デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.24-35(DK510006k) ページ画像

大正12年11月(1923年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『大震災の追想と所感の一二』ト題スル一文ヲ寄稿ス。


■資料

銀行通信録 第七六巻第四五五号・第二七―三九頁大正一二年一一月 大震災の追想と所感の一二 子爵渋沢栄一(DK510006k-0001)
第51巻 p.24-35 ページ画像

銀行通信録  第七六巻第四五五号・第二七―三九頁大正一二年一一月
    ○大震災の追想と所感の一二
                   子爵 渋沢栄一
世の中に長く生存して居ると種々なる変化に出会ふのは人類の免れぬ事であります。八十四歳の高齢に居ります為に、有りと有らゆると云ふ言葉は穏当でないかも知れぬけれども、或は日本に於て或はもう少し大きく言へば外国に於て、種々なる変化に出会つて、身それに接して苦んだり、或は又聞いて驚いたり、重ね重ねの所謂有為転変の世の中を送りましたが、今度の地震も即ち其一つとして数へられるやうに思ふ。既往を回顧すると私共の青年の時分には封建制度が何時迄続くか分らぬ位に思つて居たから、之が王政復古と云ふことすら時々世の中に議論はあつたけれども、果して実現さるゝものかと云ふ位に皆疑つて居つた。併しそれが私の丁度青年から壮年に移ると云ふ比ひに実行された。其頃欧羅巴の有様などを多少見聞して、例へば仏蘭西博覧会に行つて同国の繁盛なる有様を見て、何時までも継続するものと実とに凡眼の情なさ皮相の観をしたのである。私の帰つて来たのは千八百六十八年であつたが、其後三年許りを過ぎると帝政は直ぐ変じて奈破翁は捕虜になると云ふやうな有様。其仏蘭西の隆々たる有様に抵抗した独逸が爾来相当の年月は続いたけれども、是以て千九百十五年からの戦争に依つて奈破翁以上のみじめな有様になつた、是等は多くは政治上人為的変化であるけれども、仮令人為的でも人間の想像には迚も及ばぬやうな事であつた。或は地方に於ても色々の洪水があつたとか火災があつたとか随分天変地異も其間に少からぬのであるが、地震に付ても十五の時に安政の地震に出会した、併し其時は田舎に居りまして震源地でなかつたから、至て軽微のものであつた、況んや少年で其後東京へ出ましたけれども、十分な記憶もない位だから、身触れては居つたけれども、併し十分の記憶を以て地震に対する意見を言ふことは出来ませぬ。其後例へば桑港の地震などに付ては容易ならぬことと思つて、国家的に多少は救済方法を講ずると云うて、寄附金などを募集して送つて上げたことはあります。ところが今度の地震は実に意外な事で、私自身にはそんなに大変と思はなかた。兜町に丁度書類を調べて居つて、俄に揺り出したに付て同じ事務所に出て居る若い人に助けられて室外に出ましたけれども、唯々見て居る前に壁が大変振はれたり、中には煉瓦が落ちたり、屋根が大分壊れたやうに見えたから
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困つたものだとは思ひましたけれども、焼けると云ふ考は些とも持たなかつた。併し唯々残念なのは明治二十一年頃建築したので、死んだ辰野金吾と云ふ人のお手見世の建物で、小さい建物ではあるけれども私の身体から言つても辰野の技術から言つても、一種の歴史的の建物で、既に此春であつたか小さい食事の時に、今の大蔵大臣の井上君が度々私は此処へ来て御馳走などになつたり、寄合に加つたりするが、未だ此建物を能く見なかつた、併し今日は染み染み見た、良い家だ、贅沢の普請だと申しますから、贅沢でも無いではないか、今の建築から見ると甚だ身窄らしいと申しましたら、さうでない、五階の煉瓦造とは大変違ふ。斯う云ふ家は壊さないやうにして貰ひたいものだ、好い見本になるなどゝ言うて、頻に褒めたりして居つた、客間の天井に変つた絵の切込んだのがあつたり、或は側に川があるものですから、「ヴエニス」式に柱を建てたり、総てそんなものが大層珍重された。それから二階は小さうございますけれども事に依つたら小舞踏位やれると云ふやうな趣向の室が二つ、数奇を尽したとは言へぬけれども、多少立派に出来て居つた。併しもう二十年許り前に、慶喜公の御伝記編纂の編輯所に使つたら宜からうと云ふので、編輯所に提供した、為に書物の置場になつて、小さい図書館の体裁になつて、脇の方の事務室に五・六人、もう一つの室に筆生が五・六人、或時は十人、十二、三人寄つて調べると云ふやうな有様でございました。斯の如くして長い間置いたから、彼処へ書類を置き、此処へ材料を置くと云ふやうな塩梅で、皆それが一種の伝記編輯所に自然と形造られたのです。