デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.72-80(DK510017k) ページ画像

昭和3年3月(1928年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『我国に於ける銀行創設の回顧』ト題スル一文ヲ寄稿ス。


■資料

銀行通信録 第八五巻第五〇六号・第二四―三二頁昭和三年三月 我国に於ける銀行創設の回顧 子爵渋沢栄一(DK510017k-0001)
第51巻 p.72-80 ページ画像

銀行通信録  第八五巻第五〇六号・第二四―三二頁昭和三年三月
    ○我国に於ける銀行創設の回顧
                   子爵 渋沢栄一
久しく銀行通信録に意見を述べる機会を得ませなんだが、今日御訪問に依つて玆に本年の経済界を論ずるより、寧ろ往事に対して苦情と云ふか、愚痴と云ふか、色々思及したことを繰返してお話しするのは、或る点から言うたら無用の弁でありませうけれども、私としては一種の心遣りにも成り、又人に依りてはアヽ成程さうで有つたかと諒解して下さることが無いでも無からう。必ずしも老人の啣ち言とばかりは言へぬで有らう。殊に親しみの深い通信録のことでありますから、一応お話して見ようと思ひます
回顧するともう五十年以上の歳月を経て居ります、日本に於ける銀行の創設と云ふことは先づ日本の実業界の抑々基礎を造ると申しても宜い位で、殊に日本の銀行制度の発端は唯々単に資本を集め、之が経営に依つて利益を得やうと云ふ趣旨で無くて、実に国家大経済の基礎を築かんとしたのであつた、即ち経済の本は金融に帰宿する、此金融を付けるには如何したら宜からうか、当時維新の政を相当に料理して行くには金が無くてはならぬので、已むを得ず太政官札を発行して、申さば不換紙幣で一時を弥縫したけれども、何とか之を整理して行かなければならぬ、同時に経済の進歩を本当に促して行くには経済界の道理正しい組立に依つて進ませるやうにせねばならぬ、而して是等の根本を為すものは先づ金融で有る、故に此金融制度に於て従来より立優つた機関を設ける事が宜からうと云ふことの意見が、当時大蔵省の主脳位置に在つた大隈さん伊藤さんあたりから頻に論議されて、其結果一つ亜米利加の制度を調べて来やうと云ふことに成つた。日本の国立銀行制度と云ふものは其処から起つたので有ります。伊藤さんが亜米利加へ行つて之を調べると云ふことに就ては、意見書を大蔵省から太政官へ出すが宜からうと云ふので、其案を私が長たらしく書いたのです。伊藤さんが、こんなに講釈をせんでも宜いぢやないか、君の議論はどうも講釈が過ぎるなどと言はれましたけれども、イヤ、是れくらゐ書かなくちやいかぬ、分つた人が居ないからと云ふやうな訳で有つた。それで伊藤さんが米国へ行つたのが明治三年の冬で有つたと覚えて居ります。何々を調べて来ると云ふ決定事項は無かつたけれども、先づ第一に亜米利加が千八百六十年に布いた国立銀行条例を始めとして財政経済に就ての根本要義を調べると云ふ事で有つた。丁度明治三年は千八百七十年と思ひますから、同国の銀行条例は実施後十年にし
