デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.566-570(DK500134k) ページ画像

大正5年9月25日(1916年)

是月十九日、麹町区永楽町二丁目五番地ニ建築中ノ東京銀行集会所落成シ、移転ス。是日、同所内ニ建設セル栄一ノ寿像除幕式挙行セラル。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。


■資料

銀行通信録 第六二巻第三七二号・第四八頁 大正五年一〇月 ○録事(DK500134k-0001)
第50巻 p.566-567 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七二号・第四八頁 大正五年一〇月
 ○録事
    ○東京銀行集会所移転
東京市麹町区永楽町二丁目五番地に新築中の当集会所工事落成に付、
 - 第50巻 p.567 -ページ画像 
九月十九日を以て同所に移転し、九月二十五日及十月一日の両日を以て新築建物を関係者の縦覧に供したり
    ○渋沢前会長寿像除幕式
当集会所新築建物内に建設中の前会長渋沢男爵の寿像竣成に付、九月二十五日を以て除幕式を挙行せり


銀行通信録 第六二巻第三七二号・第二三―二五頁 大正五年一〇月 ○東京銀行集会所新築落成式並に渋沢男爵寿像除幕式に於ける演説(大正五年九月廿五日)(DK500134k-0002)
第50巻 p.567-569 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七二号・第二三―二五頁 大正五年一〇月
  ○東京銀行集会所新築落成式並に渋沢男爵寿像除幕式に於ける演説
                    (大正五年九月廿五日)
    ○早川会長の挨拶
本日玆に渋沢男爵閣下寿像の除幕式を行ふに就きまして、一言御挨拶を申上ぐるの光栄を荷ひます
曩に我東京銀行集会所は、此新築のことを決議致しますと同時に、我銀行界の創設者たる渋沢男爵の、本年は喜寿に当られまするので、何等かの方法を以て此喜寿を祝し上げたいと云ふことを、総会の決議を以ちまして吾々理事に委託せられたのであります、種々協議を尽しまして、玆に此寿像を造ることに決定致し、総会の承認を得まして、本日新館開館の御披露をすると同時に、除幕を致すことになりましたのであります
吾々は我銀行界、殊に東京銀行集会所に離るべからざる深き縁故を有せらるゝ男爵閣下の喜寿を迎へられて、益々御壮健にあらせられ、本日玆に御来臨を得て除幕の式を挙げますることを深く喜ぶのであります、男爵閣下に於かせられましては、何卒将来永く倍々御健康に渡らせられ、我銀行界又我国経済界の為めに御尽力あらんことを偏に祈るのであります、一言除幕式に際しまして、此寿像を玆に据付くるに至りました経過を述べ、尚男爵に向つて将来の祝福を祈る為め一言の蕪辞を呈します(拍手)
    ○渋沢男爵の謝辞
会長、並に満場の諸君、存じ寄りませず今日、此銀行集会所の新館落成と同時に、私の喜寿に達しましたのを御祝ひ下さるの趣意にて、此寿像を御造りになつたのみならず、斯る壮大にして美麗なる新館に、此寿像が据えらるゝと云ふことは私は限りなき喜びと感謝の意を申上げなければならぬのであります
只今早川会長より、身に余る御懇切の讚辞を下されましたのは敢て当りは致しませぬけれども、併し銀行業を日本に又此東京に創立致しましたのは、所謂兄は一段齢が上だと云ふ諺の如く、私が一番先であつたと申上げ得るのでございます、明治六年に第一国立銀行を創設しました後、引続き数行の設立はございましたけれども、其制度の整備せるに拘はらず完全に営業が出来能はぬで、䠖跙逡巡して進み得られませなんだ、明治九年に至つて、国家は更に他の必要上如何なる方法を以てなりとも、全国に金融機関を設置し、且つ華士族の禄制変更に付て其財産の保護方法を設けなければならぬと云ふことからして、国立銀行制度に大なる改正を加へて銀行をして各地に設立せしむるに便宜
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を与へたのでございます、是に於て明治九年から十一年に懸けて、全国に百五十六に至る銀行の出来たのは全く、其制度改正の為めと云うて宜からうと思ひます
銀行集会所の成立は、其始め択善会と云ふ名に依つて明治九年頃に其形を現はしたやうに記憶致します、其月日と経過の詳細は数十年を過去りましたことで判然覚えて居りませぬが、蓋し漸次に銀行の数が殖えるに従つて、同業者公共の利益を保護するのみならず、銀行の必要及其経営の方法を、商工業者、即ち自家の顧客に伝習して、之を誘導し、殊に当時手形・小切手の取扱方に於ては各商工業者は慣れぬと云ふのと、其風習の異る所よりこれを嫌ふと云ふ二様の意味に於て、一般から大に排斥せられたものである、それにも拘はらず種々なる手順にて其便利を説き、公益を唱へて欧米先進国の慣例などを講演し、遂に日一日、年一年と進んで、今日となつたのであります、而して現今は又反対に、手形・小切手を濫用する向もあるかのやうに承りますけれども、当時の苦辛は実に容易ならぬものであつて、決して今申上げることが事実