デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.412-419(DK500083k) ページ画像

明治42年12月20日(1909年)


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是日、東京銀行集会所・東京交換所・東京興信所及ビ銀行倶楽部ノ四団体連合シテ、東京銀行集会所ニ於テ、京浜渡米実業団員及ビニュー・ヨーク駐在総領事水野幸吉ノ帰国歓迎会ヲ開ク。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

銀行通信録 第四九巻第二九一号・第六六―六七頁明治四三年一月 ○録事 京浜渡米実業家帰朝歓迎会(DK500083k-0001)
第50巻 p.413 ページ画像

銀行通信録 第四九巻第二九一号・第六六―六七頁明治四三年一月
 ○録事
    ○京浜渡米実業家帰朝歓迎会
北米合衆国太平洋沿岸商業会議所の招待に応じ、渡米中なりし実業家の一行は、十二月十七日を以て無事帰朝に付、東京銀行集会所・東京交換所・東京興信所、及銀行倶楽部の四団体聯合の上、十二月二十日午後五時より、一行中京浜代表の正員二十名、及び一行と共に帰朝せられたる紐育駐在総領事水野幸吉氏を、東京銀行集会所に招待して歓迎会を開きたり、当日出席の来賓左の如し
 渋沢男爵    中野武営    日比谷平左衛門 佐竹作太郎
 岩原謙三    根津嘉一郎   小池国三    原林之助
 高辻奈良造   渡瀬寅次郎   神田男爵    大谷嘉兵衛
 左右田金作   原竜太     水野領事
斯くて主人側出席者は百二十名の多数に上り、一同席定まるや、総代豊川良平氏起て歓迎の辞を述べ、之に対し渋沢・神田・中野・日比谷の四氏相次で一場の演説を為し、夫より別室に於て立食に移り、宴酣なる頃豊川良平氏の発声にて来賓の万歳を祝し、更に渋沢男爵の発声にて四団体の万歳を唱へ、最後に水野領事及大谷嘉兵衛氏の演説及挨拶あり、斯くて一同歓談の上午後十時散会せり


銀行通信録 第四九巻第二九一号・第三七―四二頁明治四三年一月 ○京浜渡米実業家帰朝歓迎会演説(明治四十二年十二月二十日) 渋沢男爵の演説(DK500083k-0002)
第50巻 p.413-419 ページ画像

銀行通信録 第四九巻第二九一号・第三七―四二頁明治四三年一月
  ○京浜渡米実業家帰朝歓迎会演説
                 (明治四十二年十二月二十日)
    ○渋沢男爵の演説
久々で此銀行集会所の演壇に登ることを得ましたのは誠に愉快に感じまする、加之平生談話を交して居る諸君でございますから、独り通弁が要らぬのみならず、私の饒舌癖まで能く御承知の御方の前で此御話を申上げると云ふことは、実に御招き下すつた皆様方も御愉快であらうと思いますが、招かれた客も愉快だと云ふことを御領承を願ひます四団体が御申合で私共着匆々に斯の如き饗宴を御開き下すつたと云ふことは、最も私共の感謝致す所でございますが、実は布哇を出ますると無線電信がやつて来ました、私は船中で少々腹の工合を悪く致しまして、如何しやうかと心配致しましたがヤツト癒りましたので、先づ宜いと安心致して居りまする所へ無線電信がかゝりまして、銀行集会所・銀行倶楽部が是非吾々の着匆々に宴会を開く、二十日に宴会を開くから出席の予約をして呉れと云ふ御申越でございました、是に対して私共は、有難うございます、必ず出席致しますと歓喜雀躍として御答を申上げましてから、其日の来るのを楽んで居りました、但し二十