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か成らぬ、其時の同行者は芳川顕正・福地源一郎・吉田二郎の諸氏で其中に就き芳川氏は私が奨めた人では無かつたけれども、福地と吉田の両氏は私が相談して伊藤さんに奨めて連れて行つて貰ふことにしたので有る。一行の帰朝したのが同四年の四月か五月、調査した事項は幾つも有つたらうが、私の記憶では先づ第一は国立銀行の設立の問題亜米利加の「ナショナル・バンク」の仕組は斯うで有るとか、其れに就ての扱振りは斯んなで有るとかと言うて、要件ばかりで無しに、実際の取締方は斯くする、検査の方法は斯くする、それから成立つて進んだ有様は斯う成つて居る、紐育州は斯う成つて居る、他の西部の方は斯んな按排で未だ充分に其目的を達しないと云ふやうなことを、それぞれ地方別にして調べて来た、それから公債と云ふものは何う云ふもので有るか、貨幣制度は如何、大蔵省の政務の取扱は何んな運びにして居るか等をも調べて来たので有つた。元来大蔵省の省と云ふ字は大宝令から出た字で有るが、単り大蔵省のみならず、日本の諸官省の制度は唐制を模倣した大宝令に則つたもので、卿・輔・佑・佐と云ふ四つに分ける仕組です。私もそれほど精しくは覚えませぬが、それで省が有り局が有り、而も皆それが四つづつに組を分けて、一番首脳に立つ人が総裁をすると云ふやうな組織で、孰れも大宝令の形を取つた丈けだから職務がハツキリして居ないので、是等に関しても伊藤さんは大分立入つて亜米利加の実際を調べて来た。併し其れは財務の方だけで他省のことは何処まで調べて来たか其れは覚えませぬが、大蔵省だけは其職制を別に立てたいと云ふので、亜米利加の制度を特に丁寧に調べて来られたので有つた。故に先づ其要点が金貨制度の完全を期するには是で宜いとか、それから紙幣銷却、兌換制度は斯様にしたい其れは国立銀行でやる。同時に之に依つて金融の便を付けたい。それから公債は必要で有るが其制度は斯う極めたい。又大蔵省は他の官省と違つて、亜米利加の制度に則つて帳面の記入方から改めたい。私共「ダブル・ヱントリイ」を複式簿記法、「シングル・ヱントリイ」を単式簿記法と訳しましたが、其簿記法に依つて記帳をやる。それから凡そ出納には伝票「ヴォーチャー」と云ふものが無くてはいかぬ、私などは英語を知らずに言葉で覚えて居つた丈けですが、そんなことまで丁寧に調べて帰られたので有る、尤も伊藤さん御自身は其れほど綿密の人では無いけれども、福地氏や吉田氏は余程立入つて調べる方で況や芳川さんが一緒に行つて居たものですから、詳細に調べて帰られまして、伊藤さんは頻に大蔵省制度を完全に改革せにやいかぬ、今の有様では迚も国家の維持が出来ないと云ふやうに其処ら中を吹き捲つたのが、或る勢力の忌諱に多少触れた、為に薩派との仲が一寸一時調子が悪くなつて、折角種々の要件を調べて帰られた伊藤さんが廟堂に立つて其れを実行することが出来ませぬでしたが、併し其時に最も能く其事情を汲分けて、伊藤さんの意見を是なりとして心配したのは井上さんと私とで有つた。私は何うしても此制度で銀行を立てたい、又大蔵省の制度も伊藤さんが調べたものに依つて是非改良して行きたいと尽力しましたが、幸に井上さんが最も力をお入れに成つて、国立銀行条例が其翌年即ち明治五年十一月に発布に成つたのであります。併
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しながら一つの条例を極めて其れを公にする迄には、それぞれの説明も要るし、許可も請はなければならぬので中々容易の事では無かつた随分苦心惨憺したもので有つた。斯くして始めて日本に銀行が生れたのである。此事は是迄も時々お話ししたことが有つたけれども、余り丁寧にお話ししたことは無いと思ひますから、或る機会に言つて置きたいと思つた為に斯んなお話をするのですが、中々伊藤さんが親切に調べて来た、又其調べて来たものを其時には大隈さんが一歩上に居つて相談相手に成つて居られましたが、然るに明治四年に大隈さんが参議になられ、大蔵省を去つたに就て、大久保利通さんが大蔵卿となられ、伊藤さんが大輔になられたが、前に申す亜米利加振りの利き過ぎた為に、一寸或る部分に悪感を持たれた、其れ故明治四年五月頃日本に帰つて来られたが直ぐ其年の秋頃には東京に居られず、暫く大阪に造幣局の局長に成られた。