デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.99-106(DK500020k) ページ画像

大正4年10月2日(1915年)

是日栄一、広島市公会堂ニ於テ開催ノ当行広島支店開設披露宴ニ出席シ、開店ノ挨拶ヲ述ベ、次イデ四日、熊本市偕行社ニ於テ開催ノ熊本支店開設披露宴ニ出席シ、同ジク挨拶ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK500020k-0001)
第50巻 p.99-101 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
九月十七日 曇又小雨
○上略 四時第一銀行ニ抵リ、来月ノ初、熊本・広島二支店開業披露ノ順序ヲ協議シ、且当面ノ行務ヲ佐々木氏ト談話ス○下略
  ○中略。
九月廿九日 小雨
 - 第50巻 p.100 -ページ画像 
此日ハ関西旅行発途ノ約アルニヨリ、午前六時起床、入浴朝飧ヲ畢リ○中略 八時三十分発ノ急行列車ニ搭ス○中略 名古屋駅ニテ清水市太郎氏等来リ迎フ、昼食モ夜飧モ車中ノ食堂ニ於テシ、京都・大阪等ノ停車場ニハ中川支配人・野口支配人等出会ス、午後九時神戸ニ達ス、杉田支配人・明石照男氏案内ニテ諏訪山ナル常盤ニ投宿ス○下略
  ○中略。
十月二日 曇
○上略 午後五時ヨリ公会堂○広島市 ニ抵リ、広島支店開設ノ披露会ニ出席シテ挨拶ヲ演フ、寺田県知事ノ答辞アリ、来会者百名許リ盛況ナリ○下略
十月三日 快晴
午前七時起床、風邪気愈ヘス、入浴ヲ為ス能ハス、朝飧後揮毫ス、九時広島支店ニ抵リ詰合ノ行員ニ一場ノ訓示ヲ為ス○中略 午後三時ノ汽車ニテ下関ニ赴ク、寺田知事及広島ノ実業者送別スル者多シ、神戸杉田氏・広島松井等、宮島停車場ニ抵リテ告別ス、午後八時四十分下関ニ抵ル、春帆楼ニ投宿ス○下略
十月四日 晴
午前七時起床、朝飧後揮毫ス、午前十時馬関ヲ発シ、熊本ニ向フ、車中筑前筑後等ノ旧跡ヲ望ム、午後三時半熊本着、竹村支店長及地方有志者ノ多数来リ迎フ、綿屋旅館ニ投宿ス、午後五時熊本偕行社ニ抵リ支店開設ノ披露会ヲ開ク、来会者三百名許リナリ、席上一場ノ挨拶ヲ為ス、依田市長ノ答辞アリ、午後八時散会帰寓、此夜本店ヨリ竹山ニ電報アリ、朝鮮ニ開催スル銀行大会ニ参列ノ命アルニ付、明日出席シテ市原氏ノ葬儀ニ列セシム、夜寺内総督及朝鮮銀行三島・木村二氏、迫間房太郎氏ヘ書状ヲ作リ、竹山ニ托ス
○下略
十月五日 晴
○上略 八時四十分熊本ヲ発シ三池ニ向フ、万田駅ニテ下車、植木氏ノ案内ニテ炭坑ヲ一覧ス、設準頗ル壮大ナリ、畢リテ三池港ニ向フ、新築港ノ規模極テ其当ヲ得タルヲ覚フ○中略 午後三時熊本駅ニ帰ル、第一銀行支店ニ抵リ、店員ニ訓示ス○下略
十月六日 晴
○上略 午前十時県会議事堂ニ抵リ、熊本県官民協同開催ノ歓迎会ニ出席ス○中略 午後一時発ノ汽車ニテ馬関ニ向フ、五時五十九分下関着、再ヒ春帆楼ニ投宿ス○下略
十月七日 曇後雨 昨日ヨリ暑気漸ク減退シテ秋冷ヲ覚フ
○上略 午前九時五十分発ノ汽車ニ搭シ大阪ニ向フ、広島支店松井氏来リ迎フ、馬関西条氏モ送リテ広島ニ抵リ、松井氏ニ別ル○中略 夜十時過神戸着、杉田氏モ来リ会ス、停車場ニ小憩シ、夜十一時二十分御影ナル明石照男ノ家ニ一泊ス
  ○中略。
十月十日 晴
