デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.197-214(DK500035k) ページ画像

大正6年――昭和6年(1917-1931年)

栄一、当行頭取辞任以後、歿年ニ至ルマデ、相談役トシテ、努メテ当行ノ年賀式及ビ株主総会等ニ出席シテ、演説ヲナス。


■資料

(増田明六)日誌 大正一三年(DK500035k-0001)
第50巻 p.197-198 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一三年        (増田正純氏所蔵)
大正十三年一月一日 火 晴
○上略
子爵○栄一は○中略第一銀行の式場に至り、頭取以下一同行員数百名の年賀を受けられたる後、今朝親筆の年頭所感の詩(毎年必す一詩を作ら
 - 第50巻 p.198 -ページ画像 
れ、書き初めの意味にて之を認め、第一銀行に持参して式場に掲くるを例とせらる、今朝も同様ニ掲け、其下ニ其詩ニ就きて説明を試られたる後、銀行員としての覚悟ニ付き訓諭を与へられたり
○下略


竜門雑誌 第四二四号・第七一頁大正一三年一月 青淵先生の年賀(DK500035k-0002)
第50巻 p.198 ページ画像

竜門雑誌  第四二四号・第七一頁大正一三年一月
○青淵先生の年賀 青淵先生には一月一日午前十時半より、日本橋区兜町第一銀行本店の新館に於て年賀を受けられ、次いで第一銀行の式場に臨まれ、重役始め行員一同の年賀を受けられたる後、当日曖依村荘に於て揮毫せられたる「恢復何時見革新。劫余文物奈灰塵。又驚節序怱々去。歳月無情不待人」の新年所感を壁間に掲げられ、震災後に於ける復興の第一年たる本年は、恰も甲子の歳にて、還暦の新年に相当するが故に、一層心神を新にして、最善の努力を尽し、飽まで軽佻浮薄の風を郤けて、勤勉よく其業に従ふべきを力説せられ、歳月怱々として人を待たざるが故に、一寸の光陰も之を惜んで空費する事なく黽勉力行して各々其本分を尽すべきを訓示せられたるに対し、重役行員総代として佐々木頭取は、本行の業務が年々歳々隆盛に赴くは、偏に青淵先生の御訓諭に基き、行員一同が能く其業務を忠実に履行するに依るものなれば、向後益御趣意を体して善処するに努むべしとて謝意を表し、午前十一時半散会せる由。


(増田明六)日誌 大正一三年(DK500035k-0003)
第50巻 p.198 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一三年        (増田正純氏所蔵)
大正十三年一月廿六日 土 晴
○上略
午後二時東京銀行集会所に於て第一銀行株主総会が開催せられた○中略渋沢子爵の演説、銀行及自己の震災害の状況を陳べ且自己の来歴より故徳川慶喜公の伝記を編纂したる理由、並ニ此編纂の為め多年蒐集したる文書一切を焼失したる事より、震災後の復旧ニ説き及び、物質の復興も必要ながら尚夫以上に精神の復興が肝要である、精神の復興は孝悌忠信ならさるべからすと述べ、最後に子爵の発声にて天皇・皇后両陛下、並皇太子・同妃殿下の万歳を来会者と共ニ唱へ、株主神田鐳蔵氏の発声にて、第一銀行及渋沢子爵の万歳を唱へて総会終了○下略


竜門雑誌 第四二五号・第四三―四四頁大正一三年二月 ○第一銀行定時総会(DK500035k-0004)
第50巻 p.198-199 ページ画像

竜門雑誌  第四二五号・第四三―四四頁大正一三年二月
○第一銀行定時総会 第一銀行定時株主総会は、一月二十六日午後二時より東京銀行集会所に於て開会し、佐々木頭取議長席に着き、大正十二年下半季営業の景況を報告し、次で(一)大正十二年度下季に於ける決算書類の承認及(二)同期間に於ける利益金処分案並(三)同年中死去せられたる、取締役日下義雄氏及佐々木慎思郎氏の補欠選挙(四)故佐々木慎四郎氏に功労金贈与の件等を附議したるに、(一)(二)は原案の通満場一致を以て可決し、尚ほ(三)は同頭取の指名に一任する事に決し、即頭取は、野口弘毅・西村道彦両氏を推選し、(四)は重役会一任に是亦満場一致を以て可決し、右終つて株主の希望に依り青淵先生の演説あり、最後に本日の御慶事を祝する為め、青
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淵先生の発声にて来会者一同起立して、両陛下及皇太子殿下・同妃殿下の万歳を三唱し、又株主神田鐳蔵氏の発声にて、同銀行及青淵先生の万歳を三唱したる由。
○下略
  ○右総会ハ第五十五期定時株主総会ナリ。


竜門雑誌 第四二七号・第一一―一八頁大正一三年四月 ○第一銀行定時株主総会に於て 青淵先生(DK500035k-0005)
第50巻 p.199-204 ページ画像

