デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.8-20(DK510003k) ページ画像

大正12年1月(1923年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『物質界及精神界に対する予の希望』ト題スル一文ヲ寄稿ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一二年(DK510003k-0001)
第51巻 p.8 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
一月七日 晴 寒
午前八時起床、風邪全愈セス、洗面シテ後朝飧ス、江口百太郎・友野茂三郎二氏来リ、銀行通信録新年号ニ意見掲載ニ付、両氏ニ対シテ演説ヲ試ミ之ヲ筆記セシム、凡ソ一時間余ニシテ已ム○下略
  ○中略。
一月十五日 雨 寒
○上略
夜飧後、銀行通信録ニ載スル意見ノ速記録修正ニ着手ス○下略
一月十六日 晴 寒
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、直ニ江口氏ヨリ依頼シ来レル通信録ニ掲載スヘキ意見書ノ筆記ヲ修正ス○下略
一月十七日 曇 寒
午前七時起床、入浴朝飧例ノ如クシテ、直ニ銀行通信録ニ掲載スル演説筆記ノ修正ニ勉ム○中略
午飧後、又筆記ノ修正ヲ為ス○中略 筆記ノ修正ハ午後六時頃脱稿ス○下略
一月十八日 晴 寒
○上略 銀行通信録ニ添附スヘキ現下ノ農業保護策ニ関スル一案ヲ調査シ其筆記ヲ書状ト共ニ集会所江口氏ニ郵送ス○下略


銀行通信録 第七五巻第四四七号・第一―一三頁大正一二年一月 物質界及精神界に対する予の希望 子爵渋沢栄一(DK510003k-0002)
第51巻 p.8-20 ページ画像

銀行通信録  第七五巻第四四七号・第一―一三頁大正一二年一月
    ○物質界及精神界に対する予の希望
                   子爵渋沢栄一
銀行通信録の年初の発刊に私の意見を掲載するは従来の嘉例として居ります。昨年は生憎亜米利加旅行をした為に一年を欠きましたけれど
 - 第51巻 p.9 -ページ画像 
も、幸に本年は老衰は増したが未だ健康を保つて居て、玆に愚見を陳上することの出来ますのを無上の幸福且愉快に思ひます
頽齢と共に年々世事に疎くなり増ります、殊に数年前から実業界を退いて、身自ら現在の事に接触せぬ為に自然と事物に疎遠となつて、百事靴を隔てゝ痒を掻くの感が多うございます。予て度々人に向つて申して居る、銀行の頭取も、銀行集会所の会長も、辞表が出せるのであるけれども、国民の辞表は出せぬ、又出すべきものではない。国民の辞表は棺を蓋うて初て出し得るものであって、生存中は如何に衰弱するとも尚ほ国民たる義務を尽すの心掛がなければならぬと思ひますから、斯く老朽と思ひながらも矢張辞退はせぬ積りである。故に仮令直接の事に疎くても、概括的に或は憂へ或は喜び、或る場合には慷慨悲憤、或る場合には奮起扼腕と云ふやうな事がないとも言はれぬのである。殊に今日の世態は、私は精神上、物質上、両方面共大に憂慮すべき点が多いやうに思ひます、故に此両方面に対しての概括的愚見を申述べて見ませう
銀行通信録であるからして先づ第一に経済上の事から述べませう。斯く申すと老人が子弟を教養して、総ての若い者を我門下生らしう評論する嫌があつて、或は自負の甚しいものと他から誤解されるかも知れぬけれども、私自身としては今の経済界を何だか我が手で育て上げたやうな気がして居るから、なぜ早く此処まで進んで来ぬか、なぜ斯う云ふ時に注意を怠るか、横道に這入るか、と云ふやうな感じがしてならぬのであります。どうしても経済の進歩は従来の日本の古式ではいけない、成るべく広い範囲に求めて行かねばならぬ、世界的にやって行かねばならぬ、即ち資本も人も合同する、所謂合本制度を以て株式組織にするが宜からうと思ふた、此当初の目的は敢て違はぬのであつて、爾来進歩は相応に致したと、既往を顧みると言ひ得るやうであります。併し是等の事は過去五十年の歳月、長くないとは言はぬけれども、光陰を空費せずして相当に進歩したやうである。但し時の変化に対して或る場合には意外の障碍を来す事柄がないとも言はれぬ。想ふに世の中の進歩は恰も人の成長と同じやうなもので、例へば二十五歳まで人の身体が伸びるとか、人の知識は三十まで進むといふ定義はあつても、所謂精神なり形態なりに属する進歩発展は、必ずしも年々同じ割合に規則正しく進んで行くものでは無い。或る場合にはズツト伸び或る場合には少しも進まぬ、或は右に曲り或は左に偏して、健全の体格、完備の精神であれば、其中に追々発達して全き人となるのである。それと同じやうに国家社会の進歩も幾多の迂余曲折がある。思想界にも経済界にも時として変調を来す。其変調を来す最も著しき機会は戦乱の場合である。此変調を好適に処理して行くと、為に大に事物が進歩する、若し誤って之を悪く処して行くと逆境に陥りて種々の病源にならぬとも言はれぬ。今日の世態を人の身体に譬へて言ふならば二十五歳とか四十二歳とか、世俗にいふ厄年であつて、時に意外の病を惹起する、即ち身体の組織に変更を来すべき時期でもございませう帝国の過去五十年を回想したなら、其変化と発展は多く外国に対する関係である。尤も内地に於ても明治十年に西南戦争があつたが、二十