○上略 大阪ニテ成瀬・野口二氏ト会シ、共ニ御影ナル久原氏ヲ訪フ、明石照男モ来リ会ス○中略 午後二時過明石ノ家ニ抵リ、野口・杉田・明石等ト第一銀行業務外国関係ノ得失ヲ協議ス、後東洋紡績会社ノ重役モ
 - 第50巻 p.101 -ページ画像 
来会シ、囲碁会且夜飧ノ小宴アリ、夜十一時散会、大阪松塚ニ投宿ス
十月十一日 晴
○上略 八時三十分発ノ列車ニテ東上ノ途ニ就ク○中略 一路平安、夜九時過東京駅ニ達シ、直ニ自動車ニテ帰宅ス○下略
  ○朝鮮銀行総裁市原盛宏、大正四年十月四日死去ス。本資料第四十九巻所収「市原盛宏追悼会」参照。


竜門雑誌 第三二九号・第三〇頁大正四年一〇月 ○広島市公会堂に於ける講演 青淵先生(DK500020k-0002)
第50巻 p.101 ページ画像

竜門雑誌  第三二九号・第三〇頁大正四年一〇月
    ○広島市公会堂に於ける講演
                      青淵先生
 本編は雑報欄記載の如く十月二日広島市公会堂に於ける青淵先生の講演にて芸備日々新聞紙上に連載せるものなり(編者識)
余は昨年支那に遊びて帰途この席に於て一場の視察談をなしたり、諸君は当時の聴衆と異るや否やを知らざるも席は正に同じ席なり、余が此度の来広は第一銀行支店開設に付頭取として来りし次第なるが、斯る機会に我が店の披露をなすは甚だ便利なれば何卒お引立を願ふ(とて聴衆を笑はせて夫より本題に入りて)○下略


竜門雑誌 第三二九号・第三五―三六頁大正四年一〇月 ○九州の財界観 青淵先生(DK500020k-0003)
第50巻 p.101 ページ画像

竜門雑誌  第三二九号・第三五―三六頁大正四年一〇月
    ○九州の財界観
                      青淵先生
 本編は青淵先生が、第一銀行熊本支店開業式を行ふ為め十月四日朝門司着、同十時門司発列車にて熊本に向ふ際、門司駅楼上に於て福岡日日新聞記者の訪問に対し語れる所なりとて、同紙上に掲載せるものなり(編者識)
△熊本支店の方針 第一銀行は朝鮮金融界に至大の関係を結び来れるにも拘らず、其近接せる九州に聯絡機関なく不便尠からざりしを以て西条支店長より九州支店設置の議を提出せられ、漸く其運びとなりたるものなり、されど本行は其主脳者佐々木勇之助氏が着実本位の人なると相俟て、全く他と競争がましき積極的態度に出るを好まず、地味を旨として居れば、土地選定の如き畢竟之に胚胎せり、第一銀行九州に来り、今までの不便も之に依りて除かるべしなど云ひて、地方人士の熱誠なる歓迎を受くるは、固より後援を受け華客を得る点に於て感謝に堪へざる次第なれど、同業者の範囲に侵入するものと誤解せられては却て迷惑なり、本行は仮令熊本に開店するとも終始一貫従来の方針を守り、尚他銀行に対し競争を試みんと欲するにあらず、又諸氏の期待するほどの活動も不可能ならんと思ふ。
○下略


竜門雑誌 第三三一号・第五五―七一頁大正四年一二月 ○青淵先生西南紀行 随行員 白石喜太郎記(DK500020k-0004)
第50巻 p.101-106 ページ画像

竜門雑誌  第三三一号・第五五―七一頁大正四年一二月
    ○青淵先生西南紀行
                随行員 白石喜太郎記
      五、広島
○上略
 - 第50巻 p.102 -ページ画像 
  (二)第一銀行広島支店開設披露