慶喜公の伝記が済んだ後、渋沢の記録を調べる、それは私の希望ではなかつたけれども、私の子供が頻に要望して此場所で引続いてやりたいと云ふことで、矢張相変らず編輯所的にやつて居つたのですが、甚だ残念なことには類焼する様の事はあるまいと思つて持出す事をしなかつた為に、それ等の書類全部を焼いてしまつた。誠に残念で私はもう人に会ふと、頻に自分の不注意、無神経を恥ぢて言ふさへ腹が立つ位です。夫れで其日は今言ふひどい震動の為に、外へ出て歎息して時々壁が振はれるのを見て居りましたけれども、別に仕様がない、其処へ第一銀行の方から、此方は揺れるけれども銀行の方は決して潰れるやうな心配はない、此方へお出なすつたら宜からうと云ふて呉れたから、其処へ行つて午食に「パン」などを食べて、少し休息して居つた、其中に一応王子の方へ帰りたいと思うたが途中街路は地震及火災の避難者で充満した場所もあるので、通り筋を一応確かめた上先づ丸の内から須田町に出て、明神坂から本郷三丁目を切通しへ出て上野へ這入り根津から動坂を登つて、此処(王子の子爵邸)へ帰つて来ました、かれこれ四時頃でもありましたか、其時まで如此大火災にならうとは少しも思はなかつた。尤も銀行に居た時、火災が二・三箇所始まつたやうだが、震災後の火災は怖いものだと云ふことは、私は気付はしたけれども、傍に居る人が此処が焼けるやうなことはどうしたつてあらう筈はないと云ふから、私の方の事務所は迚も用になるまい、大分破れたから修繕がどうであらうか、何れ地震が止んだら後で始末して見なければならぬと思ふが、事に依ると彼処で事務が執れぬと思ふたので
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銀行から一室借受けて必要の書類だけ此方へ移させる事にして私は帰る。途中が心配だから送つて上げませうと云はれたので、其気に為つて増田に送られて家へ帰つて来た。為に火災の注意を些ともせんで、何ともないと思うたのが、翌朝聞けば皆焼けてしまつた。何たる遺憾であつたか、何たる不注意であつたか、それ等に比較すべくもないけれども、彼の水戸へ行くと彰考館と云ふのがあります、大日本史編纂に関する記料が山のやうに積んである。最も面白いのは義公の左伝に対する意見書とか、或は烈公が貝原の著述に書入をしたものとか、是等は大日本史編纂の為では無いだらうけれども、多くは大日本史編纂に関する記料として集つたものを拾ひ上げて積んである。私は嘗て彼処へ行つて一時間ばかりそんな書類を拝見したことがあります。それ等に傚ふ積りでもなかつたけれども、慶喜公の御伝記の記料は永年掛つて集めましたから、成べく部類を分けてちやんと保存させたい、水戸の彰考館の小さなものみたやうにし、且つ併せて私の歴史などを調べると云ふのですから子供の時分からの日記みたやうなものや、仏蘭西旅行中の書類や、或は維新後に至るまで知友などより来た書翰等、嘗て一遍調べて置いたのであつたが、其中の書翰はそれを取扱ふ者に悪い奴があつて盗まれてしまつた、併し其中の三条さんの手紙と西郷の手紙、木戸の手紙、其他三・四十通もありましたらうがそれだけが失くなり、余の書類は三本の巻物になつて居つた、それをどう云ふ訳であつたか、阿部吾市さんが何処かで買つて、皆私の宛名になつて居るから、面白いと思つて買つたと云うて、二十年も前のことです、こんなものを買ひましたからと云うて持つて来て呉れた、それは其後私が保存して居つた。それすらも今の住所の編纂所にやつて置いたのを之を併せて失ひました。是等は唯々折角大事な書類を、さう云ふやうな方法にして置いて、自分では安全に保存し得るものと思うて居つたのが、火災と云ふ注意を怠つた為に皆烏有に帰したと云ふのは、何と云ふ不注意であつたか、余り油断であつたと思ふ。
段々聞けば聞く程翌日になつて災害の強い有様を見て、実際は見ませけぬれども、少し気遣ひまして、何とか事に依つたら東京に大なる禍乱でも起りはしないか、と云ふ様な別に朝鮮人の放火とか、社会主義者がどうするとか、そんな事は些とも思はなかつたけれども、俄に食ふ物が失くなる、さうするとどうも饑餓の有様から遂に乱民が生ずる一つあると二つ、段々に動乱的行動が生じないとは言はれぬから、第一に米を東京に十分輸入することを努めねばなるまい。第二には取締法が十分付かぬと、さういふ乱暴を防ぐことが出来ない、已むを得ねば戒厳令でも布いて戴く外ないではないかと段々心配に為つて来た。すると丁度二日の朝第一に此近所に住つて居る日本日曜学校協会主事の今村正一氏、私は宗教家ではないけれども、始終同協会の為に力を添へてやりましたから、爾来別して懇意にして居る、矢張小崎弘道氏などの手に附いて、亜米利加のコールマン氏などと同協会の為に尽力して居る人で、同氏が訪ねて見えて、自分も此土地に住むが市中大火の為どうも米が少くなつた、第一に送電が止まつたので搗くことが出来ないから白米が別して無い、自分は埼玉県人であるが、埼玉県には