竜門雑誌  第四二七号・第一一―一八頁大正一三年四月
    ○第一銀行定時株主総会に於て
                      青淵先生
 本篇は皇太子殿下御慶事当日即ち一月廿六日第一銀行定時株主総会に於ける青淵先生の演説なり(編者識)
 御同様実に歓天喜地、祝し上げねばならぬ当日に、此会堂で多数お集りの諸君にお目に掛りますことを先づ以て光栄の至りと存じます。御同慶感佩に余るのでございます。
 本銀行の総会が、或は日を変へたら宜かつたかも知れぬのでありますが、既に通知を発した後である故に、例日であるから当日を選んだと云ふ今頭取の御申述べで、当月の二十六日、七月二十六日と両度のやうに覚えて居ります、一年に二度宛参上致しましては、株主の皆様にお目に掛かる機会を得まするのが、又今年も此席に出ることを得ました。或は又七月も出られるかと思ふのです。成るべく三年も五年も出てお目に掛りたいと思ひます。貴方がたは出ぬでも宜いと仰しやるかも知れませぬが、私は矢張出ることを好むのであります。成るべく諸君も、毎年出るやうにと云ふことを、お望み下さるやうに希望致します。(拍手)
 銀行の経営宜しきを得て、此成績をお挙げなすつたと云ふことは、私も株主の一人として、現頭取及び重役諸君に、皆様と一緒に同慶を表するのでございます。但し株式の下落等に付ては、御同様矢張共に憂ふべき点でございますが、頭取の御説明の如く、一般金利の関係から、或は聊か行き過ぎると云ふことが時々ある例でございまして、決して第一銀行が倉庫・証券が焼けたから、其為にと云ふことではなからうと私は観察して居ります。私も共々に、若し株が下がられたら、矢張自分のポケツトに関係をしますから、何ぼ斯う云ふ隠居爺さんでも矢張其点は多少の心付を持つて居りますので、どうぞ其点は御安心を戴きたいと思ひます、私は安心して居ります。
 何か此際震災後の経営に対し意見もあらうで、唯単に第一銀行の事のみならず、幸に斯う云ふ会合であるから、一言を述べろと云ふ意味の山本さんの御要求と思ひますが、特に経済的好き思案、又社会的名案は持つて居りませぬが、併し幸に当年は八十五歳でございますから先づ相当なる老年と申上げても、余り過言ではなからうかと思ひますが、相変らず達者で、まだ殆ど震災後――一寸四・五日休みましたゞけで、毎日努めつゝ居りまする。蓋し、実業界を引きました身故に、別に定まつた用ではございませぬけれども、多くは社会的公共事業に――大したお役にも立ちますまいけれども、微力を致して居る、それが私の境遇でございます。実に此九月の地震には真に驚きました、是
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は私が今此処で古めかしく喋々せぬでも、皆様もう分り切つたことゝ仰せでございませうが、第一銀行が焼けると云ふことは真に意外でございました。丁度当日あの裏の事務所に私は居りまして、書類を調べて居りました。すると俄に揺れ出したので、びつくりして立ちますと若い人が来て、危いからと云うて老人を劬つて連出さんとして呉れましたが、もう戸口を出る時に動けませぬ位殆ど竦まんばかりでした。表から出ようと思ふと、ドンと音がした、屋根から物が落ちた、其処は危い、脇へと云うて、暫く躊躇する中に、又激しく揺れましたから戸に頼つて暫く立つて居りました。一分であるか二分であるか、軈てに漸く中の口の、上から物の落ちぬ所から逃出したと云ふ始末でございました。さう云ふお話を長たらしく申上げるのは無要のことでありますが、老人の身が怪我も無く斯様な有様であつたと云ふことを申上げたいのであります。庭に出ても狭い所、柳の木の下に椅子を置いて貰うて、皆が椅子に掛かる訳にも参りませぬが、私だけ劬られて椅子に腰を掛けて見て居りましたが、どうもセメントの悪い為か、煉瓦が砕けてばたりばたり落ちまするので、今も悪い心持が残つて居ります。真に凄じう感じました。何だか人の体が壊れでもするやうな有様、壁が揺れる度に、ばたりばたり落ちます。殆ど是位悪感を以て見たことはないのです。其中に又激しく来るかも知れぬと云ふ有様、其後はそれ程でもないと思ひましたが、丁度頭取が事務所の方は甚だ震動が強いやうだから、此方へお出なさいと云うて、迎へを寄越して呉れましたので、幸ひ其人に誘はれて、もう見るも嫌でございますから、其揺れる場所を退いて、第一銀行の二階へ参つて、此処で初めて茶でも喫めると云ふやうな、蘇生したやうな心持になりました。併しまだ余震が頻にある際でございましたから、最初のやうに激しくはないけれども、中々不安心の時でありましたが、幸に堅牢で、幾ら揺れても罅もないやうですから、是なら安心だと云うて、初めて空腹を覚えて、麺麭などを食べると云ふやうな有様。もうやがて二時少し過ぎましたので、余り長くも居られませぬ、事務所は砕けてしまつたから、明日から困るがと云うて、事務所の方に居りました人と相談をしまして、第一銀行に一間空室がなからうかと尋ねますと、ある、貸してやらうと云ふことで、それから其場所を借る約束をしまして、後に必要の物だけ此方へ運ぶが宜からう、私は家の方でも心配するだらうから帰ると云うて、併し道が無くなると困る、お前には歩行が出来ぬから、自動車の行ける道を見て来てやらうと言はれて、何でも四十分許り掛かつて見て呉れました。御成街道へ出て、上野を抜けて動坂を通つて行けば大丈夫だと云ふ。併し大丈夫ではなかつた。中々骨が折れましたけれども、先づそれで帰宅を致しました。所が其時に誠にもう八十四歳の老人、実にお恥しい、百拝九拝皆様にお詫をせねばならぬのですが私がそれ位だから、頭取も其外の重役も皆さうであつたのですが、火事と云ふことに気が著かなかつた。其癖煙が見えて居つた。地震の後の火事の恐ろしいと云ふことは嬰児も知つて居ることだが、八十四歳の老人がそれに気が著かなかつた。何たる不注意、実にお詫を申すもお恥しい。真にこんな火事が起らうとは思はなかつた。又起つても焼