先生には悠々休息の間さへなく、午後四時半○一〇月二日 には更に腕車に打乗り、旅館を出でられ、広島市公会堂に向はる。折柄朝来の陰雲漸く薄らぎ所々に碧空の望まれ、吹く風の清々しかりしは、第一銀行支店の前途を祝福するかとも見えて喜しかりき。
公会堂に到れば、定刻五時に先つこと約半時なるに、已に来客は続々詰め掛け、待合室に充てたる階下大広間は殆ど人を以て埋る計りに見え、談笑の声頻りにして、余興の落語に喝采は断続せられたりき。引切りなかりし来客のしばし杜絶えたる間を見て、階上宴会場に至れば電灯煌々として青畳に照り映えて快く、舞台に面し凹形に設へられたる卓は、高さ約一尺にして幅二尺五寸に近く、一様に雪白の布を以て蔽はれ、其上には饗応の用意総て整ひ、席札も添へられ、来賓の着席をまつばかりなりき。
午後五時過来賓を玆に導き、席定るや、先生には起ちて、第一銀行は其力を内地に用ゆるを主眼とすることより、今回下関・神戸両支店の間に、仲介聯絡の為に一支店を必要とし、玆に当支店を設置するに至れりとて、其理由を述べられ、更に進みて当地の如き同業銀行の比較的多き処に開店したるは、決して無理に押入りて、競争せん為に非ずと、婉曲に又慇懃に弁ぜられ、将来当支店を永久引立られんことを請はれ、終りに臨み支店長松井万緑氏を紹介せられ、松井氏は起ちて挨拶をせられたり。於玆寺田知事は来賓を代表して「経歴美しく信用厚く、且つ基礎の確実なる点に於て定評ある第一銀行が、当地に支店を開設せし事実は、当市の面目に新異彩を放つと共に、金融界に利益を加ふるもの、今後県市民は其恵に浴すること大なるべし、第一銀行も力めて県市民の幸福に貢献せられむ事を望む」云々と鄭重に答礼する所あり、それより宴に移り、主客打寛いで献酬頻りに盛る頃、舞台の幕は絞られて、余興の手踊は演ぜられぬ、題して「松の名処」と「四季の眺め」と云ふ、先なるは独舞、後なるは連舞、一は優雅に、他は妍麗に、引続き舞終れば喝采はしばし鳴りも止まず、軈て興頻りに到り、頬稍熱する頃、第一銀行と広島市の万歳は迭に高唱せられて、流石に広き堂の揺がん計りなりき。斯くて一同充分歓をつくして散会せしは午後九時なりき、因に当日出席せられたる来賓の主なるものは、寺田知事を始め、志方控訴院長・川淵検事長・執行検事正・白川旅団長・谷口参謀長・音村市長・佐藤正少将、渡部日銀・水谷三十四・仙田住友各銀行支店長、高束広島電灯・松本広島呉電力各社長、高阪商業会議所会頭、保田八十吉・海塚新八・瀬川岩造・本田権平・井東茂兵衛・桐山可造諸氏等にして、市の有力者を網羅せるの感ありき。
○中略
    七、熊本と三池
  (一)第一銀行熊本支店開設披露
熊本停車場に到着すれば、細川与増男爵を始め、林商業会議所会頭其他主なる実業家約三十名出迎へられたり、先生には第一銀行熊本支店長竹村利三郎氏の案内にて、自働車にて旅館綿屋に向はる。
○中略 小憩せられたる後、自働車にて当夜○一〇月四日 の披露会場たる偕行社
 - 第50巻 p.103 -ページ画像 
に向はる、会場には既に来賓続々集り来り、階下なる余興場にては講談始り、拍手の音頻りなりき。階上大広間なる宴会場に到れば食事の用意整ひ、色とりどりに美しく、雪白の敷布に快く映じて見えたり。執拗なりし太陽の漸く其影を西山に没するをまち、来賓を之に案内し席定り騒音稍静まるや、先生は起つて挨拶をせられて曰く