を誣ゆるものではございませぬ、此際各銀行者共同の力を以て、制度上若くは取引上にも、集合力を以て目的を達するが宜からうと云ふのが、集会所の最も重要なる点であつた、明治十三・四年頃に至つて多少の面倒が生じて、当初の択善会と云ふ名を改めて更に銀行集会所と命名して、爾来集会所の名を以て今日まで継続し弥々繁昌致しましたのは、御互に慶賀に堪へぬのでございます、集会所と名を改めると同時に、其集会すべき場所を造るが必要であると云ふので造営されましたのが、坂本町の家屋でございます、当初其建築の落成を見て実に立派なものが出来た、私は再応斯の如き大厦高堂が建築し得るものかはと喜んだ位でございます、然るに今日これを見ますれば斯様な家屋に能くも数十年住んで居つたと思ふ程になりましたが、実に人の眼と云ふものは、甚だ薄情なものである、時に依つて俄然変化して、昔は大切だと思うたものも今日は破れ草鞋の如く棄るやうにならぬとも言はれませぬ、所謂翻手作雲、覆手雨。紛々軽薄、何須数。と云ふ杜子美の歎声も無理ならぬやうに思ひます、併しそれは人情に関する比喩であつて、吾々の眼の変化は全くこれとは異りますから御互に情愛が四十年の昔と左様に変化するものでないと思ふのでございます、追々と銀行業も進歩して、同時に社会の富力も増加して相俟つて同業者も殖れば其業務も大きくなり、遂に坂本町の家屋にては吾々銀行者の満足する所でないと云ふ議が生じまして、今日御会同の諸君の中に於て屡々御評議があつて、私も其頃は又其議に参して、老人の故を以て願くば生前に更に壮大なる集会所を建築したいものであると心窃に企図したのでございます、詰り此新館の建築に付ては先を急ぐ私が第一に丹誠を尽したとは言へ得ませぬけれども、希望は一番多くあつたと申上げても、決して過言ではなからうと思ひます、想ひ起すと五・七年前改築の事が決定して後、土地所有の希望が多うございましたけれども、私は土地を併せ求むると云ふは東京に於ては容易でない、大に経費にも関係することである、夫等の為めに年一年と改築が遅引しては私抔は左様に長生は致しませぬと申して、幾度か速成を促
 - 第50巻 p.569 -ページ画像 
して借地で宜いと云ふ説を主張致しましたが、否土地がなければいけぬと云ふ論者もあつた為めに、遂に一・二年の遅延はあつたやうでございます、併し段々と話が進んで、地面を併せると云ふことは、彼是と時を遅らせるばかりであるから、少し不満足ではあるけれども丁度此皇城近くの三菱の地面が相当であらうと云ふ説が段々に多くなりまして、玆に始めて実地を見やうと云ふので、一昨々年の冬、而も余程寒い日に、私は諸君と共に此土地の検分に参つた、其時の感想を玆に申上げて見たいと思ふ、私は此土地を視つゝ思ひましたのは、斯うして尽力して居るけれども、新館の建築は急ぐとも今後五・六年は掛かるに相違ない、想ふに人は其偏する処より自己を忘れるものである、例へば孫を愛する老祖父が我年を忘れて其児の成長を望むと同じく、斯様に彼処此処と寒風に吹かれつゝ奔走はするものゝ、詰り此集会所の出来上る時分に私は既に老死して此家に入ることは出来ぬ、古人の所謂他人の為めに嫁入衣裳を縫ふやうなものである、併しこれを忘れて自ら喜んで他日此新館に於て饗筵に列する位の心を以てやるのが、即ち人の向上発展する所以であると思惟しましたが、其工事が意外に早く進み、而して私の健康も保つて、斯の如き宏大にして且つ高尚なる建築に装飾と共に善美を尽したる銀行者として、決して他に向つて恥かしからぬ、否寧ろ誇とするに足るべき大集会所が落成して、今日私が此席に参上致して諸君と会同するのみならず、私の寿像が此処に据ゑられて存じ寄らぬ賞讚の辞を受くると云ふは、実に望外の事でございまして、之を数年前此敷地の検分に参りました時の思入に想到しますると、真に今昔の感に堪へぬのでございます、私は元来政治界に企望のない身柄でございますから、其方面に就ての名誉心は少しもありませぬが、併し古人は其身の台閣の上に蹟を遺すと云ふことは如何なる身柄にても頗る名誉として居る、現に新井白石に蒼顔如鉄、鬢如銀。紫石稜々、電射人。五尺小身、渾是胆、明時何用、画麒麟。と云ふ詩がありまして、麒麟閣に肖像が画かれると云ふことは名誉とするに足ると云ふ意味が含まれて居る、但し白石は微賤より身を起し、徳川六代の将軍を輔けて天下の政治を執行した人でありますから、麒麟閣に其肖像の画かれる資格は持つて居つたが、左様な詩を作つて其心事を述べたのであります、私は又政治界に志はありませぬから、麒麟閣に画かれることは固より望みませぬが、さりながら銀行者と雖も、御同様に思うたことは仕遂げたい、丹誠したことは其甲斐のあるやうに致したい、詰り世の中に飽までも向上発展して行きたいと云ふことは、諸君も御同様であらうと思ふ、果して然らば仮令微力たりと雖も私が先に生れた故を以て、銀行業の率先者の位地に御置き下すつて、而して私の寿像が此高堂に据ゑられたと云ふことは如何に政治に望を持ちませぬといふても、麒麟閣に画かれたるより更に優れたる名誉を附与されたるものとして、生前の光栄此上もないことゝ存じます、畢竟諸君の御厚意で、斯の如く愉快にして、且つ限りない光栄を与へ下すつたものと、深く感謝して已まぬのであります、玆に一言所感を述べて謝詞に代へます(拍手)

