デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
6款 金融関係諸会 7. 銀行員同攻会
■綱文

第51巻 p.114-126(DK510028k) ページ画像

大正元年11月20日(1912年)

是日栄一、東京銀行集会所ニ開カレタル銀行員同攻会ニ出席シ「明治年間に於ける銀行業の沿革」ト題シテ講演ヲナス。


■資料

銀行通信録 第五四巻第三二六号・第八〇九頁大正元年一二月 ○銀行員同攻会(DK510028k-0001)
第51巻 p.114 ページ画像

銀行通信録 第五四巻第三二六号・第八〇九頁大正元年一二月
    ○銀行員同攻会
十一月二十日銀行集会所に開催せる銀行員同攻会例会は席上左の如き話題に就き共同研究をなせりと云ふ
 銀行が割引により受入たる手形担保品並に附帯書類の保管整理の方法如何
 割引又は貸付係は銀行営業場内如何に位置すべきか又当該係員に附与すべき権限の程度如何
 商法第四百六十三条の修正により手形の質入裏書は手形法上に認められざることゝなれり、併し現今商業手形の金額僅少なるもの頻出の傾あるに際し、質入裏書の必要なきか、又之を為さんと欲せば其方法ありや如何


銀行通信録 第五四巻第三二六号・第三一―三七頁大正元年一二月 ○明治年間に於ける銀行業の沿革(大正元年十一月二十日銀行員同攻会に於て) 男爵渋沢栄一(DK510028k-0002)
第51巻 p.114-126 ページ画像

銀行通信録 第五四巻第三二六号・第三一―三七頁大正元年一二月
    ○明治年間に於ける銀行業の沿革
         (大正元年十一月二十日銀行員同攻会に於て)
                   男爵渋沢栄一
 (上略)斯の如く同業者の御若い方が相集つて愚見をお聴き下さる事は頗る愉快でありまして、寧ろ私の方から御礼を申すのであります、就ては私にも出席して一言を申述べるやうにと云ふ御話でありましたが(中略)是と申して諸君を益する問題を掲げて、攻究の種とすると云ふ程の名案がございませぬ、故に私は先づ第一には、諸君が斯の如く多数相集つて、形式に流れず、議論に走らず、各其司る実務に就て、丁寧親切に御講究なさると云ふことを伺ひまして、深く其真摯なる行動を喜び、縦令諸君を益することの出来得ぬにもせよ、罷り出で一言なりとも申さうと思つて参上致したのであります、故に私が演壇に上りましたのは、諸君に有益な論説をお聴きに入れるのでは無くて、諸君の御尽瘁を陳謝するのであるとお承知を願ひたいのでございます
銀行業も斯くまでに進んで参りまして、直接其事務を執る諸君が相集ると、斯の如くさしも広い集会所が立錐の地も無い程になると云ふことは、以て銀行事業の盛大に相成つたことが、証拠立てられるのであります、私は諸君と共に、斯の如く斯業が進歩拡大された事を悦ぶ次第でございます、時事問題としては、我々の関係する金融の原因は経済にある、経済といふは多く民間に属することを称へますが、之に対する財政と云ふものがある、其財政と経済とが相俟つて其宜しきを得なければ、財政も鞏固でなければ、経済も発達せぬ、故に両者の調
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和は頗る肝要でありますが、今日は果して能く調和し、完全に進んで居るかと云ふことは聊か疑問であります、此財政経済の調和と云ふことに就ては、政治界の人も、実業側の人も学者も、新聞紙も殊に其うち議会も開かれようと云ふことからして、此問題は色めいて居ると云うて宜い位であります、併し是は昨今の新聞雑誌等に未熟な説ではありますけれども、私も自己の意見を申述べたこともありますから、玆に喋々を要さないと思ひます、殊に又、諸君のやうに、或る一部局に嵌つて専心に御従事の御方は、或る場合は国家の大計に対して考慮を費すことも必要でありますけれども、単にさう云ふ事にのみ走つて、俗に申す自身の頭の蠅は追ひ損ふと云ふことは褒めた事でない、況して御集りの諸君は唯だ漫然たる夸大な言語に駆られて、それを喜ぶお方でないと思ひますから、財政に対する時事問題はどうぞ新聞又は雑誌で御覧下さるやうに願ひたい、玆には喋々することを略します
さらば諸君、現実に取扱ふ手形制度とか、手形の取扱方法とか、若くは簿記の手続とか云ふことは、私も三十年若くは三十四・五年以前にはやはり一の修業中の人でありましたから、諸君の如く研究もし、錬磨もして見ましたけれども、年老いて段々に忘れました、殊に其後次第に新式のものが行はれて参りましたから、是等の事についても諸君を益する面白いお話は出来得まいと思ひます、故にさう云ふ実際問題も今晩は略しまして申上げることを致しませぬ、其中、何か諸君の為めに斯くあつたら宜からうと云ふ新案でも生じましたら又或る機会には参上してお話致しませう
