デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
7節 関係団体諸資料
3款 埼玉県人会
■綱文

第49巻 p.570-575(DK490192k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当会ヨリ弔詞ヲ贈ル。尚、十二月刊行ノ当会会報第二十三号ヲ「故渋沢会長追悼号」トナス。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六一頁 昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK490192k-0001)
第49巻 p.570 ページ画像

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六一頁 昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺 午前九時四十分。
 一、葬儀開始 午前十時。
 一、葬儀終了 午前十一時三十分。
 一、告別式 午後一時開始三時終了。
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり 他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞
○中略
 尚ほその他弔詞を寄せられたる重なるものは左の如くである。(順序不同)
○中略
 埼玉県人会
○下略


埼玉県人会会報 第二三号・口絵写真 昭和六年一二月刊 【達識宏才推此翁一朝騎鶴…】(DK490192k-0002)
第49巻 p.570-571 ページ画像

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埼玉県人会会報 第二三号・第三―五頁 昭和六年一二月刊 故渋沢会長閣下追悼の言葉(DK490192k-0003)
第49巻 p.571-572 ページ画像

埼玉県人会会報 第二三号・第三―五頁 昭和六年一二月刊
 ○故渋沢会長閣下追悼の言葉
    故渋沢先生の知識慾
                本会副会長 本多静六
 渋沢青淵先生が人間として極端に発達した大人格に至ては已に定評があるから、自分は之に触れないで唯一つ余り世に知られない先生の知識欲に就て述べて見る。
 先生の頭が論語で出来て居り、論語で実業を行つたと云ふ人もあるが、私は却て最も進歩的な新知識の欲求者であつたと信ずる。即ち先生は総ゆる機会に務めて新知識を取入れ之を自己の明晰な頭脳で理解し、更に之を極めて豊富な体験上から直覚した人生観で判断し、直にそれを実行に移されたのである。随つて先生の知識は日に月に進歩しその行為は常に行く所として可ならざるはなかつた事と信ずる。
 其証拠には私共学究連が外国から帰朝する毎に必ず何かの機会を捉へて新しい土産話をしろと云はれ、其内何か新知識であり実行に適すると判断せられたる場合には、それは良い事だからやらうではないかと云はれて、それを実現された事の屡々なるを以て解る事であるが、特にその知識欲の老後迄旺盛であつた一例を挙げる。
 先生が八十九歳の夏伊香保の木暮別館に避暑された際、自分も同邸内にあつたので度々御訪ねする内、私が今後の人生を指導するには、進化《ダルビニズム》と遺伝《メンデリズム》の法則に拠らなければならないと云ふと、それは大体どう云ふ事かと聞かれたから早速其大要を申上げると、それを詳しく書いたものを見たいと云はれた。丁度其時持ち合せた「遺伝と進化」と云ふ新刊書を御覧に入れた所、三日目に二百二十九頁の本を全部読了して而も其要点を記憶され、この所は一寸解らないがどういふ訳かと、一々御自身の腑に落ちる迄質問されたのには私は真に感激に堪へず、先生よりも二十六も若い自分が動もすれば読み難い本などを読まずに済ます惰弱さに顧みて慚汗脊を湿すものがあつた。この一事を以ても先生の知識欲が老後迄如何に旺盛であつたかを知る事が出来る。
    故渋沢会長を弔す
                本会副会長 加藤政之助
 渋沢子爵は稀世の偉人、国家に対して勲功の顕著なるは万衆の認むる所にして、天下一人も其長逝を哀まざるもなし、殊に我埼玉県は子爵の出生地にして、同郷の先輩なれば子爵の訃を伝ふるや、百四十万の県民は挙て涙を流し眼を湿せり、況んや我県人会は本会創立以来の会長を失ふたのであるから、会員二千有余人の悲哀は名状すべからざるものがあるのであります。
 渋沢子爵は私の生地を距て五里余、大里郡血洗島村に産声を揚げた方であり、其年齢も十四歳の長者であるから、幼時の交通は全然なかつたが、私が二十五歳で県会議員に選挙され、次で議長に推されてから同県と云ふ関係より互に往来するの端が開け、其頃此埼玉県人会の
 - 第49巻 p.572 -ページ画像 
前身とも申すべき埼玉県人懇親会が、東京府下向島の八百松に開催された時より一層親を加へ、公私とも其重なる事項は御相談を願ふ間柄となりましたが、子爵は維新の際大蔵少輔を辞退されて以来、全く念を政治上に絶ち、第一銀行を主として実業界に雄飛され、経済界の大事と云ふ大事は、子爵の手に掛らぬ事はないと申す程に、偉大の力を持て居られたから、維新後四五十年間我国経済界の進歩は、子爵の力に待つ所が多かつたと申しても過言ではありません、故に子爵が晩年老齢の故を以て実業界を隠退された当時、実業界の人々は恰も航海者が羅針盤を失ひ、暗夜に電気が消えた思を為したのであります。子爵は退隠後も社会事業又は慈善事業などの方面に於ては、人の相談にも応じ必要と認むれば自ら進んでも努力され、国家に取りなくてならない人でありました、夫れ故に子爵が米寿に達するや、其周囲の人々は挙て其祝意を表したのである、我県人会も、亦其肖像及記念帖を作りて祝福すると同時に、子爵の長寿を祈たのであります、其時私が子爵に御覧に入れた詩が二首ある。
   其一
 誠意奉公米寿年、勲功赫々補誉天、賀筵賓客頌君徳、万歳不摩子爵伝。
   其二
 誠意奉公九十年、憂時済世在酬天、欽君景福兼仁寿、勲業不摩百世伝。
斯くして私は心から子爵の功業を頌し、其長命を祈りましたが、百歳の寿を保れず、終に世を去られまして、我県人会雑誌が玆に追悼号を発刊するに至りましたことは、返す返すも哀悼痛惜の極であります。


