デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.100-104(DK510021k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、東京銀行集会所・東京銀行倶楽部ヨリ各弔詞ヲ贈ル。尚、是月発行ノ「銀行通信録」ニ追悼文ヲ掲グ。

十二月十一日、日比谷公会堂ニ於テ、東京銀行集
 - 第51巻 p.101 -ページ画像 
会所及ビ日本経済聯盟会・日本工業倶楽部・日華実業協会・東京商工会議所主催ニヨル「渋沢子爵追悼会」開催サル。


■資料

銀行通信録 第九二巻第五五〇号・第四八頁昭和六年一一月 ○録事 渋沢子爵薨去(DK510021k-0001)
第51巻 p.101 ページ画像

銀行通信録  第九二巻第五五〇号・第四八頁昭和六年一一月
 ○録事
    ○渋沢子爵薨去
十一月十一日前会長渋沢子爵薨去に付、当集会所及東京手形交換所にては、同日直ちに聯合理事会を開きて、各弔辞贈呈の件を決議したるが、其の全文は左の如し
 社団法人東京銀行集会所ハ、正二位勲一等子爵渋沢栄一閣下ノ薨去ヲ痛惜シ、爰ニ恭シク弔辞ヲ呈シ、哀悼ノ意ヲ表ス
        社団法人東京銀行集会所会長 串田万歳


竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六〇頁昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK510021k-0002)
第51巻 p.101 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第二〇―六〇頁昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺  午前九時四十分。
 一、葬儀開始    午前十時。
 一、葬儀終了    午前十一時三十分。
 一、告別式     午後一時開始三時終了。
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞
○中略
 尚ほその他弔詞を寄せられたる重なるものは左の如くである。(順序不同)
○中略
 東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
○下略


銀行通信録 第九二巻第五五〇号・第一頁昭和六年一一月 ○渋沢子爵の逝去を悼む(DK510021k-0003)
第51巻 p.101-102 ページ画像

銀行通信録  第九二巻第五五〇号・第一頁昭和六年一一月
    ○渋沢子爵の逝去を悼む
嗚呼渋沢子爵は遂に逝けり、誰か之を悼まざらん。子爵九十余年の生涯は固より短きにあらずと雖も、長きが上に尚長かれと冀ふ衷心の望抑ふる能はず、然るに今や慈言再び聞くに由なく、温容長へに見る能はず、哀悼奚ぞ堪へん
君は天保十一年を以て武州榛沢郡の一農家に生る、稍々長ずるに及んで尾高藍香に就て漢籍を学び、後江戸に出でて海保漁村に就き漢学を修め、また千葉道三郎の門に出入して武術を研磨す。若年の時偶々代
 - 第51巻 p.102 -ページ画像 
官の横暴に会いて、大に官尊民卑の弊を憤る。幕末乱世の間に成人して、深く期する所あり、倒幕を主張して密に劃策する所ありしも、事の行はれざるを見て京都に走り、終に一橋慶喜に仕ふ。慶応三年慶喜の親弟民部公子に随ひて仏国に游ぶや、其の文物制度を視察して悟る所あり、明治元年帰朝して静岡に商法会所を起し、合本組織による商業経営の抱負を実地に行ひたるが、明治二年朝に徴され大隈公の説得に従ひ明治政府に仕へしも、明治六年各省予算定額のことに関し意見の当局に容れられざるや、改革意見書『奏議』を提出して井上公と共に挂冠せり。爾来身を以て商工業の発達に尽し、金融に運輸に、瓦斯電灯・電力に、製紙印刷に、紡績織物に、炭礦に、其他有らゆる方面の事業に力を致し、其の主唱創設して之を指導援助したるもの枚挙に遑あらず。以て我国の産業革命を完成し株式組織に由る事業経営を普及徹底せしめたり。今日の我が実業界に於ける重要事業は一として君の創始協力に俟たざるもの無しと謂ふ可し。しかも其の志す所は唯々国家に在りて、一門一家の繁栄の如きは敢て意に介する所にあらず。随て其の富は君の長きに亘る事業界に於ける活動と努力とに比し言ふに足らざるものなれども、是れ則ち君の物質に恬淡にして事業に執著せる証左として吾人の深く尊敬する所なり。殊に夙に公共の事業に斡旋し、大正五年喜寿に達したるを機として一切の実業界より退隠するに当り、明治六年以来其の任に在りし第一銀行頭取を辞し、明治十三年以来或は会頭として或は委員長として常に指導を受けし東京銀行集会所及東京手形交換所とも関係を絶たれたり。爾来専ら社会事業、思想問題、教育、国民外交、其他公共の事に尽瘁し、老齢を忘れて一意奉公の誠を致せり。君嘗て官を退いて実業界の人となるに当り、論語を以て事業の経営と処世の指針と為すべきを明言し、爾来之を厳守して違ふことなく、斯くて「論語算盤説」となり「実業道徳合一論」となりたり。晩年義務を先にし権利を後にすべきを強調したるは人の能く知る所なるが、君が終始身を以て之を行ひたるは敢て之を贅するの要なし。君の人に接するや常に和言愛語以て之を迎へ、嘗て貴賤貧富を別たず、慈眼等しく視て淳々として後進を訓へたれば、人皆其徳を慕ひ門前常に市を為せり。大正五年実業界隠退迄は、主として財界の総指揮者として、其後は実に我国民の長老として実に一世の儀表と仰がれ、「グランド・オールド・マン・オヴ・ジャッパン」として海外に於ても敬意と欽慕の目標となれり。然るに天仮すに百歳の寿を以てせず、這般病を獲て終に起たず、溘焉として逝けり、惜い哉。時に年九十二
聖天子亦其の勲功を嘉して特に位階を進め、賻を賜ひて君が生前の労を犒い給ふ、実に余栄ありと謂ふ可し
今左に略伝○略スを記して君の功績を不朽に伝へんとす