 - 第51巻 p.10 -ページ画像 
七年には日清戦争が起り、三十七・八年には日露の戦争が起つて、戦後に於ける国運は皆大なる変化であつた。唯単にさう云ふ対外的の変化ばかりでなく、内に於ても交通運輸に又は各種の商工業に対しても或は盛大なる会社が出来、宏壮なる工業が起つたに付て生ずる変化も亦大なるものであります。金融界に於ける各種銀行の設立及び貨幣制度改正の如きも、明治十九年に紙幣兌換が実行され三十年には金貨兌換が完全に出来た、斯う云ふ事柄は前に言ふた戦乱に関せざる経済的の進歩と言うて宜いのであるが、其際には必ず一般の経済界に多少の変調を来すことが是迄の例である。既往は暫く措いて、大正三年の欧羅巴の戦乱は、実に世界始つての大騒動であるから、今迄の内地限り若くは一国と一国との戦乱と違つて、其変化の大なることは、誰も想像した。而して其頃には海外の取引が非常に進んで来たから、海外の取引が進めば進む程、経済界が世界的になつて来る、故に欧羅巴の戦乱は必ず内地の一般社会へ影響すると云ふことは誰も思ふて居つた。俄然諸物価の騰貴、殊に或る品類などは限りなく暴騰する。他から来る刺激に依つて、或る種類の当業者が俄に富を増す、所謂成金などと云ふ悪口の出るやうな有様を惹起した、是は即ち世界の大変乱が経済界に与へた影響である。故に必ずや何時か終熄する、其終熄の後はどうなるかと云ふことは、智者ならざるも大抵は想察したのである。私も思ふたが他人も思ふた、けれども人間の弱点にて、夏になると冬の寒さを忘れる、又厳寒の時になると帷布を何処へか仕舞ひ込んでしまふと云ふやうに、兎角目前に拘泥するのが人情の常で、いつも斯う継続するものと思ふ。逸ち早く気勢に乗ずる人程、斯る場合に狎れ易いのである、詰り進むに疾き者は為に躓くこと多きものである、其頃私は既に実業界を退いて居つたが、何れ此戦乱は終熄する、其際には経済界にも大変動が来るであらうと想像して居つた。果して其通りであつた。併し大正八年に講和が成立したから、私抔は直に不景気が来るであらうと思つたのが、そこに一時の遅緩があつたのは何故であるか能く分らなかつた。蓋し此変動は所謂大波動ゆゑに其動揺が優長であつたと後から思はれたのであります。普通の考案では大正八年三月講和会議が済んだならば、不景気が直ぐ来さうに思ふたのが、大正九年の春になつて其反動が現れて来た。随て其後の恢復期の遅いと云ふことも、どうしても予想せねばならぬ。今日の現状は何時が恢復期であらうかと世人皆論議し居りますけれども、私は識者でないから中々予言することは出来ませぬ。予言は出来ぬが何れ追々に百事が恢復して来たならば、必ず此儘では居らぬであらうと誰にも言ひ得る。恰も天文家が何時が冬至であるから是から日が延びるとか、何時が土用であるから是から暑くなるとか云ふことは分るけれども、日常瑣細の事まで明瞭に指示し得ぬのと同様である。殊に経済界の事は其変化が何時も同じやうにはない。時勢の進んで行くに従て其度合が違ふと同時に其時々起る変化も一般の道理からは似て居るけれども、其来る原因に多少の差があるから、結果も亦同一とは言はれぬ、故に今に好くなるだらうと云ふことは言ひ得ても、何時どう云ふ有様で完全に回復すると云ふことをばハツキリ知るのは、神様より外にはない。第一に吾々
 - 第51巻 p.11 -ページ画像 
日本人の現在に於て最も注意せねばならぬのは、今日迄の有様は多く我国内、広く見ても東洋の区域で事物を観察して居たけれども、向後はそれで推断することは出来ない。即ち自国が世界的になつたと同時に、経済の有様も世界的観念を以て遣らなければならぬ。斯く考察すると今日日本の立場は、名誉と云ふ点からは大に喜ぶべきであるが、実際は力量不相応に交際が多くなり、観察の範囲が広くなつて、得る利益よりも受くる迷惑の方が多くは無いかとまで言ひたいのであります。併し世界を通じて相交る帝国としては、其迷惑に堪へ円満に他の先進列強と伍伴し、更に進んでは之を凌駕するまでに至ることを国民として希望せねばならぬ。斯の如き抱負より将来を予想すると、目下の経済界が何時回復すると云ふことは正確に予言は出来ぬとしても、もう大抵極度であらうとか、是からは恢復期に向ふだらうと云ふ事は誰も言はんとし、又知らんとして居るけれども、厳格に言ふならば欧羅巴が安定しなければ世界全体の恢復は不可能である、全体の恢復が出来ざれば我経済界の恢復も六箇しいと論結しなければならぬ。果して然らば其時期は何時であるか、今年中であるか来年一杯掛かるか明言し難い、併し其勢が段々に弱くなつて来る、反動の力が次第に静かになると云ふことは事実であると思ひますから、目前に頓着せず、我経済界の自己を健全にする為めに各自力を一にし心を協せ、矛盾齟齬の無いやうに働いて行くならば、必ずしも悲観するにも及ぶまいと私は思ふて居ります。又決して悲観落胆抔してはならぬ、飽迄も勇を鼓して奮励一番せねばならぬ場合だと思ひます
玆に現下の状態に付て無遠慮に愚見を陳述すれば、第一に問題とすべきは船と鉄とである。海運の事は維新以降政府及当業家が鋭意力を尽したから、比較的進歩して居ります。交通運輸に要する船舶の噸数も他の国々に対比して、私は特に丁寧なる統計を持つて居らぬけれども負けては居ないと思ふ。英吉利の如き又亜米利加の如き近頃俄に船舶を沢山造つたけれども是等の国に比較しても我帝国の船舶は決して不足ではないと思ふ。総体の噸数では勿論少数なるべきも、人口とか物産とか云ふやうな物から比例して言ふならば、率は余程増して居るだらうと思ふ。蓋し我帝国の四囲環海の国柄からして、どうしても海運を進めなくてはならぬと云ふは、詰り国是とも云ふべき有様に、明治以後政治家も経済界も心を尽して、各地の航路に対しても、又造船に付ても、国家が相当の補助を与へて其進歩を図つた結果である。但し戦争に付て俄然膨脹した船舶が、其終熄と共に一時に衰退しはせぬかと云ふことは、一昨年即ち大正九年の春頃から私は之を憂へて、時の総理大臣へ度々愚見を述べ、又当業者の向にも時々其事を言ふて、遂に国際汽船会社と云ふものが出来ました。詰り此船舶を散乱しないやうに、どうかして維持させたい、且我船に依つて海外に運輸の便を図りたいと云ふ意思であつた。然るに今日の所では同会社事業の経営甚だ困難らしく聞えます。為に之が頽廃することになると、折角戦後の喰止策とした計画も瓦解することになるから、是等に対しては国家も当業者も更に大に注意をして、持続策を講じたいものと私は思ふて居ります。適切に言へば、国際汽船会社維持策は如何にして宜いか、相
 - 第51巻 p.12 -ページ画像 
当の考慮を要するではないか、甚だ憂慮すべき事と思ひます
次には鉄の事であります、鉄業の経営は今日では実に困難な有様に居ると思ふ。八幡製鉄所も或る時期には意外な利益がありましたらうけれども今日ではどうであらうか、而して八幡製鉄所が縦令維持が出来るにしても、鉄業は単に政府経営一箇所だけで、他の民業が悉く頽廃してしまつたならば、帝国の製鉄事業が満足と言はれやうか、是は国家として甚だ憂ふべき事ではないか。殊に我邦に最大の不幸は鉄の原料が乏しい。又製鉄事業に就ても後進国であつて、経営も技術も拙いそれから需用の方面も自国で買ふばかりで、他国へ売ると云ふことが出来ない。原料が乏しく経営が下手で販路が少いと云ふては到底其事業を盛にすることは出来ない筈である。故に結局の議論は智者を待たずして分る事であるけれども、然らば此鉄は一般の経済原理に任せて余りある所から輸入すれば宜いではないかと放任し得るかどうか。此に至ると他の品物と違ふやうに私等は感ずるのである。そこで此鉄業に何とか相当の方法を講じたいものだと、一昨年来頻に苦慮して所謂国民観念から政府当局にも当業者にも屡々意見を開陳して居りますが未だ之に就て斯くすれば宜いと云ふ方策は立たぬやうに見えます。私はどうしても八幡製鉄所が主動者となつて、即ち政府が後援して民業を成るべく合同せしめ官民合同の事業を成立する外は無からうと思つて居ります。今日の有様は各工場で類似の事をやつて居る、随て何れも共に不利益であると思はれます。前にも述べた如く原料が無い技術が拙いと云ふ上に、更に不適当、不経済なる経営をして居る為に、一層相妨げ相損して居るやうに見えますから、之はどうしても改正しなければならぬと思ひます
主なる工業に就て更に二・三の意見を附言すれば、製糸事業の如きは我邦の特産品として政府も学術界も当業者も爾来引続きて大に力を入れた為に、近頃は養蚕は余程上手になつた。是は私は学理が完全に応用されたと謂つて宜いと思ふ。家屋の構造、温度の節度、蚕種の製造其他桑樹の培養、蚕児飼育の方法まで近頃は連続進歩して気候の為に違作を見ると云ふやうなことは無い。昔は養蚕は天運事業の如くに考えて居つたのが、今日ではさうで無く、技術上から此種で斯う云ふ仕組に飼育すれば大抵外れぬと云ふまでに言ひ得るやうになつて来ました。又繭を糸に製する方法も相当に進歩して居る。併し願はくはもう少し其歩を進めて、今日亜米利加の生糸需用の八割――少くも七割以上は日本産で充して居ると思ひますから、もう少しパドソンの機業工場と聯絡を密にして各工業の需用に応じて、此織物には此糸、此機場には此糸と云ふやうに、其注文に応じて製糸するやうな工夫がありはしないか、能々当業者に考慮して貰ひたいと思ふ。普通品として輸出して機屋が随意に用ふると云ふ事も或は已むを得ぬか知れませぬが、分り易く言へば仕入品とせずに誂向の糸を製出するやうになつたら、必ず販路を増すであらうし、価も高くなるだらうと思ひます。而して大体から観察すると、近頃製糸家が価格を高くする方にばかり努力する様に思はれるが、私は反対に寧ろ安く売ると云ふ方を希望する、我利益の加重することのみを企図せずに、相当の程度、例へば農家は米