蓋し左遷された訳です。お話が色々に別れますけれども、私などが伊藤さんの調べて帰つたものを大蔵省に於て実行することに専念力を入れて居る中に、玆に両説有つたのです。薩摩の人で吉田清成と云ふ人が、何う云ふ関係でしたか英吉利に長く留学して言葉も出来、書物も読み相当意見の有る人で有つた。又薩摩人として勢力も相応に有つた。併し元老の位置に進む程の身柄では無かつたけれども、元老の指揮に依つて或る方面に働くと云ふマア大蔵省内に於ては相当の力の有る人で有つたやうです。此人は英吉利の銀行制度の採用を頻に主張して、伊藤さんが亜米利加から調べて帰つて、日本の銀行を亜米利加式に則らうとしたに対して、第一に反対論を称へて、それはいかぬ、日本の銀行は是非英吉利の「バンク・オヴ・イングランド」の式に依らなくてはならぬと主張した。其説に賛成する者も有りて、玆に英米両方の暗闘が中々強かつたのです。私は井上さんと共に伊藤さんが折角亜米利加へ行つて調べて来たものを、唯々吉田氏の説を聴いて軽々しく――成程英吉利式が宜いかは知らぬけれども、直に心を翻す訳にはいかぬ、無論先入が主と成つた故も有りませう。而して井上さんに於ては少しも主張を緩めないし、又働く人々も私及び私に随従する大蔵省の人々に相当腕の立つ人が有つたものですから、為に前申す通り米国式に依る国立銀行制度が発布せられたのであります。然るに吉田氏は初め私共を圧迫して後には説伏する工合で有つたが、遂には詫ると言つて頻に忠告する場合も有つたやうでした井上さんにも左様言つたやうです。井上さんは英吉利式が必ずしも悪いとは云はないが、亜米利加式は折角伊藤さんが調べて来たのであるし、又日本の現状に照らして亜米利加式が適当で有ると主張したのでありました
此処で一寸私の一身に就いてお話しを申して見ると、伊藤大蔵卿が官を辞し、大隈さんが参議になつて大蔵省を引き、さうして井上さんが進んで大輔になり、大蔵卿には大久保さんが成つた。其れが前に申した様に明治四年の夏頃で有つたと思ひます。其中に廃藩置県と云ふことが実施されることに成つた。是は今申す銀行条例などを必死に取調べて居る際で有つたと思ひます。其廃藩置県の行はれるには西郷さんと木戸さんの力が主で有つた。言葉を換へて言へば薩摩と長州が同論
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に成つたに由て其の実施が出来る様に成つたのです。未だ其れ迄は色色の邪魔も有り危険も有り、中々大事業ですから容易く行はれなかつたが、御議事の間、其れは今で言ふ枢密院みた様な場所です。私は其処の大内史と云ふ職掌を持つて、大蔵省の大丞でありながら秘書役を暫くの間兼ねて居つたのです。各省の長官連中が皆打寄つて評議をする場所であります。其議長とも云ふべき人は西郷さんと木戸さんで有つた。何でも廃藩置県の問題に就き頻に評議して居ると、日本に於ける君主の権利は何れ程で有るか、無上の権利があるか或る制限を立てるか、さう云ふた様な説が出て頻に論じて居る時に、どうも吾々ばかりでは誠に工合が悪いから、三条さんや岩倉さんをも、此処に出して――太政大臣と左右大臣をも此中に加へて討論するのが宜からうと云ふので、此御議事の間の評議に出席して貰ふやうにしたいと云ふ意見を政府に申達しやうと云ふことになつて、其案を作れと云ふことで、多分其時の世話人は江藤新平さんと思ひますけれども、筆を執つたのは私で有つた。