デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
2節 手形
1款 東京手形交換所
■綱文

第51巻 p.172-176(DK510041k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当交換所ヨリ弔詞ヲ贈ル。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六〇頁昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK510041k-0001)
第51巻 p.172-173 ページ画像

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六〇頁昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺  午前九時四十分。
 一、葬儀開始    午前十時。
 一、葬儀終了    午前十一時三十分。
 一、告別式     午後一時開始三時終了。
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞
○中略
 尚ほその他弔詞を寄せられたる重なるものは左の如くである。(順序不同)
○中略
 東京手形交換所
 - 第51巻 p.173 -ページ画像 
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第三六八―三七四頁昭和三年一〇月 青淵先生と銀行団体 山中譲三(DK510041k-0002)
第51巻 p.173-176 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第三六八―三七四頁昭和三年一〇月
    青淵先生と銀行団体
                      山中譲三
○上略
      二、東京手形交換所と青淵先生
 青淵先生は明治十年択善会時代から切りに手形交換所設立の必要を唱道せられ、銀行業者の会同の場合に於ては勿論、或時は下町方面の大商家を集めて、自から又は田尻博士を呼んで欧米先進国に於ける手形取引の実況を示し、恰も寺子屋で児童を集めていろはを教へるが如く、手を取りて小切手の使ひ方から手形の振出し方、割引の方法より利息の勘定に至るまで、残るかたなく、懇切に指導せられたる事は一再ではなかつたと存じます。然るに江戸幕府以来大小の取引悉く現金取引でやつて来た商家は、容易に其習慣を改むることが出来ませんので、中には半信半疑の内に一・二手形取引を試みた人もありましたが何だか気がかりで安心が出来ないと云ふので、忽ち元の現金取引に復する人もあつた様な状態で御座いました、先生は尚ほも其心配は無用なり、政府も手形取引を奨励する為め新たに手形条例を公布して、此の手形取引を保護するの法律を設けたる程なれば、安心して之を利用すべしと、懇篤に指導せられましたが、其後経済界は漸次進歩し金融も随つて繁忙に趣きたるより、自然小切手の取引もぼつぼつ行はれるに至りましたので、交換所を創設しようと云ふことになりました、そこで紐育手形交換所の規程を参酌して、銀行集会所組合中有志の銀行十六行が申合せ、明治十二年十二月一日より、銀行集会所の一室を使用して交換を始めましたが、当時毎日十六行よりの持出します手形は小切手及送金手形のみで、其枚数も僅かに七・八十枚、金高も四万円位に止まりました、而して此の交換所で採用しました交換方法は紐育交換所の制度を模倣しました為め、日々の交換尻を決済することが出来ませんので、交換所は各銀行より小切手を預り置き、貸方の銀行に対して此の小切手を振出して、決済を付けて居りましたので、此の小切手は又翌日の交換に持出さなければ成らず、組合銀行は頗る不便を感じて居りましたので御座います、其後交換所の建て直し改良をしようと云ふ議が起りました、夫れは倫敦交換所の制度に倣ひ、日本銀行に於ける組合銀行当座勘定の振替を以て交換尻を決済すると云ふことで、之れを日本銀行に交渉しました処、速かに快諾を得ましたので、是迄の交換所は明治二十四年二月二十八日限り廃止して、同年三月一日から新規程に従ひ交換する様になりましたが、其結果は誠に快然たるものになりまして組合銀行も大に満足し、其後交換高は非常に増加しました、爰に改良以後十ケ年に当る明治三十三年の一日平均高を示しますれば、手形枚数は六千四十枚、手形金額は四百六十三万八千円で御座いましたが、大正元年には一日の平均手形枚数一万四千枚、手形金額は一千三百七十万円に上り、大正八年に至り始めて一億円を突破し、爾来益々増加し昭和元年の一日平均交換高は手形の枚数四万七
 - 第51巻 p.174 -ページ画像 
千五百枚、手形金額は一億三千百万円と云ふ未曾有の高に達しました然るに昭和二年の財界大恐慌の影響を受けまして、日々の交換高の上に於て凡そ三千万円許は減少するに至りました、明治十二年東京手形交換所創立当時の一日の平均交換高が僅かに四万五千円であつた時に比して、一億円以上と云ふ手形を日々取扱ふ様になりましたのは実に驚くべき進歩で御座います、即ち今より五十年前、先生が交換所の必要を首唱し、其設立を絶叫せられたる時代を回顧すれば、真に隔世の感に打たれるのであります。
 明治二十五年故川田日本銀行総裁は東京手形交換所一ケ年の交換高が一億一千万円に達したといふて大に喜び、我が日本に於て一億といふ算盤を置くのは、東京交換所が始めてゞあるといはれたが、明治四十二年の東京手形交換所創立二十年の祝賀会の時には、其交換高が三十四億八千余万円に達してゐました、而して昭和元年には三百九十四億円となり、将に四百億円に達せんとして居る、以て其の進歩如何に急激であるかゞ察せらる。東京手形交換所創立以来の組合銀行年末現在の行数及び毎年の手形交換高、並に其の一日の平均額を表示すれば左の如くであります。
      東京交換所交換高