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米が十分あるだらうと思ふから、貴方からお力添を願ひ他からもお願ひして、此土地へ少し米を輸入して握飯的焚出をして見たいと思ふがどんなものでせう。それは取敢ず必要の事と思ふから、全然御同意します、宗教家としてさう云ふ企をなさると云ふことは至極結構だけれども、併し此地方に対してさう云ふ施設をすると云ふ上からには、尻切蜻蛉になつて話が纏らぬやうになると面白くないから、矢張さう云ふ取扱は相当な順序立つた組織に依つてなすつた方が宜からう、夫れには滝野川町役場に取扱はせる方が良い、貴方は自分でやられずに気付だけ与へて、仕事は其処でやつて貰ひ、米に対する金の心配は私がして上げる、注意は貴方の手で、それに対する物資の補助は私が尚ほ同志者と相談してやるやうにする、取扱は滝野川町長にやつて貰ふと云ふ事であつたならば、三つの力に依つて相当の規模が出来るであらう、大した事は出来まいが、何しろ皆難儀を受けて居るのだから――米の百石や二百石はどうかならう、併しそれを自ら取扱ふことは宜しくあるまい。御尤です、それでは一つ町役場の人を呼びますから、能く相談してくれと云ふ話であつた、それは朝の事、間もなく九時頃であつたか阪谷男爵が来られて、丁度私が懸念して居るのを更に進んでこいつは油断が出来ませぬぞ、事に依ると暴民が生ぜぬとも限らぬから一つ政府に注意しようではありませぬか、私が行つてそんな事を騒ぎ散すと少し穏当でないやうだ、老人の気付から言ふなら宜い、内閣がどうなつた、山本が立つと云ふが、何しろそんな事は第二として仮総理大臣にでも言つてやるが宜い、夫から警視庁に、東京府に、東京市に、又内務省にも注意して早速米を入れると云ふ事と、それから戒厳令を布くと云ふこと、即ち饑餓に迫らぬやうにさせるのと乱暴を防ぐと云ふ事だけは、是非なさらなければいかぬと云ふことの注意を与へるやうにしようではないか、貴方から言うてやつて呉れる方が工合が宜いと思ふ。場合に依つては阪谷も希望を共にすると云つても宜いからと云ふことに為つて、折柄報告旁来合はせて居た私の事務所の渡辺得男に交通機関がないけれども、場合に依つたら歩いて行つてもと云うて、今の事を総理大臣と云ふのは未だ内田さんの時でした、赤池警視総監、水野内務大臣、東京府知事、東京市長と申す向に、主として取締と救護の方法を至急に講ぜねばなりますまいと云ふことを、別に建議書ではないけれども口上を以て申させました。それ等は今考へると矢張適当の方法であつたが、之れは決して私の気付でなく阪谷の注意に教はつてやつたのである。米の買入は今村といふ人の宗教観念の作用であつた。それ故に此滝野川町は米の配給が大分都合好く行きました。此町は市に接近して居るものですから、市内から罹災者の這入つて来たのが現在人口の五万余りの所へ、四万余りにも達して殆ど倍加するやうな有様であつたから滝野川町の雑閙は一時えらいものでありました。総てに届いたかどうだか私は悉く明瞭に知つては居ませぬけれども、併し如斯二日に直ぐ手配したものですから始終玄米でなく白米を需用者に供給する事が出来たと云ふのは、先づ滝野川町が東京附近の中では第一に算へられるやうです。現に其最も著しい証拠は大学で玄米は得たけれども、どうしても之を白米にすることが出来ぬ
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已むを得ず玄米を用ゐて居る、けれどもどうも病人に玄米の粥は困る聞けば滝野川町には大分白米があると云ふことだから、何とかして日に五俵宛でも送つて呉れぬかと云うて近藤外科病院から言うて来ましたから、五俵位ならどうにかなるだらうと、助役に相談して五俵宛幾日間か――十日以上配給しましたらう。之を以て見ても滝野川町は白米が満足であつたと云ふことは証拠立てられる。続いて四日の朝早く内務大臣になられたと云つて後藤さんから至急に相談したい事があるから出て来いと、騎兵を使に寄越された、当時は此処でも家屋破壊の為め庭に小屋を建てゝ寝て居る時でしたが、何か重要の事だらうと思つて其日の午後一時に三宅坂の内務大臣の官舎まで行きました。其処で初て昨日新内閣が組織された事を聴きましたが、又臨時震災救護会事務局が成立して、其総裁は山本さん、副総裁は後藤さん、それぞれ役割が出来て、今や其人達が打揃つて色々仕事に取掛られて居る事も聴きました。早速後藤さんがヤア大変だ、余儀なく後を引受けた、昨日極つたんだが、実は今朝総理の所に閣議があつて色々相談して来たそれに付て貴方と相談して見たいと思つたから急に言うて上げた、早速来て下すつて宜かつた、どうか協調会に働いて貰いたいと思ふが、どうだらうか、多分協調会の添田氏にも来て貰つて居る、果して協調会が斯う云ふ臨時の震災に応ずる場所であるかどうかは第二の問題として、極く人手も揃つて居るし、聞く所に依ると幸に焼けなかつたと云ふ洵に好い塩梅だ。