 そこで、今夜お話しようと思ひますことは、頗る古めかしくございますが、日本の銀行の起原はどうであつたかと云ふこと、是は既に度度或る会場、又は他の新聞雑誌等に申しました事が記載され、既に一小冊になつた事もあります、現に大隈伯爵の作られた五十年史などにも一の書籍になつて居ります、又、報知新聞が明治商工史を作られたそれにも述べてありますから、余程の旧聞ではありますけれども、併し書物に依つて御覧下すつたのと、当人が喋舌のとは同じ事であるかも知れませぬが、直接にお聴き下すつた方が、幾分か値打があるかも知れませぬ、そこで今申す通り、時事問題、若くは直接の事業に関する事柄は申上げませぬとすれば、此銀行の沿革史を申述べまするのは旧聞ではありますれども、之に依つて成程渋沢は長い間銀行業に従事して居つて、いろいろの経歴を経て来た人であると云ふ事だけは、少なくとも御諒察下さるに値するであらうと思ふのであります
 斯の如く、多数の諸君が一堂にお集りになることが出来る程に東京といふ都市が、銀行区域になつたのでありますから、今日の盛大になつたのは、私は頗る喜びに堪へませぬ、けれども四十年以前に東京は決して斯の如き銀行事務のあつたものではなかつた、明治の初めは政事家が、単に法律・教育・兵制・外交、さう云ふ方面ばかりに骨を折つて居た、併しどうしても国の富を増すことを主要なる務めとせねばならぬ、富を増すと云ふ事柄は生産を多くすると云ふことである、生産を多くすると云ふことに就ては種々の方面に活動を要するけれども其大動脈とも言ふべきものは、金融を調達せしめ、運輸を簡便にし、
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それに続いて保険事業を興すとか、倉庫の経営をするとか、海に陸に充分の設備をしなければならぬ、唯々さう云ふ大きな事ばかりではない、鉄道や汽船に伴うて或は道路を修理し、又は港湾を改良するとか更に進んで機械工業・化学工業、或は鉱山業と云ふやうに、それからそれとやつて行かなければならぬ、併し何も角も一時にやる訳には往かぬ、そこでどうしても商工業を発展せしむるには先づ金融を善くすると云ふことが甚だ必要である、此金融をよくすると云ふことに就ては、維新前の日本には金満家と云ふものも沢山は無かつた、偶々あつても、其富有を成るべく人に知らせないのが一般の風習であつた、貸借などいふものが世間に表はれぬやうにすると云ふのであつた、故に金を為替にするとか、又は人の金を預るといふが如きことは無かつた、もし又預るとしても今日の如き定期とか当座とか云ふ事はなかつた、殊に貸借の関係に於ては極く隠密な取扱ひで、甲乙の間に限られて第三者には移らぬと云ふ仕組であつた
 幕府の制度に於て大勢の旗本があつた、其旗本には蔵前取りと称へる旗本には幕府が収納する租税の米穀を正米で引渡す仕組であつた為めに、其米を浅草の蔵前と称へる所で取扱つて居つた、即ち蔵前に米倉があつて、其米を取扱ふ者を札差と称へて一種の米に於ける銀行制度をやつたのであります、是が幕府時代に於ける銀行のやうなものであつた、坂倉屋とか、伊勢屋とかいふ名高い札差があつた、今も其一人の家は残つて居ります、伊勢屋四郎左衛門と云ふのであります、幕府から米を預つて旗本に渡すのであります、さうして裕福なる旗本は其米を札差に預けて置いて入用の時に受取ると云ふのもある、或は後に渡るべき米を引当てに先きに金子を借りるのもある、切米の渡るのは年の五月と十一月とであつた、それを玉落と称へる、誰には幾許渡ると云ふことは其人の身分で分つて居りますから旗本が金を取りに来ると、其身分に依つて渡してやる、さうして米が渡ると前貸のある分はそれを差引いて決済をする、中にはそれを預けて置いて通帳を以て時々其金を受取つて一家の経費に充てるといふ方法であつた、それでありますから立派な銀行といふではなかつたが、其形は稍々銀行たり得たのであります、是は江戸の話でありまして、大阪の方にも、蔵宿と云ふものがあつた、但し大阪には旗本がなかつたのでありますから江戸と同じ制度ではなかつたと思ひますが、やはり為替組とか、お掛屋とか云ふ名称のものがあつて、幕府若くは諸藩に対する用達をして居つた、さうして大阪では為替組の者が銀手形と云ふものを出して、通用をさせて居つたのであります、是は一種の兌換券のやうなものである、併し是は果して当時の制度に依つて許されたのではなくて、為替組と云ふ資格を持つと、手形が出し得ると云ふ習慣のやうに覚えて居ります、初めは二十幾軒ありましたが、段々潰れて十数軒になりました、其発行した手形は普通の商売に取引されて居りました、是等も一種の銀行業の類似であつた、又その外質屋と云ふものがある、商人相対の間には金貸と云ふものがある、是は悪く申すと高利貸的の経営でありました、中には土地引当ての金貸もあつた、其他寺院にも金貸があつた、高野山の基金に依つて金を貸すとか、或は尾州藩の基金に
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依つて貸すとか、又は水戸藩に依つて金を貸す、――各其藩主から出す金ではない、尾州又は水戸の用達と云ふ人が其藩から出た金と号して、特に貸付所と云ふものを開いて取扱ふのであつた、幕府時代の銀行類似のものを挙げますと先づその位のものであつた、故に金融と云ふものは頗る其範囲の狭いもの、流通の不便なものであつた