それで書面を政府に出すに就て、木戸さんに見せ又西郷さんに見せて調印を求めた所が、西郷さんは其書面を見てまるで呆《とぼ》けた様な様子で、斯んなものを出して何に成る、紙の上の意地張り話は何にも成らぬ、それよりは御一新などと云ふけれども未だ戦が足りないから、もうちつと戦をしなければ此上ツ調子では迚も駄目だと。各省の長官――参議などの揃つて居る所で、熊公八公の寄合みた様な句調で言ふものですから、木戸さんが頻に、でも有らうけれども斯う云ふ所で御議事が開かれて居るんだからと言つて宥めるが、御議事か何うか知らぬけれど斯んなものは駄目だと言つてどうしても調印しない。それで到頭お流れに成つてしまつた。後から私共は西郷さんはあんな馬鹿なことを言ふ人ぢやない、何か之には仔細が有るだらう、私は前から西郷さんを知つて居りますから変な工合だと思つて居ると暫くすると井上さんが、渋沢分つたぞ、僕も彼の時は馬鹿ぢや無いかと思つたが、矢張馬鹿ぢやない、裏を言つて居るんだ。廃藩置県を遣らうと云ふ腹が有るから、其前に彼んなことを言つたつて何にも成らぬと云ふのだ。説明をしないで結果だけ言ふから分らない。成程西郷は西郷だけの所が有ると云うて後で敬服して居つたことが有つた。それが即ち廃藩置県の実行の時でした。七月に廃藩置県が行はれた、併し其れから引続いて九月頃と覚えて居るが、私は大久保さんからは余り気に入られない方だと見えて、併し其事柄は今考へて見ても私が悪いのでは無いと思つて居る、其事は今も有る話で五十年も六十年も同じ有様を継続するかと思ふと可笑しくてならぬ。それは陸軍で予算が無ければ何うしても事業の経営が出来ぬから予算を作つて呉れと云うて大蔵省に迫る。其時の数字は慥か陸軍が八百万円、海軍が二百五十万円と覚えて居ります。是非それだけの金を明治五年に使はせて呉れと云ふことを陸海軍が大久保さんに迫つた。其時の陸軍の長官は山県さんで、海軍の長官はタシカ河村純義さんで有りましたらう。それで其時に井上さんは喪に居つた為か出席しなかつた、私と安場保和・谷鉄心・岡本謙三郎・渡辺清左衛門の四氏が皆大蔵大丞と云ふ位置でした大蔵省の事務を取扱ふ事務官の最も上の位置です。今の問題を大久保
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さんが太政官で評議の結果として齎して来て、斯う云ふ評議で有る。各々方の意見を聴く、今日は井上は見えないが、確定は井上の出た上で為ることにしても、先づ大丞達の意見を聴きたいと御下問があつた訳です。私は余り御懇意で無いものですから、多少遠慮して居つたけれども、誰も言はないものですから――私は所謂不戦条約をしたい方の人間ですから、大久保さんの言ふことでも、間違つて居ると思ふ事はさう恐々縮々しなかつた。起つて大蔵卿は予算を陸海軍に向つて定めると仰しやるけれども、予算と云ふものは入る金額がハツキリ分つて出す金額が極まるので、出す方だけ先へ極めると云ふことは如何がなもので有りませうか、拠ろ無ければそれは借金もし得るで有りませうけれども併し其れは予算の本筋では無いと思ふ。吾々甚だ働きの足らない為めも有りませうけれども、廃藩置県の制度発表だけで直ぐさま歳入の多寡を知ると云ふ訳には参りませぬ。さう云ふことは人間業では出来ないと申しても決して過言で無いと思ふ。それを今まだ入る金の分らぬのに出す方の予算だけ先へ極めると云ふことは今日の場合甚だ適当で無いと思ひますと意見を述べた。