先づ臨時救済の事に付て此事務局の援護者として相当の仕事をして貰いたい、或はバラツクを造ると云ふか、病院を設けると云ふか、何れも必要の事である、予め之をして呉れとは言はぬが、先づ第一に徳川さんとも相談したが、細かい事はお前が知つて居ると思ふから、態々呼んだのだ。驚入つたことです、それに対して斯う云ふ事を前の内閣に申上げましたと、後藤さんに前述べた米と戒厳令の話をした処が、果して君の建言であつたかどうか、そこまで詳しく知らぬけれども、それ等の事に付ては相当の注意を致してある、米は大抵六十万石許り此方へ這入つて来る事になつて居る、遅くも一週間の中には来る、既に昨日も大阪の方から飛行機で来た。是は確かであるから食糧に付ての心配は先づない、其他にも実は今評議して来たが、こんな風にして来たと云うて、紙に書いた要件の廉々を示された、其中には此経済界の事をどうして宜いか、銀行に破綻でも起ると困る、火災保険の事が困難の問題と思ふ、どう云ふやうにして宜いかどうぞ此場合経済界の大混乱を引起さぬやうにせねばならぬ、だから差向いては罹災者の救助、第二には経済界の安定、先づそれを主としてやらねばなるまいと思ふ。それ等の事は協調会ばかりでもいくまい是は委員でも拵へて攻究させるが宜いだらうと思ふ。銀行者にも色々説があるさうだ――後藤さんの右のお話は最も所謂肯綮に当つた事であつて、逸早くさう云ふ所へ気が著いて、種々の施設をされたことは確に機敏の事と敬服して居ります。協調会の資格がどうであるかの詮議を先づせねばならぬやうに思ひましたけれども、そんな事を言つて協議して居ると、又説が出る、又寄らなければならぬ、終には薬の相談が調うたら病人が死んでしまつたと申すやうな事が出来ぬとも限り
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ませぬから、さう云ふ長たらしい事ではいくまい、所謂拙速を貴ぶ、責任は私が持ちます、間違つたら叱られる覚悟でやりませう。丁度添田君も見えましたので、それでは是から君と行つて、どんな事をして宜いか評議を極めませう。どの位まで出来るか知らぬが、何でも宜しい協調会に相応しいか相応しくないか知らぬが、出来るだけは尽すと云ふ覚悟を以てやりませうと言ふて別れました。それから協調会は何をやつたら宜からうと云ふことを頻に相談して、第一に救護局に相談して見た所が、焚出の途がなくて困る、焚出の手配をして呉れと云ふから陸軍から釜を借りて来て何でも一週間ばかり焚出をやりました。それから新聞が些とも出ないものですから、情報が通じない、所謂下情上達せず、上意下に通ぜすと云ふやうな風で、是は困るから幾らか其間に立つて心配をしやうと云ふので、五箇所かに情報案内所と云ふものを作つて、是も暫くの間やりました。後に新聞が出るやうになつて止めました。それからバラツクを造つて人を収容することを協調会自身にやつたら宜からう、成べく労働者部類に属する者の救済を講じたいと云うやうな希望もありましたが、バラツクの建築には時が掛かる、且つ大分東京市でもやり、救護事務局でもやると云ふ事になつて居るから、今差向つてやらぬでも宜からう、寧ろ病院が必要だと云ふので、今の協調会の向ふに病院を設けました、それから横浜に一つ、深川に一つ、三箇所許り造ることになりました。尚ほ其他に失業者の処置、労働者宿泊所の処置と云ふやうな事に付て研究して居ります、それは研究に過ぎませぬが、前に申す焚出・情報、是は済みましたけれども、今現に専ら力を尽してやつて居るのは三つの病院、一つは負傷者の病院、二つは通常病院、其一つは直ぐ協調会の側に出来て居るが全部入れると三百人位まで這入りませう、私も徳川さんと御一緒に行つて実地を視察しましたけれども、バラツク式ではあるが幾らか他の場所よりは設備も届いて居ります。是は協調会の仕事でありますが特に内務大臣のお勧めを承つて、十分に力を入れませうと言うた結果がさう云ふ事になつたのであります。
翻つて我住居地に於ての始末は前にお話したやうな仕組で、幸に米は都合好く入つたがモラトリヤムで代金の支払が出来ませぬ、併し――浦和の武州銀行と云ふのが、矢張私の世話内と云うても宜い位の銀行であるものですから、其処に言うてやつて、仮令代金は払はぬでもお前の方で受合つたと言うてやつたら、米屋が代金後払で米を此方へ輸入して呉れるだらうから、さう云ふ趣向にせよと云うて心配しましたから、今申す通り白米が十分に這入つて来たので、都合好く焚出をすることも出来たが、後には各家に避難民を長く一緒に置くと、どうも却て惰民を生ずる虞があると云ふので、近頃はズツと減じて、大抵寺か何かに一纏めにしたやうです。古河さんの家などは独りさう云ふ救護のみならず、自分の本宅を病院に充てられましたから、罹災の貧民が堂々たる西洋館の中に蠢いて居ると云ふやうな有様で、余りに丁寧に過ぎたと言ひたい位です。そんな訳で此地方の処置に付ては、町役場に立入つて幾らか米の輸入などに力添をしましたから、先づ都合好く行つたのです。