 そこで明治の初めに斯の如く狭隘の、斯の如く不便利な金融では富の根本を成すことは出来ないと云ふので、為替会社と云ふものを政府から命令的に、前に申す札差とか、若くは掛屋とか、為替組と云ふ種類の人々に依つてやらせた、謂ゆる官命の一の銀行が出来た、之を号して為替会社と言つたのであります、此為替会社なるものは明治二年に出来ましたが微々として振はず、明治五年頃まであつたと覚えて居ります、私は其頃大蔵省に勤仕して居りまして大蔵省の役人として為替会社の事務の甚だ不振であり、又不取締であつたのを監督して、此の様な事ではいかぬと思うて多少干渉を致して彼れこれと指図したのを今尚ほ記憶して居ります、併し其頃の為替会社若くは商社・開墾会社と云ふやうなものは皆官の命令で成立つたものであります、斯う云ふ諸会社が明治の初年には大分数多く出来ましたけれども、皆な自動的でなくて官命で成立つたものでありますから一つも成立しない、一番終局まで微々として維持して居つたのが為替会社でありましたが、是も二年から五年まで僅か三年位で解散した、三年経つたものは当時は余程良い成績であつた、甚だしきは六ケ月位で潰れたと云ふのが多かつたのであります、故に為替会社、今から申せば銀行とも言ふべき種類のものが、東京でも大阪でも其形は現はしましたが、一向に発達せず、而して掛屋と云ふものも段々衰微して、御維新後の金融機関と云ふのは幾んど絶滅せむとして其流通も否塞すると云ふまでに見えたのであります
 其頃特に経済界に頭角を現はしましたのは、東京に於ては三井組・小野組、之に続いて島田組でありました、大阪では鴻池とか、広岡とか、長田とか云ふやうなものが掛屋仲間の中の有力の人であつたと思ひます、明治二年から三年に掛けて私が為替会社の取扱をして居る間に、大蔵省でどうも此姿ではいけないから、欧米に傚うて銀行制度と云ふものを造るが宜からうと云ふことが時々問題に上つたのでありますが、未だ具体の話にはならなかつた、明治三年十月頃であつたと思ひます、故伊藤公爵が大蔵少輔でありました、其頃の制度は大蔵卿が今の大臣、少輔が次官の地位に当るのであります、又其一級下に大丞、権大丞、少丞、権少丞、其他各局に例へば租税局とか、印刷局とか、色々な名が今とは違つて居りますから、ちよつと云うてもお解りはないが、局とは言はずに司とか寮とか云つたのであります、是は大宝令に依つた官制であります、第二の次官の位置に伊藤公爵が亜米利加に於て財政経済のことを取調べて見て来たいと云ふので旅行を思ひ立たれ、其事を政府に願うて官命を帯びて行かれた、其翌年春の頃亜米利加から銀行制度を取調べて申越されたのであります、伊藤公爵は前に申す如く維新早々命令を以て色々会社も造り銀行も造つてやらせたいと云ふことを心配されましたがそれが思ふやうにならなかつた、それ
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で亜米利加に行かれて単に財政経済の事務を取調べるばかりではなしに、直接の問題に考を置かれて遂に銀行制度を深く考究されたのであります、それで書面を以て是非亜米利加の制度に依つて、日本に於ても銀行を組織するが宜からうと云ふことを大蔵省に向つて申越されて之を政府に建議して大蔵省の働きに依つて銀行の成立つやうに尽力されたいと云うて来たのであります、其時私は大蔵省に大丞と云ふ職に居りました、伊藤公の此説を申越すには二つの意味がありました、銀行制度を布いて其経営によりて金融の便利を図りたいといふ普通の意味が最も主なるものであつたけれども、更に一の慾望を具して居つたそれは其時分の通用紙幣は太政官札と称へて、発行高は精しく覚えて居りませぬけれども、民部省札を加へて六千万円位であつたと思ふ、維新後国の政事を為す財源が無いから、拠なく国家の信用を以て不換紙幣を発行して一時の政費を支弁したのであります、これは将来の国家の財政を考へると不換紙幣ではいけない、固より伊藤公も、大隈伯も其他政治を執る人々は経済の原則位は心得て居られ、西洋の貨幣の原理は斯るものであると云ふことは知つて居つたのであります、不換紙幣で長く国家の財政を持続することは出来ないと云ふことを深く信ぜられて居つたから、是非此不換紙幣をば兌換にしたいと云ふ念慮が強かつた、そこで此紙幣は十三年限でありましたから、今日より早く其計を為したいと考へたので、其不換紙幣を兌換せしむるには銀行に依つて経営せしむると云ふことが便利である、恰も伊藤公爵の亜米利加に行かれた時分は、千八百六十年の亜米利加の南北戦争に依つて大に国費を要しました為に、一時不換紙幣を発して戦費を弁じた、其紙幣の銷却法は国立銀行を造つて其紙幣に依つて兌換の方法を立てたと云ふ、亜米利加に適例があつたのであります、此好適例を一つ採用して一方には金融の便利をさせようと云ふ意思であつた、趣意としては甚だ面白かつたのでありますが、さて遣りかけて見ると思ふやうに行かなくて、真先に苦んだのは誰であるかと申すと、斯く申す私が一番苦みましたのであります、国立銀行を創立すると云ふ方法は伊藤公が調べて寄越された亜米利加の国立銀行の制度に依らうと云ふことで、種々研鑽調査したものが銀行条例と云ふものになつて成立したのであります、併し之を発布するまでの間に銀行業に相当の知識を持つた人の間に色々の物議があつた、亜米利加の国立