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けまいと思つた。双方川を控へての家であり、建物も皆相当な不燃質であるものですから、火事をそんなに心配せぬでも宜い位に、空安心を持つたのは、何たる不注意でありましたか。蓋し銀行も相当に書類を焼いたやうですが、併しより以上に私は皆焼いてしまひました。今も其事を申しますと、真に涙が零れます。特に私が残念に思ふことは銀行に関係のない駄弁を弄すると思召すか知れませぬけれども、私は元一橋慶喜公の深い恩遇を受けた者でございます。二十四の年に家を出て、二十五の二月に一橋の家来になつた為に、八十五歳の今日まで一身が存命出来るので、若しさうでなかつたならば、もう六十年前に自分の体は骨になつて居るのです。斯う考へますると、命を助けられたから慶喜公が有難いと云ふではありませぬ、人間は死なねばならぬ場合には何時でも死ぬが宜い、強ひて生を貪るべきではないけれども併し、道理のないことに身を捨てると云ふことは、決して讚めた話ではない、左様に一身を粗末にすべきものではないと考へる。即ち人の世に存在するからには、何なりとも国家の為になるのが人間の務めでありませう。果して然らば、其当時暴戻の考を以て或る事を企てたのは寧ろ心得違、之を取止めたのは一橋慶喜公――御自身ではない、其御家来の平岡円四郎と云ふ人に散々説得されて、遂に一橋の御家来になり、其以来全く方向を転じて、過激、急燥なることでは迚も行けぬ順路に頼る外ないと思うて、それから真に草履取から御奉公を継続致したのであります。然るに時勢は実に意外の変化で、私は一橋の御家をして、どうか相当な資格、相当な力を伸べさせたい、まだ封建時代の世の中でしたから、或は財政に、或は経済に、或は軍事に、小さい一橋を大きく盛立つて、日本に雄飛させたいと思うて、後から考へれば愚の至りでしたけれども――所が其中に一橋が将軍相続と云ふことになりました、それが慶応二年の八月でありました。宜くないと思うて頻にお止め申したけれども、どうも吾々は年も若いし位置も低い、説も行はれず、事が達せずして、遂に将軍になられた。一橋が将軍になつたら幕府は倒れると云ふことは、私には能く目に見えたやうに思ひます。私許りではない、具眼の人は皆さう見た。其年の冬、私は仏蘭西行を命ぜられ、丁度十二月頃でありました、日は忘れましたけれど、千八百六十七年の巴里に開かれる博覧会に、日本から使節を出して呉れ、而して其使節は成るべく若い人で、其任務を終つた後に欧羅巴に留学せしめて、海外の文物を充分吸収して日本の再興を図るやうにと云ふ、ナポレオンの徳川慶喜と云ふお人に対する注意で、徳川民部大輔と云ふ子供が仏蘭西へ使節として行き、続いて留学せられると云ふことになつた。之に命ぜられて随行することになりました。丁度慶応三年の正月旅に立ちました。予て憂へて居る通り、必ず政変が留守中に起るであらう、敢てさう先見の明ある私ではありませぬけれども、心窃に憂へて居つたのです。暫くの間は、仏蘭西に博覧会がある博覧会が済むと各国巡廻等のことで、多事でもあつたから忘れつゝ居りましたが、其年の十月十四日に大政奉還、続いて慶応四年即ち明治元年の一月四日に伏見鳥羽の衝突、斯う云ふやうな政変が続々として伝へ来つたのであります。而して其結果から、私共は明治元年、即ち
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慶応四年の十一月の初めに日本へ帰つて来た。それは初め留学の目的であつたけれども、徳川が倒れたから、其事の履行が出来ないで、余儀なく日本へ帰つて来たと云ふことは当然の話。扨て帰つて見ますると、慶喜公は駿河へ蟄居してござる。今申すやうな関係故に、取る物も取敢へず、其年の冬、東京の用事をしまうて駿河へ参りまして、密に拝謁を致して見ますると、実に世の中の変化と云ふものは斯うもあらうか、殿様が乞食になつたと云ふのは此事であらう。前申す通り、私の立つ時には、兎に角将軍様です、其将軍の有様は、洵に畏いことであるが、今日の陛下の御挙動をもされたと云ふやうな有様、葵の紋を著る人を見ては大層羨んだと云ふ世の中であつたのです。其将軍が駿河の宝台院と云ふ寺の庫裡の狭い所に蟄居してござる。私は立つ前には、将軍様として遠くの方から拝謁する位の身柄であつたのです。帰りましてから宝台院で、民部様のことに付て申上げねばならぬので推して拝謁を願つた。所が行灯の光、小さい火鉢に火の気が少し許りある、十二月の初めのことです。謹んで坐つて居ると、小使か何か障子を開けたと思ふと、是が慶喜公。見すぼらしい有様で、しよんぼりとお坐りになつた。真に泣きました。只今も其有様を思出すと、慄つとするやうな気がします。不図見ると小使ではないのです。仰ぐ君公ですから、自ら平伏して、それからどうしても勢ひ多少の苦情を言はざるを得ぬので、何たるあさましいことでありませうかと、何やら女の愚痴のやうな事を申上げんとしますると、勿論さうお親しくもないのですから、丁寧のお話のないのも当然でありますが、いやさう云ふやうな繰り事を聞かうと思つて面会したのではない、民部の模様が聞きたい為に、長い間附添うたお前だから、それで面会するのだ、既往の繰り事は止めて、民部の身の上の事だけ話して呉れ。一言訓戒的の御言葉を受けて、あゝ悪かつたと気が著いて、そこで民部公子の有様を申上げて引取つたと云ふのが、当時の有様であります。此に於て初めて私は、どう云ふお考へであるか、余りと言へば訳が分らぬ、去年の十月十四日に、申さば七百年続いた封建、三百年続いた徳川家の政権を、敝れ履を棄てるやうに奉還せられた。其奉還は宜しいが、なぜ其翌年正月に兵を出されたか。又一度兵を出したら、さうあはてゝ引かぬでも宜い、七転び八起きと云ふことは商売にもある。そんなに吃驚せぬでも宜いやうに思ふのに、直ぐさま回陽丸で帰つて来て謹慎。余り辻褄が合はない。是は今お考へなすたら誰方でも分る話、殆ど常識ある人ではやらぬこと。然るにさう云ふ御行動があつたから、此処で一つ質問しようと思つたが、言ひたくないと云ふお話。其後自問自答、色々思案しまして、初めて慶喜公の御趣意が分つた。是は封建時代を王政に復古せしむるより外ないと云ふ覚悟を窃に定めて、さうして御自分の身を犠牲にして、所謂身を殺して仁を成したお人だと云ふことが能く分つた。併しそれは私だけには能く分つたが、世の中は矢張逆賊か然らざれば怯懦、一方薩摩・長州の側からはさう言はなければ、あの場合に本当に大勢を転換することは出来ない。中には気の毒だと思つた人もあつたでせうが、勢ひさうしてしまつた。又内輪の徳川を百代迄も続けたいと思ふ人からは、貴方が意気地がないからだ、
