デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
10節 化学工業
4款 日本染料製造株式会社
■綱文

第53巻 p.168-174(DK530031k) ページ画像

大正4年10月13日(1915年)

是ヨリ先、栄一、稲畑勝太郎等ト共ニ、当会社ノ設立ニ尽力シ、是日、農商務省ニ上山次官ヲ訪ヒテ諸般ノ協議ヲナス。

大正五年二月二十五日、東京商業会議所ニ於テ、当会社創立総会開カレ、栄一、大倉喜八郎・中野武営等ト共ニ、当会社相談役ニ推サル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK530031k-0001)
第53巻 p.168 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
六月廿七日 晴
○上略 稲畑勝太郎・河崎助太郎二氏来リテ染料会社ノ事ヲ談ス○下略
六月廿八日 晴
○上略 午前十一時事務所ニ抵リ庶務ヲ処理ス、久米良作氏来ル、染料会社ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
七月九日 晴
午前七時起床入浴朝飧ヲ畢リ、久米良作氏ノ来訪ニ接シ、染料会社ノ事ヲ談ス○中略午後一時農商務省ニ抵リ、上山次官ト染料会社設立ノ事ヲ協議ス○下略
   ○中略。
七月十三日 曇
○上略 三時事務所ニ抵リ○中略久米良作氏来リ染料会社設立ノ事ヲ談ス、大橋氏モ同ク来会ス、午後六時番町農商務大臣官舎ニ抵リテ招宴ノ席ニ列ス、食卓上大臣ノ謝詞ニ答ヘテ一演説ヲ為ス、食後染料会社設立ノ件ヲ上山次官ト内話ス、十時散会○下略
   ○中略。
九月十三日 晴
○上略 三時半事務所ニ抵リ、稲畑・川崎・横山氏等ノ来訪ニ接ス、染料会社ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
九月十五日 曇
○上略 午後三時過事務所ニ抵リ、団琢磨氏来訪、染料会社ノ事ヲ談ス
○下略
   ○中略。
十月十三日 曇
○上略 午飧後農商務省ニ抵リ、染料会社成立ノ事ヲ協議ス○下略


東京日日新聞 第一三九八九号 大正四年一〇月一四日 染料会社の成立(DK530031k-0002)
第53巻 p.168-169 ページ画像

東京日日新聞 第一三九八九号 大正四年一〇月一四日
    染料会社の成立
 - 第53巻 p.169 -ページ画像 
染料会社設立計画に関しては発起人となるべき東京・大阪・京都・名古屋の瓦斯会社及大阪の稲畑勝太郎氏等種々協議の結果、愈会社を設立する事に決し、右に関する農商務省側との打合方を渋沢男に一任せしを以て、男は十三日午後一時四十分同省に上山農商務次官を訪ひ、諸般の打合を了せり


中外商業新報 第一〇六〇九号 大正四年一〇月三〇日 染料会社成立命令文句の修正 創立委員五十名(DK530031k-0003)
第53巻 p.169 ページ画像

中外商業新報 第一〇六〇九号 大正四年一〇月三〇日
    染料会社成立命令文句の修正
      創立委員五十名
染料会社創立に就ては命令文案中に「善意の監督」云々の文句あるに対し、兎角彼是の批難あり、就中大阪瓦斯会社の片岡直輝氏の如き甚しく此文句を不快に感じ、為に会社成立に障礙を与へ居たるが、渋沢男の依嘱を受けたる中野武営氏は、政府当局と折衝を重ねたる結果、内務・大蔵・農商務三省とも「善意の監督」云々を「正当の監督」に改むる事に同意を表する事となり、農商務当局者は取敢へず電報を以て大阪なる片岡直輝氏の上京を促す所ありしも、同氏は月末にて上京し得ざる事情あり、偶々滞阪中の大阪瓦斯取締役岸清一氏に万事を托すべしと返答し来れり、岸氏は廿九日夕刻出発、三十日午前着京早々農商務省に出頭する手筈となりたれば、同時刻中野武営氏も出頭の上農商務当局と会社創立に就て打合はすべし、多分東京瓦斯側も会社の設立に参加する事となるべきが、当局は染料会社創立委員として全国瓦斯業者・染料業者並に資本家側より都合五十名を選び、会社設立の協議を為さしむべく手順整ひ居れりと云ふ


