デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.260-263(DK500045k) ページ画像

昭和6年11月17日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日、当行重役会ニ於テ、栄一相談役就任以来ノ功労ニ対シ、金五万円ヲ贈呈スルコトヲ決ス。

尚、服喪中トシテ翌七年ノ当行年賀式ヲ廃ス。


■資料

株式会社第一銀行第七十一期昭和六年自七月一日至十二月三十一日営業報告書 第九頁刊(DK500045k-0001)
第50巻 p.260 ページ画像

株式会社第一銀行第七十一期昭和六年自七月一日至十二月三十一日営業報告書
                           第九頁刊
    庶務要件
○上略
一、十一月十一日相談役子爵渋沢栄一氏薨去セラレタリ
○下略


重役会録事 自昭和六年一月八日至同年十二月卅一日(DK500045k-0002)
第50巻 p.260-261 ページ画像

重役会録事 自昭和六年一月八日至同年十二月卅一日 (株式会社第一銀行所蔵)
    第千七百弐拾六回取締役会議
          昭和六年拾壱月拾弐日
           出席
            頭取    石井健吾(印)
            常務取締役 杉田富(印)
            常務取締役 大沢佳郎(印)
            取締役   野口弥三(印)
            取締役   野口弘毅(印)
            取締役   加納友之介(印)
            監査役   西園寺亀次郎(印)
 - 第50巻 p.261 -ページ画像 
決議に先き立ち、頭取より、当行の生みの親にして且育ての親たる渋沢子爵には、本月拾壱日午前壱時五拾分遂に御逝去せられたることは洵に哀悼に堪へず、謹で御一同と共に弔慰を表する旨述べられたり

    第千七百弐壱拾七回取締役会議
           昭和六年拾壱月拾七日
            出席
             頭取    石井健吾(印)
             常務取締役 杉田富(印)
             常務取締役 明石照男(印)
             取締役   野口弥三(印)
             取締役   野口弘毅(印)
             取締役   渋沢敬三(印)
             監査役   竹内純平(印)
             監査役   西園寺亀次郎(印)
             相談役   佐々木勇之助(印)
      決議
○中略
一 功労金贈呈之事
   故渋沢子爵には相談役御就任以来十五年間、頭取同様銀行経営上常に御尽瘁せられ、今日の隆盛を見るに至りたる功労の万一に報ゆる為め、功労金五万円贈呈せんことを頭取より提議せられ、一同之に賛同可決したり 以上


第七拾壱期定時株主総会決議録(DK500045k-0003)
第50巻 p.261 ページ画像

第七拾壱期定時株主総会決議録       (株式会社第一銀行所蔵)
    第七拾壱期定時株主総会決議録
昭和七年壱月弐拾八日午後弐時、当銀行第七拾壱期定時株主総会ヲ東京市麹町区丸ノ内壱丁目壱番地当銀行本店ニ於テ開催ス○中略
頭取石井健吾氏病気引籠中ニ付、常務取締役杉田富氏代リテ議長席ニ着キ、先ツ相談役渋沢栄一子カ昨年拾壱月拾壱日薨去セラレタルハ、本行トシテ痛惜ニ堪ヘサル次第ナリトテ哀悼ノ辞ヲ述ヘ、且ツ取締役会ノ決議ヲ以テ弔慰金五万円ヲ霊前ニ供ヘタル旨○中略報告セリ○下略


第一銀行史 同行八十年史編纂室編 下巻・第一五三頁昭和三三年七月刊(DK500045k-0004)
第50巻 p.261 ページ画像

第一銀行史 同行八十年史編纂室編  下巻・第一五三頁昭和三三年七月刊
 ○第四篇 第二章 第六節 頭取の更迭と重役の異動
    一 佐々木頭取の退任と渋沢相談役の逝去
○上略
 渋沢相談役の逝去 昭和六年十一月十一日、当行の創立者たる渋沢栄一は九十二年の輝かしい生涯を終えた。当行重役行員一同はその偉大な功績を偲び、遺徳を慕つて喪に服し、昭和七年の年賀式を中止したのであつた。
 因に渋沢敬三取締役は、その際当行が贈つた弔慰金の内、一万円を行員保健基金として当行に寄附した。
  ○右ハ刊行ニ当リテ追補ス。