埼玉県人会会報 第二三号・第二〇―二一頁 昭和六年一二月刊 在りし日の渋沢会長を偲ぶ 本会幹事 福島嘉重(DK490192k-0004)
第49巻 p.572-573 ページ画像

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埼玉県人会会報 第二三号・第三―九頁 昭和六年一二月刊 渋沢会長の臨終と本会記録(DK490192k-0005)
第49巻 p.573-575 ページ画像

埼玉県人会会報 第二三号・第三―九頁 昭和六年一二月刊
    渋沢会長の臨終と本会記録
十月三十一日
 会長渋沢子爵閣下重態の報各東京新聞紙の報に驚き、石川幹事飛鳥山のお邸に親しく御見舞ひ申上ぐ。篤二氏始め愛孫敬三氏・兼子夫人一門枕頭に詰め切り、塩田・加藤博士交替診断治療。
十一月一日
 容体険悪の渋沢会長に対し、畏き辺りより木戸事務官御差遣、野菜一籠御下賜、翁は冥目合掌スープにして頂かる、本会より山口幹事参邸見舞ふ。
二日
 午後一時石川幹事見舞ひ、夕刻山口・関口・関三幹事同道見舞ふ。
 - 第49巻 p.574 -ページ画像 
三日
 明治節に眺めよと皇太后陛下より渋沢翁に対し菊花御下賜、翁皇恩に感涙、明治神宮を遥拝、福島幹事会長の病状を案じ来会、急遽幹事会開催に決定、通知発送。
四日
 午後五時より本会幹事室に於て幹事会開催、石川・福島・高山・山口・関口・市川・関出席、会長邸御繁忙の趣きにつき手伝ひ方を申入れ、各幹事交替連日会長邸に参邸御見舞申上ぐる事、及び明五日大宮氷川神社に会長平癒祈願決行を申し合せ散会す。
五日
 石川・福島・山口・関口・関幹事、大宮氷川神社に参拝、渋沢会長御病平癒祈願をなし、午後四時一行参邸、氷川神社御守御札を敬三氏に伝達方を託し、同族会理事長に挨拶す。繁田武平氏居合す。
六日
 本会副会長本多静六氏満鮮の旅より戻り急遽参邸御見舞申上ぐ。肺炎次第に薄らぎ平熱に近づきつつあるも食慾不振。心臓衰弱警戒を要する由。
七日
 石川幹事会長邸訪問御見舞申上ぐ、会長悪感を覚え容体再び悪化。
八日
 郷誠之助・佐々木勇之助・石井健吾氏等財界巨頭が見舞はれたる際別掲○略ス の如き実業界への伝言をなされる。
九日
 関口・山口・関幹事参邸御見舞申上ぐ、愛孫敬三氏の午後八時の容体発表を承りて辞す。金井滋直氏・野口弘毅・若山徳・永田甚之助氏・新井源水・石井健吾氏等県人居合す。邸内憂色に閉さる。
 正午容体、依然意識不明、体温三九度六、脈搏一一六、呼吸二七
十日
 午前石川幹事参邸御見舞、市川幹事より症状急変御危篤の由電話あり、東日号外に会長逝去の報に接し、直ちに大川事務所武藤氏にその趣き電話するに、危篤状態なりとの御返事ありたり。