銀行制度即ち統一せぬ銀行の制度を布くのはいかぬ、それよりも寧ろ英吉利の法を採る方が首尾聯貫することになると云ふ反対論者と、それから今さう言つたところで俄に人為で満足に出来る訳のものではない、先づ一部のものが成立つて、追々に出来ると云ふのが自然の順序である、初めから首尾揃つたものを造ることは出来ないから先づ亜米利加制を採用するが宜からうと云ふ説とあつて、互に相争つたのでありますが、私共は後説の方でありました、遂に明治四年の十一月に其制度が発布され、五年から銀行を造ると云ふので、前に申した三井・小野・島田などが発起者となつて願出したのであります、之が即ち銀行と云ふものゝ看板を揚げた初めでございます、一番初めに三井が願出したので、銀行の仕組は亜米利加制に依つたのでありますから、第一と云ふことにしようと
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云ふので、第一国立銀行と云ふのが許可されたのであります、併し手続が済まぬから直に開業することは出来ない、明治五年の冬許されても実行するに至らなかつた、引続いて六年の初めに第二が願出で、続いて第三・第四・第五までありました、第二は横浜、第三は大阪、第四は新潟、第五は薩摩であつた、併し第三の大阪は許可は得たが成立せずに、一・二・四・五の四行だけが開業したのであります、許可は五年でありましたが、事実の開業は六年であつた、而も第一銀行の開業は六年八月頃であつたと思ひます、私は五年には官途に居りましたけれども、六年の五月官を辞して、それから銀行の事務を――制度上から取調べたといふ畳水練の稽古者が実地にやらなければならぬと云ふことになりましたので、三井や小野の相談を受けて頗る躊躇致しましたが、折角銀行を起さなければならぬと云ふことを主張した私が、此場合になつて遣れないと言ふことは面目ないと思つて、自ら勇気を鼓して、人のする仕事だから出来ぬことはなからうと云ふ考で遂に引受けたのであります、それは三井・小野の両組を主として遣るのでありますから、頭取を二人造り、取締役が大勢出来たと云ふやうな不規則千万のものでありました、其時には私は頭取でなく、二人の頭取の仲裁役のやうな職分で銀行者になつた、それが六年七月頃であつたと思ひます、当時第一国立銀行は二百五十万円の資本であつた、今日は活動写真の会社でも千万円と云ふやうな世の中であるから、二百五十万円は微々たるものでありますが、其当時は二十万円の会社を起すもなかなか骨折であつたのであります、そこで第一銀行其他の各銀行も今の方法に依つて経営を始めて見たのでありますが、取引して呉れる得意が株主たる人だけで、銀行と云ふものは何の為に立つたのか、銀行を立てた人が銀行を知つて居るだけで、銀行以外の人は知らぬと云ふ有様であつたから実に困つたのであります、其時分大蔵省では銀行を創立すると同時に、帳簿を新式の組立にしなければならぬと云ふので、私が官にある時に英吉利人のシヤンドと云ふ人が横浜のチヤーターバンクに勤めて居つた、其シヤンド氏を傭つて簿記法を教授して貰つた、独り実地に教へるばかりでなしに一の簿記の書物を作つた、今は諸君もこれを読むお方はありますまい、簿記精法と云ふのであります、其時に私も多数の青年諸氏と共に単記法・複記法と云ふものを習ふたのであります、何でも二重に附けると云ふやうなそんな手数の掛つたことをする必要は無いと云つて、十日ばかりも稽古をすると利口さうなことを言つたことを今も覚えて居ります、其シヤンド氏が簿記を教へるばかりでなく、四・五年の間は大蔵省の銀行を監督する人となりて引続いて銀行に検査に来て呉れました、私は数回シヤンド氏に銀行の営業検査を受けたので、所謂英国人直伝の方でありますから諸君から見ると威張られるのでありますが、其受けた検査と云ふものは頗る妙であつた、今はあんな馬鹿らしいことはありませぬが、併しシヤンドと云ふ人は余程綿密で悪く申せば干渉であつた、当初ゆゑにあのやうなことをしたのか、私も細かに覚えませぬが何でも二タ月に一度ぐらゐは来られた、国立銀行の制度でありますから政治の干渉が非常に強かつた、殊に金貨の引換と云ふことがありましたから、尚更に
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重視したのであつたらうと思ひます、銀行の得意が出来て来るに従つて預金高も多くなり、融通もするやうになつて参りましたから是が検査に来て、主なる対手に対して其貸借の理由を質す、今日あんな事をして居たならば銀行検査に一年も掛らなければならぬが、其時はシヤンド氏も暇でありましたからやつたのでありませう、預つた方はどう云ふ訳であつたか、又どう云ふ訳で金を貸したかと丁寧に質されたのであります、それに対して諄々と説明をする、或る場合には其時の返答を書いて置く、お前は此前には斯う云つたと云うて尋ねる、併し当方はそれまでは覚えて居りませぬから言ふことが違ふと、帳面を見て前の答と違ふというて厳しい質問をされることもあつた、要するに其趣意は成たけ金融を為すは其性質を審かにして置かなくちやならぬ、どう云ふ筋に出すと云ふことだけは必ず明らかにして置かなければならぬ、唯だ利息が取れる元金が返るのだ、それ以上は何でも構はぬと云ふ主義は銀行者の取るべきものでない、此金はどのやうな所に向くのであると云ふ事だけは、如何に堅固な得意先でも知つて置く必要があると云ふことは、根本の道理であると言ふて居つたのであります、今日に於ては成り得べきだけ取引の数の多くなる事を求むるのでありますが、其時分は洵に数が少なかつたからである、或る一口には大きな高の取引もあつたけれども、平均して数の少ないのは不健全な病的な経営であるから是ではいけませぬと云つて諫めて呉れました、併し病的であると言はれても、まだ病的と云ふまでに至らぬので実は子供である、是から先き段々と知らせて行くのである、さうして銀行と云ふものは安心なものであると云ふことが多くの人に理解され、銀行の事務と云ふものは便利なものである、銀行に依らねば商売は出来ぬと云ふことが分つて来なければいかぬ、若し分つても尚ほ斯の如くであつたならば、それこそ病的であるけれども、今まで直ぐ知らぬ者に対して病的であると云ふ譴責は無理であると云つて弁解したこともあつたのであります、故に英吉利の銀行の大趣意と云ふものは、凡そ金融をなしたならば其金融の働きはどういふものであると云ふことは銀行者としては必ず知つて置くべきである、又預金する人がどう云ふ事情で預金するのであると云ふことは、如何に多くても知悉して置くべきものであると云ふことを原則として居つたやうに見えましたが、是れは今日諸君も十分御承知になつて居られる事と思ひます、堅実な銀行であつたならば、其得意の考へは千軒でも万軒でも大体は分るに違ひないのであります、是は銀行者としての一つの注意すべき事であらうと思ふのであります、以上は私が明治七年頃に検査を受けまして度々叱られた事でありまして、其直伝を秘密でありますけれども諸君に御披露して置きます
 少しく余談に亘りましたが、銀行はどうやら其形が出来且つ同業者も五つ出来たが其後は成立しない、営業が困難であつたからに利益は上らぬ、故に摸倣するものはなかつたのであります、僅かに三井と小野とが戮力経営して一の中央の機関にすると云ふ位に過ぎなかつたのであります
 処が其銀行業に困難を来したと云ふのは金貨引換の方法であります
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金札引換公債証書と云ふものを政府に預けて銀行紙幣を受取り、これを融通して二重利益が得られると云ふことで実行したのであります、然るに金貨の引換は明治七年だけは激しくなかつたが八年には其引換が激しくなつた、そこで此引換をするには、最初は金貨百円を作つて紙幣百円と引換へるのに差引損はなかつたのでありますけれども、段段引換が激しくなるに従つて、二円とか三円の損をしなければ引換が出来なくなつた、金の方の百円の価が紙幣の方の百円よりは高くなつた、詰り金の価が高くなつたのであります、故に紙幣を発行すればする程損になると云ふことになりましたから、拠所なく夫れ迄に発行した紙幣を段々回収して行くと云ふことになりましたので、二重の利益が得られると云ふ積りで立てた計画が、紙幣を発行するだけ損になると云ふことになつた、是は明治八年に金が高くなつて、銀が下つた為めに金貨の引換が激しくなつたからであります、是では銀行が立行かぬと云ふことになつて第一銀行は百五十万円の紙幣発行の出来ることになつて居りましたが、それも残らず使ひ出さない間にこれを回収することになつた、さなきだに取引は少ないのに、主たる紙幣と云ふものは使ふことの出来ないことになつた、是は単に第一銀行ばかりではありませぬ、同時に出来た他の四箇の銀行も同じ有様に陥つて苦んだのであります、殊に小さい銀行は小さいだけに力が無いから、其苦しむ割合が強かつた、そこで打挙つて是ではいかぬと云うて、政府の制度の悪かつたことを訴るやうになりました、併し私としては迷惑千万である、迷惑と云ふよりは面目が無いのであります、其制度は己れが作つて、それが法律となつて出たのでありますから何とも仕方が無い有様となつた、一方ではお前が善いと云ふからやつたのである、それが斯う成つたと云うて苦情を言はれたのであります、前に申した内部の困難と云ふのはそこであつた、併し伊藤公とて神ならぬ身の金銀の引換が左様に変化すると云ふことは分らぬ、但し――神でない人でも神に近い程悧巧であつたら分つたのであります、けれども東洋に於て而も銀貨国で金貨引換の紙幣を出したのが間違ひであつた、あとでは良い智恵が出ましたが苦んだ時分には既に其説を立てた立法者は居なかつたのであります、それから段々と銀行制度を変へたのが明治九年であつた、拠所なく金貨引換制度を変へて銀行の紙幣は政府の紙幣で引換へると云ふことになつた、是れ位無意味な話はない、今日であつたなら世間からどれ程小言を言はれるかも知れぬ、馬鹿な事をすると云ふに違ひない、何となれば紙幣を引換へるのに同じ紙幣で引換へるといふのであります、併し是も仕方がなかつたので、九年にさう云ふ風に銀行に寛典を与へたのであります、是も其時の政略上大なる必要があつたのであります、何となれば明治九年に華士族の人々の禄制と云ふものを変更して、一時に公債証書を渡して其家禄を廃滅してしまつた、併しそれには相当の年限を定めて、或は七年とか十年とか云ふ割合を立てゝ政府の借用証書を渡して、之に依つて将来の家産を立てろと云ふことになつたのであります、そこで其公債証書を直ぐに失はせてはならぬから、一の方法を設け之を以て銀行を立てさせ、其銀行の元資にさせてそれに依つて士族の生活を維持し、同時に都会及地方
