デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.557-566(DK500133k) ページ画像

大正5年7月26日(1916年)

是日栄一、東京銀行集会所会長ヲ辞ス。翌二十七日当集会所通常総会ニ出席シ、総会終了ニ際シテ
 - 第50巻 p.558 -ページ画像 
告別ノ演説ヲナス。


■資料

銀行通信録 第六二巻第三七〇号・第七四頁 大正五年八月 ○録事 会長及副会長更迭(DK500133k-0001)
第50巻 p.558 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七〇号・第七四頁 大正五年八月
 ○録事
    ○会長及副会長更迭
当集会所会長男爵渋沢栄一君は第一銀行頭取辞任の故を以て、七月二十六日当集会所会長を辞する旨申出あり、因りて八月七日臨時総会を開き、補欠選挙の結果現任副会長早川千吉郎君会長に昇任し、第一銀行佐々木勇之助君副会長に当選就任せられたり
  ○「竜門雑誌」第三百三十九号ニモ同様ノ記事アリ。
  ○本資料第六巻所収「東京銀行集会所」明治二十九年三月十六日及ビ本款明治四十三年八月二十七日ノ条参照。


銀行通信録 第六二巻第三七〇号・第七四頁 大正五年八月 録事 東京銀行集会所社員通常総会(DK500133k-0002)
第50巻 p.558 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七〇号・第七四頁 大正五年八月
 ○録事
    ○東京銀行集会所社員通常総会
大正五年七月二十七日午後四時五十分開会、出席社員五十八行、人員五十九名、即ち総社員の四分の三以上にして、理事(副会長)早川千吉郎君議長席に着き、渋沢会長第一銀行頭取辞任と共に当集会所会長辞任の次第を報告し、夫より大正五年上半期事務報告書、同上決算、大正五年六月末財産目録は異議なく承認を得、当集会所定款改正の件経費分担金の特例に関する件は原案の通り可決し、大正五年下半期予算承認の件は一部金額を修正の上之を可決し、最後に渋沢前会長より一場の演説あり、右にて議事を了り午後六時閉会せり