他の人が黙つて居つたものですから、自ら此の説が尤もらしいやうに聞えたと見えて、大久保さんが少しムツトして、今の様に言はれると、渋沢は陸海軍は何う成つても構はぬと云ふのか、斯う云ふ乱暴な反問を受けたのです。私も少しムツとしたから、私は軍事の事に対して詳細の答をする程の知識は持つて居りませぬ。併しながら会計の方に就ては甚だ不肖の身で有りますけれども、爾来一・二年の間鞅掌して居ります。廃藩置県以後の歳入が何れほど有るかと云ふことを其発令と共に調べて居るけれども、まだ能く分りませぬ。故に今陸海軍の予算を極めるのは余り早計では無いかと思ひますから、もう少し分つた上で極めるのが至当で有りませう、其れまでは必要な度に応じて成べく経費を節約して陸海軍を賄ふ外に妙案は無いと思ひますと云ふ意見を申したに過ぎない。陸海軍の必要だと云ふことは如何に軍事の知識に乏しい私でも知つて居るけれども、それよりも先に考へなければならぬことが有るから、其方を先づ先に考へた方が宜しからうと、斯う申上げたのですと言つて腹が立つたからお先きに御免を蒙りますと引込んでしまつた。それから井上さんの所へ行つて、もう嫌だから辞職しますと言つた所が、井上さんが怒る様な宥める様なことを言つて、実は迚も今の姿ではお互に大蔵省はやり切れない、今考へつゝある所だからマアさう言はずに我慢して呉れ。今君に逃げられては僕が困るから、何れ大蔵省は何うにかせにや成らぬことは誰が見ても分る。今の様な有様を続けたら殆ど会計と云ふものは暗に成つてしまふ。此整理の為には仮令人と喧嘩をしても何処までも遣り通す積りだ。君の立腹は尤もだが、併し私に免じて此処は忍んで呉れ。就ては今の有様では君も居り悪くからうから、暫く気を抜く為に造幣局が甚だ手不足だから――其前に伊藤さんが一時造幣局長として行つて居つたが、其後を馬渡俊邁と云ふ人が任じて居つた。一時的紙幣を発行すると云ふ様な制度が出来たので、其取扱ひ旁々――大阪の方に一・二箇月行つて呉れと言はれて、遂に大阪に参りましたのが多分十月頃で有つた。一箇月余り大阪に居つて、
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十一月の末か十二月の初めに東京へ帰つて来ました。丁度十二月で有つた。岩倉さんが大使で、木戸さん・大久保さん・山口さんを初め一行殆ど百人に近い人々の外国旅行のことが有りました。是等は今の問題に余り関係の無いことで有りますが……御話を前に戻しますが我国の国立銀行条例は明治五年十一月に発表されまして、玆に始めて日本に銀行が出来ると云ふことが定まつたので有ります。併し其れは唯々制度が定まつたばかりで、次いで手本を造らなければならぬ、それには富豪の連中に力を入れさせる外は無いと思うて、私共井上さんの説に従つて其当時の富豪を説いた処が、昔も今も変りは無いが、力の似たやうなものが二つ以上あると自ら拮抗も免れませぬ。当時東京の主なる富豪は三井・小野・島田の三軒で有つたが、其三軒が一種の組合の様にして御一新早々に御為替方と云ふものを引受けて居りました。三井の方には其時分の有力な人は三野村利左衛門・斎藤純造の両氏で主人としては今の男爵八郎右衛門氏の父君高福氏で有つた、高福氏の令息に高朗と云ふ人が有つた、小野の方は其人々を覚えて居りませぬが、どうしても一つ銀行を立てなければ形が成立たぬと思うて、制度を布くと同時に主なる是等の資本家に協議した。