デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
5節 製糖業
1款 大日本製糖株式会社
■綱文

第52巻 p.512-516(DK520062k) ページ画像

明治43年1月17日(1910年)

是日栄一、当会社社長藤山雷太ノ来訪ニ接シ、当
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会社ノ整理進捗状況ヲ聴取ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK520062k-0001)
第52巻 p.513 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十七日 曇 寒
○上略 三時後藤山雷太氏来リ、大日本製糖会社ニ関シ昨年八月以来整理ニ付テノ経過ヲ詳話セラル○下略
  ○中略。
一月二十三日 曇 寒
○上略 四時過浜町常盤屋ニ抵リ、大日本製糖会社ノ招宴ニ出席ス、阪谷・佐々木・日下ノ諸氏来会ス、藤山氏ノ挨拶ニ対シテ一場ノ訓示演説ヲ為ス、酒間種々ノ余興アリ、夜十時宴散シテ王子ニ帰宿ス○下略


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK520062k-0002)
第52巻 p.513 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
六月二十四日 曇 暑
○上略 午後五時木挽町ナル田中屋ニ抵ル、大日本精糖会社藤山氏《(製)》[大日本製糖会社藤山氏]ノ案内ニヨル、桂・若槻・豊川諸氏来会ス、種々余興アリ、夜九時過宴散シテ帰宿ス
○下略