読売新聞 第一三八四四号 大正四年一一月四日 染料会社設立協議(DK530031k-0004)
第53巻 p.169 ページ画像

読売新聞 第一三八四四号 大正四年一一月四日
    染料会社設立協議
染料会社設立に関する協議会は昨三日十時半より農商務省に於て開かれたるが、河野農相・上山次官・岡局長・蔵川課長並に発起人として招集されたる大倉喜八郎氏外三十四名出席、河野農相の一場の挨拶ありたる後、大倉喜八郎氏を座長に推し、岡局長及高松工業試験所長より従来の経過並に会社設立の計画に就き詳細なる説明ありたるが、結局左記九名の特別委員を選挙し、定款及び目論見に就て精細なる協議を為すことに決し、正午散会せり
 △大倉喜八郎△大橋新太郎△植村澄三郎△今西林三郎△久米良作△片岡直輝△奥繁三郎△柴田清之助△稲畑勝太郎
而して右特別委員は午後一時より先づ資本額に就き協議し、一千万円八百万円、六百万円の三説ありたるも、結局八百万円に決定し、事業は試験事業・製造事業とし、試験事業の進捗と共に製造事業の拡張することゝし、株式額面は五十円券、第一回払込は十二円五十銭、募集の際証拠金として二円五十銭を徴収することに決し、更に工場設置予定地は原料所在地たる九州・大阪・東京の三候補地を挙げたるが、之に関しては更に協議の上決定することとし、其他事業目論見書等は過般の技術者会議に於て大体決定しあるも、今一層精査の必要あれば更に協議すること、定款は岸博士作製することゝし、四時散会したり
 - 第53巻 p.170 -ページ画像 