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其後にどうも民間で大震災に対する救護的組織が必要だらうと云ふので、商業会議所の人もさう思ふし私もさう考へる。丁度今お話しました四日に内務大臣にお目に掛つて其翌日即ち五日に商業会議所に参つて山科君に相談して、一つ実業界の人々を寄せて相談したら宜からうと云ふので、私は実業界の人ではありませぬけれども縁故が多いから藤山君は留守だに付て、山科・杉原両君に相談の上、それでは一つ商業会議所と私の名で来て戴くが宜からうと云ふので、多分六日の日附で九日に寄つて呉れ、一日も早いが宜いけれども、通信機関もないので九日にしようと云ふので案内したのが丁度五十人許り、果して皆寄つて呉れるかどうか分らなかつたけれども、すると其当時毎日協調会に出勤して居つたものですが、其処へ突然徳川さんから照会があつて是非粕谷と二人で会ひたいと云ふ。それからお目に掛りました所が、貴衆両院でも是非何か救済に関する臨時団体を造りたいと云ふので相談を仕かけて来た、所が実業界で渋沢と商業会議所とで既に通知を出してあると云ふことである、すると二つに造るか一緒にするか、願はくば自分等の考では双方一つにして、政治経済相混じた救済団体にしたいと思ふが、どうだらうかと云ふ御相談であつた。私の案内したのは左様にお立派な方々までお願する積りではなかつたから、さう云ふ意味には通知して居りませぬ。マア実業家連中だけの積りであつた、別に会名も付けませぬで、唯何とかしたいと思ふから寄つて呉れと云ふことにしてありますから、何れ皆が寄つた上で、両議長から斯々のお申込もある、如何致したものかと第二段の相談にしたら、必ず一致するであらうと思ふ。其上にて確定のお答を致しませう。それならさうして呉れろ、就ては成べくは九日に自分達も出て其処で成立するやうにしたいと云ふやうな、えらい急き込んだ御注文で、態々此処まで御出になつたやうな次第であります。兎に角実業家へさう言つてないのだから、マア一応の協議を遂げた上の事にして戴きたい、九日の成行を見る為には書記官長でもお遣し下さいと言うて、それから九日に商業会議所に集つた実業家の諸君に、どうしても此場合斯かる組織を必要と思ふから、一団体を造りたい、蓋し新内閣は逸早く御著手になつて、而も大勢力でやつて下さるから、満足に手配は出来るであらう或は其必要はないと言はれるかも知れぬけれども、唯政府の仕事ばかりで結構でもなからう、何等かの設立を決して無用とはせぬであらうから、吾々是非造りたいと思ふ。其趣意は差向いて罹災者の相当の救助をしたいと云ふのと、第二には此経済に対して飛んだ違却を生じ、甚しきは流言蜚語、意外の行違ひを生ぜぬとも限らぬから、成べくさう云ふ事のないやうに、経済界の安穏を期する、詰り罹災救助と経済復興、之を主としてやりたい、是非御同意を乞ひたい、皆が宜からうと云ふことであつた。さらばもう一つ相談がある、即ち貴衆両院の議長から斯う云ふ申込がある、之に付て一緒になるかどうか。宜いぢやないか、一緒にして別に心配なからう。それなら全然一緒にすることにしよう、さうすると是で会は成立つたやうなものであるから、更に両院を加へた一会を明後日開きたいと思ふ、是亦皆同意しました。それから其次第を一方は徳川議長、一方は粕谷議長に通知を致し、十一
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日に全体の会議を開きました、会名は未だ設けてない、何としたら宜からうか、大震災善後会が宜からう。団体の組織は会長・副会長・委員・幹事を置き、是等の人々を分つて、総務部・救済部・経済部とし救済部は救護に関する事、経済部は或は経済の安定も図り復興も論ずると云ふやうな事にする、此両部は或る場合には一緒になつて評議し又更に委員が大勢出来て居りますから、其間総会を開いて極く重大の事は決する、実施は総務部が会長・副会長の命に依つて行ふ。会長には徳川、副会長には粕谷・渋沢・山科――藤山氏が帰つて来てから山科氏に代りました。それから経済部・救済部両部の部員は会長指名と云ふことになりましたから、会長に銘々の希望を申出て定められた。今総体の人数がどの位になつて居りますか、双方とも十四・五名宛でありませう、頻に色々の事を評議してやつて居る、一方には寄附金を募集する、此寄附金が、既に大きいお月さんが出たものだから小さい星は光が十分輝かぬで、海外の寄附金などは救済事務局の方へ来ます若し吾々がもう少し早く造つたら吾々の方へ来る分も余程あつたですが、甚だ残念ながら亜米利加から来る小二百万の吾々の方へ来るべきものも皆救護局の方へ来てしまつた。