 - 第50巻 p.570 -ページ画像 

竜門雑誌 第三四一号・第七六―七七頁 大正五年一〇月 ○青淵先生の寿像除幕式(DK500134k-0003)
第50巻 p.570 ページ画像

竜門雑誌  第三四一号・第七六―七七頁 大正五年一〇月
○青淵先生の寿像除幕式 青淵先生が会長在任中、新築を主唱せられたる東京銀行集会所は、麹町区永楽町に地を卜し先年来建築中の処、愈々竣工を告げたるに依り、九月二十五日午前九時、朝野三千の貴紳を招待して、観覧に供したり。之に先だち、会長早川千吉郎氏・副会長佐々木勇之助・同松方巌氏を始めとして、役員及関係者一同は青淵先生を招請して、二階大広間の正面、蛇紋石の台上に安置せる先生の寿像の前に整列して、除幕式を行ひたり。其次第を略記せんに、幕は青淵先生の四男秀雄氏に依つて撤せられ、次で会長早川千吉郎氏の祝辞、青淵先生の謝辞を兼ねたる感想談あり、右終りて列席者一同盃を挙げて青淵先生の健康を祝して式を終りし由なるが、像は小倉右一郎氏の苦心に成れる青銅胸像にて、五尺余の立方形台上に安置せるものなり。又新築の銀行集会所は、大正二年五月一日起工以来、四箇年の日子を費して竣工せるものにて、ルネツサン式に英国風を加味し、華美の装飾を避けて質実を旨としたるものなれども、頗る輪奐の美を尽せりといふ。


中外商業新報 第一〇九四二号 大正五年九月二六日 ○寿像除幕 東京銀行集会所新築落成披露会(DK500134k-0004)
第50巻 p.570 ページ画像

中外商業新報  第一〇九四二号 大正五年九月二六日
    ○寿像除幕
      東京銀行集会所
      新築落成披露会
麹町区永楽町に巍然として輪奐の美を誇る東京銀行集会所は、廿五日の秋晴朗らかな朝朝野三千の貴紳を招いて新築披露をした、其披露会の先に早川会長以下職員関係者一同は二階
 △大広間の正面 蛇紋石の台上に安置した渋沢前会長の寿像の前に集合して除幕式を行ふ、早川会長の挨拶に対して渋沢男の謝辞あり、一同寿像を繞つて三鞭の杯を挙げて和気靄々裡に男を祝福した、像は小倉右一郎氏の手に成れる青銅胸像で五尺余の正方形台上に安置されてゐる、集会所は大正二年五月一日起工以来四ケ年の日時を経たもので其様式は
 △ルネツサン式 に英国風を加味したもので徒に華美の装飾を排して質実を旨としたものであるが、而かも正面大玄関は大理石を張詰め床石の大理石象眼、天井の趣、中央に吊られた切子硝子の装飾電灯の輝きを始めとして、一階の球戯室・広間・談話室、二階広間・談話室食堂・大会議室・大食堂・中食堂、三階の日本間・図書閲覧室等の各装飾何れも光輝燦として人目を眩するばかりである
 △仔細に見れば 球戯室はセヽツシヨン、大会議室は仏国十九世紀式の華麗なもので、正面の演壇は総て飴色蝋引、其隣にある議長席、前の会員座席等頗る華麗である、又三階日本間は十八畳と八畳二間で書院風の室割を出した如き大いに見るべきで、猶此処は茶室にも用ゐられると云ふ、早川会長・松方副会長を始めとして職員関係者は来賓を迎へて案内し、食堂にはサンドウヰチを饗し懇切に接待して居た