デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
6節 追悼会
11款 田尻稲次郎追悼会
■綱文

第49巻 p.479-482(DK490162k) ページ画像

大正13年8月1日(1924年)

是日、九段偕行社ニ於テ、故田尻稲次郎追悼会催サル。栄一出席シテ、発起人トシテ追悼演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一三年(DK490162k-0001)
第49巻 p.479 ページ画像

集会日時通知表 大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
八月一日 金 午後三時 故田尻稲次郎氏追悼会(偕行社)


北雷田尻先生伝 田尻先生伝記及遺稿編纂会編 上巻・第二一五―二二七頁昭和八年一〇月刊(DK490162k-0002)
第49巻 p.479-482 ページ画像

北雷田尻先生伝 田尻先生伝記及遺稿編纂会編
               上巻・第二一五―二二七頁昭和八年一〇月刊
 ○第一篇 閲歴
    第十章 追悼会
 大正十二年八月十五日先生忽焉として薨去せられ、越へて十七日之を音羽護国寺の塋域に葬る。田尻先生会員等哀悼追慕の情に堪へず、日を期して先生の英霊を祭り、併せて追悼会を開かんとするの議ありしが、偶々九月一日の大震火災の為め其の意を果さず。翌大正十三年に入るや、再び其の議起り、成るべく先生の一年祭執行前に、之を開催するを可なりとし、同年七月十五日河野秀男・杉栄三郎・鶴岡伊作・八代準・清原徳次郎・瓜生喜三郎等専修大学に会合し、協議の結果愈愈八月一日午後三時より、九段坂上偕行社に於て、追悼祭に兼ねて追悼会を開催することに決したり。是に於て各方面より発起人を選定依頼し、大蔵省・会計検査院・東京帝国大学・東京高等商業学校・専修大学・早稲田大学・修養団其の他の関係者四百余名に案内状を発し、別に東京朝日・東京日日の両新聞に追悼会開催の広告を掲載せり。
 当日の発起人に選定せられたる人々の氏名は左の如し。
  市来乙彦    今村力三郎   今村恭太郎
  蓮沼門三    床次竹二郎   十時尊
  侯爵 大隈信常 大谷深造    若槻礼次郎
  川上直之助   河野秀男    河津暹
  田島達策    添田寿一    鶴岡伊作
  村田俊彦    瓜生喜三郎   山崎覚次郎
  八代則彦    柳田国男    松方幸次郎
  二木謙三    佐野善作    小林丑三郎
  荒井賢太郎   安藤彪雄    男爵 阪谷芳郎
  迫田七郎    清原徳次郎   水町袈裟六
  三浦弥五郎   宮田修     子爵 渋沢栄一
  平沼騏一郎   男爵 森村開作 杉栄三郎
 大正十三年八月一日は即ち追悼会開催の当日なり。此の日炎暑酷烈の候なるにも拘らず、来会者続々として踵を接し、総員実に二百余名
 - 第49巻 p.480 -ページ画像 
に及ぶ。午後三時開会に先だち、偕行社大広間正面に祭壇を設け、先生の写真を安置し、其の前に神酒及び供物を供す。而して供物は先生生前に於ける清浄簡素の主義に従ひ、特に田尻邸に産したる南瓜・トマト・水蜜桃等の、最も新鮮なるものを供したり。斯くて定刻に至るや、馬込村村社八幡神社神官吉田金太郎恭しく祭詞を奏し、之に続いて遺族鉄太郎氏霊前に進んで拝礼す。次に渋沢子爵来会者総代として玉串を霊前に捧げ、総員粛然起立して同拝す。是にて祭祀の儀を了り直ちに阪谷男爵司会の下に追悼会に移り、渋沢子爵・添田博士・平沼枢密顧問官・水町会計検査院長・山崎博士及び三浦弥五郎氏の、何れも感慨深き追悼演説あり、演説終るや遺族鉄太郎氏より鄭重なる挨拶を述べ、更に別室に於て一同茶菓を喫し、互に先生の往事を語りて、其の遺徳を偲び午後六時過随意散会せり。当日の追悼演説左の如し。
○中略
      渋沢子爵
 御指名に預りまして此の壇に立ちましたけれども、少し時代の違ふた為に、且つ境遇も聊か差異がございましたから、私は故子爵とは唯今司会者が仰つしやられた程の親しみを有しては居りませぬ。併し或る事柄に就ては、特に故子爵と御話を交はしたこともございますので私の目に触れた感想に就て一言を申述べて、御追悼申したいと思ふのであります。