何処へ来ても構はぬ、別にそれに付て彼れ此れ言ふ必要はありませぬが、それでも善後会でもザツと四百万円にはならうと思ひます、或は進んで五百万円位になるかも知れませぬ。今迄評議して居る事柄に付ては数々ありますから、これあれと一々丁寧にお話することは甚だ困難でありますが、其中でも今の保険問題などは経済部で屡ば論じて居ります。又各地の巡回などは救済部の方で横浜・横須賀・房州、又は埼玉県迄も出掛けて実地視察をしました、私は老人故に御免を蒙つて居る。皆さんが見もし聞きもし又調べもし、見込も立てると云ふやうな有様からして、左まで有効の団体とは申しませぬけれども兎に角五百万近い寄附金を募集し得るしお顔ぶれも中々委員の連中は立派なものです、高橋是清さんも加藤高明さんも床次竹二郎さんも小川平吉さんも中橋徳五郎さんも、若槻さんは見えませぬが、下岡さんも、政友会なり憲政会なり革新倶楽部なり、有力なお方は大抵網羅されて居る、為に事に依ると議論が多くて仕事が捗らぬと云ふ嫌がないではありませぬが、併し大頭はさう出はしませぬで、唯々己れも同意だから宜いわ、遣れと云うて奥の方の四本柱に威張つて居るやうな有様で、工合好く善後会は進みつゝあります。集つた金の中で最初各地方へ取敢ず百万円分けやうと云ふので、東京に横浜に或は神奈川に埼玉県に千葉県に静岡県にポツポツ別けて到頭二百万円だけさう云ふ地方分割の法を立てまして、それから更に他の方法としては、或は社会事業団体とか云ふやうな事が中々数多くあります。さう云ふものに付て追々に必要の仕事をさせる為に、どうも会自身に仕事をする訳にいかぬから、之が適当と思ふ者に向つて、多くは救済に属することですが、其救済にも直接救済と未来の為になると云ふことも多少差組んで取扱ふ筈になつて居つて、此四百万円若くは五百万円に近い金は全く有効に無駄なく使ふ積りであります。時時に善後会に出て見ると、議論に花が咲くこともありますけれども、全く一致の感情を以てやつて居りますから、或る得失に付ての議論は
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あるが、決して野次ツたり反撥したりすると云ふ事はありませぬ。誠に工合好く、あゝ云ふ塩梅に総ての会が開けたら宜からう、そんな事は面前では申しませぬけれども、両院に居らるゝ方が斯う云ふ味ひに総ての議事をやつて下すつたら、誰も嫌気は持たぬであらう、此方に出て論ずるのと帝国議会で論ずるのとは、まるで発言の観念から違ふやうに見える、或る場合には斯様に深切に胸襟を開いて是を是とし非を非とするのに、なぜ帝国議会へ出ては是程智恵のある人が、あゝひねくれた議論ばかりするだらうか、併し又斯様に忠実の観念を以て論じて呉れる所を見ると、そんなに心配せぬでも宜い国民であると云ふやうな感じも自ら起る位。即ち此会の総会の時などは大分一騎当千の議論家が打寄りますから喧しからうと思ふと、喧しくない実に猫のやうです、真とに嬉しい事だと思ひました。
まあ一日から今日迄の経過をずつとお話したではないけれども、あれこれと成立つたものゝ模様をお話すると概略そんなもので、扨玆に一つの経済上の問題として、どうして宜いかと云ふ事の意見が自ら其処に明かになるやうにしたいと思ふことは、今の火災保険の問題である今朝も或る火災保険の専務が来て、どうしても意見が二つ三つに分れて居る、愚図々々言うて引張つてしまひたいと云ふが如き、甚だ卑怯未練の説を為す向もあります。又約款に書いてあるのだから、見舞金のやうなものにして、唯此儘にも置けまいから、せめて一割も保険金に対する支払と云ふではないけれども提供して、さうして此段落を付けたいと云ふ考を持つて居る者もある。但しそれだけの金の支払は会社として困難であるから、余儀なく或る部分は安い利息で永年賦にして、足らぬだけの金額を国庫から貸渡を受けて支払ひたい。さう云ふのが意見の一つの流れと、それから中にはどうしても外国の会社は一切交渉を受けぬと云ふし、どうも之を払はせろと云ふことは無理だ、元来自分が保険したのではない、又地震が保険の出来るものではない殆ど予想の立たぬものだから、之を保険すると云ふことは実に無謀である。殊に日本の土地に於てをや。故に是は寧ろ会社を虐めずに何とか云ふ方法で、此震災に対する被害者には政府で幾らか救助するは格別、会社としては支払に応ずべきものでないと云ふものが又意見の一流れである、斯様な話でありましたが、何れも一理のある事で、容易く是非の判断は下し兼ねますが、何しろ此問題は罹災者に取つては直接関係のある問題であり、延いては利害の及ぶ所が広いのでありますから、何とか適当の方法に依つて一日も早く解決されることを希望するのであります。