 加藤副会長、会長の病状を案じ来訪、石川・福島・関口・増田・関出席幹事会開催、畏き辺りにては渋沢会長危篤の旨聞召され村山侍医を御差遣せらる。
十一日
 吾等が心をこめたる御平癒祈願の甲斐もなく、渋沢会長は世界平和記念日たる十一月十一日午前一時五十分、全国民全人類に惜しまれつつ眠るが如く大往生を遂げられ、九十二年の生涯の幕が下さる。
 本多・加藤・大川参副会長、参邸弔意を表し、石川・山口・福島・市川・高山・関口・増田・関各幹事会長邸を弔問。
 午後八時より駒込に臨時幹事会開催。(一)葬儀当時会長邸に御手伝ひ方を申入れる事、(二)全会員に葬儀日取りを大至急通知する事、(三)新聞広告掲載方を役員会に諮る事、(四)明十二日臨時役員会開催の手順をとる事を申し合せ散会。
 - 第49巻 p.575 -ページ画像 
十二日
 午後三時より緊急役員会を三会堂事務所に開催、加藤・本多両副会長、尾高会計監督、評議員武藤忠義氏・滝沢吉三郎氏・熊倉良助氏・石川・福島・関口・山口幹事出席、本会弔辞を加藤副会長持参葬儀に列し、本多・加藤両副会長、石川幹事葬儀委員として本会を代表参列する事。本会としての新聞広告、花輪贈呈の件はお邸の意を汲み御遠慮申上ぐる事、会員に対する会葬通知は明日中に発送する事等を決し散会、大川・尾高・武藤氏は納棺式参列の為め直ちに参邸
十二日
 本多・加藤両氏葬儀顧問に推さる、本多氏御通夜に参邸、全会員に対し会長薨去の通知を発送す。
十三日
 山口幹事御通夜に参邸。
 石川幹事本会弔辞作成謹書。
十四日
 葬儀当日フイルム作製の件につき飛高善平氏来訪、石川幹事と打合せ関幹事八時迄に参邸を約す。
十五日
 大渋沢会長を葬るの日。関幹事飛高氏を伴ひ午前八時参邸。本会に於てフイルム作製の為なり。御出棺前後の光景、邸前の雑沓、青山斎場に於ける盛儀を拝写す。
 三副会長始め各幹事・県人数千名会葬す。
二十五日
 本会評議員会を午後四時より三会堂に開催。
 諸井恒平氏・熊倉良助氏・柴田愛蔵氏・黒須竜太郎氏・渋谷正吉氏・清水精三郎氏・芳賀権四郎氏・高窪喜八郎氏・尾高豊作氏・本多静六氏・繁田武平氏・河野省三氏・原鉄五郎氏・大川平三郎氏・矢作栄蔵氏・柴崎宇八氏・田口庸三氏・岡田健次郎氏・福田又一氏・渡辺得男氏・長島隆二氏・沢村宗十郎氏・渡辺湜氏・石坂養平氏・加藤政之助氏・滝沢吉三郎氏・雨宮量七郎氏・武藤忠義氏・増田啓次郎氏・寺島徳太郎氏・遠藤柳作氏・松崎半三郎氏・斎藤末吉氏、石川幹事外各幹事七名出席
 一、故渋沢会長追悼に関する件
 二、故渋沢会長御遺志遂行に関する件
 三、後任会長に関する件
 四、本会前後策に就て
以上四項目に関し種々協議の結果、来春二月十八日前後渋沢事務所の御都合を伺ひ、上野寛永寺に於て追悼会を挙行する事を申し合せ、本会発展策につき種々協議し散会す。