 - 第51巻 p.13 -ページ画像 
麦を作るより蚕を飼ふ方が少しく利益である。他の生産品よりも幾らか割が好いと云ふ程合にして、先方が買ひさへすれば飽くことを知らずに高めると云ふ事でなく、成るべく生産品の多量を謀るやうに勉め出来得る限り安く売る様に考へるのが斯業の永続を図る所以だらうと思ふ。兎角飽くことを知らぬと云ふやうな弊が製糸家などに多いやうに思はれる、大正三年には百斤七百円のものが数年後に三千円以上になつたと云ふやうな意外の事があります。是は或る点から言ふと、売人が貪るのでは無い、買人が進んで来るから余儀なく高くなると云ふ場合もありますけれども、今日の当業者は大に注意せぬと、他日の困難が懸念されるのであります。現に大正九年に成立した帝国蚕糸会社は好都合にて昨年の冬円満に解散した。当時の製糸界の困難を救済し得たことは誠に幸福であつたが、是から先の当業者は其製品を成るべく安くすることに心懸ねばならぬと思ふ。殊に斯業には目下他方に強敵を持つて居る。即ち人造絹糸と云ふものがある。又人造絹糸ならざるも安価に製造する競争者が隣邦に在る。是等の事を考へると、大切なる事業でありながら、極端に言へば少し危殆に瀕して居るとまで思はれるのであります。蓋し老人の杞憂となることを私は希望するのであります
紡織事業は創業以来相応の年処を経ましたが、実に意外の発展であります。是は少し道理以外の進歩と言はねばならぬのであります。凡そ其国若くは其地方に産物の生ずるのは何か特徴がなければならぬ。例へば其地方に原料が沢山生ずるとか、工業の必要具たる石炭又は水力が豊富であるとか、又は機械の製作に巧みであるとか、人が余つて工賃が低廉であるとか、又は気候流水などに依つて特種の便宜ある場合もあります。例へば京都・桐生の織物が良いと云ふのは原料の為めとか其土地の人が織物に巧者なりといふ訳ではなく、土地の空気が織物に対して好適なるに原因するやうである。それに就て一つの余談がある。千葉県の野田に醤油が沢山出来る。先年私が彼地に行つた時地方の人に質問して、何年頃から此地に醤油が出来るかと聴きましたら、元禄の頃から高梨玄左衛門と云ふ人が醸造を創めたといふ。それは二百四五十年にもなりませうか。斯く発展したのは野田の出倉と称して利根川の縁に醸造所を経営してから、醤油の質も優良になり年を追ふて次第に拡張したと云ふ事であつた。元来醤油の原料はと問へば、小麦・大豆・塩である。是等の物品を混和して、これを醗酵させ醤油と云ふものになる。其小麦は何処からと問へば相州から来る。大豆は土浦から来る。塩は赤穂から来る。三原料ともに皆遠方の産である。それで野田の醤油が盛大になつたのは如何なる理由であるか、能く解らぬけれども私の吟味した所では、水に大なる醗酵の関係がありて而も其出倉と云ふのは利根川の水を以て醸造するのであるから、其水に特徴を持つて居ると云ふ事が専門家の研究を煩はしたら直ぐ分ることでありませう。是は利根川の水が野田の醤油をして今日の盛況を得せしめたと思ふのであります。桐生・京都の織物の如きも亦同じ関係で、何か助けるものがあつて今日の発達を為したものであらうと思はれます、我が紡織事業の帝国各地に発展したのは何が特徴であるか分明せ
 - 第51巻 p.14 -ページ画像 
ぬが、明治十二、三年頃から私が熱心に其創立に尽力して今日の東洋紡績会社となつたのである。而して此東洋紡績会社は大阪紡績会社と三重県下の三重紡績会社と、其他数多の小会社を併合したる大会社にて、鐘が淵紡績会社とか、富士瓦斯紡績会社とか、其他二・三の大会社と匹敵する紡績工場である。今其起源を回想すれば明治十二・三年頃綿物の多く欧洲より輸入するを見て、私は大に之を憂慮して紡織業は創設したが、原棉を何処より供給するか、当初より完全の目的はないから頗る心細い事であつた。其頃の紡績業は一般農家にて老婆又は小娘が糸繰車にて引出す綿糸に代用したのであつたが、機械力の効能は数年にして代用の功を奏し、将来之を継続し得るや否や、其継続を希望するには仮りに原棉が国内に出来ぬとすれば他より供給の方法を講ぜねばならぬ。是を以て支那・印度・亜米利加が種々変化進展して今日となつたのである。故に現今の紡績事業を安全に継続するには、是非とも原棉供給の方法を講究せねばならぬ。今日のやうな印度・亜米利加ならでは棉が買へぬと云ふ有様に安んじて居ることは余りに紡績業者の将来を慮らぬ、寧ろ乱暴なる仕方ではないかと私は思うて居る。是等は中々重要なる事業でありますから、経済論をするには先づ以て注意せねばならぬものゝやうに思ひます