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卑怯だと思ふのも、是も無理はない。一方は逆賊、一方からは意気地なしに見られつゝ、其弁解をせられずに、黙つて三十年でも五十年でも世を終るまで過されたのが慶喜公。そこで私はどうしてもあの御方の伝記を調べて置きたいと思うて、私は三年か五年しか奉公しないのですから、譜代の家来でも何でもないのですが、右様の関係から、是非御伝記を調べたいと思付いたのが、殆ど明治二十年頃からの企てゞ是非慶喜公の御存生中と思うたのが果せませぬで、大正に至つて、慶喜公御逝去後に初めてそれが成功しました。成功してそれは世に配布しましたが、それを調べるに付ては、中々記料が数多くあるのであります。当時の老中の御用箱からも引出し、幕府の遺老からも聞出し、水戸の古老からも聞出し、各種の方面から段々と取調べて、さう云ふ物を以て、或は賛成か、或は反対か、最も公平の見地から、世間の批評は斯かる根拠から考へ出したと云ふことを明かにして置きたいと思うて、御伝記にさう明瞭に書くは宜しくないと云ふから、或る有力なる考証、或る有力なる言葉から、自然に推し得るやうにと思うて、成るべくたけ自己主義、自己宣伝にならぬやうに書きました積りであります。但し、私が自身筆を執つた訳ではない、萩野由之博士を主とし――其初め福地源一郎氏に頼みましたが、病気の為に果しませぬで、今申す萩野博士外随従の五、六氏に託して出来上りましたのが大正七年でございます。此記料を兜町の事務所に皆備へて置いて、軈てに王子の方に堅固な書庫が出来ると云ふので、之が出来たらそれへ移してそれこそ老後の楽みに時々繰返して見たいと思うて居つた。但し御伝記編纂中、慶喜公も初めはお嫌ひになつたけれども、後には大に気乗りがせられて、昔夢会と云ふものを造つて、都合二十回も開きましたが、或は月に一度、或は年に三、四度、寄つては昔語りをします。其都度慶喜公も始終私の宅へ来られて、あれ是れとお話合をしました。今申す御用留、旧い書類を存して置きますと、今申上げまする事柄などが、唯感想的に私が申上げるやうなものでなく、後の証拠になると思うたのは、丁度水戸の義公が大日本史を編纂されるに当つて、其記料を彰考館と云ふものに蔵めて居られますが、是等の小さい形にして存して置きたいと思うて、兜町の事務所に備へて置いたのでございます。お話が少し長くなりましたが、第一銀行の書類も焼けようとは思はなかつたが、私もそれ以上数倍大事の書類があることは知つて居りましたけれども、焼けることは知らなかつた。扨家へ帰つて来て夜見ると、東の方が赤くなつて居る、おかしなことだ、火事に違ひない。初めて其時になつて気が著いたがもう遅い。翌朝聞くと残らず焼けてしまつた。実に残念千万。右のやうな訳ですから、第一銀行の焼けたのは無理はない。千慮の一失どころではない、万失の方で誠に面目次第もありませぬが、当時の有様はさう云ふ次第であつて、又事務所の焼けたのも斯う云ふ訳であつたと云ふことを、序ながら自家広告でありますけれども、真に今も尚ほ残念で堪らぬ、後悔の余りに、第一銀行の書類を焼いたのも残念ではあるけれども、私はそれよりも尚ほ残念でございましたと云ふことを、お埋合せに申上げるのであります。
 是は震災の当日、火災に関係したお話で、余り喋々と申上げる必要
 - 第50巻 p.204 -ページ画像 
はございませぬが、実に此大震災に付て、是から先をどうしたら宜からうかと云ふことは、種々なる論説があります。私も帝都復興審議会と云ふものゝ末席を汚して居りますから、或は是等に付て多少意見も申上げる機会もありませうけれども、併しどうも中々六ケ敷い事柄で其中に色々の政変が加はり、中々思ふやうに運ばぬ、彼此れする間にもう内閣が二度も変ると云ふやうな有様。政変と天災とごツちやになり、余程気を確かりせぬと、どのやうに行走るか知れぬと考へます。まあ微力ながら成るたけ冷静の考を以て、余り立派には出来ぬでも、無駄のないやうに、是非回復を図らねばならぬと思ひますが、此復興問題に付ては、物質の復興と云ふことも甚だ肝心であるけれども、より以上に復興させればならぬものがあると云ふことを始終私は申して居る。それは何かと云ふと、即ち精神である。物質許りの復興が、果して今日を完全に善くし得るや否や。成程健全なる体格には健全なる精神が宿ると云ふけれども、さうではない、私は健全なる精神が、其体格をも健全ならしむると言つた方が宜いと思ふ。丈夫でさへあれば果して質実剛健なる精神が、其体に屹度存して居るとのみは言へぬ。斯う考へると、今日どうしても精神の復興と云ふことに、大に御同様力を入れねばならぬことではありますまいか。扨其精神の復興は如何にするか、決して智力を粗略にせいとは申しませぬ、併ながら智力に伴ふ信念を進めて行かなければいけない。斯う考へますると、度々当銀行界の集会などにも申上げることで、私は何時も相手変れど主変らず、繰返し繰返し申して居りますが、即ち道徳経済合一より外ないと思ひます。どうしても孝悌忠信の観念が基礎にならねば、本当の精神の復興は図られぬものと思ひます。孝悌忠信の基礎を完からしむるには経済と道徳が一致することの覚悟を持たねばならぬ。甚だ今日の場合迂遠のやうでありますけれども、其実最も必要のものは精神の復興である。此精神の復興は即ち忠孝の心を厚うするに在る。私は玆に銀行株主諸君のお集りの前で申したい、此震災後の健全なる復興は、どうしても精神に在る、其精神は何を以て先にするか、詰り孝悌忠信を進める外はない。事実の働を申すならば、道徳と経済が一致するのである。其方法を論じたならば、放之則弥六合、巻之則退蔵於密と云ふ中庸の教の通りでございます。どうぞ御同様精神復興を充分に鼓吹したいと思ひます。之を今日の御挨拶と致します。(拍手喝采)


