デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
13節 土木・築港・土地会社
2款 鶴見埋築株式会社
■綱文

第53巻 p.346-351(DK530058k) ページ画像

明治45年2月17日(1912年)

是ヨリ先、浅野総一郎、京浜間鶴見・川崎地先ノ海面埋立ヲ計画シ、栄一ニ議ルトコロアリシガ、是日、帝国ホテルニ於テ当会社創立ニ関スル協議会開カル。次イデ大正二年一月五日及ビ二月五日ニモ、同協議会開カレ、栄一、ソレゾレ出席ス。当会社ハ、浅野総一郎及ビ栄一・安田善次郎・大川平三郎・白石元治郎等ヲ発起人トシテ、大正三年三月設立セラル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK530058k-0001)
第53巻 p.346 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年       (渋沢子爵家所蔵)
十二月二十日 晴 冷
○上略 二時事務所ニ抵リ事務ヲ処理ス、又浅野氏ノ来訪ニ接シテ東京湾築港ノ事ヲ談ス○下略


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK530058k-0002)
第53巻 p.346 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
一月五日 小雨 寒
○上略 浅野総一郎氏来ル、東京湾築港会社設立ノ事ヲ詳話ス○下略
   ○中略。
一月八日 曇 寒
午前○中略 古市公威氏来話ス、東亜興業会社ノ件ニ付報告セラル、且東京湾築港ニ付詳細ノ事ヲ談ス○下略


(八十島親徳) 日録 明治四五年(DK530058k-0003)
第53巻 p.346 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治四五年    (八十島親義氏所蔵)
一月廿二日 晴
○上略 後三時ヨリ芝区田町浅野邸ニ至ル○中略
今日ハ浅野氏ヨリ鶴見附近埋築会社計画ノ話アリ、男爵モ大体ニ於テ賛成ノ意ヲ表セラル、会議後洋食、十時帰ル


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK530058k-0004)
第53巻 p.346 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
二月十七日 曇 寒
○上略 十一時半帝国ホテルニ抵リ、浅野セメント会社ニ関スル鶴見埋築事業ニ付協議会ヲ開ク、浅野・安田・大川・尾高・徳川家ノ家令等来会、種々評議ノ上埋築事業ハ創設ノ事ニ決ス、但資本ヲ三百五拾万円トシ株式組織ト為シテ、発起ハセメント会社ノ人々トシ、各引受高ヲ定メテ負担スル事トス○下略


(八十島親徳) 日録 明治四五年(DK530058k-0005)
第53巻 p.346-347 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治四五年    (八十島親義氏所蔵)
二月十七日 晴
 - 第53巻 p.347 -ページ画像 
午前十一時帝国ホテルニ於テ鶴見埋築株式会社創立相談会アリ、浅の氏ノ外青淵先生・安田・白石・尾高・豊崎・大川両氏出席、浅野氏ヨリ種々説明アリ、三百五十万円ノ会社ヲ創立スル事ニ大体一決ス○下略


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK530058k-0006)
第53巻 p.347 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
二月十九日 晴 寒
○上略 午飧後千駄ケ谷ニテ徳川公爵ヲ訪ヒ、家令渡瀬滝村氏等ト鶴見埋築会社ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
三月十日 晴 寒
○上略 六時浜町常盤屋ニ抵リ偕楽会ニ出席ス、浅野・安田二氏ト鶴見埋築会社ノ事ニ関シ談話ス○下略


中外商業新報 第九四九三号大正元年一〇月一日 鶴見埋立計画 村民との交渉成立(DK530058k-0007)
第53巻 p.347 ページ画像

中外商業新報 第九四九三号大正元年一〇月一日
    鶴見埋立計画
      村民との交渉成立
渋沢男・安田善次郎・浅野総一郎・大川平三郎の諸氏其他浅野セメント会社の大株主連の発起に係る東京湾の鶴見地先百六十万坪埋立の計画は、其後着々として進捗し、資本金総額三百五十万円、株数総計七万株は全部前記諸氏の外徳川公等のセメント株主に於て引受る事に内定、安田家の如きは内七十五万円を引受くる事に決したり、而して前記埋立地総面積百六十万坪の内八十万坪は、既に浅野氏名義を以て某氏所有の同地先海面埋立権を買収したるも、残る八十万坪に対しては関係村民等が其海面埋立てにより生業を失ふのみならず、該埋立地には浅野セメント工場移転す可しとの風説を聞き、極力反対したる為め交渉容易に纏らざりしも、大島神奈川県知事及び関係郡村長等の斡旋と、浅野氏一流の運動遂に奏功して、最近に至り関係村民との間に円満なる解決を見、既に調印を了したれば、愈々其筋より埋立認可の指令を交付せらるゝも余り遠からざる事なる可しと、尚該埋立工事の内容を聞くに、中央に一大堀割を通じ、水陸の連絡を図り、此地をして純然たる工場地たらしむる計画なりと。