尤も其前からして既に銀行説が有つて、丁度明治三年の冬のことで有つたが、三井の方の気早の連中は三井を早く銀行にしたいと云つて心配した者も有つた位併し条例に依つて国立と云ふことに成つたから、斯う云ふ大切の銀行を三井のみの資本に依つて組立てるのは宜く無いと云ふので、其処で資本金は少なくも五百万円と云ふ希望で有つたけれども、中々一般の募集が六ケ敷い為に、三井・小野が各々百万円宛の出資、島田も其半分ぐらゐは出来るだらう、さうすると後五十万円は一般から一軒一万円宛としても五十軒あれば五十万円に成るから、そこで合せて三百万円ぐらゐにして遣らうと云ふ目論見で有つたのです。中々に右が宜いと思ふと左が悪いと云ふので割合が六ケ敷い。商人同志の相談が纏らぬばかりで無く、脇の方から肘を引く者が沢山に有つたものですから其協定に余程手間が取れました。丁度其際に恰も好しと云ふ言葉も穏当で無いが、今お話しした条例の発表される頃から、段々大蔵省と各省との間の折合が六ケ敷く成つて、井上さんの権力が余り強いと云ふので井上攻撃論が烈しく成つた。井上さんは是だけ丹精してやるのに訳の分らぬことを言ふと云うて、其前にも不平を起して度々出ないことが有つて、私が中途に居つて多少調和を取つた。甚しきは三条さんが私の家へ二・三度も来て、井上さんを勧めて出勤させて呉れと言うて勧告的の言葉も有つた位でしたが、遂に不平が積り積つた結果六年の五月三日に愈々井上さんが辞表を出すと云ふことに成つたのです。是は政治上の意見と云ふよりも余り井上さんが権力が強いと云ふ所から起つたことで、併し其時の大蔵省の意見は井上さんの方に強かつたから、井上さんの考では自分は引いても後を渋沢を主として大蔵省を維持させると云ふ積りで、頻に私に残つて居れと言うて勧められた。併し私は何時の機会にか辞さうと云ふことを始終考へて居つたもので明治二年に大隈さんに説得されて一時官途に就いたが、固より自分の本心では無い、実業界と云ふ言葉は適切で無いが何か民間で稍々規則
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的な仕事で世の進歩を図りたいと云ふ意志で有つたものですから実業界に入る前仕度に大蔵省の事務を暫く見やうと云ふ位の考で有つた。丁度此の銀行が出来るに就て幸に貴方が来て呉れるなら仕合だと三井の人も小野の方も言うて呉れるので、行かうと云ふ観念を持つて居つた。そこへ井上さんが丁度六年の五月二日に辞すると云ふことに成つたので、私は貴方が辞するならば私も一緒に辞さうと言つた。所が井上さんは其れは困る、今君に辞されては大蔵省は闇に成るから、君は暫く留つて呉れ。私は又今居残ると時機を失する、私が居坐ると云ふ覚悟を持つて居るなら残りますけれども、貴方の御承知の通り私は最初から政府に居る所存は無い、明治二年に大隈さんから説得されて余儀なく官途に就いた人間だ、一体民業に就て多少の働をして見たいと云ふ覚悟で有つた。政治上には全く望みが無いのだから今更残る考は無い。さうか君の心事は能く分つて居るから、それなら一緒に罷めやうと云ふので、二人で奏議などいふものを出して、さうして辞退してしまつた。続いて大隈さんにも会つて話をした所が、宜しいとも、銀行の方をやれと云うて賛成して呉れた。だから大隈さんが大蔵省の方を引受けて呉れたから不快の感じも無く銀行の事務に従事することに成つた。それが私の銀行業務に携はる由来で有つた。併し其初めにはイキナリに直ぐ職名を何うしたら宜からうか、力が相対立して居るから、頭取を二人造り支配人も二人造ると云ふやうな訳で有つたから、どうしても其間に多少仲裁人が無いと困ると云ふので、総監と云ふ、制度にも無い名を附けて、其位置に私が立つて自ら頭取見た様な形に成つたのです。それが今日の第一銀行の起原で丁度明治六年の八月の一日に創立証書が下り免許を得たのであります。