 残暑尚甚だしく且つ御繁忙の裡に、斯く多数の御来臨を得ましたのは、自分を始め行員一同の深く感謝する所でございます、嗚滸がましい申条ではございますけれども、第一銀行は我国で金融機関を銀行組織としました最初のものでございます、尤も早く出来たからとて必ずしも総ての点に於て優良であると云ふことは出来ませぬ、其後更に有力な銀行が創立せられ、今日現存せるものも多々あります然しよしや其香は左程芳しくなくとも、又其花は大して美しからずとも、兎も角厳冬の間に咲出でた梅花にたとへる事が出来ようと思ひます、而して当熊本支店を設置しました事情を申しますと、元来第一銀行は海外に手を伸ばすことなく、専ら内国金融の為めに全力を傾倒するのが其主義とする所でございまして、従来朝鮮に二ケ所の支店を有つて居る関係上、下関に支店を置いてありましたが、中国に今一箇所と九州に一箇所支店を設けたらば、との説が銀行内部にも起りましたし、得意先の方々からも屡々勧告せられましたのでありますが、或は他の同業者の御迷惑になる様のことがあつてはとの懸念から容易に動きませぬでしたが、必ずしも然うでない、不都合を起す事はないと見極めがつきましたので、今回愈広島と御当地とに支店を設ける運となりました次第でございます。
 元来自分は常に競争より生ずる弊害に心を痛めて居るものでございまして、時々老婆心禁ずる能はざるものがありまして之を戒むることがありますが、悪い競争こそ絶滅を期すべきで、善い競争は寧ろ助長してもよからうかと考へて居ります、当支店も亦此意味に於て自ら勉め自ら励む考であります、実業の発達は金融機関の善用に在ることは喋々を要しませぬが、諸君に於ては当地支店を大に善用せられまして、よろしく更に大なる発展を期して頂たいのでございます、何卒将来永く当支店を愛護せられ、深い御同情を垂れられんことを切に御願ひいたします。
 折角の御光来に対し、各般の準備が甚た行届きませぬので赧然たる次第でございますが、土地慣れませぬ他郷人の為す業と偏に御宥恕を願ふ次第でございます。
終りに支配人竹村利三郎氏を一同に紹介せられ、竹村氏より簡単なる挨拶あり、次で依田熊本市長は来賓一同を代表して丁重なる謝辞を述べられ、それより立食の宴に移り、興酣なる頃、岡沢旅団長の発声にて先生の万歳を三唱し、之に対し先生は来賓の万歳を三唱し、一同之に和し、拍手次で起り、之を機とし一同散会せり、時に午後八時稍過る頃なりき。
当日の来賓は、岡沢旅団長・依田市長・佐藤内務部長・鳥海農商課長・多胡税務監督局長・橋口大林区署長、並に各銀行頭取・会社長、其他県下実業家・新聞記者等三百余名なりき。
 - 第50巻 p.104 -ページ画像 
旅館に帰れば電報ありて、故市原総裁の葬儀十月七日京城に於て執行せらるべき由を知り、竹山氏は之に参列せらるゝ為め、翌五日午後一時十六分熊本駅発の列車にて出発し、急遽渡鮮せらるゝことゝなりたり。
○中略
  (三)熊本を出発する迄
斯くして○三池視察ヲ言フ 午後三時三十三分○一〇月五日 熊本駅に到着し、直ちに自働車にて第一銀行支店に赴かれ、其設備等を一覧せられ、支店長より営業景況の報告を受けたる後、支店員を営業室に集めて之に対し訓言を与へられ、紀念撮影をせられたる後、午後五時より開催の九州製紙会社の招宴に列せらる。席定るや林千八氏の挨拶あり、それより宴に移り、先生の熊本に対する懐旧談等ありて興趣頻りに湧き、打とけたる集りとて献酬盛に、談笑の声高かりき、斯くて先生には午後八時過退出せられたり。