日染廿年史 日本染料製造株式会社編 第一五―二三頁 昭和一一年一二月刊(DK530031k-0005)
第53巻 p.170-172 ページ画像

日染廿年史 日本染料製造株式会社編 第一五―二三頁 昭和一一年一二月刊
    三 吾社の設立
 明治末期より、我国の対外貿易は著しく逆調を示し、大正二年に至つて巨額の輸入超過を来したので、大正三年成立の大隈内閣は鋭意輸入の防遏、国産の振興に努めた。而して染料工業は、かねて政府がソーダ工業等と共に大いに振興を要する重要工業として注目する所であつたが、時恰も世界大戦の幕が切つて落されたので、これが対策を講ずる遑もなく、従来供給を主としてドイツに仰いでゐた諸必需品の暴騰につれて、染料も亦突飛高を演ずるに至つた。
 当時稲畑氏は大阪商業会議所副会頭の職に在つたが、夙に染料製造の急務なるを察し、大阪商業会議所をして、政府に対し、速かに染料製造工場を設立すべきことを建議せしめ、一方、自ら大隈首相を始め渋沢栄一氏・大倉喜八郎氏その他実業界・政界の有力者を訪ねて、勧説大いに努める所があつた。大隈首相は大いに稲畑氏の所論に共鳴し染色に関する該博なる知識を傾倒して、談論風発の概があつたものである。かくして首相先づ氏の計劃に賛成し、軍部亦熱心にこれを支持し、渋沢氏・町田氏(現民政党総裁)その他有力者の賛同を得て、玆に本社設立の内部的工作は着々として進められて行つた。
 恰も好し、政府は染料を始め重要化学工業製品の輸入杜絶に対処せんがため、大正三年十一月六日、農商務省に、当代一流の化学者より成る化学工業調査会を設置した。政府はこの調査会に対して、本邦に於て将来新企業を奨励し、又は既成事業中、助長若くは改良を図るべき化学工業の種類・原料・製造法・採算関係・奨励方法等について諮問した。この調査会委員の一員たりし高松豊吉氏は、後に本社顧問となつた人である。
 調査会は十二月三日附を以て答申案を提出し、奨励すべき新化学工業として、ソーダ工業・コールタール分溜精製工業及び電気化学工業を指摘した。更に調査会は、コールタール分溜精製工業に関する特別委員を設けて調査研究の結果、一層詳細なる答申を提出した。その要点は、コールタール誘導物工業を起すことは刻下の急務なるを以て、分溜精製工場を東京・大阪・三池に設立し、政府はこれに対し相当の補助を与ふべしと云ふにあつた。
 是に於て政府は、この答申に基き、同年五月、コールタール製産を行ひつゝある石炭ガス会社・製鉄会社等の技術者を招集して、コールタール分溜精製工業の発達促進に関する意見を徴した。出席者中、大阪瓦斯株式会社代表は片岡直輝・三好久太郎の二氏であつたが、後片岡氏は吾社相談役となり、三好氏は吾社技師長となり、共に吾社の発展に貢献した。これ等出席者の結論は、最善の奨励方法は一定の期間内、政府より補給利子を下附して保護するに在ると云ふに一致した。
 当時、染料饑饉は愈々その度を加へつゝあつたので、政府はその窮状を打開すべく、コールタール分溜及びその誘導物諸工業中、これ等の基礎たるべき染料工業の振興に重点を置き、併せて医薬・香料・火薬等の製造奨励をも加へて大正四年五月開会の第三十六帝国(特別)
 - 第53巻 p.171 -ページ画像 
議会に、染料医薬製造奨励法案を提出した。この法律案は、帝国法律によつて設立せられたる株式会社にして、資本金の半額以上、議決権の過半数が帝国臣民に属するもので、命令の定むる所によりて、帝国内に於て染料又は医薬品の製造を営むものに対し、法律施行の日より十ケ年を限り、政府より補助金を交附せんとするものであつて、補給金額は、会社の配当し得べき利益を、営業年度に於てその払込株金額に対し、年百分の八の割合に達せしむべき金額とした。
 この法律案は、五月二十九日衆議院に上程せられ、十八名の委員に附託せられたが、結局原案中、補助金を受くる会社に他業の兼業を許せる条項を削除して可決された。この兼営不許可と云ふことは、即ち当時絶無であつた染料製造専門会社の新設を示唆したものに外ならない。而して吾社の設立は既にこの時に於て約束づけられたものと謂ふべきである。
 該法案は、越えて六月四日、貴族院に上程せられ、八日同院を通過し、十九日法律第十九号として公布、十月十三日勅令第百八十二号を以て十月十五日より施行せられ、更に十四日付農商務省令第二十四号を以て施行細則が発布せられた。高松豊吉氏は、この貴衆両院委員会に説明員として出席し、反覆説明、委員の諒解を得るに努めた。法律の全文は次の通りである。
    染料医薬品製造奨励法○略ス
 この法律は、当然補助会社の新設を予想したものであつたから、政府は直に会社の設立斡旋に着手し、十月三十日附を以て、全国の関係実業家五十八名を農商務省に招致して、協議会を開催した。出席者はその中の二十九名であつたが、被招待者五十八名中五名を除く外は全部発起人たることを承諾した。発起人会は更に二名を追加して五十五名となり、互選によつて左記十五名の委員を決定した。
 委員長 大倉喜八郎
 委員  植村澄三郎  永田仁助   久米良作
     尼崎伊三郎  大橋新太郎  柴田清之助
     広海二三郎  奥繁三郎   片岡直輝
     岸清一    今西林三郎  中野武営
     稲畑勝太郎  中谷弘吉
 右の設立委員は、十一月二十六・二十七の両日会合して諸般の準備を整へ、十二月七日、設立発起認可を申請し、二十四日認可を得、直に新聞紙に広告して株式の公募を行つた。新会社の資本金八百万円、一株額面五拾円、申込証拠金一株に付弐円五拾銭、第一回払込金額拾弐円五拾銭とした。公募株数は拾万株、残余の六万株は発起人・賛成人に於て引受けた。公募の結果は応募総数八千五百七十四万千七百三十六株、口数にして二万二千六百九十口、即ち引受申込株数は募集株数の八百五十七倍強といふ驚異的記録を示した。以て新会社が如何に一般から歓迎せられたかを窺ひ知ることができる。
 発起人会は、株式を申込株数に比例して割当て、その結果、株主人員は八千六百十三名となつた。かくて二月二十五日、東京商業会議所に於て創立総会を開き、定款の決定、役員の選挙を行ひ、社名を日本
 - 第53巻 p.172 -ページ画像 
染料製造株式会社とし、本店を東京市京橋区鎗屋町一番地に置き、三月一日設立登記を了し、二日、染料医薬品製造奨励法に基く補助の認可を申請し、三十日認可書並に命令書を受理した。かくて吾社は、玆に光輝ある首途の第一歩を踏み出したのであつて、本邦の染料製造工業は愈々これより黎明期を迎へたのである。而して吾社設立に関し、夙に染料国策を確立し、克く民間を指導して吾社の設立を実現せられたる当時の政府当路の人々の苦心と熱意とは、吾社の永く忘るゝ能はざる所で、中にも農商務大臣河野広中氏・次官四条隆英男・工務局長岡実氏等の功績は最も感謝措く能はざる所である。吾社の初代役員は次の通りであつた。
 取締役社長 中谷弘吉
 取締役   大橋新太郎  植村澄三郎  藤山雷太
       渡辺千代三郎 永田仁助   堀貞
 監査役   伊藤幹一   稲畑勝太郎  久保正助
 相談役   渋沢栄一   大倉喜八郎  中野武営
       馬越恭平   片岡直輝