銀行通信録 第六二巻第三七一号・第二七―三〇頁 大正五年九月 ○渋沢男爵告別の辞(DK500133k-0003)
第50巻 p.558-562 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七一号・第二七―三〇頁 大正五年九月
    ○渋沢男爵告別の辞
 本篇は渋沢男爵が東京銀行集会所会長辞任隠退に付去る七月二十七日の当所総会席上に於て告別の為め演説せられたるものなり
殊更に申上げます程のことではございませぬが、私も段々老年になりました為めに第一銀行の頭取を辞職致しました、其結果として永年諸君のお助力によりて当集会所の会長を勤続致しましたけれども、玆に御免を願ふことに相成りまして、只今早川君から諸君に御報道を頂いた訳でございます
此銀行集会所の歴史を回想しますと、最早四十余年を経過しました、明治六年に国立銀行が創立しましたけれども僅に第五行に止つて、其進歩を見るに至りませなんだ、而して此銀行の仕組は政府発行の太政官札を兌換しやうと云ふ計画であつたが、是は後から考へますると、恰も底のない袋に物を容れるやうな方法で、立案した政治家も、経営した実務家即ち私共も、自ら顧みて斯の如き思慮のない人間が事物の処理が出来るかと、慚愧に堪へぬのであります、東洋の天地に僅か数百万円の兌換紙幣を発行して、それに依つて金貨制度を維持しやうと云ふことは出来る事ではない、何故右様なる尻抜け案を以て当時の金融界を救済しやうと思ふたか、斯の如く智恵のない渋沢が、永年銀行
 - 第50巻 p.559 -ページ画像 
家を勤め得られたと云ふのは、私がそれから後に賢くなつたのか、又は日本の政治家銀行家が私と同じく愚かであつたのか、随分訝しな話であつたのです、而して其原案は誰が調べて来たかと云ふと、故伊藤公爵が米国の制度に摸倣して我邦の兌換制を創設しやうと企図されたものである、其際少しく大蔵省に於て詮議したら心附いたでありませうが、金銀比価のことなどは誰も知らなかつたものですから、今日斯く申しますと大層物識らしうございますが、私も当時の物識らずの一人であつた、そこで明治七年になりますと、第五まで出来た銀行の紙幣引替が却々激しくなつた、殊に第一国立銀行は多く紙幣を出しましたから、其引替の度も強かつた、是に於て此方法では兌換制度が維持し得られるものでないと云ふことを始めて心付きました、是は誰か智恵のある人が教へて呉れたと云ふのでなく、自然の必要上からして其発行した紙幣を自己の手にて引替へました、さうして大蔵省に強願して金札引替証書に依つて下附された紙幣を使ふことが出来ませぬから大蔵省の紙幣を借用して僅に銀行の営業をすると云ふやうな有様であつた、それが明治七年から八年に掛けての事であります、而して各銀行は此儘では到底継続は出来ぬと云ふ折も折とて金禄公債の一般下付があつたのであります、此金禄公債といふのは維新後政府に於ては各藩主藩士の禄制を改正せねばならぬ、又同時に租税も米納はいけないから之を金納に引直さねば真に財政経済の基礎を鞏固にすることは出来ぬ、蓋し各藩主藩士の多数の人が永久に禄を受けて、労せずして国家の貨財を得ると云ふことは財政の正則でない、但し今日悉皆之を廃止すると云ふ訳にはいかぬから、大なる制限法を設けて公債証書を以て一時に渡すが宜からうといふことになつた、此公債証書を発行するといふことも矢張伊藤公爵の亜米利加土産で、前の兌換制度法案と同時に持ち帰へられたのである、是より先明治三年の冬伊藤公は亜米利加に行かれて、種々調査された法案の中に国家として是非とも公債証書流通の働がなければ、一国の財政経済を調和することは出来ぬと懇切に申し送られた、是は寔に尤のことであるといふて大蔵省は其説を採用した、是は井上侯爵が明治四年から大蔵省の当局者となられて、是非此公債証書を発行しやうと言はれ、恰も廃藩置県が行はれて、各藩の借財を新政府が引受けて之を始末をすると云ふことになつたので是ぞ好機会と、此藩々の借金を公債証書にて交付しやうといふことにした、旧幕府に於ては天保十二年に水野越前守が棄捐と云ふ制を設けた、此棄捐と云ふのは一般の貸借を或る年度で区切つて、其以前のものは総て廃棄してしまふといふ制度であつた、故に廃藩置県の際にも加藤清正の貸金証書があるとか、日蓮上人の借用証書があるとかいふて古い証文などが出て来たけれども、それは棄捐に係つて居るから悉皆取上げぬ、其以後の維新までの藩々の債務は、利息までを附けるには及ばぬから之を旧公債として無利足償還の事とし、明治元年以後廃藩置県即ち明治四年までの債務を新公債として年四分の利足を附するものと定めた、斯様に新旧公債証書と云ふものが発行されて、始めて日本の経済界に公債証書と云ふものが出たのでございます、此公債証書の先例があつたから、前に申述べた各藩主藩士の禄を公債に引直す