十月六日は朝来訪客頻りにして、先生には其応接に忙殺されたるが、軈て午前十時過ぐれば歓迎会に臨席の為め、旅館を出でられぬ、会場は県議事堂にして、発起人は佐藤内務部長・依田市長・林商業会議所会頭・内藤肥後農工銀行頭取・紫藤肥後銀行頭取、及九州日々・九州新報・熊本日々新聞の三社並に熊本経済同好会等なり。先生の到着せらるゝや発起人一同玄関に出迎へ、一先階上休憩室に案内せらる、玆に小憩の後会場に入らるれば来会者の拍手一時に起りて、暫しは鳴りも止まざりき。軈て林商業会議所会頭は起て歓迎の辞を朗読せられて曰く
 株式会社第一銀行熊本支店開設ノ要務ヲ帯ヒ、頭取男爵渋沢栄一閣下ノ来熊セラレタルヲ機トシ、夙ニ閣下ノ人格ト識見トヲ景仰セルモノ相会シテ、閣下ノ来臨ヲ仰キ、玆ニ一場ノ高話ヲ請フヲ得タルハ洵ニ欣幸トスル所ニシテ、閣下ガ旅中匆忙ノ裡、特ニ数時間ヲ吾儕ノ為ニ割カレタルニ対シ、謹テ深厚ナル感謝ノ意ヲ表スル所ナリ
 閣下ノ董督セラルヽ第一銀行ハ、熊本ヲ以テ九州ノ中央ニシテ現在及将来ニ於ケル経済上ノ枢要地ナリトシ、支店ヲ設置シテ地方財界ノ為メニ尽力セラレントス、熊本市民ハ勿論、九州ノ人士ハ有力ナル金融機関ヲ加ヘタルヲ喜ヒ、恐ラクハ其将来ニ嘱望セサルモノアラサルヘキナリ
 閣下ハ我国実業界ノ泰斗ニシテ、内外ノ情勢ニ通暁セラレ、又我国経済界ノ恩人トシテ経倫ノ才一世ヲ蓋フ、加フルニ円熟セル人格ト該博ナル識見トヲ以テス、洵ニ現代ノ儀表ト云フヘシ
 玆ニ閣下ヲ迎ヘテ粗筵ヲ張リ、其崇高ノ人格ニ直接シテ閣下ノ氛囲気ニ擁セラレ、其高説ヲ傾聴シテ暫ク想ヲ俗塵ニ絶ツヲ得ルハ、吾儕ノ至幸トスル所、只設備ノ不整ナル貴賓ヲ待ツノ礼ニ非ルヲ恐ルト雖モ、幸ニ吾儕ノ微衷ヲ諒トシ寛恕アランコト切望ノ至リニ堪エス、之ヲ歓迎ノ辞トナス
  大正四年十月六日      発起人総代 林千八
之に対し、先生には謝辞に兼ねて感想を述べられたり、其概要は次の如くなりき。
 - 第50巻 p.105 -ページ画像 
 満場の諸君、私が今回錦地に参上致しましたにつき、本日は皆様申合せられ、歓迎の盛宴を張られ、只今林君より私に対する歓迎の辞を述べられましたが、賛辞に過ぎたと思ひます、夫れから私が何か一言実業界に対する愚見を発表すとの御挨拶でありましたが、曩日来風邪に罹りまして、昨日師範学校への講演も御断りした様な次第で、発汗すると余計に具合が悪うございますので、申上たい事は数数ありますけれど、只一言我邦実業並に当熊本に対する愚見を陳述しやうと思ひます。
 私は当熊本に参上致しましたるは、之れで二度目であります、一回は博多よりの鉄道会社の関係から罷出で大宰府・熊本城とほんの遊覧を致しました、当時は熊本の知事公は故人となられた松平正直氏で、氏は当時上京中で不在でありましたが、親しい間柄でありましたので東京で面会致しましたる節、熊本では誰かに会た乎との御尋ねに、御当地に対する私の一言は甚しく失礼に当つた様に後から思ひました、松平君が定めて種々装飾を加へて申しあげたでせうが、其時熊本では武人・御百姓・お役人には御目にかかつたが、事業界の人にはトント御目にかゝらなかつたと答へた、之を松平君が装飾を加へて御当地の方々に対する刺戟剤に使つたと思ひます。