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日を楽しんだと云ふよりは、十七日即ち帰朝の日を楽んだ方が多いかも知れませぬ、それは私保証の限でございませぬ(笑)、兎に角今度の亜米利加の旅行は縦令其効能の有無は如何に致せ、前代未聞と申上げまして決して過言でないと思ひます、シヤトル始めズツト桑港まで通計五十三箇所、其初めシヤトル若しくはタコマ、ポートランド等に於ける歓待方は頗る善かつたが、吾々が昨年御招きした地方だけは歓迎を十分して呉れても、外の処でナニそんな者が来たか位のことを云はれては吾々の不面目は兎に角、国の面目に関することであるから、汽車往生でもしなければならぬ、実に一命を賭すると云ふことは種々の事柄に付いて殆と決心して出た位でありましたけれども、それも一つの杞憂に過ぎなかつた、中央部に参つても亦東部へ参つても到る処頗る歓迎を受けましてございます、蓋し度々申上げることでございますから、重複を避けまして極く概略の御話を申上げますが、吾々が今回の旅行に於きまして各地にて非常なる歓迎を受けましたのは、是は偏に 上陛下の御稜威に依りますることで、国の力が吾々をして斯様に優待を受けしめたと思ひますると、一方に恐懼の至りに堪えませぬと同時に、又其愉快が頗る多かつたと云ふことは何卒御察を願ひます
紐育及其近傍も吾々に向つての歓迎が丁寧なもので、種々なる団体が皆日割を極めて歓迎して呉れました、そこでボストン、費府、華聖頓聖路易等をズツト廻つて、桑港に来ます前に、彼の加利福尼州の南部を巡回しました、此処は最も排日熱の盛な所で、吾々の同胞者も沢山居りますから、諸方からして種々なる苦情の陳述を承りました、又十分に成功を致して居りまして、頗る愉快に感じました人も沢山ありました、又排日熱が盛であるに拘はらず、実に日本の労働者は農業及其他の事業に能く働いて、至つて使い宜い人々であると云つて、一方に排日の声の聞えるに拘らず、頗る同情を表して居る亜米利加人も沢山ありました、現に斯様な事を云ふ人もありました、アレは一種の労働党が利己主義から騒いで居るのであつて、決して日本人が悪いのではない、無理を云ふ西米利加人が心得違ひだと云つて、赤くなつて論ずる人もありました位である、是等を以て考へましても米国政府に於ても亦有識者に於ても、排日熱に少しも加担して居らぬと云ふことは、確に証拠立て得られるやうに存じます(拍手)
桑港に於ける商業会議所其他の方面の人々の待遇などは、尤も最終の場所でありましたが、頗る鄭重で、団体の饗宴は勿論の事、個人の住居にまで種々なる方法を設けて、招いで驩を尽さしむるやうにして呉れました、要するに五十三箇処は多少の差はございましたけれども、或場所では学校の子供が打揃うて小さい旗を持つて叫んで吾々を迎へて呉れました、無心の子供が手を拍き声を発して歓迎して呉れましたのは、真に涙のこぼれるやうに嬉しく感じました、グランド・ホークなど云ふ所は誠に小さな町々で、僅か一万四五千の人口ですから、勿論大層な饗応はして呉れませぬけれども、其処の小学校の生徒が大勢居つて、頻に歓迎の旗を振つた、余りの嬉しさに神田男爵が車上から英語で一応の謝辞を述べた、すると尚更大きな声をして喜んだと云ふ有様で、私共は頗る愉快に感じました、其有様を皆様の御目に掛けた
 - 第50巻 p.415 -ページ画像 
い位であります(拍手)
それから又もう一つ面白い話は、丁度五十三台の自働車を出して呉れた――是はグランド・ホークのことで、話が後に戻りますが、耕地を見せるため五十三台の自働車を出して、吾々一行を案内して呉れました、私は其時の挨拶に、失礼な申分だが当地は大都会とは思へぬ、然るに当地へ参ると直様停車場へ五十三台の自動車を出して吾々を迎へて呉れた、東京は日本の首府であるが、五十三台の自働車はチヨイと集める訳にいかぬ、以て貴君方が吾々を歓迎する熱情の厚いのを察するに足ると言つたのです、大分一同は喜んで呉れた様でした、所が或婦人が後で私の随行者に言ふのに、どうも「バロン」渋沢が此のグランド・ホークに自働車が五十三台あると云つて大層褒めたやうであるが、モツト沢山集めやうと思へば二百台は確に集まる、五十三台は其四分の一である、それを此処に五十三台しかないやうに言つた褒詞が甚だ気に喰はぬと言つたと云ふ話がある位でございます(笑)、チヨイとした話がマアそんな風であります