日染廿年史 日本染料製造株式会社編 第二五―三二頁 昭和一一年一二月刊(DK530031k-0006)
第53巻 p.172-174 ページ画像

日染廿年史 日本染料製造株式会社編 第二五―三二頁 昭和一一年一二月刊
    四 草創時代の吾社
 吾社創立事務の進行中、一方に於ては世界大戦は益々局面を拡大し殆ど収拾すべからざる状態となつた。従つて染料の欠乏日を追ふて甚しく、事態暫くも放置すべからざるに至つたので、吾社はこの急迫せる情勢に対処すべく、躁急事を進めなければならぬ立場となつた。
 是に於て吾社は、大正五年三月十五日、技師長として工学博士下村孝太郎氏を、同二十五日支配人として上村鋼一郎氏を迎へ、更に諸般の準備を整へて、四月一日営業事務を開始した。工場の位置は、当初東京・大阪・北九州遠賀川沿岸等が挙げられたが、銓衡の結果、大阪に設置するに決し、六月二日、現在の此花区(当時西区)川岸町春日出町に跨る、約三万坪の土地を購入した。敷地の中央を東西に貫通せる国有鉄道桜島線を境界として、北部・南部の名称を工場に冠することゝした。この地は南、安治川、北、淀川に挟まれた寄洲より成り、その昔四貫島浦と称せられ、元禄年間に開墾して米田としたものである。本社購入の当時に於てすら、尚三百年前の面影を存し、一望蘆荻蕭々、たゞ三・四の工場の点在せるを見るのみであつた。今にして当時を想ふ、洵に恍として隔世の感無きを得ない。
 吾社は、この敷地の西隣なる大阪舎密工業株式会社の一室を借受けて工場事務所とし、七月二十一日から敷地の埋立地上げに着手したが事情一日も緩うすべからざるものあるに鑑み、全部の完了を待つ遑なく、地上げの出来た部分から、逐次所要の建築を始め、建つに従つて作業を開始するの状態であつた。而して可及的迅速に製造を行はんがために、七月十五日、大阪舎密株式会社のアニリン工場を、十七日、大阪瓦斯株式会社の染料工場を買収すると同時に、そこで行ひつゝあつた製造をも、そのまゝ本社に引き継ぎ、製品は出来るに従つて販売した。
 - 第53巻 p.173 -ページ画像 
 このアニリン工場は約八十坪の煉瓦造平屋で、五年二月の創業に係り、七月一日より製品を市場に出してゐた。又、染料工場は、明治三十五年下村孝太郎氏が自宅に於て着手しつゝあつた染料製造実験に端を発し、大戦勃発と同時に、これを大阪瓦斯株式会社の岩崎工場に移したものであつて、先づ硫化黒の製造に着手し、四年一月最初の製品を得て、五月より販売したのであるが、十月に至つて実験室を拡張して平家建百二十八坪の木造工場とし、主としてナフタリンより出発せる中間物、並にフアスト・レツド、オレンヂⅡ、コンゴー・レツド等を製造したのであつた。
 八月、工場事務所の建築成りてこれに移り、翌六年二月、硝酸の製造を開始し、三月、さきに買収した染料工場を本社敷地内に移した。更に四月には染色試験、石炭酸製造等を開始し、八月、さきに買収したアニリン工場の作業を、本社敷地内に新設せる工場に移し、分析、オートクレーヴの作業を開始した。
 かくて新築工場に於て本格的に染料製造を開始したが、此年九月、始めて販売せられたベンゾパープリンとメタニル・エローとは、吾社工場製産の最初の市場化製品であつた。又、十二月に販売せられた日染ブラツク・日染インヂゴ・日染ブリュー等は、吾社固有工場に於ける製産品中の市場化せられた最初の染料であつた。この年九月二十日より東京に開催せられた第一回化学工業博覧会には、日染インヂゴ等の吾社製品を出品して好評を博した。これが博覧会等に吾社製品の出陳せられた最初である。
