋沢子爵家所蔵)
    玉川史蹟猶興会会則
 第一条 本会ハ玉川碑再興ヲ図ルヲ以テ目的トス
 第二条 本会ハ玉川史蹟猶興会ト称シ、事務所ヲ北多摩郡狛江村和泉泉竜寺内ニ置ク
 第三条 本会ノ趣旨ヲ翼賛シ其事業ヲ援助スル者ヲ以テ会員トス
 第四条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
     顧問  若干名
     会長  壱名
     副会長 壱名
     理事  参名
 第五条 顧問ハ学識名望アル人ヲ推薦ス
 - 第49巻 p.349 -ページ画像 
     会長・副会長ハ役員会ニ於テ推薦ス
     理事ハ会長之ヲ選定ス
 第六条 会長ハ会務ヲ総理シ本会ヲ代表ス
     副会長ハ会長ヲ輔佐シ会長事故アルトキハ之ヲ代理ス
     理事ハ本会ノ実務ヲ掌理ス
     会計ハ理事中ノ一人之ヲ掌ル
 第七条 本会ハ予定計画ノ終了スルマテ存続シ、随時役員会ヲ開キ諸般ノ報告並ニ事務執行ニ付協議スルモノトス 以上
  本会ノ役員左ノ如シ
   顧問              子爵 渋沢栄一
   顧問           東京府知事 宇佐美勝夫
   顧問             代議士 秋本喜七
   顧問            府会議員 石井寅三
   顧問           北多摩郡長 宮城栄三郎
   会長            狛江村長 石井扇吉
   副会長           郡会議員 石井正義
   理事           四賢堂学人 羽場順承
   理事            村会議員 井上半三郎
   理事            村会議員 本橋久八



〔参考〕玉川史蹟猶興会趣旨(DK490121k-0007)
第49巻 p.349-350 ページ画像

玉川史蹟猶興会趣旨           (杉本寛一氏所蔵)
    玉川史蹟猶興会趣旨
夫レ国ヲ愛シ郷土ヲ重ンスルノ精神及思想ハ素ヨリ至誠ノ衷情ニ出ルト雖、其淵源ハ各々其土地ニ保有スル所ノ史蹟名勝ニ因テ以テ浸潤涵養セラルヽコト大ナリ、蓋シ我国名勝史蹟ノ内凡ソ六玉川アリ、今玆ニ再興セントスル玉川碑ハ即チ其一ニシテ、是ヲ武蔵国多摩郡調布玉川ト称スルナリ
古来此地方ハ調布トテ苧麻及蚕糸《カラムシ》ノ産地ニテ、里人織リ之ヲ玉川ニ晒シ是ヲ朝廷ニ献納シタル所ナリ、此地ニハ奈良朝時代既ニ玉川ノ詠歌ヲ存シ、中右黄門定家卿ガ此里ニ遊ビテ歌ヲ詠ゼシニ依リ其名益々顕ハル、此地ハ武総国府間ノ要衝ニテ往キ来ケ岡ノ名アリ、今ハ相州街道ノ分岐点ノ要路ニテ渡船場ノ存スル所、即チ北多摩郡狛江村ノ地玉川北岸里称半縄ノ涯ニ属ス
徳川幕府時代文化年間江戸ノ学者平井董威ナル人、此地ニ来リ住シ里人ノ子弟ヲ教学セシトキ、調布ノ史蹟ヲ検討シテ之ヲ有志ニ計リ玉川碑ノ建立ヲ見ルニ至リシナリ、其碑文ハ万葉古歌一首ニテ、白川楽翁公ニ書ヲ請ヒ、碑陰記ハ広瀬典氏撰文、大冢桂氏ニ書セシメ、是ヲ碑石ニ銘鑱シ、猪方村半縄ニ樹テ、初メテ玆ニ玉川碑ノ矻立スルヲ見ルニ至リシナリ、是実ニ文化二乙丑年十二月ナリ
然ルニ二十有五年ノ後文政十二年己丑ニ至リ、玉川氾濫ノ為メ倒碑埋歿シタルナリ、爾来年所ヲ経ル実ニ九十四年、河底ニ沈淪シ史蹟ノ世ニ知ラレザルハ心アルモノヽ遺憾トスル所ナリ、幸ニ碑文ノ搨本及古書等ノ記録ニ依テ頃者之ヲ発見シ、土地ノ有志旧碑発掘ヲ試ミシモ遂ニ発見スル能ハズ、甚ダ望洋ノ嘆ナクンバアラズ、玆ニ於テ有志ハ内
 - 第49巻 p.350 -ページ画像 
務大臣及東京府知事ニ上伸シ、史蹟名勝保存法ノ適用ヲ要請セシニ、東京府ハ大正十一年八月此ノ史蹟ヲ認定シ、狛江村大字猪方半縄ニ其ノ標識ヲ立テラルヽニ至レリ、内務省トシテモ保存法ノ保護ヲ加ヘラルルコト蓋シ疑ヲ容レザルナリ
今ハ此玉川々水ヲ引キ、皇室ヲ始メ奉リ帝都市民ノ飲料ニ供給スルノミナラズ、本府並ニ隣県ノ田園ニ灌漑シ其徳沢甚ダ広大ナリ、而シテ将来大都市計画ノ成ルニ至リテハ狛江村ハ隣接村ト成リ、交通機関ハ益々完成スルヲ得バ、此名勝此史蹟ノ地ニ都人ノ来遊ヲ招クハ火ヲ見ルヨリモ明カナリ、左レド其史蹟名勝ガ碑石ノ埋歿ト共ニ廃滅ニ帰セルコトノ甚ダ遺憾ナルヲ感ジ、玆ニ玉川史蹟猶興会ヲ発企シ、専ラ諸賢ノ賛同ヲ得テ再ビ此碑ヲ建テ、更ニ搨本ヲ作リテ有志ニ頒チ、稀世ノ賢宰相楽翁公ノ遺徳ヲ拝シ、且ツ天下史蹟名勝ヲバ永遠ニ伝ヘンコトヲ思ヒ、之ニヨリテ国民思想郷土観念ノ涵養ニ資セントス、冀クハ愛国ノ諸賢大ニ此ノ挙ヲ翼賛セラレンコトヲ云爾
  大正十一年十月一日 玉川史蹟猶興会