日糖最近廿五年史 大日本製糖株式会社編 第六〇―六八頁昭和九年四月刊(DK520062k-0003)
第52巻 p.513-516 ページ画像

日糖最近廿五年史 大日本製糖株式会社編  第六〇―六八頁昭和九年四月刊
 ○第三、遂行篇
    一九、台湾新工場増設
 斯くの如くにして、債務償還の方法に至りては、先づ円満なる解決を告げたりと雖、そは唯消極的の方面のみ、更に積極的に業務を刷新し社運を振興せしむるに非ずんば、其の消極的なる債務の償還すら容易に非ず。而して其の積極的施設として現役員が第一に着手したるものは台湾第二工場の新設是なり。蓋し台湾に於ける当社の甘蔗採取区域は、曩に嘉義庁水崛頭方面を東洋製糖会社に割譲せしめられ、又北港方面の一部は当時の北港製糖会社の有に帰し、爾来各会社は採取区域の争奪に忙しき有様なるを以て、当社破綻の状態、依然として其の面目を改めざるに於ては、漸次区域の侵略を受け、其の極、前途容易ならざる結果を齎らす可きを以て、当時尚ほ債権者等の関係未了の間に在りと雖、断然第二工場新設の計画を定め、明治四十二年九月二十五日事業変更、原料採取区域拡張願書を台湾総督府に提出し、明治四十三年六月九日総督府より許可の指令を受け、翌四十四年七月二十日上棟式を挙行し、工費壱百五拾余万円を投じて壱千噸能力を有する新工場は大正元年期製糖期より作業を開始するに至れり。新工場の増設は従来の一工場が全能力を発揮するも参十万俵を製糖するに過ぎざるもの、更に弐拾五万俵は確実に製造し得るに至り、啻に精糖原料の供給を裕かならしむ而已ならず、原料区域を確保し、事業の基礎一層鞏固を加へたるものなり。
 右工場建設費の一部は其の資金を払込に依るため、明治四十三年十月十五日より同月二十五日迄を期日と定め、新株一株に付金七円五拾銭合計金九拾万円の払込の通知を為したるに、毫も渋滞する所なく、
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期日内に殆んど全額の払込を完了したるは、工場増築の必要を認めたると同時に、当社の信用も既に回復しつゝありしを窺ふ可し。
    二〇、商務部刷新
 当社は内地の主なる精糖会社を合併買収し、残余の神戸・横浜の両社とは製造販売を協定し、市場の調節を計り、事実、内地糖界の覇権を掌握せるに拘らず、破綻当時其の前途を悲観する最も有力なる説は本邦に於ける内地精糖業は到底営利事業として成立の見込なしと為すものにして、三大銀行家も又幾分此の説を傾聴したる観なしとせず。此の論拠は固より税制其の他の関係等種々ありと雖も、外糖の圧迫も亦其の最も主なる原因たりや疑ふ可からず。当時香港の二大精糖会社は太古糖局七百五十噸、怡和製糖公司四百五拾噸の能力を以て、其の製品は支那市場に跳梁跋扈せる而已ならず、我が内地市場をも侵略して殆んど市価を左右せるの観あり。内地の協定も独占も此の勁敵を如何ともする能はざりき。現役員が当初着眼したるは此の状勢なり、故に明治四十二年七月商務本部を大阪より東京本社に移して商務部と改称し、伊沢常務取締役、部長として之れを統轄し、先づ社員の幹部を招集して製造販売に関する諸問題を討議研究したる結果、裾物を内地に販売するに於ては供給過剰となり、上物の市価を下落せしめ、又裾物を再溶解せば、工費を損する以外製造能力を減退せしむ可しとの結論に達したるを以て、将来各工場とも経済的製造を旨とし、自然に来る裾物は支那市場に売込み、販売上市場本位より寧ろ製造本位として製造せられたる製品は、色相如何を顧みず内外何れの処か販路を発見するに努め、以て外糖を内地より駆逐する而已ならず、支那市場に於て輸贏を決せんとする積極的方針を確立せり。而して内地に於ては明治四十三年十一月新に名古屋派出所(後出張所と改む)を施設し、大阪と気脈を通じて、当時全国の精糖消費高一億五千万斤の中少くとも一億二・三千万斤を供給するの計画を樹て、又支那市場に対しては上海駐在の社員を召還し、長江一帯各埠の商況を聴取し、新方針を授けて帰任せしめ、旧来の三井・鈴木・復和の外湯浅商店を加へて特約販売店とし、同方面の開拓を企図する事となれり。故に社員は従来に比すれば一層眼界を広くして仔細に内外の市場を観察する事となり、意気自ら緊張し、商務部の面目玆に一新せらるゝに至れり。
    二一、初配当五朱