其他各種の工業又は商業に付て実例を挙げて愚見を述べるならば、如何に私が現在の有様に疎隔して居つても、此事業は斯くありたいと云ふやうな傍観説は数々ありますが、余り取り立てゝ多くを縷述するほど良い分別も持つて居りませぬ、只玆に一言を添へたいのは商工業者の全体が其本業に対してもう少し切実にありたいと思ふ。製糸業に就て申した通り、兎角目先の得失に拘泥して将来の大計を疎かにする。或は口に其弊を論じながらも実際は矢張一時的の考を以て事を処する殊に海外に対する商売に此弊が多いやうである。相共に知人となりて其取引の久しきに渉つて居る間柄では不親切なる取扱は為し得ずとも誰がしたか分らぬと云ふ時に放漫にして不実なる行為を敢てする。詰り此誰がしたかといふことが最も注意すべきものにて其影響は行為者本人が信用を損じて取引先に嫌はれるばかりでなく、日本人総てが嫌はれるやうな場合が多いのである。殊に印度・南洋に雑貨を輸出する商売には最も此弊害が多いと聞く。中には初度の取引は正当なりしも二度目には劣等の品物を送つたとか、鉛筆の中に心の無いものが有つたとか、斯う云ふ不都合の取扱を度々耳にしますが、蓋し目前の事のみを考へて継続的の思案が乏しいのではないかと思ひます。是等の弊害は何として防ぐか、私の思ふ所では、是等の弊は申合せて組合でも立てゝ共同的に戒めると云ふやうな方法が良くはないか、已むを得ずば制度上之を矯正する途もありましよう。兎に角印度・南洋への雑貨商に対しては仲間の申合が必要と思ひます。詰り事業を進めて行くには取引を広くしなければならぬ。取引を広くするには国内ばかりで行けるものではない。海運の便に依つて販路を広めて行かなければならぬ。販路を広めて行くには海外の取引先から信用を得ねばならぬ。故に此点は余程注意しなければならぬ。独り貨物の製造ばかりではない製造と販売と金融と、此四つが常に相俟つて各々其本能を発輝して、
 - 第51巻 p.15 -ページ画像 
成るべく供給の便利になるやうに、割合に安価で品物を良くするやうに考へて行けば屹度各事業共に繁昌するやうになる。要するに事業上に付て永久的に自己を能く知らせると云ふ観念がなくして、誰がしたか分らぬからそんなに心配せぬでも宜いと云ふやうな浅薄な考が我当業者の頭を支配して居るやうでは、此弊害は矯正し得ぬと思ひます
更に今一ツ金融に就て卑見を添へたい。私も四十年余銀行業を経営した一人であるから、私の見る所では、どうも今日の銀行業者の注意が少しく不足の様に思ふ。銀行者はもう少しく細心に事物を考察して欲いと思ひます。蓋し銀行は商売の根原である、基礎であると云ふやうに自尊するのでは無いけれども、金融が商工業盛衰の基礎になると云ふことは争ふべからざる事実であつて、此銀行の行為が極く堅実であると商工業が自然と堅実に進んで行くし、銀行に放漫粗雑又は投機的行為でもあると随て事業界に影響する。或は銀行が多少事業勧誘の位置に立たねばならぬ場合もあり、又其事業の軽進を戒め粗暴を矯めると云ふやうな事もある。要は取引先の商工業者をして常に堅実の主義に拠りて進歩的に其本業の発展を援助せねばならぬ。然るに今日の銀行者の考は、自行にさへ預金を取れば宜いとか、高い利息で貸金すれば宜いとか云ふやうな観念であるとすれば、其取引先も段々之れに感染する。是は実に憂ふべき重大事件であらうと思ひます
更に一言したきは銀行の数をもう少し少なくしなければならぬ。現在の有様は余りに分立が過ぎると思はれる。都会には都会の銀行、地方には多く地方の株主に拠りて成立する地方銀行がある。是は頗る適当の方法である。例せば陸羽も九州も皆東京・大阪から支店開設でもありますまい。殊に銀行は必ずしも大都市のみに在つて宜いとは云はれないけれども、さりとては余りに其数が多過ぎる。精確には記憶せぬが何でも其数が二千数百行と思つて居ります。是は少しく併合して減らすことが出来さうなものである。唯々大銀行が小銀行を併合することを希望するのでは無いけれども、英吉利の銀行が支店を多くして本店を段々少くするのは、私は最も経済の要を得たものと思ふ。尚進むで中央銀行即ち経済界の中枢にして金融の心臓たる日本銀行の事に付ても一言を試みたいと思ひます。蓋し財政経済両者の間に介在して、全国の金融を統一する至要の機関なれば、其職任の重大なるは多言を要すまでもないが、其力財政に満足なれば自ら経済に不足するを以て両者の権衡宜きを得べきは勿論なれども、成るべく経済の中心たることを主として貰ひたいものと思ふ。此点から言ふと、今日の措置で全く満足であるか、まだもう少し力を要する点があるかは、実際問題になるから私には分らぬけれども、幸に日本銀行の当局は吾々と同じ観念を持つて居らるゝやうに見えるので、其経営を満足に思ふて居ります。殊に頃日来各地に勃発する面倒に就ては、定めて苦慮せらるゝであらうと深く御察し申すのであります。それに就ても、もう少し銀行の数を減じ、鞏固の程度を増して行つたならば、中央の統一に困難が少なからうと思ふ