立派な場処で鄭寧なる饗宴をして、善尽し美尽したる御馳走は、申上げますると算へ尽せぬ位で、シカゴ市に於る「オージトリヨム・ホテル」の黄金室の饗宴などと云ふものは、日本の余興の体裁などとはチヨツト変りますけれども、私共是迄余り好い御馳走を食べぬ身体では少しく眩暈を来す位で、是が人間界であるかと感ずる程でありました数百人の人数に食事の終りの際に「アイスクリーム」を出します、其「アイスクリーム」を配る者の行装と云ふものは妙な扮装で「アイスクリーム」でイロイロ動物或は鷲を作つたり、豚を作つたりしてそれを食堂に持出して行列をやるのです、ナカナカ大騒ぎで饗応して呉れました、それに似たやうな饗宴が五箇処ばかりございました、又紐育辺の饗応は少し地味な方である、併し料理は凝つて居ります、斯う云ふものは田舎へ往つては食ふことが出来ぬぞ、と云ふやうな饗応をして呉れたこともございました、要するに九十日の間全く汽車が買切で而も銘々一個宛の部屋を持ちまして、其部屋に夫婦は夫婦、中には一人若くは二人住つた者がありますが、それでズツト巡回致すのです、先づ午前九時頃に或る都市に着します、すると歓迎委員が迎ひに来る前に申上げました自働車に乗つて、何の公園、何の工場と見て歩く、中には別れて行くものもありますが多くは一緒に行きます、場処に依つては州知事の役所に往つて「レセプシヨン」がある、接待がある、其接待を仕舞うてから段々諸方の工場を見せる、それから多くは田舎倶楽部の食事に案内する、是は事に依ると二十哩位自働車で走らせる自働車が大きいし道が良し、又走らせ方が迅速です、時々市長さん宜うございますか、此処は一時間の走行規則が十二哩ですよといふと、市長は、ナニ私が乗つて居るから大丈夫「ポリス」が来たら私が言訳をしますと云ふやうな塩梅で案内をする(笑)、そこで宴会を仕舞ふと軈て出掛ける、斯う云ふやうな有様で、吾々が九十日を経過したと御承知を願ひたい
さう云ふやうな有様で、見たことも限りなく見ましたし、聞いたことも限りなく聞きました、下らぬことも随分饒舌りました、但し饒舌つ
 - 第50巻 p.416 -ページ画像 
た者は私と神田男爵で他の人は口を噤んで滅多に饒舌らない、要するに多数の亜米利加人が吾々の一行と全く同一の考を持つて、亜米利加に対して日本人は良い感じを持つて居ると同様に、日本に対して親善の情を持つて居た、五十六年以前「コンモードル」ペルリが長夜の夢を覚まして呉れた、其後タウンセント・ハリスが条約締結に付いて、種々注意を与へて指導して呉れた、爾来米国は種々の事に付いて我邦に幇助を与へて呉れた、故に吾々は真に米国を先覚者とし指導者として深く敬意を払つて居る、良い感情を持つて居ると云ふことを、衷情から申して居りました、其事が確に先方に透徹したと云ふことを私は証明し得るに余あると思ひます、別に形容しやうとは思ひませぬけれども、右様な心を持つて居りました為に、先づ第一に紐育ではグラント将軍の墳墓に御詣りを致しました、又其他知名の人の墓詣でを致しました、続いてボストンに参りました時に新港といふ処に「コンモードル」ペルリの墓がございます、是にも御詣りを致しました、其他或は曩に国務卿たりしへーと云ふ人の墓参もしましたし、又ジヨンソンといふ州知事の死去を聞いて悼辞をやると申すやうな訳で、それぞれ注意致して敬礼を尽しました為に、右等の行動に付きましても、成程日本人は亜米利加に対して、決して唯々口先で軽薄を申すのではない衷心より良い感情を持つて居ると云ふことを、多数の人が見て呉れただらうと思ひます、元来亜米利加の人々が到る処に日本人に対して申す言葉は、少し吾々から云ふと情に過ぎると申したい位で、或は御世辞が過ぎて居るかも知れませぬが、先づ第一に誠に気象が勇敢である善に遷る考が速かである、始終物を注意して考へる、仏蘭西語の所謂「フルコワ」の念が強い、何故と云ふ感想が大変強い人民だ、故に短い時間に国を進めたと云ふことを能く見て居るやうである、斯う云ふ意味を以て宴会の場合の褒詞としても常に申して居られます、日米両国の感情は貴君方の言う通りである、吾々も堅く手を握らうと思つて居る、からして西部の一種狂暴の者の彼是言ふことは頓着なさいますな、そんな事で亜米利加人の心を動かすと云ふことは微塵もございませぬ、但し御互に商売上は力を尽して競争しなければならぬ、吾々も如何に御懇意の間柄でも、其点に付いては遠慮をしない、貴君方もさう云ふ点に付いては少しも遠慮なさらぬであらう、十分に御互にやつて行きませう、志は常に光風霽月の交際をしたいと、要するにさう云ふ意味を持つてやつて居ります故に、此辺に付ては先づ大概同様で有る、其中に変つた思案を持つ人が多数の中に無いとは申されませぬが吾々巡回した地方の相当の常識を備へて居る人は今のやうな事を申されたが、決して御世辞とは思ひませぬから、どうぞ左様御承知あらんことを希望致します