 明治四十二年十月二十三日債権者会結了後、既に政府滞納税金関係鈴木商店関係等も解決を告げ、年賦借入金第一回の償却も遅滞なく支払を了し、四十四年四月三十日迄に整理償還したる元金高は三百八拾六万六百八拾七円参拾銭を算し、其の外利息金百拾四万壱千弐百七拾円七拾四銭にして、合計金五百万壱千九百五拾八円七銭の巨額に達せり。而して此の間四期に於ては原糖の暴騰、消費税の改正、甜菜糖の豊凶、台湾糖の供給過剰等市場に衝動を与へ波瀾を生じたる材料続出したるに拘らず、毎期営業上の利益漸く増加し、四十四年上半期には利益金壱百参拾万八千四百六拾五円弐拾六銭を算し、該期中に支払ひたる社債及年賦借入金利息金五拾九万九千百七拾九円五拾八銭を差引くも、尚ほ純利益金七拾四万九千弐百八拾五円六拾八銭を得るに至り
 - 第52巻 p.515 -ページ画像 
ぬ。元来債務整理の必要は株主に十年無配当を余儀なくし、株主も亦破綻当時の惨憺たる状況に顧み能く之れを甘受せられたりと雖も、斯く各方面とも好成績なるを以て、同期株主に対し五朱の利益配当を為せり。即ち株主は予期したるより八年早く、無配当を忍ぶ事僅に四期相待つこと弐年にして再び配当を得るに至りしなり。其の利益金処分左の如し。
      △明治四十四年上半期利益金処分
                        円
  当期純益金          七四九、二八五・六八
  前期繰越益金         一六八、八九五・七八
  合計             九一八、一八一・四六
    内
  法定積立金           五〇、〇〇〇・〇〇
  別途積立金          三〇〇、〇〇〇・〇〇
  役員及社員賞与金        七五、〇〇〇・〇〇
  株主配当金(年五朱の割)   二三二、五〇〇・〇〇
      差引
    後期へ繰越金       二六〇、六八一・四六
同総会に於て株主長谷川芳之助氏より、破綻時代尽力したる諸氏に対し、相当の謝意を表したしと提議せられ、討議の末、結局発議の主旨は之れを賛し、次期に於て重役より提案ありたき旨満場一致可決せり而して当日大海原監査役は諸計算書を確認したる後、各工場巡視の状況を述べて曰く『曩に破綻当時監査に赴きました時分には、社員始めどうなることかと恰も敗軍の兵を見る様な有様で、戦々兢々として居つた状況でありまするが、本年参りました所、之れに反し戦に勝つた兵隊の如く実に活躍して居りまして、監査に付きましても一点の疑を容るゝ余地がないと云ふ所まで、具さに答へが出来る様整頓して居りました。是れは甚だ愉快に感じましたから一言報告に添へて申述べて置きます。』と、以て当時の社内の意気を卜すべし。
    二二、関税改正影響
 明治四十四年七月の関税改正は、我が糖業界に最も重大なる影響を与へたり。蓋し政府は台湾に糖業を樹立し、併せて税源を涵養するの目的を以て肥料補助其の他の名目にて多大の保護金を与へ、只管産額の増加を計りつゝありしと雖も、外糖の圧迫は保護政策の効果を充分に発揮せしむること能はず、且つ又将来無限に保護金を支出するは到底不可能なるを以て、積年の大問題たりし条約改正は列国との屡次の協商を重ね、遂に関税の改正を断行し、二種糖百斤弐円弐拾五銭の協定税率を参円拾銭に引上げたり。殊に従来弐円弐拾五銭の関税を負担せる分蜜糖を原料として精製し、内地消費に振向くれば壱円九拾五銭輸出糖に対しては其の全額の戻税ありしと雖、改正後内地消費糖戻税は全然撤廃せられたるを以て、内地消費糖の関税は参拾銭より一躍参円拾銭に引上げられたるものなり。此の一挙は外糖を忽ち国内より駆逐すると共に、台湾糖の勢力は俄に国内を風靡するに至れり、是れより先き明治四十三年台湾粗糖会社は共同の利益を増進し、糖業の発達を企図するの目的を以て、台湾糖業聯合会なるものを組織し、当社も
 - 第52巻 p.516 -ページ画像 
四十四年十二月之れに加盟せしが、関税改正の結果内地精糖業者は其の原料を台湾に仰ぐを利便とし、台湾糖は内地に売込むの外なく、原料糖の供給、直接消費糖の按配、過剰糖の処分等一に聯合会の活動に俟つの外なく、年末に際し内地精糖業者との折衝は年中行事の一となりぬ。而して当社としては将来台湾糖を使用して内地向の精糖を製造し、依然外糖を輸入して更に精製し、海外に雄飛するの方針を樹てたり。斯の如き形勢の変化に伴ひ、精糖共同販売所の存立は却つて相互営業上の障碍となり、特に明治四十四年神戸精糖は台湾製糖に買収せられ、横浜精糖は明治製糖の有に帰し、当社も亦役員更迭して其の成立当時とは全然当事者を異にするに至りしを以て、再三商議を重ねて四十四年共同販売所を廃し、四十五年新に共同販売事務所と改称したけれども、所謂形骸を留むるに過ぎず、大正二年自然に廃止せられたり。内地精糖業者の組織せる共同販売所亡び、台湾粗糖業者の聯合会興る、一起一伏、是れ亦精粗両糖形勢の推移を物語るものにして、要するに関税改正は糖界の一新時期を劃したりと云ふ可し。