銀行業の進歩した今日でも銀行の蔭に隠れて自儘の事業をしたいと云ふやうな人が無いとも言はれぬやうである。銀行者が其の預金を以て
 - 第51巻 p.16 -ページ画像 
自己の事業を経営するが如きは、殆ど罪悪とまで言ひたい位である。追々にさう云ふ弊風は矯正せねばならぬと思ひます。而して其の銀行者たるものが始終前に申すやうな覚悟を忘れぬやうにしたいのである兎角金融緩漫の時分に自己の資本の貸出を競ふ者は一旦逼迫の際となると早く取つて逃げたいと思ふて、維持し得る者をも取潰してしまふと云ふやうな、其の事業の全体を観察せずに唯々自己だけの満足を企図する。是等の銀行者が多く金融界に破綻を惹起する原動力となるのである、総じて経済界の変調に当りては先づ何処が此難局を治める為に必要かと云ふことを観察して、或る場合には自己が犠牲になると云ふ覚悟を持つのが銀行業者の責任であらうと思ふ。無事に済むべきものを我さへ遁るれば宜いと云ふて先を争ふ為に悉く焼死すると云ふ場合が間々生ずるものである。故に此義侠心と公徳の行為は銀行は別して重んずべきである。此間も或る政治家が正義人道は一つの標榜である、御年始状である、其実は優勝劣敗、更に進むで弱肉強食であると云はれた。さうなつては世の中は真に闇だと思ふ。どうぞさう云ふ観念は殊に銀行者は持つて貰ひたくない。之に反して正義人道は只口に言ふのでなく、必ず其行に現はるゝこととしたいのであります
現下の商工業に就て希望を述べたる序を以て更に一言を添へたきは、全国農業不振の状況に対して如何にして之を匡救すべきやといふ問題であります、数十年来工業の進歩に伴ふて田家の青年が家を出て工に転ずるは、事業の大変遷に影響されたものであるから已むを得ざることであるとはいふものゝ、近来農業に利益の無いのは争ふべからざるの事実である、殊に種々なる科学上の発明が工業に及ぼすものは年々其度を加へて便益を増すことが多いけれども、農に対しては養蚕事業の外には学理応用の効果を受くるものが極めて少ないと思ふのである故に今日農業の衰頽を救ふて其振興を図るには先づ学理的耕作の必要を認め、第一に耕地の整理、機械又は牛馬力の利用、土地と肥料との関係調査、耕作物の選択、生産物其他荷物運搬の利便、此他尚ほ実地必要の新案を講究して充分に之を研鑽し、以て実際に施設することにしなければならぬ、斯くしてこそ始めて学理的農業となることが出来ると思ふ、併し此事を実施するには全国各町村毎に設備し得るものにもあらざるべく、且又其調査所設置及学者傭聘等に付ても一時又は継続的に相当の経費を要するは勿論であるから、今日各政党の諸君が農税軽減の事を議せらるゝけれども、私は寧ろ其消極の保護を後とし、積極的に前に述べた学理的農業経営方法を先にし、之をして全国に普及せらるゝことを切望する者であります
経済上即ち物質に属する御話は先づ是だけに止めて置いて、銀行通信録には其効少なき事であるか知らぬが、私の今日の位置が多くは精神界に居るのでありますから、それに就て次に一・二の御話をして見やうと思ひます
私は大正五年七十七歳となつたを機会として、創立以来一日も断間なく勤続せし第一銀行頭取を辞職し、同時に他の会社関係を総て謝絶して実業界から身を引きましたが、未だ二・三年は余生が保ち得られると考へましたから、実業界隠退後はまるで楽隠居になつて、夕陽に背
 - 第51巻 p.17 -ページ画像 
を曝すか又は詩歌に日を暮さうかとも思ひましたけれども、それでは世の中に対して済まない、老衰するとも生命の続く限りは働くのが人間の権利でもあり亦義務でもある。仮令完全の効果は見ざるも、青年の時に国家社会の為と思ふて農民をやめて浪人となり、一橋家に召抱へられ、更に徳川幕府の家来になり、維新後は明治政府の官吏となり特に実業界に微力を尽したいと決心して今日の身となつたのも、固より大資本家にならうとか、世間に名声を博したいとか云ふやうな野心でなく、唯々微躯をして公共の為め、広く言へば国家の為めに幾分にても無きに勝るだけの働きをして見たいと思ふて、明治六年から玆に四十余年ばかり拮据努力しましたが、老死に至るまで生産殖利に汲々するも当初の期念に副はぬから、老後は其方針を変へて実業界を脱却し、さらば何をすると云ふ特殊の名案はないけれども、精神界に於て二・三の企望を持つて居る。其二・三の案と云ふのは、兎角実業方面に於ては道徳と殖利とを別物にして、利益を進めると道徳を忘れる、又道徳ばかり言ふて居ると利益を疎外する。詰り仁義道徳を論ずれば生産殖利を軽蔑し、生産殖利を主張すると仁義道徳に悖反する。