竜門雑誌 第四二六号・第五〇―五一頁大正一三年三月 ○佐々木勇之助君古稀寿祝賀会(DK500035k-0006)
第50巻 p.204-205 ページ画像

竜門雑誌  第四二六号・第五〇―五一頁大正一三年三月
○佐々木勇之助君古稀寿祝賀会 第一銀行頭取佐々木勇之助君は、昨年を以て古稀に相当せるより、曾て同君の指導を受けたる渋沢篤二君外十四名の諸氏発起となり、聊か祝賀の意を表する為め、茗香佐々木先生古稀寿祝賀会を組織し、昨春来その準備を進めつゝありしが、折柄震災の為め一先づ延期し、改めて去二月十一日紀元節の佳節を卜し午後五時より帝国ホテルに於て記念品贈呈式並に祝宴を開催したるが当日主賓として佐々木君及令息謙一郎君始め、同修二郎君・同和三郎君・同重雄君・岡実君・立石信郎君・関原忠三君、又陪賓として青淵先生・石井健吾君・杉田富君・西条峰三郎君・明石照男君、並に会員
 - 第50巻 p.205 -ページ画像 
二十七名出席の上、発起人総代渋沢篤二君の左記祝辞朗読ありて、青淵先生の揮毫になれる篇額及会員名簿を記念品として贈呈し、佐々木君の懇篤なる答辞あり、式終つて伯鶴の講談ありて後祝宴に移り、渋沢発起人総代の挨拶に次ぎ、青淵先生は五十年前、佐々木君と相識りし以来の意味深き懐旧談を祝詞と共に述べられ、尚ほ同君の為め杯を挙げて一同と共に健康を祝され、次に会員各自現在の職務等に就き自己紹介あり、最後に佐々木君の答辞ありて宴を閉ぢ、更に別室に於て快談時余に及び、一同和気靄々裡に十時散会せる由。○下略
  ○右祝賀会ニツイテハ、本資料第四十九巻所収「佐々木勇之助古稀祝賀会」参照。尚、大正十五年十一月十四日玉川清和園ニ於テ行ハレタル、画帖献呈・記念館造築ニツイテハ、賀章・謝辞・栄一祝辞ヲ次ニ掲グ。


賀章・茗香先生謝辞・青淵先生祝辞 茗香先生古稀祝賀会編 第一―三三頁刊 【賀章(DK500035k-0007)
第50巻 p.205-211 ページ画像

賀章・茗香先生謝辞・青淵先生祝辞 茗香先生古稀祝賀会編
                        第一―三三頁刊
    賀章
我第一銀行頭取茗香佐々木先生、大正十二年八月を以て古稀の齢に躋らせらる、我等第一銀行行員、平素先生の指導訓育を蒙れる者一同胥謀り、本日の佳辰を卜し虔みて先生の寿を祝し、恭しく賀章を呈す
明治六年第一国立銀行の創立せらるるや、先生聘せられて行員となり其忠実勤勉と刻苦励精とは次第に上下の信頼を高め、荐りに累進して支配人となり、同廿九年国立銀行営業満期に際し、株式会社第一銀行の取締役に選まれ、後ち総支配人を兼ねらる。大正五年頭取渋沢子爵の引退せらるゝや、其後を襲ひて頭取の顕職に就かれ、以て今日に及ぶ。顧れば先生職を本行に奉ずる実に五十有余年、半世紀の長き終始一日の如く恪勤精励、前には子爵を補佐し、今は其首脳者として一人一業主義を執り、専念行務に尽瘁せらる、本行の今日あるは、子爵の賜にして、また先生の力其多きに居るは、内外の斉しく認識する所なり。加之先生は或は手形交換所委員として、或は銀行集会所会長として、久しく金融界の為めに力を尽され、又平時戦時に於て各種委員として、我国財政経済の為めに貢献せられたること少なからず。されば其一言一行は斯界の権威として、其声望九鼎大呂より重し、世人が以て銀行界の師表と為す、亦宜なりと謂ふべし。先生を頭取に戴くは実に本行の名誉にして、また我等行員の大いに誇とする所なり。
惟ふに先生は至誠の人にして真摯質実、人格高潔にして恭謙己れを持し、而かも其業を執るや私情を以て正義を枉げず、理に順て事を処し裁断流るゝが如し、是を以て内外の信望は年と共に厚く、行員欽慕の情は弥々切なるものあり。今日先生の為めに此祝寿の典を挙ぐるに当りて何の辞を以てか能く慶賀の至情を表し得べきや。先生古稀を超ゆる既に三齢、而かも尚矍鑠として強健壮者を凌ぎ、入りては終日行務を直裁し、出でては本行を代表して各種の会合に臨み、孜々として倦む所を知らず。又家庭にありては子女を集へて団欒嬉々、和気常に堂に満つ、其至誠と高風とは実に一世の儀表と謂ふべく、我等先生に親炙し薫陶を受くる者の幸福、豈之に過ぐるものあらむや。
玆に虔みて先生古稀の寿を祝し奉るに当り、東西十二画伯に執筆を乞
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ひ、依て集成せる得楽帖一帙を奉呈し、以て献芹の微意を表す。又永く先生の高風を憬仰する為め、清和園内に簡素の記念館を造築し、先生に館名を乞ひ清風亭と命名せらる。我等執務の余暇時に此館に集まり、閑話の裡に俗塵を払ひ、談笑の間に親睦を厚うせんか、身心の修養に裨益する所また少なからざるべし。我等行員は先生平素の旨趣を体し、人格を陶治し、誠実以て行務を励み、益々本行の声誉を高め、行運の隆昌を期せざるべからず、之れ先生鴻恩の万一に酬ゆる唯一の途なりと信ず。
冀くは先生自重自愛倍々健康を保持せられ、永く本行の主宰者として我等を指導誘掖せられんことを。玆に先生及び御家門の繁栄を祈り、謹んで南山の寿を祝し奉る。
  大正十五年十一月十四日
              茗香先生古稀祝賀会
                 会員総代 石井健吾