 明治大正の御代に、変つた御方が諸方から出て、銘々手腕を充分に揮はれて、玆に我が今日の帝国を作り成されたと云ふことは、之は私が特に取立てゝ申上げる言葉では無いと思ひます。若し何時も普通の有様であつたならば、我が帝国が決して今日あることは出来ぬのでありませう。又必ず比の間に所謂至誠の士が各方面から起つて、各其の長ずる所を発揮して、種々なることの発展致したことは事実である。故田尻子爵の如きも其の一人と申上ぐるに憚らぬのであります。唯今司会者は極く田尻子爵に御接触の多かつた所から、或は其の平生の身を処する所、又変つた考案を持たれる所、学問的に、知識的に孰れが良かつたか一寸衡に懸け兼ねると云ふやうな幻げな御話で、私も如何にも其の観察の当を得たものと思ふのでございます。私の僅かに関係した部分を申上げますと、大蔵省に居られた所から、関係の多い銀行業者として、各銀行の発展に就て、一方に事実上から世の中をどう導いたら宜からうか、又一方に学問上からどう云ふ方法を講じたら宜からうか、此の点は当時は松方故公爵が大蔵卿でゐらしつたか、其の御人は忘れましたけれども、多く大蔵省に居られて実務に関係なさるのが田尻君でありましたので、私は銀行業者として、或は手形の方法、小切手の仕組、コレスポンデンスの方法等に就て、色々と御相談をしたことがありました時に、同君は自分で或る方法を講じて、今の場所ではありませぬ、坂本町の銀行集会所へ各同業者を寄せまして、色々講演をして呉れ、手続を教へて呉れる等のことが却々緻密でございました。或る点に於ては少し何でありますが、復た御出でなさつたと云ふ位であつたが、之が即ち事実に於て人を導いたことの一例証と申しても宜からうと思ひます。銀行事業に付て長い間経営致しました私は
 - 第49巻 p.481 -ページ画像 
其の他にも或る事柄に就て教を受け、意見を交換したことが一にして足りませぬが、悉く此所へ陳述は致し兼ねますけれども、諸君も御承知の通り、其の人と為り真に忠直にして、決して程合を言はれることの嫌ひな方で、是を是とし非を非とし、此の間にチヨツチヨツと諧謔を加へて、人をして余りに憤懣に陥らしめることを為さらんと云ふ、一種の特長を有して御出でございました。夫等の事に就ては、或る場合にも今も尚抱腹するが如き感じもあつた位であります。此の一段に付ては、平沼博士が御出席になつて居りまするで、後に御演説があらうと思ひますが、吾々が此の学生、若くは青年の思想向上に就て、追々に完成を求めたいと云ふ場合に、丁度或る種類の青年が打集つて、修養団と云ふものを組織しまして、私抔聊か其の後援者となつて、顧問と云ふ位置に立つて御世話を致して居りました。最早十数年から以前のことであります。其の団長を得ることに難んじて、終に子爵に団長を持つて行つたのであります。殊に其の事は故森村市左衛門氏と、私の両人が顧問の位置から、田尻子爵に望むが一番に適当であらうと云ふので、一日同君を森村君の銀行に招いて、種々御相談を以て御引受けを乞ふたので、爾来先生が御世話をして下さいました。唯今司会者は東京市長は果して適当でなかつたかも知れぬと云ふ疑ひの言葉が聴えましたが、私は其の修養団長は決して左様でなくて、最も適任で宜かつたと申上げて宜からうが、歳月の短い為に同君の感化薫陶が一般に行き渉つたと申兼ぬることを遺憾と存じます。
 前にも申上げました通り、明治大正の世の中に、各地方から優れた御方が出て、其の非凡なる脳力に依りて、種々なる方面に発展して、今日の我が帝国の政治経済の総ての方面を作り成したと申すならば、田尻子爵の如きは其の一人である。御同様最も尊敬し、追慕せねばならぬのであります。殊に私は玆に其の追慕中に、更に一つを加へて申したいことがある。総て結構な事にも、或は歓楽極りて哀情多しとか御馳走が沢山あると後で腹を悪くするとか、良い事に伴ふ弊害と云ふものが、何事にもございます。此の間も或る人にも申しましたが、学問は智識を増し、智識は富を致し、富は力を加へる。斯う進んで行きます。其の富と力が更に良い方にのみ用ひられるかと云ふと、此の力から以後になると段々と悪くなる。我儘をする、無理をする、甚しきは暴力を揮ふて多数ならばどんな悪い事をしても宜いなどゝ云ふやうな弊害が時々起る。智識の原因から段々と遷り変りて、其の働きが打つて変つた意外の間違ひをなす。今申上げた我が明治大正の御代に、此の立派な日本を造り成した英雄豪傑が、総て皆特殊の才能を有して各地から現れて来た。之は薩摩・長州とのみは申しませぬ。何れの地方からも現れたでございませう、其の人々の此の世に尽した効果は、実に豪いものではあるが、今の丁度智識が富となり、富が力となり、力が無理と変るが如く、弊害を伴ふて、甚しきは親分子分の関係とか党閥抔の関係とか、随分困つたものだと云ふ弊害を後に惹起して、其の為に病気はモルヒネが能く利いて治つたが、其の為に余毒が遺つたと云ふことは、間々聞くことであります。然るに田尻子爵の如きは、全く其の弊害のない人と申して宜からうと思ひます。此の点に付ては
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私は遠慮なく申上げます。今迄の先哲前賢総てに対して、子爵程公益計りあつて、弊害のなかつた人は無いと申すに憚らぬ。之は私一人の私言でなく、天下の公言と申して宜からうと思ひます。之を追悼の辞と致します。