蓋し両者ともに大なる誤謬である、元来道徳と経済とは両者共に進めて行くべきもので、生産殖利の経済は仁義道徳に依つて発展し得られるもの、又仁義道徳の人道は経済に依つて拡大するものである。若し道徳経済が単に自己を利し其身を修めるだけに止まるならば、其効果たるや甚だ少ない。語に曰ふ博く民に施して而して能く衆を済ふと云ふに至つて、初て広大無辺となる。是は論語の雍也篇に子貢の問に対して孔子の答へたる、博く民に施し而して能く衆を済ふあらば如何。仁と謂ふべき乎。子曰く何ぞ仁を事とせん。必や聖乎。尭舜其れ猶諸を病むとあつて。この博く民に施して而して能く衆を済ふと云ふことが、道徳の働きに起因して居る。而して広く済ふには経済が伴はなければならぬのは当然の事である。良い組織は経済が伴はなければ出来る訳はないと同時に、良い方案も道徳に依りて成立するものである。故に道徳と経済とは合一すべくして決して分離すべきものでは無いけれども、狭く考へれば仁を為せば富まず、富めば仁ならず抔と云ふやうな反対の解釈も生ずる。仁義道徳は損ばかりするもの、利益を得るものは必ず不仁不徳であると云ふやうな誤解は、是非とも除去せねばならぬと云ふことは私が実業界の人となりし以来持続する主義にして、老人にも青年にも、商売人にも、工業家にも、労働者にも、甚しきは養育院の窮民にも到る処で此説を唱へて居ります。但し私の唱へ方の足らぬのでありませうが、其貫徹が乏しくて今尚ほ快感を持つとは言へぬのでありますが、幸に近頃修養団と云ふ青年団体の其総ての人々が悉く実行が伴ふか否かは知りませぬけれども、所謂流汗鍛錬、同胞相愛、即ち汗を流して勉強する、勉強するは生産殖利に合する。又同胞相愛は即ち愛にして、仁の一端である。此簡単明瞭の主義を奉ずる青年達を統率して居る訳ではないが、私は団の顧問として十数年来助力して居る故に、私の主義が次第に青年連中に伝つて行くやうであります。実業界に在つても銀行者仲間などには、私の熱望するほど左様に珍重されぬかも知れぬけれども、世間にさう云ふ声が全く閉塞して居
 - 第51巻 p.18 -ページ画像 
るのではありませぬ。唯々歎ずべきは欧羅巴大戦乱の影響は其反動が各方面に波及して、今日の処では未だ道徳経済合一と云ふことは完全に望み難きを遺憾として居ります
更に一事の資本と労働との関係は常に紛糾し易くして時に色々の物議を惹起する、之に対しても多少の微力を致したいと考へて居ります。想ふに道徳経済の合一も資本労働が一致しなければ、満足なる生産殖利は出来るものでは無い。殊に工業に対して其観念を持つた為に、直接に担当するのではないけれども、徳川公爵の副として労資協調会に関係して居りますが、何分満足に進みつゝあると言はれぬので、頻に種々の調査を為し此方面彼の方面と当局の人と謀つて苦心経営して居りますけれども、新規の創設にして且つ漠然とした仕事でありますから、大正八年の著手から今日まで三年以上経過しても未だ満足の効果を挙げたとは言はれませぬ。其組織及び形容に大分費用も掛け、力も尽して居りますが、それ程の成績が見えたと言はれぬ。私共の注意の足らぬ点もありませう、又従事する人の力の完全でない処もありませうが、併しそれよりは事業の困難と云ふことが多きに居りはしないかと思ふ。けれども已むべき事ではないから、飽迄も努力して一番宜からうと云ふことを是非講究して見たいと一同申合せて居ります。英吉利や亜米利加にも例は沢山ある、けれども日本には多少異る場合もあるから、能く調べて唯々雷同せずに自尊心もなければならぬが、無暗に日本々々と言ふて自我の弊に陥つてもならぬ、故に此辺の調査研究も随分難うございます
もう一つは貧富の隔懸であります、此両者の隔離を接近せしめて調和を図つて行くと云ふこと、即ち純然たる社会事業である。今日は学者間では済民恤救と云ふことは努めて言はぬやうにして居る、是は理論上適当の注意でありませう。併し事は矢張済貧恤救である。現に東京市の養育院の如きは私は明治初年から必要と思ふて、之に関係して最早四十九年目になります。昨年養育院の創立五十年の記念会をしました。其時に回顧五十年と云ふ一小冊を作りて其経歴を略叙して置きました。些細な事業で取立てゝ談話する程でも無いけれども、併し社会事業としては、殆ど窮民の総ての種類を網羅して居ると言ふて宜い程であります。東京市の済貧事業の全体を皆私が担当して居ると云ふでは無いけれども、現に養育院でも二千人以上を収養して、各種の人の屑が集つて居ると言つても宜いやうである。老人もあり小児もあり、不具もあれば癈疾もある。老病人もある。地方から来た一時の食詰者もあれば棄児もある。迷児もある。さう云ふ者が皆集つて居るのを彼れ此れと仕別けして、能ふ限り仕事を与へ、又は少年の者には普通教育を施して努めて無駄のないやうに改良進歩を図つて居ります