渋沢栄一 日記 大正二年(DK530058k-0008)
第53巻 p.347-348 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年        (渋沢子爵家所蔵)
一月四日 晴 軽察
○上略 夕方浅野総一郎氏ヨリ書状到来ス、鶴見埋築会社ノ事ヲ報シ来ル
○下略
   ○栄一、大磯ニ在リ。
一月五日 晴 寒
○上略 午前十時五十分頃新橋着直ニ自働車ニテ帝国ホテルニ抵ル、八十島親徳氏同行ス、鶴見埋築会社株主協議会ニ出席シ、浅野総一郎氏ヨリ会社設立ニ付テノ爾後ノ経過ヲ演説セラレ、向後ノ施設及金融等ニ付協議アリ、後山県技師《(山形カ)》ノ埋立工事ニ関スル設計ノ大要ヲ演説セラル余ハ浅野・山県二氏ニ対シ種々ノ質問ヲ為シテ詳細ノ説明ヲ求ム、午後二時頃協議畢リテ午飧ス、後更ニ浅野氏ヨリ水力電気施設ノ建議ア
 - 第53巻 p.348 -ページ画像 
リシモ、尚安田氏トノ協議アリテ後附議スヘシト答ヘテ散会○下略
   ○中略。
二月五日 曇 寒
○上略 午前十一時帝国ホテルニ抵リ○中略 畢テ午飧ヲ食シ後鶴見埋築会社設立ニ付協議会ヲ開キ、創立委員ヲ撰定ス○下略


竜門雑誌 第二九七号・第七〇頁大正二年二月 鶴見埋築株式会社の創立(DK530058k-0009)
第53巻 p.348 ページ画像

竜門雑誌 第二九七号・第七〇頁大正二年二月
○鶴見埋築株式会社の創立 浅野総一郎氏等は東京附近に工場用地の最早余地なきを慨し、国運の発展に伴ひ向後興起すべき工業用敷地の需要に応ずるの目的を以て、地を神奈川県橘樹郡田島村及び町田村地先に卜し、即ち川崎より鶴見に至る海岸に沿ひ海面約百七十万坪埋立の目論見をなし、青淵先生・安田善次郎氏・渡辺福三郎氏等の賛成を得、其筋へ埋立の出願をなせしに、此程其許可を得たるを以て、資本金三百五十万円を以て一の株式会社を創立する事に内定し、目下着々其準備中なり、而して其計画の大要は埋立地の前面には突堤を設け、其内部に大運河を作り数千噸の汽船を横附けになし得べき一帯の岸壁を築きて、海陸の連絡を計り、又埋立地内には縦横に運河と道路とを設け、水道を引き、其他電気動力の供給を計り、又鉄道院に交渉して川崎駅より鉄道の引込線を設くる等、工場用地としては殆ど理想的に完備したる地所となし、之を希望者に貸附け若くは売却する計画にして、去る五日の発起人会にて決定せし創立委員は左の諸氏なりと
  委員長 浅野総一郎      常務 大川平三郎
  常務  白石元治郎         安田善三郎
      渡辺福三郎         安部幸兵衛
      山本安三郎         八十島親徳
      尾高次郎          安田善之助


渋沢栄一 日記 大正四年(DK530058k-0010)
第53巻 p.348 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
一月二十九日 晴
午前七時半起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、後、大川平三郎・白石元治郎二氏来訪、浅野セメント会社鶴見埋築会社金融ノ談話ヲ為ス○下略