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の金融を便にしようと云ふ一挙両得の策を案出したのであります、此規則を立てるには同時に銀行の制度を改正し、前に申す政府紙幣引換と云ふことにしたのであります、其時の大蔵卿は大隈伯爵でありました、そこで銀行と云ふものが一時に発展して、明治九年から十一年まで継続して各地に出来て来た、第一から進んで其番号が百五十六まで出来たと思ひます、資本金の総高は覚えて居ませぬが、三千万から四千万円位であつたらうと思ひます
 明治九年以後は同業者も沢山出来る、銀行の事務が進んで参りました、さうして世間の人も銀行を幾らか利用するやうになりましたけれども、未だ草創の時代で銀行事務としてはサツパリ発達致しませぬ、丁度十二年であつたかと思ひますが、同業者の智識を磨き、共同の利益を増すやうにしたいと云ふので銀行者の会合を開きました、択善会と云ふ名を以て組立てたのが初めであつたらうと思ひます、首唱者は私が其一人であつた、其頃から銀行事業をして成べく一般商人と密接するやうにと云ふことを努めたのであります、其前も努めぬではありませぬが、明治十年頃までは伝馬町とか、堀留とか、伊勢町抔の東京の生粋の商人は、銀行に対しては我関せずと云ふ態度であつた、唯だ政府に関係のある悪く謂はゞ御用商人と云つたやうなものは、銀行に依りましたけれども、純粋の商人は銀行には依らなかつたのであります、甚だしきはアンナ事をして居るけれども長くは持つまいと云ふ観念で、我々を見て居つたのであります、洋服を着て帽子などを被つて歩く人に金を任すと大変な事になると考へて居つた、今日はそんな考を持つ人が無いやうになつたのは諸君の幸福であります、それ故に第一当座と云ふ取引が出来ず、又手形取引と云ふものがサツパリ無かつた、手形の便利をよく知らなかつたと云つて宜しいのであります、その代りさう云ふ困つた時には大変に都合の好い事もある、大阪の為替が百円に一円位の打歩が取れた、今日為替の手数料が左様に取れたならば、莫大な利益配当が出来るかも知れませぬ、それで手形取引を進めると云ふことは銀行者の最も重要な問題でありまして、為めに此集会所が出来てからも種々心配を致しましたが、まだ集会所の出来ぬ前に、東京経済雑誌を故田口卯吉と云ふ人が始めた頃に、此手形取引については精しい人であり、さうして銀行事務についても大蔵省の銀行課に居られた縁故から田口氏と聯絡して、田口氏の経済雑誌に依りて手形及び小切手の方法を書いて世間に之を普及し、謂はゞ手引抄とでも云ふやうなものを拵へて世間に配付し、甚だしきは戸毎に説き、人毎に伝へると云ふ位までにしたのであります、故に諸君は今日手形取引について便利をなすつて御座るであらうが、其時の苦労をした者に対してはせめて一言の御礼位は言はれても宜しからうと思ひます(笑声)
 話がいろいろ混雑しますが、明治十五年に日本銀行が設立されましたが、其前に特殊銀行で出来ましたのは十二年に横浜正金銀行が設立されました、是等は普通銀行に別の色彩を発したものであります、正金銀行の出来ましたのは全く海外貿易の為めで、大隈伯が大蔵卿の時であります、私は当時第一銀行の人でありましたから、正金銀行に対
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しては深い力を入れませぬでした、併し正金銀行も出来た当時はナカナカ困難であつた、種々危ない事もあつて終に今日の如き鞏固な銀行になつたのでありますが、斯の如く鞏固になるまでの経歴は決して最初から安穏に成長したものではありませぬ、或は気管支に、或は腸加答児に、或は肺炎と種々の病気に苦しめられて終に健康体になつたのであります、続いて十五年に日本銀行が出来ました、是は松方侯が最も主張なすつたのであります、最初に申しました通り銀行の制度は亜米利加式では完全なものでない、是非英吉利式にしたいと云うて論じた方もありましたが、其時には其説は成立せずして亜米利加式に依つて成立ちましたけれども、日を重ねて参りまして紙幣制度はどうしても是では善くない、日本にも兌換制度を本統に立てたいと云ふ事になつた、英蘭銀行は戦争の結果成立つたものであるけれども、日本に於ては政府が力を入れて設立したのであります、是は後には帝室に移つたものでありますが、其時には政府が半分株主になつて成立したのであります、而して日本銀行の成立つと共に各国立銀行を改正しなければならぬと云ふことになつた、それは紙幣発行の権利を引続いて享受すると云ふことは出来なくなつたのであります、日本銀行をして兌換券を発行しこれを統一することになつたのであります、即ち日本は一神主義にしよう、偶像を沢山に置くと云ふ宗教にはせぬと云ふことであります、右の理由から十五年に日本銀行が設立されると