デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
5節 祝賀会・表彰会
10款 豊川良平還暦宴
■綱文

第49巻 p.397-398(DK490136k) ページ画像

明治45年5月9日(1912年)

是日、豊川良平、帝国ホテルニ於テ、還暦自祝ノ宴ヲ催ス。栄一出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK490136k-0001)
第49巻 p.397 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
五月九日 雨 寒
○上略 午後六時帝国ホテルニ抵リ豊川良平氏ノ招宴ニ出席ス、来会者三百名許リニテ頗ル大会ナリ、食卓上一場ノ演説ヲ為シテ豊川氏ノ還暦寿ヲ祝ス○下略


中外商業新報 第九三四九号明治四五年五月一〇日 ○豊川氏還暦宴 朝野諸星の会合(DK490136k-0002)
第49巻 p.397-398 ページ画像

中外商業新報 第九三四九号明治四五年五月一〇日
    ○豊川氏還暦宴
      朝野諸星の会合
豊川良平氏の還暦宴は既記の如く九日午後七時より帝国ホテルに開けり、席定まるや主人豊川氏は拍手の間に起ちて左の如く一場の挨拶を述ぶ
 閣下及諸君、小生は五十三年前八才にして父を喪ひ又四十七年前十四才にして母を亡へり、養父は小野順吉、実父は同篤治と称し、共に田舎に生計を営み財産を有せず、而かも小生は弟妹を擁し同胞三人不幸の生涯なりしが、幸にして故岩崎弥太郎氏の母堂及同氏夫妻の扶翼を受け、且中年より故岩崎弥之助氏夫妻其他の擁護を得て今日あるに至り、夫婦の間に九人の子女と二人の孫児とを得、四十七年の長日月間未だ曾て新たに墳 《(塋カ)》を営みたることなし
 然れども過る明治廿三四年の交大患に罹り漸く快癒したり、是より先、明治生命・帝国生命の両会社と終身保険の契約を結び、同廿五年日本生命保険会社と養老保険の契約を結びしが、当時此の三保険会社の保険金総額は金千二百七十五万円に止りたるに、今日は実に金二億四千二百万円に達し、諸準備金は二十五年には金六十九万円に過ぎざりしに、今日は金三千八百万円に達したり、明治生命は明治十四年に起り、帝国生命は明治二十二年、日本生命は明治二十三年に起り、而して創立当時の三会社社長は皆健全なり、即ち阿部泰蔵・福原有信・片岡直温の三君是なり、生命保険業の大発展は我国力増進の一端を示すものにして、此他銀行事業の如き、鉄道事業の如き、海運事業の如き、其他万般の産業一として長足の進歩を来さざるものなく、今日の現況を以て二十五年当時の状態と比較するに其差霄壌も啻ならず、過去二十年間に於ける帝国産業の進歩、国力の発展洵に慶祝に堪へざるなり
 小生が今夕各位を招請し奉るの実は、日本生命保険会社より受けたる養老保険金あるに頼る、若し小生をして短命ならしめは同社より、得る所は正に葬費に充つべかりしに、幸にして妻子と共に瓦全今日
 - 第49巻 p.398 -ページ画像 
に及び、此に閣下及諸君に見ゆるの栄を得たるは欣快禁ずる能はざる所なり
 今夕光臨を仰ぎたる土方伯爵・細川男爵・福岡子爵・大隈伯爵・大倉翁・安田翁・渋沢男爵・松尾男爵・桂公爵は皆小生より年長にして矍鑠たる方々なり、希くは小生も諸賢に肖り、今後益々壮健にして公共の事に微力を効すを得んことを、今夕は公私御多繁の際貴重の時間を割愛せられ、斯の如く閣下及諸君の尊来を辱ふせるは、小生及一門の光栄之に如くものなく深く感謝し奉る所也
次で桂公爵は来賓を代表し次の祝辞を述ぶ、其の要に曰く
 此の慶ばしき宴に列り得たるを無上の光栄とす、豊川良平君が国家経済就中金融界の為に尽力せられたるの功績は何人も之を認めて疑はざるべく、殊に去る二十七八年の国難に際し渋沢男及安田翁と共に、熱心君国に尽されたるの一事は君が性格の一斑を窺ひ得べく、余は還暦の宴を開かれたる君が今後尚一層国家の為健康を保たれんことを熱望す云々
公の演説終るや否や金杉医学博士は「拙者は豊川氏の門下生たるを甘ぜんとする者なるが、其の理由に三つあり、其の一は豊川氏が万事ブラザルことにて如何にも豪ら相な顔をせず何時も莞爾せること、其の二は直言以て誠意を貫くこと、其の三は拙者が洋行より帰りしとき書生上りの拙者に一万八千三百円の融通を与へ、拙者に今日あらしめたることなりと満堂を笑はせたるが、此の時大隈伯決然として立てり、「我輩は豊川君の過去の功績を数へて今夕の祝辞とはせじ、宜しく君及君が家庭の将来の発展を深く祝し、尚且つ君も亦我輩と均しく百二十五才までは大丈夫ならんを望む」と気焔を吐けるに、次ぎ土方老伯又起上り「豊川君は還暦などゝ年老ひの気心もせんかなれど、小生よりすれば二十も若し、未だ未だ青年なり」と薩摩人の元気を見せけるが、渋沢男は黙つては居ず、「豊川君は実業家なれども而かも亦た英雄なり、此の英雄的商人の今後益々国家の為め活動せんことを冀ふ」と愛嬌を振撒き、林逓相之れを承け「先刻より立派な演説のみありたる後ちに、余の如きが殿弁を揮ふのは笑止の至りなれど、豊川君に強求れて仕方なく立てり、諸君乞ふ之れより別室にてウヰスキーを呑まん」と逃げたるが、最後に大倉鶴彦翁は祝歌一首を読み上げぬ
  みそとせの年波はまだ豊川の
      つきぬ流れの半なりけり
終りて豊川氏の答辞ありて宴を撤し、別室に入り全く散会せしは十時過ぎにて、朝来の雨雲一排、爽気限りなし、来会者は左の如く実に近時稀れなる盛会なりき
○下略