浅野総一郎 浅野泰治郎浅野良三共著 第五二六―五三五頁大正一四年二月改訂七版刊(DK530058k-0011)
第53巻 p.348-351 ページ画像

浅野総一郎 浅野泰治郎浅野良三共著 第五二六―五三五頁大正一四年二月改訂七版刊
 ○第八章
    六 東京湾埋立
 京浜間に、理想的の大運河を開拓して、東京湾築港の完成と相俟つて、巨船の出入を自由にし、途中鶴見・川崎附近一帯の遠浅の海岸を埋立て此処に又理想的工業地をつくり、製品は工場の側面、運河に碇舶する巨船に、労無くして積込まれるようになつてこそ、世界的の東京湾だ……これが総一郎《ちゝ》の現在の胸中に蟠まれる理想の縮図である。
 東京湾築港の運動に努むる傍ら、総一郎《ちゝ》は神奈川県庁に向つて埋立の請願をしてゐた。
 総一郎《ちゝ》は、神奈川から東京方面への海岸を五度自《いつたび》ら実地踏査した、横浜港に隣接し鶴見川口から東京に亘つて一帯の砂浜がある。六郷川
 - 第53巻 p.349 -ページ画像 
の流出した土砂が堆積して、約一浬の沖合まで干潮には露出するほどの浅瀬がある。之れを埋立するに、進歩した施工法を以つてすれば、正に一挙手、一投足の労に過ぎない。且つ其埋立に海中の土砂を利用する時は、同時に大船巨舶を容るべき錨地《べうち》となる。地位は、東京・横浜両都会の中間に介在して居る事でもあり、東海道の鉄道は、背に沿うて蜿々と左右に連つてゐる、水陸両方面の運輸の便に申分はない。従つて物資の供給も自由なら、人の集散も自由で便である。五度に亘る調査の結果は、鶴見・川崎の海岸を除いては、他に埋立つべき理想地はないといふ結論を得たが、尚ほ念のため、当時斯道のオーソリチーたる帝国大学教授工学博士広井勇氏の高見を叩いて見た。広井博士も研究の結果、此埋立の有望なるを認められたので、明治三十七年、神奈川県庁に取敢へず埋立許可の願書を提出して、権利の獲得に努むる事となつたのである。斯くて、附近数ケ所から、小規模ながら、埋立の計劃を徐ろに実現した。然るに、又一方、セメント事業の発展から、大拡張の必要上適当なる工場地の選定を急がなければならぬ立場にあつたので、明治四十一年、愈々大東京湾の理想の一端として此埋立事業の大々的計劃を樹つる決心を抱いた。即ち従来の規模を拡大し鶴見川口から川崎在田島村延沿岸《のべえんがん》に至る延長二千五百間、幅員八百間埋立面積百五十万坪の大計劃としたのである。此埋立計劃の設計は、工学博士山形要助氏の手に成つた。計劃内容は、積立面積百五十万坪を七区に分劃し、各区間に運河を開鑿し、埋立地の周囲には、護岸石垣を築き、埋立地の高さは、最大満潮面上四尺、海岸は更に之れより二尺高くした。尚埋立地の前面には、護岸線から三百二十六間を距てて、延長二千二百六十間の一文字防波堤を築き、以て七十万坪の水面積を抱擁し、之れを干潮三十尺に浚渫して、一万噸級の汽船が碇舶繋留し得らるるやうにし、又各区間の運河は、巾四十間で、之れを干潮九尺乃至十四尺に浚渫して、曳船・艀船の自由に通航し得るようにして、錨地の船舶に、埋立地の工場や倉庫と完全に連絡せしめ、且つ埋立地各区から東海道国道及び鉄道線に連絡するように、道路・鉄道を敷設し、其他橋梁・繋船設備・航路標識等をも完備して、理想的一大工業地を建設せんとするのである。
 これ丈けの内容を有し、然かも広大なる斯かる水面の埋立計劃は、日本に於いては初めてゞある。総一郎《ちゝ》が此計劃の内容を示した時、最初は誰れしも無謀の暴挙視して、計劃の徒らに大なるを危ぶんだ。東京及横浜の発展と共に、適切なる地に工業地を要求するは必至の勢であることは知るも、自ら進んで其計劃者となり投資者とならうとする人は少なかつた。
 世間のあらゆる人から指弾されても、絶対に是《ぜ》と信じた事業である以上は、容易に望を棄てない処に、浅野総一郎は常に生きて行く。
 世人が未だ一顧だにして呉れない間にも、総一郎《ちゝ》は神奈川県庁に許可申請の督促に間断する処がなかつた。知事は言つた。
『斯かる大計劃の事業には、金融機関の確かなる人が連署しなければ許可し難い。』
 と当局すら斯く案じてゐた。
 - 第53巻 p.350 -ページ画像 
 総一郎《ちゝ》は、世間の人が只驚き、只呆《あき》れてゐる此大計劃案を持つて、安田善次郎翁を訪ふた。大事業家の素質を有せられる大銀行家の安田翁は、計劃内容を一瞥されたのみで、
『事業は国家経済に及ぼす大問題で、一日も忽せに出来ぬ大事業の如《や》うに思はれる、早速実地を踏査して見ます。』
 と言下に快答された、何日も変らぬ安田翁の事業眼に、総一郎《ちゝ》は敬服した。此翁ありて総一郎《ちゝ》も一代の事業家たるを得た、翁亦総一郎《ちゝ》に共鳴することに於いて、利せられた事も又多からう。