  年次   年末現在組合銀行数      手形金額       平均一日交換手形金額
               行              円           円
 明治二十年        一六      一、二三二、一八六      四五、六三六
  二十一年        一六     一二、二八一、九四九      四〇、六六八
  二十二年        一三     一九、五五九、三〇一      六四、七六六
  二十三年        一三     二〇、二〇六、〇九五      六六、九〇七
  二十四年        一二     六七、五九五、四二三     二二五、三一八
  二十五年        一二    一一三、五七六、五九五     三四五、二五五
  二十六年        一二    一四八、〇一八、八七一     四九三、三九六
  二十七年        一二    一八五、五九七、四九七     六一八、六五八
  二十八年        一四    二八九、一〇二、四二四     九六三、三四一
  二十九年        一九    四一七、四二五、五〇七   一、三九一、四一八
   三十年        一九    五五二、八九〇、二一二   一、八四二、九六九
  三十一年        三五    七九〇、二四七、四〇六   二、五九九、四九八
  三十二年        三五  一、〇九五、八〇五、四一七   三、六二八、四九五
  三十三年        三六  一、四〇五、四四九、六六四   四、六三八、四四八
  三十四年        三七  一、一六八、七〇二、〇七九   三、八六九、八七五
  三十五年        三六  一、三五〇、七九一、〇六六   四、四七二、八一八
  三十六年        三六  一、五六二、六三六、九五三   五、一七四、二九四
  三十七年        三五  一、八五四、三九二、九六六   六、〇九九、九七七
  三十八年        三五  二、五六〇、五二七、八三五   八、五〇六、七三六
  三十九年        三五  三、五〇〇、八五三、六七五  一一、六三〇、七四三
   四十年        三七  三、五四〇、四四三、四五〇  一一、七二三、三二三
  四十一年        三六  二、九六二、九七三、二五一   九、七七八、七九〇
  四十二年        三六  三、四八六、八三一、九七四  一一、五〇七、六九六
  四十三年        三七  三、八四一、三八〇、〇七九  一二、六七七、八二二
  四十四年        三七  三、七〇八、二五九、二二三  一二、二七九、〇〇四
 明治四十五大正元年    三八  四、一二〇、二一九、〇二四  一三、七三四、〇六三
    二年        三八  四、四六六、〇〇四、四六六  一四、四五六、九六八
    三年        三八  四、四九〇、一二六、三六四  一五、一一八、二七一
    四年        三七  五、一八七、四一一、〇五八  一七、二三三、九二四
 - 第51巻 p.175 -ページ画像 
    五年        四二  九、〇八三、一一九、〇六一  三〇、〇七六、五五三
    六年        四三 一二、八五四、八八九、二四三  四二、七〇七、二七三
    七年        四四 二二、三七六、三八七、八四七  七四、八三七、四一八
    八年        四九 三五、〇九七、一三一、三九二 一一七、三八一、七一〇
    九年        五〇 三二、六九一、四五九、一七二 一〇七、八九二、六〇五
    十年        四九 三〇、八六四、〇二四、七三一 一〇二、五三八、二八八
   十一年        五一 三四、〇一三、八三五、六九八 一一二、六二八、五九五
   十二年        五一 三〇、七一五、一二〇、四〇三 一一〇、八八四、九一一
   十三年        五一 三〇、七三九、三〇一、四四二 一〇二、四六四、三三八
   十四年        五一 三七、三二〇、三五五、八三三 一二四、八一七、二四三
 大正十五昭和元年     五一 三九、四六〇、四四七、二四〇 一三一、〇九七、八三一
    二年        四八 一五、一〇七、六一六、九八二 一〇四、一九〇、四六二
 三年三月末        四六              ―           ―