前に述べたのは私が現に関係して居る二・三の事業の梗概であるが、次には私が此頽齢で将来斯く此身を社会に処したら宜からうと云ふ目的と希望とを御話して見やうと思ひます。今日の思想界は恰も経済界の転変と同じく欧羅巴大戦以来頗る混雑して、正邪曲直さへも識別し得ざる迄に錯乱しました。私は欧羅巴・亜米利加の歴史は知らぬけれども、浅薄なる漢学の素養より考察すると恰も周末孔孟の時代に諸子
 - 第51巻 p.19 -ページ画像 
百家色々の説が出て遂に正道を妨害し、どれが真正の道理であるか分らぬやうになつたが、今日の現状も全然それに似て居つて、諸家の新説が雑沓して其是非に見迷ふのと、新奇を好む弊習から古より格守し来れる仁義道徳孝弟忠信抔いふことを、其言葉の古きを以て之を嫌ふに至つては実に沙汰の限りと言はねばならぬ。現に私の従来援助し居れる修養団の人々、又は極く身近い竜門社の青年などに、機会あるごとに訓戒しても、甚しきは又お小言が出た位に思はれることが無いとは言はれぬから、他の一般の人士就中軽薄才子に至つては固より馬耳東風にして其宣伝の効果の見えぬのは洵に憂ふべき極であつて、何処までこれが進み行くものか、私には見据が付かぬ。去りながら世間の人の言ふ如く、古いから効能がないならば、其人は米を食し水を飲み空気を吸収することをも廃止せよと言ひたくなる。更に極言するならば人間も廃めろと叱責せざるを得ぬのである。殊に私の憂慮に堪へぬのは、今日世人の一般は老若男女共に信念の乏しいと云ふ事である。或る流行の学説に囚はるとか又は特種の主義を把持するとかは別にして、人は斯くなくてはならぬと云ふ堅い信念が必要であるが、どうも多数の人に此信念を保持されて居らぬやうに思はれる。故に私は各人に此信念を持たせたいと思ふて始終宣伝して居るが、如何に言ふても其効果の見られぬのは遺憾である。或は仏教に依つて其信念を保つも宜からう。又は基督教に依つても宜からう。私自身は孔子教に依つて人たる者は斯くなければならぬと云ふ信念を充分に保存して居る。即ち君には忠、父母には孝、朋友には信、夫婦は相和し、兄弟は相親み又人は自己の為にのみ立つべきものではない、其分に応じて国家社会の為に尽すべきものである。苟も人に接しては親切でなければならぬ受けた恩は必ず報いなければならぬ、と云ふが如き事共は、仮令どのやうな利を以て誘ふとも、力を以て圧するとも、道理に反した事には一歩も動かぬと云ふのが即ち人たるの本分で、之を履行するのが信念である。此信念の乏しいやうに思はれるのが私の今日深憂とする処である。種々なる学説の行はるゝ為めに人の知識が増すと云ふ事が人文の進歩となるかも知れませぬが、私は我思想界に余りに雑駁の説の行はれるのは寧ろ迷惑と言ひたい。雑沓する新説に対して人が皆迎合するとは思はぬが、其新説の為に根幹たる信念が立たぬのみならず、若し立つても倒れてしまうやうになると云ふことは懸念すべきことであります。玆に孔子のやかましく言はれた信念説がありますから引証して此一編の結尾とします
子貢問政、子曰足食足兵民信之矣、子貢曰、必不得已而去於斯三者何先、曰去兵、子貢曰、必不得已而去於斯二者何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。之を平易に解釈すれば、政治と云ふものはどうすれば宜いですかと、子貢が孔子に問ふた時に、孔子が先づ第一に食糧が充分でなくてはならぬ、兵備が整頓せねばならぬ、人民に信用がなくてはならぬ、此三つが兼備すれば実に善い政治と言ひ得ると答へた。すると子貢が解りました、併し若し拠どころない場合で、今仰しやる三つの中、どれか一つ去らなければならぬと云ふことがあつたら、何を先に除きませうか、兵を除けるが宜しい、兵備はなくても政治は出
 - 第51巻 p.20 -ページ画像 
来ぬことはない。子貢が更に然らば若し已むを得ぬ事があつて、残つた二つの中で取去らなければならぬものが有つたときには、何を先に致しませうかと言ふたら、食を去れ、古より人は皆死すべきものである、民信なければ立たず、信を重んずることの如何に強いかと云ふことが此問答の中に確乎と言現はされて居る。右の問答以外にも論語中に人として信無くんば其可なるを知らず、大車輗なく小車軏なし、其れ何を以て之を行らんやと云ふ句もあります。或は又恭寛信敏恵だとか総て信を尊重して、諸方に言うてありますのを見ても、人に信念の無いと云ふことを憂へるのは既に二千四百年前に孔子が言尽して居らるゝ。食を足すと云ふのは、敷衍して言ふならば鉄道金融を便利にして商工業を盛にし、一国の富を増すと云ふ意味になる。兵を足すと云ふのは海陸軍備を充実し、砲台を造り軍艦を艤装すると云ふことである。そこで若し已むを得ざる事があつたならば、是等の事は皆止めても信を保つことは尚ほ肝要であると断言されたのである。丁度今私の言ふ所と殆ど同様である。故に私の言ふ信念も決して自家の憶説でないと云ふことを論語に依つて証明し得られます。どうぞ此世の中を此処迄に進めたいと思うて居ります