    茗香先生謝辞
今日は此秋晴の好日和に当りまして、石井副頭取始め、第一銀行の重役各位並に本支店行員の諸君が、私の古稀をお祝し下さる為に、本日此清和園に御会合になりまして、私及家族・親戚の者等、多数お招を戴きまして、且つ私の最も崇敬して居ります渋沢子爵閣下の御光臨を辱う致しまして、此式場に於きまして、石井君が其委員長として私に対して過分の御賛辞と御祝辞を賜りましたことは、私の一身の光栄は申す迄もなく、一族の名誉此上もなき次第で、深く感謝する所であります。さりながら御賛辞の如きは不肖私の決して甘受することの出来ない所でありまして、元来私は明治六年に二十歳の青年で当銀行の前身たる第一国立銀行の帳面方として勤務致しました者でございます。爾来当時の頭取であらせられました渋沢子爵閣下より特別のお引立を蒙つて、其御懇切の指導と御誘掖に依りまして、今日の地位を辱う致しました者でございますから、固より学問もなく才能もなく、全く子爵の御懇命と、同僚並に行員の皆様方の御親切なる御援助に依りまして、今日まで其職に留ることを得ましたのでございます。然るにそれにも拘りませず、重役並に行員諸君が私の古稀をお祝し下さる為に、金を醵して盛大なる祝賀会をお開き下さいまして、当代に於て有名なる東西十二大家の霊筆に成る貴重の画帖を、殊に子爵の御題辞をお願になりまして、御贈与下さいましたと云ふことは、誠に有難く存じまするのみならず、此清和園内に子爵の紀念館たる誠之堂と列びまして私の為に一つの紀念館をお造り下さいましたと云ふことは、余りに其分を超えましたことで、何と御挨拶を申上げて宜しいか、甚だ其言葉に窮して唯恐縮する次第でございます。私は曩に斯の如きお企のございますることを伝聞致しました節に、直に此発起人で居らつしやる石井・杉田両君に対しまして、私の老齢をお祝し下さいますことは誠に感謝致しますが、私の如き五十余年間の勤務中に何等の微功もなく、此凡庸の者に対して紀念館をお造り下さると云ふことは、其当を得たるものでないと思ひますから、どうぞお見合せを願ひたいと云ふこと
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を申しましたのでありますけれども、既に其時は晩うございまして、最早其前に御計画も進んで居る、資金も大分集つて居るのだから、今更中止する事は出来ぬと云ふことでお断りになり、何とも当惑致しました次第であります。それ故に此御設計等に就きましては能く承知して居りませなんだが、今日此処に罷り出まして親しく拝見致しまする所が、閑雅にして荘麗とも申すべき、洵に結構な御構造のように存じます。殊に只今杉田君から仰せの如くに、室内の器具・装飾等に就きましては、私の関係して居ります東京貯蓄銀行の諸君が此挙に御賛同下さいまして、お造り下さいましたと云ふこと、又清水組のお方々からは内の装飾等に就て、又工事に就て非常に御尽力下さいましたことは、別して恐縮に存じます。依て此機会に於きまして、東京貯蓄銀行及清水組の方々に厚く御礼を申上げます。名画帖の如きは如何に貴重な物でございましても、皆様の御好意の籠つて居りまするものでございますから、有難く頂戴を致して、長く家宝として子孫に伝へ、何処迄も皆様の御懇情を紀念致したいと存ずるのであります。さりながら此紀念館に対しましては、私と致しまして衷心甚だ忸怩たるものがあります。なぜかと申しまするに、私の如き才もなく徳もなく凡庸な人物が、唯年齢を重ねたと云ふ為に紀念館をお建て下さつたと云ふことは、将来の為にどうも悪例を貽しはしないか知らんと、窃に憂慮致したのであります。併し翻て考へて見ますると、此清和園は第一銀行の行員の諸君が、行務の余暇に心身を修養する為に設けられた娯楽の場所である。此場所に造られた紀念館は、一面に於ては行員諸君の休養の場所ともなり、諸君の親睦を厚うする機関ともなり、間接に銀行の営業に裨補する所が少くなからうと存じます。加之皆様の間に斯の如きお企の起りましたのも、畢竟は銀行の営業が順調に発達して、年と共に隆盛に赴きました結果に外ならないと信ずるのでございます。して見ますれば此紀念館は当銀行の隆盛の標章ともなり、延いては此銀行を創立されまして、多年之を経営せられ之を培養せられまして、今日に至らしめました渋沢子爵閣下の恩徳を懐ひ起すと云ふことにもなる訳と存じます。斯の如く解釈致しますれば、此紀念館は私と致しましては甚だ不適当と存じまするけれども、皆様の紀念館とし、又第一銀行の繁栄の紀念館としては、誠に結構な事と存ずるのであります。今後益々銀行の繁栄と共に斯の如き家屋が建設されまして、行員の皆様方の福祉を増進することを希望する次第でございます。私は斯の如き御鄭重の御優遇を蒙つたことは、生れてから始てゞございまして、之に対しまして何と御礼を申上げて宜しいか甚だ其言葉に苦むような次第であります。唯玆に謹みまして皆様の厚き御懇情を感謝致しまして、本日此処に御臨場を賜りました渋沢子爵閣下を始め、各位の御健康を祈りまして、且つ第一銀行と東京貯蓄銀行の益々隆盛ならんことを祈る次第であります。之を以て御礼の辞と致します。
                          (拍手)