 - 第50巻 p.560 -ページ画像 
と云ふことになつたが、是は其頃に於ての却々の重要問題として様々に論議されて居つたのが、終に明治九年に実施されて、其結果巨額の金禄公債証書が発行になつたのでございます、而して此公債を一般に下付すると同時に国家の政策として、其多数の藩士を如何に処置して家産を維持せしめ、安寧なる生計を得さするかといふことは当局者の大に憂慮せしことであつた、如何となれば禄制廃止は国家経済上の必要として行ひましたけれども、其公債を得た藩士が所謂士族の商法で一年二年の間に之を失くしてしまふと、今日の高等遊民より一層険悪なる種類の者が出来る、其結果或は国家の体面を傷けると云ふやうなことが生ぜぬとも限らぬ、政治家たる者最も玆に注意せざるを得ぬ、そこで此公債証書を取失ふことのないやうにさせたいと云ふのが要件で、前に述べました金札引替公債証書に依つて太政官札を兌換せんと企図したのが違却し、搗て加へて巨額の金禄公債を発行すると云ふことになつたから、仮令太政官札の兌換を完全たらしむることは出来ないにせよ、銀行制度が金融の便益を暢達すると云ふことだけは、出来得ることであるから、前の制度を継続して、後の金禄公債証書を以て成べく銀行を組織させるやうにするが宜からうと云ふのであつた、併し兌換制度は金銀比価の関係から到底行はれぬものですから、拠なく銀行の発行紙幣をば政府紙幣を以て引替へて宜しいといふことに改定し、前には金貨を以て引替へると云ふのを、紙幣を以つて紙幣を引替へると云ふ制度にしたのである、是が国立銀行制度の大変革と申して宜しいのです、形式から見ると小改正の様であつたのです、詰り一種の公債証書を政府に納入して銀行紙幣を受取り、其紙幣の引替を望まるゝ時は政府の紙幣で引替へると云ふのですから、詰り変体の不換紙幣を銀行が発行し得る訳になる、為めに銀行事業は寔に安穏になりまして、玆に始めて明治五年に発布された銀行条例が諸方に歓迎されて遂に百五十五・六の銀行が明治九年から十年に掛けて出来たのであります、併し此銀行紙幣兌換方法の改定は其時に於て完全に整理したのではなくて、他日又色々の波瀾があつたのであります
此銀行集会所の起原が何年何月であつたか確かとは申上げ兼ますが、多くは明治九年頃であつたと思ひます、詰り私は其主唱者の一人で、択んで善に就くと云ふ意味から択善会と命名して、各銀行者の会同を組立てたのであります、其初会は第一国立銀行で開き次は第二国立銀行といふ様に、所謂持廻りの寄合で、其開催の銀行にて幾分其日の饗応が相違すると云ふやうな有様で、其始めは十行ばかりの会同であつたやうに記憶します、而して明治十二・三年頃まで毎月打寄つて各自の意見を交換し追々に便宜も図りましたが、其頃は手形の取扱が今日のやうに一般の取引先が承知して呉れなかつた、銀行に当座預金をして小切手にてこれを引出すのは相互の便利だと云つても、却々小切手を使はぬ、預金を引出す場合は概ね小供を取りに寄越す、種々の説明によりて多少の預金をする人も、小切手の取扱を厭がつた、厭がると云ふよりは寧ろ其事情を知らぬからである、況や約束手形を出すことなどに至りては大変の恥辱と思うて居られた、苟も金銀貸借の証文などは、仏壇か金箱にチヤンと仕舞ひ込んで、甚しきは細君にも見せぬ
 - 第50巻 p.561 -ページ画像 