先づ地震の発端から今迄の事に付ての概況はお話しましたけれども、此災害に対して将来之が回復を如何にしたら宜いかと云ふことが、次に残る問題だらうと思ふ。東京の市街と云ふものが、少し学問的に言ふと、封建時代の武将の自己の一身を重くし、其為に一つの市街を成したやうな有様で、中央に在る城と云ふものが唯一人の堅固を図り栄耀を競ひ、威服も謀り、尊厳をも示すと云ふやうな総ての関係から、あゝ云ふやうな中央に城を成して、さうして是等の必要を充す為に色色の商売、工業、運送、総てのものが周囲に居るので、市街を成す根
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本の意味が違つて居る。今のは多数を主義として居る。其昔は一人ではないけれども或る種族を主として、それに対して例へば一家の主人があつて女中も来れば風呂番も入れると云ふやうな理窟になつて居る市街も自らさう云ふ有様に成立つて居ると謂はなければならぬ。交通機関なども昔は勿論てくてく歩き、甚しきは駕籠に乗つて歩いた、それに引替へ今日は電車・自動車が走ると云ふ世の中、根本の違ひと同時に文明の進歩に依つて設備に大なる差を生じて来た、之を相当に適応させなくてはならぬので、明治十八年頃から頻に東京市に向つて其事を言つて居るけれども中々思ふやうに運ばぬ、今でも半上落下の経営に属して居る、現在する有様から直すと云ふことは、白紙に築き出すより面倒である、故に此所作が六ケしい、此に於て或る種類のお人人は焼けたを幸ひに言ふは悪い言葉だけれども、白紙になつた機会に完全に直したいと云ふことが、先づ誰にも生ずる一つの希望である。一方には金を無暗に使つてはいかぬと言ふかと思ふと、一方には公園が狭くていかぬと言うて頻に小言を言ふ、昨日の時事新報にも倫敦のハイド・パーク、紐育のセントラル・パークを引合に出して頻に煽動てゝる、あゝ云ふ事を言ふかと思ふと、一方には銭も無い癖に無暗に立派な事をやられては困ると云ふ、所謂枘鑿相容れず、殆ど不権衡なる話が今日は別して多い、此処を宜しく処理して行くのが為政者の最も六ケしい所である、私等は老人でそんな抱負を持つて居りませぬし又そんな位置に立つて居る訳ではないけれども、併し或る一方に偏してのみ事をやると云ふことは宜くないと思ふ、或る場合には改良もして行かなければならず、或る場合には力も計らなければならず、或る場合には実際も能く考慮しなければならぬ、其一番宜しきを得るのが事の実行に付て最も必要だと思ふ。孔子の言葉に君子時に中すと云ふ事があります、其時期相当の事をやる、如何に善い事でも、まるで力不相応、時勢不相応の事では善いとは言はれない、或る場合にはまだそれよりは性質から云へば第二・第三であるけれども此場合に於ては之が一番最上だと云ふ事は幾らもあるものです。今日の帝都復興も矢張それを考へなくてはならぬと思ふ。それが何処であるかと云ふことを言ふ程の知識も又実際の細かい調も私は持つて居りませぬが、大要を其処に置いて、さうして或る場合には丁度好い幸ひだと言はなければならぬ場合もありませう、道を広めるとか公園を取るとか、さらばと言うて余り其方に偏して、政府が自ら家を造つて高い家賃で貸してやると言つた所で、借人が無いかも知れず、縦しあつたところでそれが丁度事業に適応を得ぬ場合であつたら、維持が出来ぬ話である。市街と云ふものは其居住人民の力に依つて立派になるべきもので、唯脇から「ペンキ」塗りで綺麗に出来ると云ふ訳のものではないから、其処らを考へて見ると、或る整理は必要かも知れぬけれども、必ずしも紐育の街を直ぐ東京に造り出すと云ふことは出来ない、紐育の街は紐育に住む人の力に依つて出来るので、それ程の力の無い者は粗末の街に住んで何等差支ないと思ひます。其力を計らずにやつたら、まるで貧乏人が金持の真似をして一年二年の中に身代限に陥ると云ふことになつては相成りませぬ。此権衡が最も六ケしい、私共どうすれば宜い
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かと云ふ事は明言がし兼ねるのです。それと同時に総て日本の金でなければいかぬ、外国の金を入れることは絶対に相成らぬと云ふ人もあるし、否紐育には地震がなかつたから外国から入れるが宜いと云ふ人もある。是も多く論じたら極端に陥りはしないかと思ふ。余りに高い利息になつて窮屈であるならば、決して外国の金を借りて悪いとばかりも言へないと思ふ、併し又自分の力を計らずに貸人があるからと云うて、悪く言へば自分の腸胃の分量も計らずに御馳走を振舞はれて、無暗に食べて食傷をしてしまふと云ふ馬鹿気た有様に陥るのも愚の至りですから、此処はどうしても時に中すると云ふ事が、此復興に対する最も重要問題だらうと私は思ひます。帝都は全国の都であるとか、或は東京は東京の物であるとか云ふ位置の見方が違つて居る議論もあります、是も大に考へなければならぬ。