創立の免許を得た第一銀行の最初の営業としては、其時分まで三井が引受けてやつて居つた政府の出納を第一銀行が承け継いで遣ることになつた。続いて太政官の紙幣を兌換しやうと云ふ考で紙幣をそろそろ使ひ出して、其中で銀行仕組の営業をやつて居る。三井も小野も同一の商売をして居るから、爰に新規の競争者が出来た様なもので、或る場合には却て我手で我顔を傷ける様なことも御互に有つたでせう。マア併し余りに物議も無くチビリチビリ商売をして居つたが、私も成べく軽進を避けて、著々進むやうにして居つたが、銀行事務の取扱方に就いては、組織立つて居なかつたので、井上さんの注意も有つて、予て「パース・バンク」の専務をして居つた英人シャンドと云ふ人を大蔵省で雇うて、之に銀行事務取扱のお師匠さんをして貰つた。実に親切な人で簿記精法と云ふものを作つて呉れた、今も猶其本は有りますが私も多少銀行をやつた身だが、今講釈をしろと言はれると困る。実は素養が無いからです。然るに此シャンド氏は実に綿密な人で講釈も出来れば実務も出来る。今も覚えて居りますが、其簿記精法の終に色々銀行者に対する訓言が書いてあります。其箇条は幾箇条で有つたか覚えませぬが、それは其シャンド氏の言ふたことでは無くて、何でもギルバートと云ふ「バンク・オヴ・イングランド」に長い間重役をして居つた人で有名な人が有る、其人の訓言が英吉利の銀行者間に大層尊重されて居る、それを写して書いて有る。其箇条中には大変面白いと
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思つて今も能く記憶して居りますが、銀行事務と云ふものは先づ第一に極く丁寧でなくてはならぬ、さうして早くなくてはならぬ。一寸無理な注文な様だが、心掛次第でさうでも無からうと思ふ。それから銀行者たるものは、其時の政治の傾きを能く知らなければならぬ、併しそれに嵌り込んではいかぬ。だから政治の進み、政治の傾を知悉するだけの能力が無ければならぬ。さらばと云うて其政治に没頭する様な人間ではいかぬ、没頭せぬ様になると知らぬ。知るやうになると首を突込む。それから銀行者たるものは仮令金融の相談を受けて断る場合が有つても、相手を立腹させないだけの能力が無ければならぬ。断る場合に直ぐさま向ふを怒らせる様な断り方をしてはいかぬ。これも六ケ敷いやうだけれども、平素考へて一部の愛嬌を備へて礼儀を正しく誠実を以てすれば――それでも中には怒る人が有るか知らぬけれども怒らせずに済むもので有ると云ふ様な廉々が四つも五つも有つたやうに思ひます。シャンド氏は其れ等に就て実務の上から能く私共の為した事を検査されては教訓を与へて呉れた。何でも私と年輩は似た位でしたらう。私も多少の学問はした積り、役人もした身の上だから、シャンド氏ぐらゐの人にさう教育を受けやうとは思はぬと多少自惚れて居つたが、どうしても此銀行の事に就ては子供扱にされました。成程感心だと思うて、英吉利の事務に熟練した人は斯くまで実務も出来れば道理も弁へて居るが、兎角事務の能く出来る人は道理を知らない、道理を知る人は実務が出来ないと云ふ跛が現在今日でも多い。然るにシャンド氏は双方共に誠に権衡を得て居つた。吾々講釈はするけれども、さあ帳面を附けて見ろと言はれると困る。帳面を附ける人は講釈を知らない、唯々斯うするものだと云ふことだけ覚えて居る。然るにシャンド氏は先づ金融の取扱は斯う云ふ事を注意しなければならぬ、其初の経営は斯う云ふことを考へなければならぬと丁寧に教へて呉れた、何でも三月目、四月目には検査を受けたが度々叱られました。