 其頃八十歳に大方手の届きかゝつた安田さんは、二人の技師を連れられて、川崎在若尾新田の根本といふ海水宿屋に、三日三晩泊まられた、安田さんは、朝夕の潮の干満を調査する為に、毎日朝は六時から海岸に飛び出て、親しく潮の引き具合を踏査され、夕刻の五時からは又釣船に乗つて魚を釣りながら、親しく潮の満つる様を視察された。干潮時の沖合三浬までは、深い処で六尺、浅い処で三尺、殆んど砂浜に等しい浅瀬で、三浬沖合の処には、百年以上の年数を経たとも思ほしき藻が、海底に繁茂してゐる。埋立地としては誠に得難い理想地である。
 三日三晩親しく実地を踏査された安田さんは、帰京匆々、総一郎《ちゝ》に『充分見込のある仕事と思ひますから投資しませうが、貴下が想ひ立つた仕事だから、貴下が一番沢山株を有ちなさい、他の人が賛成しなければ、貴下と私と二人でも行りませう。』
と、大変な意気込であつた。
『貴下一人の御賛成は百万の味方を得たよりも心強い。早速行りませうが、私は事業家であつて資本家では無い。私一人で半分の資力を引受ける訳には行かぬ、早速有志の方々に話して見ませう。』
 と総一郎《ちゝ》は別れた。安田さんが、あの老躯を態々運ばれて、三日三晩も踏査されたといふことから、渋沢さんも非常に感服され、他の有志をも説伏して下さつたので、忽ち問題は急転直下、鶴見埋立組合の実現となつた。参加した人々に、渋沢栄一・安田善次郎・安部幸兵衛・渡辺福三郎・大谷嘉兵衛の諸氏があつた。斯くて鶴見埋立組合は大正二年八月工事に着手した。
 工費予定は三百五十万円であつた。翌三年三月、組合を株式会社に変更し、鶴見埋築株式会社と改称した。資本金三百五十万円は総一郎《ちゝ》が百十五万円、安田家で八十万円、渋沢家で四十万円、徳川一家で四十万円、其他大川平三郎・太田清蔵・渡辺福三郎・安部幸兵衛・尾高幸五郎氏等数十名の人々によつて引受け済となつて、愈々工事の進捗を見た。
 総一郎が第一着手の埋立として完成したのは、川崎町海岸大島新田である。此地は浅野セメント会社川崎工場が現在東洋第一の大洋灰工場として、日々二百尺四基の回転窯をその空中に露出回転してゐる。次いで大正四年末に、最西端なる第七区面積七万坪が完成した。内二万五千坪は旭硝子会社に売渡され、大正五年一月には、安田翁と総一郎との二人の権利であつた川崎町海岸若尾新田十一万七千坪を此会社の所有に移し、盛土埋立を完成した。此地は現在日本鋼管会社の所在
 - 第53巻 p.351 -ページ画像 
地となつてゐる。続いて、東隣の第六区面積二十八万坪の埋立に移り之れも完成して、現在では浅野造船所が建設されてゐる。斯くの如く埋立工事は年一年其工程を進め、然かも其進捗の頗る迅速なるは、明らかに埋立地としての、総一郎《ちゝ》の眼識に誤りなかりしを物語るものである。浅野造船所が当時大部分水面であつた敷地の埋立に着手してから、工場を建設し、新船第一艘を進水するまで、僅かに一ケ年未満の短日月に過ぎなかつたのを観ても之れを察し得べく、これ勿論浚渫船の能力の優越せることにも依るが、他面に又地質が斯かる工場建設に応《ふさ》はしい事を証明するのであつて、錨地を浚渫した土砂が大部分細砂で粘土を交ふる事が少ないため、排泄管から放流すると同時に沈澱し堆積して、直ちに強靱なる地盤を構生し、其儘能く重量建築の基礎となし得るので、大阪築港其他の埋立地の如《よ》うに、地盤硬化に数ケ月を空費するやうなことのないといふことが、其一大原因である。
 鶴見埋築会社は、総一郎宿年《ちゝ》の目的に第一歩を進め、東京湾埋立会社となり、資本も今や千四百万円に増大し、事業は間断なく連続されてゐる。
 又横浜港の第三期拡張計劃は、工費千五百万円を以て向ふ八ケ年間に完成される予定である。更に第四期拡張の際は、鶴見川口即ち東京湾埋立会社第七工区の両端から、本牧十二天先見通しの防波堤が築造される筈である。
 東京湾に大築港成り、横浜港に拡張計劃実現さるゝ暁に於いては、東京湾埋立会社の事業は将に其中間の聯鎖を為すもので、特に其姉妹会社たる京浜運河会社の事業の竣工する時は、従来沖荷役のみに依つた貨物は、総て安全なる錨地の中を通つて東京湾内に入る事になり、玆に始めて、帝国の首都を控へる東京湾の価値を発揚するに至るのである。
 因に京浜運河会社は、大正六年九月、資本金五百万円を以つて宇都宮回漕店主宇都宮金之丞氏が其首脳者となつて設立された会社であるが、会社設立の目的が、東京湾埋立会社の使命と姉妹の関係を保有するので、総一郎《ちゝ》の主権内に吸収することゝなつたのである。
○下略
   ○当会社ハ大正九年三月東京湾埋立株式会社ニ合併サル。後掲第五款同会社ノ条参照。