米国各地を巡回致しました有様は、先づさう云ふ様でありまして、如何にも時日が短いのに見るものが非常に多い、魯鈍な性質に余り詰込みが多いものですから、ナカナカ一つ覚える間に三つ忘れると云ふやうな訳で、迚も誰方がおゐでになりましても、アレを残らず、眼光紙背に徹するが如く見て取ることは出来ますまい、或は此席に在るか知れませぬが、他の日本人には無いかと思ひます(笑)、故に吾々は今日
 - 第50巻 p.417 -ページ画像 
見た事は今日忘れると云ふ有様でありましたが、凡そ有りと有らゆる宏大な物を見尽したと申上げても宜からうと思ひます
今晩の御主人の御挨拶に、日本の銀行者としての渋沢と言はれましたが、独り銀行者諸君が唯銀行だけの模様を御聴きなさるのではない、他の方面の事に付いても成るべく聴くことを好む、又言ふであらうと云ふことが御挨拶の要旨のやうに承りました、私は終に銀行の事を一言申上げまして、而して他の事は大分御招きを得て居る諸君が多うございまするで、どうぞ司会者から十分御注文下すつて、貴君方が御辛抱が出来ることならば、夜の明けるまでゞも(拍手、笑)、吾々は辞さぬ積りであります、今私を銀行者の泰斗と云ふ御賞讚の御言葉を頂戴致しましたが、少しお揶揄ではないかと思ひます、泰斗はモウ今日は他へ移つたやうです、泰斗は何時までも一つ所に居るものではありませぬ、泰斗の討論は暫く止めまして、泰斗でなくても日本の銀行者として私は一番古い人間だと云ふことは確かである、是は泰斗と云ふものが他へ移つても古いものは移りませぬから(大笑)、そこで亜米利加に於ける銀行の観察を精々遂げて御土産話を申上げたい考でございましたが、前に申上げまするやうな訳でありまして、さなきだに言語も通ぜず且性来余り敏捷でありませぬから、ナカナカ亜米利加の銀行の状態を精細に観察するなどと云ふことは到底出来ませぬ、全然あちらの様子を知らぬ人に向つてならば、イヤ大きな家だとか斯う云ふ有様だとか、こけ脅しに申上げることが出来るか知れませぬが、百も御承知の御方が御揃の中で、亜米利加の銀行の話を致しました所が、中には面白くお聴き下さる御方もあるか知れませぬが、悪くすると居眠りが出る、尤も今度の道中の演説中に居眠りをしたことは珍しくありませぬから、貴君方が居眠りをすることも宜いか知りませぬ(大笑)
そこで私は余り精しい事は申しませぬ、申しませぬが玆に一つ最も愉快な話があります、是だけはどうも御土産話にしたいと思ひます、最初スポーケンで二・三の銀行を見まして、それからシカゴに参りました、其間に故障がありまして各地の銀行を訪問することが出来ませなんだ、それで先づシカゴの第一銀行に参りました、是は先年参りまして一・二知つた人が居ります、丁度銀行者と云ふので特に私に来訪を請はれてシカゴの第一銀行に参りました、丁度集会したのが七行でございましたか、シカゴに於ける有力なる銀行家が打寄つて一の午餐会を開いて呉れました、其午餐会上で日本の銀行の状態を段々聞かれました、長い時間ではなかつたが、私は最初は日本の銀行の制度は全く米国の方法を真似て遣つたのである、伊藤公爵が米国に遊で、銀行の制度を取調べられた、其時分私は大蔵省の役人をして居つて、銀行条例などに付いては主任者として種々取調べたことがある、其結果第一銀行と云ふものが明治六年に出来たと云ふやうな話をしました末に、それから一変して明治十五年に中央銀行が出来た、十五年までは所謂多頭政治の組立で遣つて居つたのが中央組織に変化した、斯う言つて其事情を話しました、所がそれは善いと思ふか、悪いと思ふかと云ふやうな問を受けました、それに対して私は如何に取引が大きくても小さくても、統一の附いた方が宜いと思ふ、其時分第一銀行は一番古い