共に、翌十六年に各国立銀行の紙幣法の改正をすると云ふことになつた、是は百五十六の銀行に取つてはナカナカ重要な問題で、屡々大蔵省と接衝したのであります、大蔵省でも単に銀行の権利を制度上から踏付けて仕舞はうとはなさらぬ、そこで発行紙幣の銷却法に大なる寛典を与へて二十年を経過すると国立銀行の資格は失つて其後は普通銀行として営業し得ると云ふことになつたから、発行紙幣は簡便な方法に依つて年賦にて其引換を了し自然と其銀行の利益になるやうな銷却法を設けたのであります、併し其制度を極める時までは政府の紙幣に未だ兌換法は行はれて居なかつたのであります、併し大蔵卿であつた松方侯の胸中には、数年の間に真成の兌換制度を布くと云ふ考は持つて居つたのであります、松方侯が大蔵卿となられたのは明治十四年の冬であつた其頃は紙幣と銀とが大変な差を生じて、経済界は非常に混乱な時代でありました、そこで是非此紙幣を銷却せねば紙幣の価を復することが出来ない、故に政府は大に財政の緊縮をしなければならぬと諸方から財政整理を訴へたのであります、そこで松方侯は決心して此財政を緊縮することになつた、それには政費を節減するより外はない――如何なる時でもさうです、政費を節減しないで財政を整理すると云ふことは手品使ひでなければ出来ない、そこで十五年から頻りに政費を節して紙幣を減縮した、故に十六年に国立銀行の紙幣銷却法を定める場合には、数年の間に政府の不換紙幣を兌換せしむると云ふ胸算を立て置いて掛つたので、終に其十九年に至つて兌換制度を布かれたのであります、即ち当初の理想の通りにやつたのであります、其時分の金銀の出納は今日から言へば八分の一、或は十分の一位でありますから、それは金高が少ないから遣れたのであると言ふかも知れませぬが、決し
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て数が少ないから出来ると云ふことはない、決心が強かつたから遣れたと私は今日も断言するのであります、此日本銀行設立の事と紙幣兌換の事は各銀行間に中心を作つたもので、一つの特筆すべき事柄と申して宜からうと思ふのであります
 爾来、特殊銀行としては勧業銀行が出来、又興業銀行が出来、農工銀行が出来ると云ふ塩梅に続いて成立ちましたが、併し今申す各国立銀行はそれからして、或は十年、若くは十数年過ぎて、営業満期になつてからは、或は中には二つ合併するとか、若くは業務を変更したものも稀にありましたが、又二・三は破綻したのもありました、けれども大概は私立銀行となつて営業して居る、今日数字の附いて居る銀行は大抵国立銀行の継続であります、尤も中には数字の附かぬものでも大阪浪速銀行などはやはり国立銀行の変身であります、今日銀行として相当の位置を保つて居るのは、大抵国立銀行として成立つたものが多いと云つて宜いと思います、而して其以後は国立銀行の変化したものばかりでなく、商業銀行として都市にも田舎にも続々として成立して参りました、又成立する程の必要があつて、終に今日の如き盛況を見るに至つたのであります
 此間にもう一つお話して見たいのは手形の方法であります、私は今日手形取引の事又は手形交換の事に就ては実務を親しく執りませぬから、現在の有様に就て精しくお話するだけの智識は持ちませぬ、――持たぬではない失つたのでありますから、国立銀行の頃に銀行は斯の如く現金取引ではいけない、巧みに手形を流通したいと云ふことでいろいろと骨折りました、或る場合には今日のやうに手形に面白からぬ種類のものが生ずるから、手形ばかり拡めるのが経済界の能事ではないと云ふ感じも起るかも知れませぬが、併しそれは或る時に於て生ずる弊であつて、二十四・五年以前の銀行者としては経済界に向つて手形の便益を知らせたい、知つて貰ひたいと云ふので種々苦心してこれが拡張を図つた、それと同時に手形の取扱をする交換所を作るやうになつたのであります、此銀行集会所の建築の出来たのは十八年と思ひますが、其頃に銀行者の寄合が度々ありましたから打寄つた銀行者と手形の事について種々協議をしたのであります、それまでは手形交換所の形造りはなかつた、手形交換所の出来たのは二十年であつたと思ひます、是より前に大阪の方に出来ました、大阪では手形取引所と申して居りました、今のコールマネーのやうな遣方であります、そこで東京にもさう云ふ事にしやうと云ふので大阪に倣つて手形交換所と云ふものを設立したのであります、併しそれが都合よく発達しなかつた為めに、再び堅固な方法でなければならぬと云ふので前の手形交換所をやめて、新なる手形交換所を組立てたのが二十四年であつた、故に手形交換所が設立されて今日まで殆んど二十余年の歳月を経て居るのであります、而して手形交換の事などに至つては其初めは一年に僅かに何千万円を数へたものであるが、それが今日では四十億とか五十億とかいふやうな大きな数字を称へるやうになつたのであります、即ち前に申す如く、斯の如く多くの同業者のお集りになる事の出来るといふのは、丁度手形交換の数字にも表れて居ると申して宜からうと思ふ