と云ふのが普通商工者の慣習でありましたから、借用証文が勝手に諸方に飛んで歩くなどゝ云ふことは怪しからぬと思つて居つたのであるそこで私抔は得意先に向つて、そんな訳のものではない、欧米の有様は斯様であると、色々の講釈をして、手形若くは約束手形・小切手等の使用を勧誘しました、夫れ等の取扱は当時の択善会の重要事務であつた、明治十三年であつたかと思ひますが、九年頃から引続いて出願して各銀行が追々に開業され、殊に十五国立銀行の如き大銀行が創立され、其紙幣発行高も今日から論じたならば、それが直に全体の金融界に影響を及ぼすと云ふ程ではなかつたらうが、実力の細い当時の金融界には大なる影響を与へて、銀紙の差が激しくなつた、当時横浜其他開港場の貿易に使用するは即ち貿易銀であつた、但し表面は金貨制度が明治五年確然と定められたけれども、それは紙の上の制度であつて、事実は金貨と云ふものは碌々ない、多少の準備は出来ましたれども、之を以て一般取引に融通すると云ふ程の事は出来なかつた、余儀なく貿易銀と云ふ一円銀貨を鋳造して、貿易上の取引に供した、而して夫れが貿易に関する唯一の通貨である、此通貨と内地に用ふる不換紙幣とが勢ひ差違を生ずる、即ち銀紙の差が段々に多くなる、多くなるに従つて其間に種々なる投機業が生じて同時に又弊害も起つた、今日の株式取引にも始終此弊害はあります、就中米穀の取引には最も甚しい、其頃もそれに就ては厭ふべき投機事業が起つて、香上銀行の蔵番たりしフイドーと云ふ人と田中銀行の創立者たる田中平八氏とが大に輪贏を争つて、一時大騒動を生じて其頃の人口に膾炙したのであつた、此銀紙の差が激しくなつたに就て、私は紙幣の完全の兌換を企望する処から、其際には択善会の記事を今も現存する東京経済雑誌が取扱ふた、此経済雑誌は田口卯吉氏の設立であつて、田口氏は自由貿易主義の英吉利生粋の学説を主張し、大蔵省の官吏を辞して操觚者となつた硬骨男児であつた、而して私とは別して懇親の間柄であつたから私は至極適当の人と思ふて、是と択善会とを連絡して、択善会の記事は東京経済雑誌に載せる様にして、恰も倫敦にある「エコノミスト」の様にしやうと思ふたのであつた、当時私は第一国立銀行の日常の事務を自ら執らねばならぬ身でありましたから、大抵銀行に泊り込みで仕事をして居り、田口氏も時々銀行に来られて、或る時は俄に病気になつて大騒ぎをしたこともありました、所が十三年から十四年に掛けて、銀紙の差が段々強くなつて来た、それは何に原因するかと云ふと明治十年の西南戦争は軍費支弁の為め勢ひ大に紙幣を発行せざるを得ぬ、王政維新も此不換紙幣に依つて政費を維持したのであるが、其以後は政府の収支が稍々権衡を得て居つたけれども、明治十年の戦争には、大に紙幣を発行せねばならぬ訳になつた、紙幣を余計に発行すれば其結果として銀紙の差が強くなる、銀紙の差が強くなつたから世間の議論が八釜敷くなつて、財政当局者と世間の経済学者間に意見の衝突が生じました、私は銀行者連中と再三集合して、是非兌換制度を完全にしたいと云ふて、特に田口氏と評議して一の意見書を発表したことがあります、夫れが当時の財政当局者の嫌疑を受けることゝなつて大に迷惑したのである、其為めに此択善会の名は変更して、遂に銀行
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集会所と云ふものになりまして、爾来幾多の変遷はありましたけれども、集会所其者は名称に於ても事実に於ても余りに変りはない、唯々銀行事業の段々に増進するに従つて、集会所の人数も殖え、実力も拡大し、為すべき仕事も追々に盛大になつて、遂に現在に及んだのでございます
今日斯かる懐旧談を長々とお話する必要はありませぬけれども、抑々銀行集会所の起源及其経過は右様なる次第であつて、当初には種々の波瀾のあつたことを私は能う記憶して居ります、而して今私は第一銀行の頭取を辞すると共に、集会所の会員たることも自然に消滅しまするによつて、択善会以来永年御厄介になつた諸君とお手を別つに当りて、当時を回想して無量の感慨に堪へぬのであります、銀行集会所の起りは斯様でありまして、爾後引続き苦辛経営して段々に盛大になり明治十八年に此家が出来て、それから三十年を経て、遂に丸の内に壮大なる集会所の成立を見るに至つたのは、実に聖代の余沢と私は諸君と共に感泣するのであります、玆に集会所の会長を辞するに当りて往時を追懐しますと、真に今昔の感に堪へぬので、其思起した感慨を御記憶も少くお聴及びもなからうと思ふ新進の諸君に、所謂置土産として申上げたのであります(拍手)


竜門雑誌 第四八一号・第三六〇―三六八頁 昭和三年一〇月 青淵先生と銀行団体 山中譲三(DK500133k-0004)
第50巻 p.562-566 ページ画像

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