銀行通信録 第九二巻第五五一号・第六四頁昭和六年一二月 ○録事 渋沢子爵追悼会開催(DK510021k-0004)
第51巻 p.102-103 ページ画像

銀行通信録  第九二巻第五五一号・第六四頁昭和六年一二月
 ○録事
    ○渋沢子爵追悼会開催
去月十一日渋沢子爵薨去に付、哀悼の微意を表すると共に、生前の功
 - 第51巻 p.103 -ページ画像 
績を追慕する為め、当集会所外四団体の発起に係る追悼会は、十二月十一日午後二時より、日比谷公会堂に於て開催、左記の順序を以て施行せられたるが、右各団体の関係者、其の他知名の参会者千余名に上り、今更ながら子爵の偉大なる功績と、徳望の一端とを偲ばしむるものあり、一同切々たる追慕の念を新にして、同三時十五分厳粛盛会裡に散会したるが、当日東京中央放送局は、全国の「ラヂオ」聴取者に対し同会の実況を仲継放送したり
 一、開会の辞           男爵 中島久万吉君
 二、挨拶             男爵 郷誠之助君
 三、弔辞             男爵 団琢磨君
 四、礼拝(起立黙祷)          参拝者一同
 五、挨拶             子爵 渋沢敬三君
 六、追悼演説           公爵 徳川家達君
   同              男爵 益田孝君
 七、閉会の辞           男爵 中島久万吉君


竜門雑誌 青淵先生追悼会彙報第五一九号・第一〇〇―一〇一頁昭和六年一二月 実業団体催故渋沢子爵追悼会(十二月十一日午後二時より東京市公会堂に於て)(DK510021k-0005)
第51巻 p.103-104 ページ画像

竜門雑誌  青淵先生追悼会彙報第五一九号・第一〇〇―一〇一頁昭和六年一二月
    実業団体催故渋沢子爵追悼会
       (十二月十一日午後二時より東京市公会堂に於て)
 十二月十一日午後二時より日本経済聯盟会・日本工業倶楽部・日華実業協会・東京銀行集会所・東京商工会議所の五大経済団体主催のもとに青淵先生追悼会が東京市公会堂に於いて催された。
 市政会館前の大広場は、陸続と乗り付ける経済界各方面の参列者の自動車で埋められて居る。
 数人の交通巡査が多忙相に整理して居る。会場入口から階段上の受付迄黒色の鯨幕を張りめぐらし所々に関係者が立つて挨拶して居る。
 受付で青淵先生の御写真と御沙汰書の複製とを合せた記念品を貰つて、入場すれば、食堂は既に青淵先生の遺徳を慕ふて集ひ列した経済界の有力者によつて一杯である。はるばる地方から参会した人も尠くない。全員壱千余名。
 今日は追悼会の次第を、特に放送局に於いて全国民に中継放送する準備になつて居る。
 正面時開会のベルが鳴つて静かに幕が左右に引かれる。
 正面及周囲の幕は総て黒に、中央の祭壇をはじめ、演壇・床・演壇に備へたマイクロホンまですつかり黒布で覆ひ、祭壇には黒枠と純白の菊花に縁どられた青淵先生の御写真を安置し、写真の上には長大なる御沙汰書の謹写を掲げ、御写真の左右から祭壇一杯を純白の菊・百合・カーネーシヨンで埋めて居る。
 祭壇の右側には左胸上に遺族の徽章をつけた、渋沢家御遺族の方々が二列にならんで居られる。
前列左より
 青淵先生令夫人・子爵渋沢敬三氏・渋沢篤二氏・穂積男爵御母堂・阪谷男爵令夫人・渋沢武之助氏・同令夫人・渋沢正雄氏・同令夫人
 後列左より
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 明石照男氏・同令夫人・渋沢秀雄氏・男爵穂積重遠氏・同令夫人・子爵渋沢敬三氏令夫人
の順序にて着席される。
 祭壇の左側には主催諸団体の各代表者、右より
 公爵徳川家達氏・男爵益田孝氏・男爵郷誠之助氏・男爵団琢磨氏・男爵中島久万吉氏が着席されて居る。
先づ拍手に迎へられて司会者中島男爵が壇に立たれて開会の辞を述べられる。
○中略
 時午後三時十五分、今更に新なる悲傷と哀惜とに心を閉されて黙々として退席して行くこの人々と共に、今ラヂオを通じて、その模様を知つた、全国幾十、幾百万の人々は何れも共にさらに新なる哀しみと淋しさとに胸を打ち震はせて居る事であらう。
  ○中略ノ部分ニ収録サレタル演説ノ筆記ハ、スベテ本資料第三編第三部「身辺」ニ収ム。