 越えて大正七年一月、タンク船日染丸二隻を建造して、ベンゾールその他を福岡県八幡市より運搬するに便し、更に本社を東京市より大阪市西区川口町十七番地に移転した。三月には、ベンゾール・タンクの建造成り、五月に至つて職工寄宿舎を開始した。この月開催せられた第五回定時株主総会は、実に大阪に於ける吾社最初の株主総会であつた。十一月、更に本社を春日出町百九十九番地、即ち工場北部敷地の中央に移転した。この年末に至つて、南部の工場建設工事殆ど完了し、且北部の埋立も亦大体完了を見、本格的の染料工場及びその他二三の重要工場も亦竣工を見るに至つた。
 如上、創業後二年間に於ける吾社の状態は、凡そこれを三階段に区分することができる。即ち第一段は、全然応急的工作に忙殺された。第二段に於ては、漸く工業的経営に入つたが、末だ試製試売の域を出でなかつた。この第一・第二の過程は創業後二ケ年間の大部分を占め従つてその間、工場の建設・改築・移転、設備の改廃、作業方法の改善等に寧日なく、真に目まぐるしい活動を続けた。かくて第三段に至つて、漸く将来の大規模生産に進展すべき本格的工業の操作に入つたのであるが、これ等に要する工場は殆ど北部敷地に於て起工せられ、大正七年末には、まだ建築途上にあつた。
 顧れば、吾社草創の時代は、染料製造に関する工業的経験者に乏しく、又指導を求むるに足る外国技師を得ることも困難であつた。従つて製造方法・設備・工場衛生等その他全般に亘つて創意創設を要するが故に、その経営の困難なること実に言語に絶するものがあつた。加
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ふるに世界大戦の影響を受けて、物価の暴騰、原料の不足、器具・薬品の払底等、あらゆる不利不便を忍ばねばならず、而も製品の需要急激に増加して、業界の吾社製品を要求すること極めて急なるものがあつたから、焦躁事に当らざるを得ざる実情に在つた。搗てゝ加へて職工は無経験の上に、賃銀は暴騰し、移動は甚しく、且求人至難と云ふ最不利の条件を忍ばねばならなかつたのである。
 併し一面に於て、染料欠乏の最中であつたから、製品の市価は日を追ふて昂騰した。大正二年を基準とすれば、五年には十倍、六年には三十八倍、七年には急落を演じたとは云ひ乍ら尚二十六倍の指数を示し、粗製品と雖も争つて買はれるの状態であつた。かくて大正六年夏に於て、吾社製品コンゴー・レツド一キログラム当り十四円余、同年秋には、クリソフエニン同七十五円の記録を示した。
 既に染料製造の可能にして且有利なる事業なることが実証せられ、加ふるに世界大戦の前途尚遼遠なるを思はしめる時に当つては、染料製造に興味を持つものゝ続出することは自然の勢である。無経験者も小資本家も、吾も吾もと染料製造に向つて進出した。大正四年より七年に至る四年間は、実に我が染料工業の濫興簇立時代と謂つてよい。七年末に於ける全国の染料工場数九十七、資本金千三百八十万円、就業人員三千七百を算し、産量は大正五年より、約二千噸の等差を以て急増し、七年には五千噸に達し、品種亦七十種を超えるに至つた。これを今日の盛況に比すれば物の数ではないが、本邦染料工業創始の四年間に斯の如き急増を示したことは亦以て異とするに足るであらう。
 去り乍ら、この黄金時代に於ても、吾社はその余沢を蒙ることは極めて軽微であつた。この期間はまだ草創当時の事とて、事業漸く緒に就いたとは云ふものゝ、多くは応急的試験的範囲を出でなかつたので多量多種の製品を産出することが出来なかつたからである。而も今や本格的経営に入らんとする十一月十一日、休戦条約が締結せられ、好況時代は玆に敢えなくも終末を告げることゝなつたのである。尤もその後一年間は、余勢尚好況を持続したが、それは恰も灯火の滅せんとする前にも似て、瞬時にして消滅し去り、それからは一路不況時代へ顛落して行つた。従つて染料饑饉は全く解消し、市価亦これにつれて続落を演じたので、政府は十一月二十六日を以て国産染料の輸出禁止を解除した。
○下略