    青淵先生祝辞
頭取、御一族、会衆の諸君。お芽出度い日に幸に参列致して、玆に茗
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香先生に一言の祝辞を申上げ得られることを、此上もない光栄又愉快に感ずるのでございます。年寄ると度々うるさい事があつて、何だか長生は不利益だなんと云ふ感情を時々起しますけれども、反対に今日のやうな場合には、長生こそすべきものだと自ら大に喜ぶのでございます。古語に天善人に幸すと云ふことがあります。今日などは立派にそれが証拠立て居るやうです。或は日和がどうなるか、余りに寒くては困るなどゝ思うて、多少年寄には此式日の天候を懸念したのであります。勇気を鼓して罷り出ると、家に居るより大変に愉快で且つ誠に好天気、実は此茗香先生の積善の上に、皆様の御信心の好い為に、斯の如き好天気を得た。天も即ち善人に幸すると申しても宜からうと思ふのであります。
茗香先生に対して、只今石井副頭取の朗読されました賀章は誠に其宜しきを得た、私共言はんと欲する所を漏れなくお書綴りになつたように思ひます。如何にも其当を得たる祝辞であつて、行員諸君が左様に思はれたと云ふことは、誠に喜ばしい事と私は深く称賛致します。
只今茗香先生は之に対して、何やらどうも自分が褒められ過ぎたような気がして、敢て当らぬと云ふ御謙遜のお言葉は、平常の謙徳に富まれたお人としては或は然らんかなれども、是は或る場合には左様に御謙遜下すつては、却て皆が困る。若しあなたが左様に御謙遜なさると申上げたことが諛言になる。若し諛言でないならば、あなたが安んじてお受け下さらなければならないと、まあ議論をするではありませぬ斯かる式日に議論はせぬけれども、先づそれ位に申上げたいように思ひます。それで先生は更に打返したやうな御挨拶がありましたけれども、其御挨拶中の余りに御謙遜に過ぎた言葉は、どうぞお取消を願つた方が宜からう位にまで思ふのでございます。
年を自慢するではございませぬが、歳月は実に色々に変化をして、其変り行く有様が数々ある。蓋し此点は私ほどではありますまいけれども、今日祝賀を挙げる茗香先生と雖も、さうお若いとは申上げ兼るからして、矢張其感じがあらつしやるかも知れぬ。私などは別して丁度今段々お述になつた明治の初め、即ち第一銀行のまだ国立銀行と云ふた頃ほひの、其色々に変化した有様を玆に回想しますると、或る場合には殆ど迷惑を感じて、如何にしたら宜からうかと、思案に余つたような事すらあつたのでございます。斯かる祝賀の席で其様な事を申上げるのは、所謂年寄りの繰言だと、或は茗香先生もお思ひなさるかも知れぬ、諸君も或は場所柄不似合だと言はつしやるかも知らぬけれども、併し第一国立銀行の初めから今日に至るまで、いつも斯う云ふ必ずしも好い日和ばかりあつたのではないと云ふことを御記憶あるように致したい。明治六年に銀行が始つて、今伺ひますと茗香先生は当時二十歳であつた、私もお若い方とは思つたけれども、左様に青年だとは思はぬ位であります。先生は計算方にお入り下すつたのであるけれども、其頃はまだ次に謂ふ一・二の苦心談は其局に当つての御心配ではなかつた。明治七年の冬には銀行の基礎の両脚、三井と小野とあつた其小野は忽に倒れた。而も二百五十万円の銀行に対し百万円の資本を持つて居る大脚である、此脚が一本欠けたのですから、銀行は直ぐ
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倒れなければならぬとまで、人が言ふではない、私自身もさう思ふたのである。けれども幸に多少微力ながら苦心もしましたし、又行員の即ち茗香先生などもまだお年若でも、相当な力を添へて呉れた、外に援ける者もあつて、此一本の脚が欠けたに拘らず、銀行は倒れずに済んだ。併し其翌年又一つの災難が起つた、是等の事は今のお方には一寸も御理解はなからうと思ひますけれども、無謀にも太政官紙幣を兌換せしめたいと云ふ理想論で、国立銀行を亜米利加のナシヨナル・バンク・システムに則つて、伊藤さんのお座敷論で申して来られたのを直に出来るものと思ふて私も掛かつた。今から考へると左様な馬鹿で能く銀行が出来たと、あなた方がお思ひになるか知らぬが、其時は左様に馬鹿でもなかつた。利口ぶつた顔をして、伊藤さんなり井上さんなり、渋沢も其一人に加つて心配をして組立つた。理想は大変宜かつたけれども、さてやつて見ると金銀の比価が狂つて来ると、どしどし銀行の金を持つて行かれる、迚も維持が出来ない。余儀なく此方法を変へたのが明治九年、銀行制度の根本は変りはしませぬけれども、根本が変らぬと云ふ条、其の実は兌換制度を廃してしまつて、政府の紙幣と引換へると云ふやうな馬鹿々々しい制度に依つて、国立銀行の形を維持したのであります。
今諸君がお聴きになつたら、あんな人を馬鹿にした制度が何処にあるものかと必ず仰有るに違ひないけれども、それが第二の困難であつたのであります。蓋し是は最初の考が間違つたからであります。左様な昔を今此お芽出度い席上に繰返すことは、場所を得ないかも知れませぬけれども、茗香先生と云ひ、私と云ひ、此銀行に対しては随分長い間艱苦をした躯ゆゑに、昔の繰言を序でに諸君にお聞かせ申すことは或る場合には啻に無用の弁でなからうかと思ふのであります。
それは創立の際の困難であつたが、是から後の困難は私ではなくして即ち今日賀章を呈する茗香先生のお骨折が最も多かつた。御自身は或はさうお思ひなさらぬかも知れぬ。己のした事は当り前だ――謙徳に富んだお方でありますから、今私の述べた二つの困難の如くにはお感じなさらぬかも知れぬ。己は自分の任務として当然の事をしたとお思ひになるかも知れませぬが、併し其後の所作に就て、第一に横浜の生糸取引などに就ては大なる蹉跌を来さんとした、之に就て其計算書がどうであつたかと云ふような細かい事は申しませぬけれども、私より以上に此経営に就て考を変へて行つたのが茗香先生であつた。私は其初めに奥羽あたりの開拓に対して、大に銀行の力に依つて之を援けて行かうと云ふ考で、今日斯く老衰しても尚ほ東北振興会と云ふものゝ世話をして居りますが、其時分には勇気勃々として居りましたから、左様な考を以て宇都宮以北に到る処に支店を出して、さうして申さば新開場所に力を添へることに努めたのでありますが、どうも未来を考へると云ふと、商業銀行として其趣向は甚だ覚束ないと云ふことに、早く着目されたのはどうも茗香先生のやうでした。極く温和な方でありますから議論はなさらなかつた、併し明治二十九年に私立銀行に変はる時分に其方法を改正したのは、同君の力最も多かつたと申さなければならぬのです。それから更にもう一つ――斯う云ふ事は言葉に現
 - 第50巻 p.210 -ページ画像 
すと少し語弊を生ずる嫌がありますけれども、前にも申します通り三井と小野が二百五十万円の中、二百万円を持つと云ふような銀行でありますから――小野は直に止めましたが三井は引続いて大株主であつて、始終三井の人は資本関係を以て重役になつて居られた。成るべく第一銀行と言はれるような態度を以てやりたい、要するに皆の勉強・誠実・公正、斯う云ふ事でやりたいと云ふのが私なり茗香君なりの志願であつた。敢て財閥を嫌ふではないけれども、成べく財閥を造らぬやうにしたいと云ふことを主眼としたのが、いつの間にか程好く――其初め三井・小野とありました中、小野は前に申すやうなことで資本は失くなつたが、後に三井も段々に変つて、今の所では誠に公平な、所謂民有銀行に相成つた。此遷り変りは誰が働いたでありませうか、表面は誰もさう云ふ事に就て議論をした人はない。併し心持は常に其処に存して、例へばワシントンが共和政治を主張するが如く、何処迄も閥閲に囚はれずに――或は藩閥と云ひ財閥と云ひ、色々閥が附き易いが、其閥なからしむるように努めたと云ふことは、先生は最も意を致した。尤も是等の事に就ては、余りに佐々木君と私との間に、斯くしろ斯うしようと云ふて、打合せをしたことは殆どありませぬ。ありませぬが心には必ず相共に肯いて居つた。而して先づ第一銀行が何処にも財閥などはなしに、斯の如く進んで参つたと云ふのは、全く主として茗香先生の公平至誠の力であると云ふことを能く御了解を願ひたい。此点に就ては勿論賀章には書けない事でありますから、今の石井君の賀章には其意味はありませぬけれども、此点は能く諸君はお考へ下すつて、第一銀行は閥を造らぬようになさると云ふことを深く御注意ありたいと思ひます。或る場合には閥のある方が便利の事がある。閥ならざれば人に非ず、清盛であつたか誰であつたか自慢したことがある。或は薩摩と云ひ長州と云ひ、閥を張つたと云ふ例は幾らもある一時は其方が都合の好い事もありますが、併し必ず其反動は害を為すものでありますから、経済界も尚ほ然り、私は第一銀行はいつも公正にいつも誠実に正――と公とを主義とすることを深く希望して居る。のでありまして、此点に就ては真に茗香先生も閥を造ることの極くお嫌ひな方である。私も好みはしませぬが、より以上にさう云ふ点にお力を注がれたのが、即ち今日の極く公平な自由なる銀行たり得ることに相成つたと思ひます。此点に就ては先生は左様に深く考慮された事はないと、或はお考になるか知れませぬが、即ち公正と云ふこと、誠実と云ふこと、勤勉と云ふ点から、段々にさう云ふ方面に導き来られたものと申上げて宜からうように思ひます。もう賀章に尽してはありますけれども、私は其中の情意に属することを一言申添へた次第でございます。
実に歳月は経過し易いもので、五十年の昔がまだ昨日今日のやうな感じがします。それは或は年寄の一つの特徴とも申しませうか、私は或る時に斯う云ふ歌を詠んだことがある
      唐崎の松をみて
 千歳ふる松は三十路を束の間と
   変りゆく世をよそに見るらむ
 - 第50巻 p.211 -ページ画像 
欧羅巴から帰つてからでしたか、何でも久し振りで唐崎へ参つて松を見た。今は其松は枯れたと云ふことであるけれども、浪人の時分、まだ明治にならぬ前に見た松が、三十年経つても余り変つてゐない。自分の身体は大変に変つて居る。それ故に、千歳経る松は昔に変らねど変り行く自分の身はまるで夢のやうである、と云ふ意味の歌を詠んだことがありますが、是はどなたにも少し年を取ると起る感情であります。若い間の五・七年は大変に変るけれども、吾々老人には十年位は誠に居据つたやうに見えるのは年寄の常であります。さう云ふ事から考へると実は茗香先生は大変老人らしく仰有るけれども、私は昔の二十歳位の時と左様に違はぬやうな気が致します。此間泉橋病院で三井八郎右衛門さんの銅像が出来たと云ふて招かれました。私は何か間違ひではないかと思つて能く聞いて見たら、矢張七十になつた。自分は未だ六十にもならぬお人と思ふて居つたが、大変に早く年をお取りなすつたと云ふと、なにお前だつて年を取つたのだと言つて笑はれたことがあります。茗香先生も大分お年寄らしい事を仰有つたけれども、私からは未だ十四・五お下である。丁度今申した二十年や三十年のことは、唐崎の松の如き感じがするのですから、それ程にはないか知らぬけれども、併し左様に年寄らしう仰有ると、少し私は其点には故障を申上げなければならぬと思ひます。是は諸君も茗香先生を年寄として敬重して居るけれども、余り年を以て敬重なさらぬように御注意ありたいと思ひます。是だけを一言申添へて置きます。
是で御免を蒙ります。(拍手)