けれども其間には、貴方はお役人を為すつただけ有つて能く物が分る、さうして私の小言を能く聴いて呉れる、其れだけ進歩的のお人と思うて喜んでお話しが出来るなどと時々は何だか子供扱のお世辞を言はれたことがあります。其後明治三十五年に私が英吉利へ行つた時訪問したら大変喜んで色々世話をして呉れました。私は実に感心して心の中に成程銀行者と云ふものはアヽ無くてはならぬものだと思ひました。此金は何う云ふ筋から預かるものだ。又借りに来た人に対しては、此金は何う云ふ途に使はれるものか、それが分る位の能力が無ければ銀行者には成れないと云ふことを能く言うて居りました。それから更に敬服したのは、後に考へて見たら第一銀行などはモウ少し手を伸した方が宜かつたかとも思ひますけれども、シャンド氏の忠告に依つて海外へ支店を出さうとしたのを止めました。それは第一銀行の組立が内地の商業銀行の仕組で有る。亜米利加の国立銀行式で有る。今金銀の比価の動いて居る東洋に於て、試に支那へ店を出して御覧なさい、支那は銀貨国で、金銀の比価の動きに由つて或る場合には便利を得ることもあらうけれども、或る場合には大変な不便が有る。内地の細かい預金を以て又細かい商取引に金融をすることを目的とする商業銀行が
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海外為替銀行を兼ねることは中々危険のことで有る。それも相当其事務に精通する人が有ればやれぬことは無いけれども、失礼ながら今の所では覚束ない。私は切にお止め申すと言つて酷く説得された。大にシャンド氏の忠告を然りとして、一時殆ど設けるまでに進んで居りました支店の設置を止めました。今之を回想しますと、同氏が今の簿記精法を作つて呉れたのみならず、銀行者の心得べき重要の箇条を示して呉れたこと、又直接に検査に参つて現在に於ける注意を、此箇条あの箇条と云うて、事柄を指示して訓戒して呉れたこと、又今申す海外発展の仕事に対して忠告して呉れたこと、さう云ふやうな事柄が皆肯綮に当り、其要領を得て居ることを今も尚敬服して居ります。之に就て考へて見ても近頃各銀行のやり損なひなどを見ると、アヽ成程さうで有つたかと昔を顧みてシャンド氏の忠告を尚更感ずる点が多い様で有ります。何だか私が銀行を罷めましてからもう十年余り経つて居りますから、俺が居ればと云ふやうなことを言ひ得る様な地位に居りますけれども、或は私も其仲間に従事して居つたら、此災害を受ける一人で有つたかも知れませぬ、総て事物の進歩は或る場合にちよつと行詰つて、それから又伸びて行くと云ふの順序で、一つの或る難関を切抜ければ又伸びて行く。難関に突当つて暫く屈して其れから又伸びると云ふのが事物の進歩の順序と云つて宜い様で有る。然るに此大正九年欧羅巴戦乱の後、殊に同十二年の震災を受け、旁々以て難関に逢著すべき事態が其処に有つたに拘らず、少し銀行経営者が甘へ過ぎた。猫でも杓子でも出来る様に思うて、放漫に手を伸した。大銀行の蹉跌の有様などを見ると、実に情ない次第で、何んだか最初に銀行を造つた私に総て其罪が有るやうな気がして、寧ろ面目ないやうな感じがするのです。併し是は私に弁解させれば、さればと言うて、日本の商工業の進歩発達には銀行の力が与つて多いのですから、其点に就ては銀行も誉ありと言つて宜しいのです。今の銀行者がアヽ云ふ蹉跌が有るからと云うて、銀行の普通一般の経済界に対する効能を没却する訳には行かない。さうすれば誤つたのは誤つた其人が悪いので、自分の罪では無いと斯う弁解出来るで有らう。併し斯かる有様に懲りて今後は大に努力して、銀行者たる者は一時の通り風で有つたと看過しないで此困難を充分に味つて、さうして過を再び為ぬ様に心掛けて貰ひたいと思ひます(昭和三年一月七日談)