 - 第50巻 p.262 -ページ画像 


〔参考〕竜門雑誌 青淵先生一周忌記念号 第五三〇号・第八―一〇頁昭和七年一一月 祖父の後ろ姿 渋沢敬三(DK500045k-0005)
第50巻 p.262-263 ページ画像

竜門雑誌 青淵先生一周忌記念号  第五三〇号・第八―一〇頁昭和七年一一月
    祖父の後ろ姿
                      渋沢敬三
○上略
      三
 私は未だ子供でよく存じませんでしたが、明治三十七年日露の風雲急なるに及んで、祖父は実業界の一人として国家の為、その下た働きに一身を捧げんとした矢先、突如中耳炎を病み重態に陥つたことがありました。その趣き畏も 天聴に達し、辱くも御見舞を賜りましたがその御菓子の中に金玉糖があつて、四角な寒天の中に羊羹で出来た奇麗な金魚が二匹浮んで居たのは、子供心にもはつきりと今でも眼に残つて居ります。国運を賭するの時、将に働かんとして之を阻止された祖父の気持は如何ばかりであつたらうと思ひます。幸病気もぢきに快方に向ひましたが、この時分のものが、先達片付ものゝ中から出て来ましたので御目にかけます。
  佐々木ぬしよりおくられたる鉢の梅の花はまだ開かねども老幹嵯峨として、わか枝につほみもてるさまのいとをかしけれは、己か身にたくらへ感慨の情やみかたくて
 雪霜にをりくたかれし古枝にも
     つぼむは梅のちからなりけり
 つぼみつゝ冬こもりしてもろともに
     春待ちてさけはちの梅か枝
 右に対し佐々木茗香翁からのお返しがありました。
  青淵先生に粗末なる鉢の梅を奉りたるに、お歌をたまはりたれは御かへし
                        勇之助
 山里にそたちしまゝの梅なれと
     君か恵に香をやますらむ
 此の梅の鉢は凡そ三十年を経て、未だに暖依村荘に春を待つて居ります。
 先般祖父の病中ふとこの話が出て、わざわざその鉢を取り寄せて見たり致しました。
 十一月三日か四日と思ひます。私はお医者さん方と相談の上佐々木さんを病室にお通し致しました。病室には入沢博士の外、林さんと桜沢さんとが居られました。祖父はその時上半身を少しベツドごと上げて僅か右下にし、眠つては居ませんでしたが、何の苦痛なしに眼を閉じて居ました。祖父の顔を見る為には、ベツドの足の方から一廻りせねばなりません。佐々木さんは――病臥せる祖父を見るのが痛々しくて堪えられぬと云ふ面持ちで、静かに近寄られ、一礼の後、ジツと祖父の顔を見つめられました。そのまゝ又一礼して去られ様としたので私は「佐々木さんがお見舞にいらつしやいました」と申しますと、祖父は軽く眼を開いて、しばし無言で佐々木さんを見て居りましたが、右の手を差し延べて握手を求められました。佐々木さんは恐縮され乍
 - 第50巻 p.263 -ページ画像 
らも手を延べてお二方は固く握手されました。否、佐々木さんは両方の手で祖父の手を暖くつゝんで居られました。佐々木さんが「どうか御大切に」と云はれて手を離さるゝまで、随分と長い間御二人とも殆んど無言でした。しかし、お二人とも眼に涙も浮ばれず、多く語らず而も極めて平静でした。少くとも私共には六十年に亘つて相許した友人の二人が、十二分にその最後を意識してのお別れとは思へぬ程、閑寂であり枯淡でありました。併しその時の空気は実に絶大な真剣さが部屋中にこもつて居りました。後ろでかすかにハンケチの音がするので振り向くと、入沢さんも林さんも桜沢さんも声を呑んで泣かれて居ました。私には此の時の光景と感じはとても筆に尽せません。梅の鉢の話がつひ此処まで来てしまひました。意足らず筆運ばす、佐々木さんに非礼を御詫しなければなりません。只私は今後もあの梅の鉢を大切にして行き度いと思つて居ります。
○下略