(増田明六)日誌 大正一三年(DK500035k-0008)
第50巻 p.211 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一三年      (増田正純氏所蔵)
五月十三日 火 晴
○上略
午後五時半日本工業倶楽部ニ於て、渋沢子爵の第一銀行重役本支店各支配人及本店掛長の招待会があつた○中略食後は子爵を中心として支店長連の談話の一方にハ囲碁ガ盛ニ闘ハれた、一同歓を尽して退散したのは十時半であつた
  ○中略。
五月十七日 土 晴夜雷雨
○上略 渋沢子爵ハ○中略六時四十分帝国ホテルニ於ける第一銀行佐々木頭取主催の同行支店長慰労会ニ出席せられた○中略
第一銀行の宴会では同行頭取以下、重役、本店課長以上各支店支配人総計六十名、余興無し、僅ニ囲碁の設けがありしのミにて、主として団欒の便宜を与うる設備であつた、食卓上佐々木頭取の前頭取たる子爵ニ対する謝辞、並各支店長へ慰労挨拶があつて、次ニ渋沢子爵の謝辞、最後ニ各支店長を代表したる野口弥三氏の答辞ありて、食後再度別室ニ於て緩談ニ時を移し十時退散


竜門雑誌 第四三二号・第四二―四六頁大正一三年九月 ○第一銀行総会に於て 青淵先生(DK500035k-0009)
第50巻 p.211-214 ページ画像

竜門雑誌  第四三二号・第四二―四六頁大正一三年九月
    ○第一銀行総会に於て
                        青淵先生
 - 第50巻 p.212 -ページ画像 
 本篇は七月廿六日開催の第一銀行定時株主総会に於ける青淵先生の演説なり(編者識)
 特に申上げる考案は持つて居らぬのでございます。併し如何に年を取つても自分で育てた子供の大きくなつたのは、見る程嬉しいものでございます。故に総会には身体の続く限り出席致したいと云ふ希望で今日もお邪魔を致したのであります。幸に株主諸君の御多数にお目に掛つて、且つ年柄は余り経済界に好い時期とは思ひませぬけれども、幸に本銀行の経営宜しきを得て、先づ都合の好い諸計算を承認し、且つ利益の配当も満足に受け得られることは、洵に株主として此上もなく嬉しく思ひます。私が嬉しく思ふと同様に、皆様も御同感であらうと思ひます。畢竟事に当る頭取其他の諸君の御丹精が今日あつた事と御同様に厚く謝意を表さねばならぬのでございます。
 斯かる機会に或は経済界の事、若しくは社会的の事に就て、仮令老衰は致しても何か気付があつたならば一言申上ぐるは、決して無用ではなからうと思ひますけれども、実は段々に年を取ると共に世事には疎くなる方でございますから、是と申す好い思案を持つて世の中を警告するとか、諸君に御注意を与へるとか云ふ事は出来ませぬが、此間銀行倶楽部の会合がございまして、私は仕合せに名誉会員に選択されて居ります、一昨夜でございましたか、此処で新内閣の御役人様などと共に招かれて罷り出ましてございます。然るに加藤総理大臣・浜口大蔵大臣より、特に施政の方針若くは経済の要旨を稍々切分けてお話になりまして、洵に理由も能く分りまするし、喜んで拝聴致したのでございます。殊に大蔵大臣はどうも時勢の傾きが兎角に――悪く申せば放漫自由、一歩進んで云ふと驕奢に流れたと云ふ有様がある、勢ひどうしても緊縮を図らねばならぬからして、他の方面からも注意をせんければならぬけれども、直接に経済方面から、即ち奢侈品の関税を増すとか、場合に依つては内地製の奢侈品にも相当なる制裁を加へると云ふ位の覚悟を以て、所謂思想界の緊縮と共に経済界にも、大なる緊縮を与へねばならぬと云ふ趣意を喋々述べられました。此経済問題に就ては、学者・新聞社、種々議論のある事でございますので、お役人のお説有難く拝聴するは勿論でありますけれども、或点には多少の御批評も加へなければなりませぬ、唯々諾々とばかりは言へぬかも知れませぬ。さりながら大体此世の中が所謂質実剛健を失つて、軽佻浮薄に陥つて居ると云ふことは、是は争ふべからざる事実と思ひます。年寄が兎角さう云ふ事を申しますから、私が今申しますのを諸君は又かとお笑ひになるか知れませぬが、実に今日の時代は冗談ではないと思ふのです。唯事を処理するに就て、其事に当るお方、又一方に其事務に従事する人の精神如何が必ず必要である、古人の句に能く言ふは未だ信ならず、能く処する即ち大丈夫と云ふ事があります、饒舌るのは誰でも饒舌る、併し本当に行ふ者は少い。孔子は言に訥にして行に敏なるを欲すと言はれた、今の人は其反対で行に訥にして言に敏なる人が多い。此席上のお方は決してさうでなからうと思ひますが、世間を御覧なさい、皆ベラベラと饒舌つて、其饒舌る人が実行がどうかと云ふと一向之に伴はない。それは世間ばかりではない、一昨晩銀行倶
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楽部にお出なすつて喋々とお述べ下すつた国務大臣も、蓋し其一人かも知れぬと思ふのであります。或は私もそれかも知れませぬ。実に此世の中は殆ど口から先へ生れて、行を後にする人ばかりと言ひたい位でありますから、是はお互に注意して所謂真正なる言に訥にして、行に敏ならんことを心掛けねばならぬと思ふのでございます。其時に私はお礼として両大臣、即ち加藤・浜口両大臣にお答をしましたが、色色の事柄に就て方針をお示し下すつたことは喜ぶけれども、併し言うただけでは何んにもなりませぬ、所謂実行が伴はなければいかぬのでございます、のみならず斯かる時代に倹約を唱へるに於て、年寄の癖として古い例を引くやうでありますが、旧幕府の末路とは申しませぬ寛政時代・天保時代、松平越中守と水野越前守が所謂御倹約制度を行つて、どちらも或る場合には誹られもし又讚められも致しました。仮令幕府の政治が今日の如く文明式でないにもせよ、徳川の政府が一国を支配し、而も三百年継続した事実、左様に軽蔑は出来ぬのであります。此両様の政治家が今の時弊を矯めようとして、毅然たる覚悟を以て御倹約制度なるものを行つて奢侈心の防遏に努めた。其の努めた結果はどうであるか、それを能く御覧なさると、是から先の貴所方の勤めが能く分らうと思ひます。要するに松平越中守・水野越前守、ともに同じ政事を施かれたけれども、一方は兎に角一種の功を奏し、一方は甚だ失敗に終つた。単り失敗に終つたのみならず水野越前守の如きは、為に自分の封禄を削られ、後々までも水野越前守の悪政と誹られたのでございます。併し其考は共に緊縮を図り奢侈を禁じたのでありますから、今日の浜口さんのおやりなさるのと些とも違ひはない。なぜ左様に二つの考が分つたかと言ひますと、私は之を一言にして断ずると、一方越中守は忠実に誠を以てやつた、他の一方の越前守は術数を以てやつた、誠と術数との差が左様に違ひを生じた。今日の世の中には誠ばかりで決して術数はないかも知れませぬが、或は私共のやうな野暮の者の目から見ると、反対に術数ばかりで、誠がないやうに見受けられる虞があります。今局に当つて居るお方は、決してそんなお方でないと安心はしますけれども、世の中は所謂場当り考ばかり多くて、己れが斯う云ふ政治を施いた――打寄ると人の非難ばかり自己の効能ばかりを論ずると云ふのが、世間一般の通弊でございます。松平越中守が一死を誓つて政事を執つた有様とは、まるで雲泥黒白の違ひがあるやうに思ひます、水野越前守の政事、頗る結構でございますけれども、其精神が右と左と云ふやうに違つて居ります。殷鑑遠からず現在の内閣も能く御覧下さることであらうと思ひます。論理の末に斯様申入れました。浜口さんの制度、頗る結構であるが、其制度をして真に忠実に、理性を以てお貫きになるやうに願ひたいと思ひます。附加へて申しますと、如何に緊縮を望むと云うても緊縮ばかりではいかぬ仕事が相当にあらうと思ひます。例へば船の制度はどうですか、鉄の制度はどうですか、農事改良はどうですか、是等は唯倹約で之を成し遂げ得ると思ふならば、まるで盲人の杖にも足らぬやうな経営になりはしないかと思ひます。勿論此様な事は申上げる迄もない、御承知のお方々であるけれども、併しながら如何に賢明のお方であつても、
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余分の事を申上げて必ずしも害にならうとは思はぬから、私の思ふ所を腹蔵なく陳情する、是も蓋し人の事だから言へるので、若し自分の事であつたならば言へぬかも知れぬ、兎角今の世の中が人にばかり難きを求める嫌ひはありますけれども、渋沢も或は其一人として総理大臣・大蔵大臣に希望を述べました。是等の事は第一銀行株主諸君――此総会の席上に申上げる事ではございませぬけれども、併し明に此社会の有様が決して安穏でない、幸に当銀行の如きは今伺ふ如く堅固の方法に依つて、御経営になつて居りますから洵にお互喜びますけれども、世間一般の経済は甚だ憂うべき点が多くありまして、安ずべき点は少いと言はなければなりませぬ、果して然らば前夜総理大臣・大蔵大臣に対して私が今のやうな苦言を呈したことも、決して無用の弁ではなからうと思ひます。それ故に斯う云ふ機会に第一銀行の経営は洵に安穏で、喜ぶべきことは皆様に告白しますけれども、併し世の中の有様は左様に唯喜んでばかりは居られぬ時代でありますから、お互第一銀行の株主は緊褌一番して、此社会を直さなければならぬと云ふ勇気をお蓄へ下さるやうに願ひたい、斯く老衰して最早殆ど棺に足を半分入れて居りますけれども、尚且つ左様に始終申して居ります、恐らくは皆様お集りの中には八十以上のお方はないかと思ひます、若しあつたら御免を蒙ります。併し私は斯様な考で死ぬ迄尽す積りでありますから、どうぞ諸君も益お若い考を以て御奮励あらんことを希望致します。当銀行も昔を顧ると殆ど五十年、此間中から五十年の歴史を調べると云うて原稿を頻に見つゝありますけれども、段々昔を観みると或点には若くなつたやうな気がして、自身が答案を作つたり文案を書いたり、大分愉快に嬉しい感じを始終起します、それ等も尚修正をしまして私の筆を加へたのを御覧に入れる事が出来るであらうと思ひます、序でながらに申上げます。是で御免を蒙ります。
  ○右総会ハ第五十六期定時株主総会ナリ。