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のであります、今日の隆盛に進みましたのはお互に慶賀に堪えませぬけれども、然しかう申すと甚だ悲観の様でありますけれども、今日の有様を既往に比較して考へますると盛んでありますけれども、之を他の盛んなる国に比べますると誠に微々たるものであると言はなければならぬのであります、玆に私は数字を調べて参りませぬから申上げられませぬが、資本の高で申しても、手形交換の数から数へましても、之を倫敦や紐育に比べて見ると、当初の計算は彼の一日と我の一年と同じことでありました、幸に今日はさうでもありませぬが、或は一箇月と一年と同じであるかも知れませぬ、十分の一にも足らぬと云ふことであります、是は数字のみならず実力に於てもさうである、お互に残念であると言はなければなりませぬ、併し是は銀行が悪いのではない、斯の如く銀行が盛んになつたのも、銀行其者は盛んになるものではない、銀行自身は大きくなるものではない、銀行は鏡のやうなものである、向ふに物があれば映つて来る、向ふに物がなければ映つて来ない、そこで銀行だけが自身で働かうと云ふのは間違ひである、是は全国の商売が盛んになつて来なければならぬ、然らば紐育・倫敦に比べて日本の銀行が十分の一しか力がないとしたならば、其商売も同じく十分の一の力ならでは無いと云ふ訳であります、さう考へると折角三十年・四十年の間、お互銀行者が大に努めた為めに今日の如く商業を進歩させたと云ふことになる、而して――尚ほ左様に進めなければならぬ余地を持つて居る日本であるから奮励せねばならぬものが沢山あると云ふことを、諸君は十分に覚悟して戴きたいと思ふのであります、文明の進歩は独り実業界が発達したばかりではありませぬ、各方面が共に進んで行つて今日に成つたのであるから、我々は只だ銀行者として斯の如く進んだからと自慢は出来ませぬ、併し我々も国家の文明を進める一つの大なる道具になつたと云ふことは言ひ得るであらうと思ふのであります
 それに就て私は国の繁盛の有様を此処に形容して見ると、種々なるものがあつて国家を形造る、仮りに一の室内道具として考へて見ますると、面白い感じを惹起すと同時に、お互の位地が労多くして誉れ少なし、と云ふ嫌あるやうに感じられる、左りながら或る点からいふと何時も危険がないと云ふことを言ひ得るやうであります、兎角二つの良き物を併せ得ることは出来ませぬから、諸君もお慰め申すのであります
 私が愛読する書物に古文真宝と云ふものがある、それに唐子西と云ふ人の古硯の銘の文章があります、経済の事には適当しませぬが或る点からは悟道ともいふべき言葉があります、それは硯と墨と筆とは同種類のもので、其働きも同様である、同じ文房に用ゐられ、文人墨客の間に持囃されるものである、其使はれる時も一緒である、けれども寿命は大変に違ふ、硯は世を以て数へる、墨は月を以て数へる、筆は日を以て数へる、此硯は何代目のものであるとか、此墨は何箇月保つたとか、此筆は幾日保つたとかいふやうに数へる、左様に器類が均くして運用も同一でありながら、寿夭だけ違ふのはをかしいものである処が硯は至つて静かなものである、墨は少し働くものである、筆は最
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も多く働くものである、故に静なるものは長生きして働く者は早く死す、非常に働くものは最も早く死すと云ふものである、併しながら如何に筆を綺麗に保存しても到底硯と一緒に長生はせぬ、然らば寿命は天性であるから其保存の如何に帰するものではない、結局は一方は静かなるものを以て体とし一方は動くを以て用とする、それで硯は何時までも長寿するというて硯の長命を讚する意味で古硯の銘と云ふ文章がある、それから思付いて私は斯う云ふ考をなしたのであります、今日の文明時代を装塡するところの道具の種類は如何なるものであるか政治家もあれば、教育家もあり、軍人もあれば実業家もある、と云ふ風で、種々のものが集つて共に社会を為して居る、是が現在の国家を装塡して居るのでありますが、さて前に申した室内の道具に当て嵌めて見ると、我々は座敷の道具であるか又は勝手道具であるか、想ふに政治家と云ふものは床の間の置物とでも云ふべきもので其働きの割合に比して位置が高い、社会にも珍重される、又軍人と云ふものは、西洋館で――日本の家には余りありませぬが、玄関の前に鉄砲を列べたり甲冑を飾るの類である、教育家は或は書籍とか辞典とも見るべきものであらう、斯の如く数へ来ると我々実業家は何であらうかと考へなければならぬ、即ち我々は勝手道具と言はざるを得ぬ様に思はれる、其の勝手道具には箒もあればハタキもある、炭取も米櫃抔もないとも言へない、随分見栄へのせぬものである、併し床の間に置く置物は品に依ると、其家が破産すると直きに他に追ひ出される事があるが、米櫃は安穏である、誰も米櫃まで売ることはせぬ、そこで古硯の銘の、硯は静かであるから却て長寿が保てると云ふ意味になる故に、我々は今日の文明社会を装塡する道具の中では極めて地味にして世に持て囃されぬ米櫃であるけれども、其代りに米櫃たるものは何時でも安穏であるから、成るだけ米櫃の性質を失はぬ様にして其の効用を発揮したいと思ふのであります、私自身も左様に企望しますから諸君も賛同下さるやうに願ます