 - 第50巻 p.418 -ページ画像 
銀行であつたから、新らしく中央銀行が出来るのは懌ばなかつたと貴君方は思ふか知らぬが、私はさうは思はない、其時分からして私は中央組織になる方が、銀行の為め金融界の為めに宜いと思ふたと斯う云ふやうな大体の話を致しました、それに対して私の言ふたのは、承る所に依れば紐育或は華盛頓の議会に於ても中央論が起つて居るさうだが、諸君はどう云ふ考を持つて居るか、又此事に付いて悪いと云ふ説はどう云ふ訳で悪いと言ふのかと詰ると、先方の言ふ所は、中央制度は良いとしても亜米利加では困る、何が困るかと云ふと、中央銀行を建てるに付いて政治分子を加味することを最も嫌ふ、所が中央銀行を建てるに付いてはドウモさう云ふ傾になり易い虞がある、為に銘々遅疑して居る、マア打明けて言へば其辺に付いて懸念が多い、悪くすると其為に中央の動揺を来すやうなことが出来てはいかぬ、斯う云ふ説が反対論の重なる趣意になつて居るやうです、蓋し是が真相であるか又真理であるか其辺までは分りませぬが、先づ六・七行の人が打寄つて話した所の談話の結果でありました、後に紐育に参り華盛頓に参り段々致して居る中に、紐育でありましたか、同行の松方君が私に、渋沢さん貴君はどうしても日本の中央組織を真実宜いと思ふかと、斯う云ふ問であつた、それは宜いと思ふから宜いと言ふのです、何故そんな事を改めて聞くのかと言つて反問しました、すると松方君が、他の人から頻りと聞かれる、亜米利加人は誰でございましたか其人の名は知りませぬが(此時水野総領事『「プロフェッソル」セリグマンと云ふ人です』と呼ぶ)さうですか――是非渋沢の意見を丁寧に聞て呉れと云ふことを言はれた、さう云ふ人からの頼みであつたから貴君の意見を聞くのだ、と云ふ松方君の話であつた、そこで私は、ソンナ事は始終言うて居るからナンでも無いぢやないかと云ふと、松方君は、イヤそれは余り自ら卑下し過ぎる、亜米利加人が渋沢に聞いて愈々渋沢が斯う言つたと云ふ事を、一つの我が論説の証拠に取らうと思うて斯く言ふのであると、斯う云ふ話でありました、思ひきや私が大変な偉い人間になつてしまつた、是こそ銀行の泰斗――日本では泰斗でないが、亜米利加では泰斗です(拍手)、然らば是は何処迄も真理である、是が最も金融上の極く良い方法である、斯う断言するに憚らぬ、是非亜米利加でも左様なさいませ、若し左様なさらぬければ三十九年の様な事が度々出ますと、斯う言つて呉れ、と松方君に答へた、果して其通りに言ふて呉れたかどうか分りませぬが、私の言葉が其通りに学者又は政治家から是非華盛頓の「コングレス」で、渋沢が斯う言つたと云ふ様にまで立至りました(拍手)、是に於て先年前大統領ルーズベルト氏に会つた時に、軍事と美術品ばかりを褒められて商売人は少しも褒められぬから、此次には商売人が褒められるやうになりたいと言ひましたが、七年過ぎた今日銀行だけは褒められるやうになつたと申して宜からうと思ひます(大拍手)、蓋し是は私自らばかりではなく、此銀行集会所の御力が遂にそこまでに亜米利加の銀行界に勢力を持つに至つたことと思ひます、実に良い御友達は持つべきもので、呉々も其時に此銀行集会所を考へ出しまして、扨こそ積年の志が遂に玆に貫徹して、ルーズベルト氏が大統領で居られましたならば、今度は褒めら
 - 第50巻 p.419 -ページ画像 
れるであらうと心に思ふた、蓋し心の中に斯様な愉快を感じたのは即ち私自身の力で無くして、此銀行集会所の諸君の余光が、遂に私の身に及ぼしたのであると思ひまして、深く感謝致します、亜米利加の銀行の有様に付きまして、其店舗が大きいとか、預金が多いとか、取扱方が激しいとか、或は交換高が多いとか云ふやうな事は、既に皆様御承知のことで、是等の講釈は余り御耳を楽しめ得られまいと考へますから略しますが、今申上げました事だけは、縦令私の事のやうでも、是は日本の名誉と申上げて宜いと思ひますから、之を銀行に関する御土産として申上げて置きます(拍手)