デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
7節 造船・船渠業
3款 株式会社浅野造船所
■綱文

第52巻 p.589-590(DK520084k) ページ画像

大正6年4月7日(1917年)

是日、鶴見海岸埋立地ニ建設セラレタル当造船所ノ開業式挙行セラル。栄一、代理人ヲ派シ祝辞ヲ代読セシム。


■資料

中外商業新報 第一一一三六号大正六年四月八日 ○浅野造船所の開業式 堂々たる設備は日本第二位(DK520084k-0001)
第52巻 p.589-590 ページ画像

中外商業新報  第一一一三六号大正六年四月八日
    ○浅野造船所の開業式
      ◇堂々たる設備は日本第二位◇
神奈川県鶴見海岸埋立地に建設された株式会社浅野造船所の開業式は七日午後一時から挙行された、抑も同造船所は浅野総一郎氏が半生の努力を傾けて竣工せしめたものだけに、其規模の雄大なる我邦第二位の大造船所として誇るに足るものである、同氏が
△此計画を 思ひ立つたのは大正元年の事で、当時横浜海岸埋立不許可の為め船渠事業と造船所とを分離するの必要を生じ、現在の位置を選定したものであるが、欧洲大戦の勃発から船腹の不足となり、其補充は愈々急を要するので、氏は大正四年愈々之に着手しやうとして、先づ財界の有力者に交渉を試み、具体的に其計画を発表すると共に、自己の社長たる東洋汽船の
△別動隊と して大いに将来の飛躍を期したが、折角相談を持ち掛けた有力者は勿論股肱たる東洋汽船の関係者すら前途を危んで容易に耳を傾けない、玆に至つて浅野氏は前途に確信を有しながら助力者を得ない為に一時大いに困難を感じたが、更に又決心を堅くし孤立無援先三百五十万円を投じて
△株式会社 を組織し、五万五千坪の第一期埋立工事を終ると、十二工場と四船台とを竣工し、二千七百の職工を使役して、已に辰馬汽船鈴木商店及東洋汽船よりの注文にかゝる一万一千噸の汽船四隻を建造中である、尚ほ工事中の船台二個及計画中のもの四台は第二期埋立工事の三十三万坪の落成と共に完成される筈である、鉄材は既に一昨年の暮から
△買入れて 昨年の六・七月頃迄に五十円内外で約六万噸、其後今日までに約十万噸を貯へ、悠に五千噸以上一万二・三千噸級の汽船十八隻を建造し得る、此価格約二千万円、鉄材の利益だけでも大なるものである、それだけに開業式も非常な意気込みで、構内の装飾も遺憾なく、工場内外に造船材料を用ゐた幾多の造り物があれば
△余興場に は芸妓の手踊・仁輪加・太神楽などもある、模擬店には二百余人の紅裙が襷掛けで愛矯を振り蒔く、午後三時半、天幕張り立食堂に入れば、社長浅野総一郎氏が莞爾として挨拶を述べ、技術部長加藤艮氏の工事報告、有吉神奈川知事代理の祝詞に次で、田逓相代理・渋沢男代理・福田造船大監の祝詞あり、天皇陛下の万歳を三唱し、会
 - 第52巻 p.590 -ページ画像 
社の万歳を唱和し、解散したのは午后四時半頃であつた。当日は折悪く強風に加ふる中途から雨が降つたが式は目出度く果てた。
  ○栄一祝詞筆記ヲ欠ク。


浅野総一郎 浅野泰治郎浅野良三著 第五〇六―五〇九頁大正一四年二月改訂七版刊(DK520084k-0002)
第52巻 p.590 ページ画像

浅野総一郎 浅野泰治郎浅野良三著  第五〇六―五〇九頁大正一四年二月改訂七版刊
 ○第八章
    四造船
 総一郎《ちゝ》は、海国の日本でありながら、自国の船舶すら自給することの出来ないのを、遺憾だ遺憾だと玆に十幾年間口にして来た。
 本邦民間の造船業は、先進諸国に比して、望洋の歎頗る多かつた、此処に着眼して、総一郎《ちゝ》が日本の門戸、横浜港附近に一大造船所の建設を、遠謀すること既に久しい、総一郎《ちゝ》の此企てが未だ実現せぬ先きに、海国日本が海国らしう朝野の人々挙つて発奮せねばならぬ事件が湧いた、それは欧洲戦乱の開展から、世界的の船舶不足の恐慌来である。独艇は世界のあらゆる海に跳躍して、聯合国の商船を、無雑作に爆沈する、聯合国の封鎖から独墺の商船は、自国港内奥深く影を潜めただけでも、世界の各港に船の減つた事は夥しい、戦場へ聯合国が物資を輸送するので、需要される船舶は尚それ以上である。日本も聯合の好誼《よしみ》から、極度までの船舶を与国に提供した、船といふ船は、ボロ船であらうが、何であらうが、鉄船木船悉くが繋船の錨を巻いて、新らしい日章旗を潮鳴る日本の内外の海に掲げた。
 覘つて居た機会が来たと、疾風迅雷的に、造船所創設の企劃を樹て折から来朝した米人ローランス氏を田町の私宅に招待し、三万噸の鉄材購入の契約を締結した。
『造船所を未だ持たぬ貴公が、今から鉄材を購入して何うなさる。』
 とローランス氏が質問したら
『鉄材が到着する迄に、美事造船所は建設して御覧に入れる。』
 と放言した総一郎《ちゝ》とローランス氏との対話は、忽ち巷間の話題となつた。
 総一郎《ちゝ》が、即刻建設するといふ造船所の敷地は、当時は渺々たる水面で、淼々《すい》と紺青の潮を湛へてゐた、現在浅野造船所の在る神奈川県橘樹郡町田村潮田地先の海岸二十一万坪の埋立地がそれである。
 大正五年四月、財界の波瀾重畳たる真最中に、資本金三百七十五万円の株式会社浅野造船所を設立した、(浅野造船所の名称は、当初の名称横浜造船所を、大正六年の一月になつて、斯く改称したものである)同五年七月海面の埋立に着手し、昼夜兼行、工程を進むるに当つて、当時六十九才の老齢の総一郎《ちゝ》は、毎朝六時半には、欠かさず自宅より四里の彼方潮田の現場に到り、監督者以下一同の出動を其処に待ち、親しく工程を督励した。
 老齢の社長自らの此格勤に、従事者又能く一致して其範に従つたので、果然、昨日の海面は今日の理想的敷地と化し、工程の進捗驚く許り、埋立着手一年を俟たずして、第一船は進水し、第二年にして、既に新造船十万噸を進水した○下略