併し双方兼ねて居ると云ふことは少くも言ひ得るだらうと思ふ。唯々単に名古屋であるとか神戸であるとか云ふ所と東京と云ふものは違ふだらうと思ひます、甚しきは亜米利加の有様などを一寸想像して、政治機関はもう少し脇の方へ造つて、此処は商売の街にしたいと云ふやうな説を為す者もあります。是等の流説は大詔渙発で皆屏息したらうと思ひますけれども、併し未だ大詔渙発の力に依つても全く屏息し切らないで、今のやうな説を為す者もありますが、私はそれに向つては別に非難も言はなければ又同意もせぬ。そんな事は今論ずる必要はないと思ふ。唯々前に申す相当なる適度にやらなければならぬと云ふことは、甚だ曖昧な言葉のやうであるけれども、謂はゞ何処の道を何間にしたら宜からう、何処へ公園を幾つと云ふ事が分らぬ以上は、今のやうな曖昧の言葉で言はざるを得ぬと思ふ。是も細かい事は復興院、若くは其他の機関で成立つであらうと思ひます。私なども何のお役にも立たぬと思ひますが、復興審議会の一人を仰付かつて居ります。是も何れ其内には開かれるだらうと思ひます。
要するに私は今度の震災に付て、震災があつたのを動機に日本人、少くとも東京の人々の精神を此機会に入替へたいなどと云ふ、大きな事を言ふのは穏当でないけれども、併しどうも世の中に事柄が行支へて変化を惹起すと云ふことは、政治上にも流行の上にも、総てのものにあるやうです。或は今度の震災なども行支へで第二の変化を惹起す端緒になりはしないか、余り人が自己本位、物質万能、自分のみ宜ければそれで宜いと云ふ、悪く申せば我利的精神にどうも進み過ぎて居ると思ふ。さうして物質上の事に無暗に焦せる。私共の古い学問に安んじて居る目から見ると、何の事やら可笑いと言ひたい位に思ひます。反対の方から見ると実に何を眠つて居るかと言はれるでありませう、さうして些細な事を直さま自分の効能にして、苟も世の中の事を唯自己本位に物を言つて居る。人の為を思ふとか、犠牲とか、報恩とか云ふやうな事は、まるで馬鹿を見たやうに考へ、甚しきは物は取つた、代は払はぬでも向ふが承知すればそれでも宜いものだ、斯う云ふやうに考へる。昔中江藤樹の近所の馬方が鞍に金が遺つて居つたのを、夜をかけてお客の所へ持つて行つて返して、何と言うても礼も貰はなかつたと云ふ、そんな馬鹿が世の中にあるものかと、斯う今はなつてし
 - 第51巻 p.35 -ページ画像 
まつたのです。さうして一方には無闇に身を飾つて実に東京の中央の街などを通つて見ると斯く迄に綺麗になつたか、斯く迄に立派になつたかと斯う言ひたいやうです。昔魚灯の光で暗い町を見た目から見ると、さながら竜宮城へでも這入つたやうな気がします。是で宜いものかと私自身すら疑を起す。まさか山の中から出て来たではないけれども――遂に斯う云ふ大変革があつて、何だか大平等を自然から与へられたと云ふやうな事で、或る場には天譴とまで思うたのは、決して唯迷信ではなからうと思ふ。どうぞ斯う云ふ機会に人心が本当に覚醒して穏健質実、忠孝節義の精神にどうぞ立帰つて貰ひたい、云ふ事を今尚頻に祈つて居りますが、之を宣伝して歩いたつて効能はありませぬから、唯自身の心で、又自分の極く狭い範囲に於て努めて高調して居ります。更に第二段に、さう云ふ観念が私共知合の人々には多い、其説は如何にもさうだと言うて、老人の説に同意を表して呉れる者が多い、即ち竜門社の人達とか己れの一族の者とかはそれである。故に私は所謂帝都復興は物質的に言うて居るけれども、精神的にも是非帝都は復興させたいと思ひます。精神的の復興が出来なければ、真正なる復興を期する訳にはいかないと云ふ事を切に申して置きます。それでは又一つの会を造つて、此人心の改善を図つて行かうなどゝ云ふ人がありますけれども、そんな会を造らぬでも銘々やつたらそれで宜くはないか、人には行はすけれども、己れは行はぬと云うては何にもならぬと云うて、此間或る種類の人が来て頻に言ひますから、余り声を高めて皆にせいせいと云ふよりは、自己がする方が宜い、どうも今の所では自身はせぬけれども、人にばかりさせようと云ふ事が多くてならぬ。人にさせるよりは自己がする方が宜い、皆なして人にさせると云ふことでは、誰もしてはない、さうして唯あれだからいけぬと言うて己れの言ふ事が一番えらいとする。丁度通俗道話に五人の家内で始終議論ばかりして居る、十人の家内が至つて一致して居る、議論の多い家の主人が一致して居る家の主人に聴いたら、それは貴方のはお智恵のある方が多いからです。私の方は比較的皆愚昧の者ですから、私の言ふ事を尤もと思うて呉れて、一つの議論もなくて済みます。智恵が多くて皆さん互角の家は却て論が多くなります。論を少くしたいと思ふならば智恵を減ずるやうになさるのが一番です。斯う答へたと云ふ話があります。今日の世の中には案外其嫌ひがあるやうであります。