 斯くて手形交換の事業は年々目覚ましき進歩を遂げましたが、凡そ物には一利あれば一害を免れぬもので、三十年前先生が手形取引を奨励せられましたことも已に一夢に帰し、手形の利用を超越して、悪用に転じ、之を濫発する様になり、日々交換を取扱ひます間に於て、数人の手形不渡人を発見する様になりましたのは遺憾の至りであります交換所は銀行に注意して得意先の選別を促しましたが、効力が御座いません、そこで明治三十九年に一つの制裁を設けました、是れは交換所に於て手形の不渡を出したものは、三ケ年間組合銀行と取引することを禁ずと云ふことであつて、俗に之れを交換所の首斬りと申して居ります。
 以上は東京の手形交換所に就てゞ御座いますが、誠に其他の地方に就て一瞥しますると、大阪は最も早くして、明治十二年東京は同二十年で暫く東西に対立して居りましたが、同三十年以後に設立しましたものは、横浜・神戸・京都・名古屋・広島・関門・金沢で、大正年代に及んで益々盛に勃興し、函館・小樽・札幌・青森・秋田・仙台・福島・福岡・長崎・熊本・鹿児島・岡山・静岡・浜松・新潟・松江で、小倉が最後で大正十四年の新設になつて居ります、尚ほ此の外朝鮮の京城、台湾の台北にも設立されましたから、今や日本領土内主要の商業都市には到る処交換所の設立を見ない処はないのであります。
 更に全国に於ける手形交換所の数及び其の交換高の年額を示せば左の通りであります。
      全国手形交換高

図表を画像で表示全国手形交換高

  年次    交換所数   手形金額       年次    交換所数   手形金額                    千円                        千円 明治二十年   二      二五、三〇四  明治三十年   三        七四一、四九一  二十一年   二      四一、一八一   三十一年   四      一、一八六、一〇五  二十二年   二      五三、七四六   三十二年   四      一、七二二、一九〇  二十三年   二      五七、四五四   三十三年   六      二、六一九、七三七  二十四年   二     一〇六、七一八   三十四年   六      二、四四五、四七三  二十五年   二     一六三、一八七   三十五年   七      二、八九〇、五九七  二十六年   二     二一一、六二〇   三十六年   七      三、五九四、二四八  二十七年   二     二五三、一四一   三十七年   七      四、一六七、六六七  二十八年   二     三六八、七五七   三十八年   七      五、五四四、四一七  二十九年   二     五五五、八三五   三十九年   七      七、一三四、三八四  以下p.176 ページ画像  明治四十年   七   七、四九五、六三〇  大正七年   一二     五三、二七三、三七八  四十一年   七   六、三二一、〇〇八    八年   二〇     七七、二〇三、七七一  四十二年   七   七、二二七、五一五    九年   二一     七四、三三〇、七九三  四十三年   七   八、二三五、五一〇    十年   二一     六八、五一三、四〇一  四十四年   七   八、五一三、七〇二   十一年   二一     七二、〇一四、八一四 明治四十五年  九   九、七一二、六六六   十二年   二四     六八、三四一、二八二 大正元                     十三年   二五     七四、二五九、〇四一   二年   一一  一〇、四〇一、一九七   十四年   二六     八三、六六二、二八五   三年   一一  一〇、二六九、二〇七  大正十五年  二六     八八、九三五、五二二   四年   一一  一一、六二五、七二〇  昭和元   五年   一二  二〇、二三四、七五〇    二年(六月マデ)二六  三三、九三二、四一五   六年   一二  三一、七五三、九五二 



 右の表にて明かなるが如く、現在全国に於ける手形交換所の数は東京を首めとして其数二十六ケ所になります、而して此の二十六ケ所の交換所に於て交換します最近半年の交換高は、手形枚数一千六百三十七万枚、手形金額は三百三十九億三千万円と云ふ巨額に達して居ります、全国の手形交換事業が驚くべき大発展をしたのは、畢竟青淵先生が択善会時代より手形交換所の必要を首唱し、熱心に指導せられたる賜ものに外ならぬものであります。