 従来御当地に事業関係を有ちませなんだ関係からしまして、御交際も薄かつた為めに、実際清正公と細川侯と肥後米に依つて御地を知つて居たと云ふに過ぎなかつたのであります、今日の熊本は全く面目を一新したと申して宜しからうと思ひます、現に私の関係ある九州製紙会社の如き、異常なる拡張の機運に向ひ、又日本窒素肥料会社の如き、豊富なる水電の動力を利用して農産物に関係の多い、肥料を製造して居りますが、之は空中の富を集めると申しても余り誇大な言葉ではなからうと思ひます、斯く事業を進むるは何れの向きも其途に依つて意を用ひましたならば、未だ種々有るだらうと思ひます、御当地は石炭の如き地下の富はないが、地上の富はある、即ち肥後米の如き夫れである、今は米の値段が安いので御地では一層お困りでしやうが、米の相場の高低の大なるは大に注意せざるべからざる問題であります、そこで応急の米価調節策も行はれ、今亦調査会組織せられ、私も其委員の一名たるべき内交渉に接したのでありますが、之は頗る重要問題で全国に取て考究すべきことでありますが、富を出す実業の進歩は一方面のみではドウモ行きませぬ、農業に進むか工業に走るか、一方計りを重んじて他を忘れることは不可であります、熊本は工商の方面に付いては或は一足後れて居つたかも知れんが、幸に二三の有力なる工業の発達を見つゝあるのは頗る喜ぶべき事であります、今や時勢は化学工業を重んずる時代に進みつゝあります、粗より精に入るは物の常であります、此の化学工業のことは議会の問題にも出で、染料会社の如き政事上より其の成立を応援することになつて居ります、昨日三池の炭山を視察しましたる節、コークス製造場を見まして、アニリン染料等、副産物製造の概況を模型により、技師の説明を求めて帰りましたが、斯の如き緻密なる工業にお互に注意せなくてはならないと思ひます、御当地
 - 第50巻 p.106 -ページ画像 
に何が生ずるかは只今申上げることは出来ませんが、御注意になると何か事業があるかと思ひます。
 最後に申添へたい事は米であります、此米に対して当県下では倉庫制度が行はれて居ります、此事には大に考究して此倉庫証券と金融とを結付けて、安全に信用が置ける様になると米価調節上此上なき策であります、幕府時代では米の相場を、町奉行所より触れて調節を政治上よりしたが、之は武断政治より来たのであります、此時代には左迄の害もありませんでしたが、今日の如き世界に、昔風の調節策を人智に依つて為さんとするは大なる誤りであります、官吏になれば人民よりも利口になつたと云ふ考へが出るが、之で行くといつも失敗であります、米価の調節策としては前も申したるが如く、当地の米券倉庫制は此の上なき策でありまして、自然と自家の節制を計り、余り安いと思へば売らない、自己の考へによりて調節し、誠に立派なことでありますから、考究したらば安全にして充分融通し得るのであります、尚今日は申上たい事は数々あります、即近い内亜米利加にも旅行しまするし、昨年支那にも旅行しましたから、其話もしたいのでありますが、先程申しました次第で長時間のお話をすることが出来ませぬので、御礼の為め一言申上げた次第であります。
右終て立食に移り、宴半にして佐藤内務部長の発声にて先生の万歳を三唱し、先生は之に対し来会者の万歳を三唱し、一同之に和しぬ。軈て歓呼の声に送られて之を辞し、旅館にて小憩の上午後一時十六分熊本発の列車に搭乗して下関に向はる、見送りの人々プラツトホームに溢れ、上熊本にも川上熊本県知事其他見送らる、竹村利三郎氏は大牟田迄同車見送られたり。