デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
13節 土木・築港・土地会社
5款 東京湾埋立株式会社
■綱文

第53巻 p.418-420(DK530068k) ページ画像

大正9年1月20日(1920年)

是日、鉄道協会ニ於テ、鶴見埋築株式会社ノ株主協議会開カレ、同会社ヲ合併シテ其業務ヲ継承スル目的ヲ以テ、新タニ当会社ヲ設立スルコトヲ決ス。増田明六、渋沢同族株式会社ヲ代表シテ出席ス。

当会社ハ、浅野総一郎・安田善次郎・大川平三郎・白石元治郎・増田明六等ヲ発起人トシテ設立セラレ、同年三月、前記合併成ル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正九年(DK530068k-0001)
第53巻 p.418 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
一月十八日 晴 軽寒
○上略 午前十時頃浅野総一郎氏来リ、埋築会社ノ件其他ノ要務ヲ談ス、浅野夫人其女子ト共ニ来訪ス○中略 増田明六来ル、浅野氏朝来ノ用務ヲ示シ其書類ヲ付与ス○下略
   ○是日栄一、大磯明石家別邸ニ在リ。


(増田明六)日誌 大正九年(DK530068k-0002)
第53巻 p.418 ページ画像

(増田明六)日誌 大正九年       (増田正純氏所蔵)
二十日○一月
○上略
午後二時鉄道協会ニ於ケル鶴見埋築会社ノ定時総会並ニ株主協議会ニ同族会社ヲ代表シテ出席ス、協議会ノ議題ハ、新ニ東京湾埋立株式会社(資本金五拾万円)ヲ至急設立シテ、鶴見埋築会社ヲ金千四百五拾万円ニテ買収シ、更ニ資本金千五百万円ニナサントスルモノナルカ、来会者ハ浅野・安田・大川・白石・渡辺福三郎氏・尾高幸五郎氏ノ諸氏ト小生トノミナリ、来会者ノ意見一致シ、原案ヲ遂行スルコトヽシテ其取扱ヲ当局者ニ一任スルコトニ決シタリ
○下略


渋沢栄一 日記 大正九年(DK530068k-0003)
第53巻 p.418 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
二月十七日 晴 寒
○上略 午後一時事務所ヲ出テ帝国ホテルニ抵リ○中略 浅野氏ト会見シテ米国行船繰ノ事ヲ依頼ス、又埋築会社ノ事ヲ談話ス○下略


(増田明六)日誌 大正一一年(DK530068k-0004)
第53巻 p.418 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一一年      (増田正純氏所蔵)
十月十九日 木 晴
定刻出勤
本日の来訪は○中略 磯野敬氏(三宅勘一氏トノ係争問題解決ノ件並東京湾埋立及東京運河土地会社ノ状況取調ノ件)○下略
 - 第53巻 p.419 -ページ画像 

(増田明六)日誌 大正一二年(DK530068k-0005)
第53巻 p.419 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一二年      (増田正純氏所蔵)
十一月廿四日 土 雨
○上略
夕明石照男氏を銀行ニ訪問し、竜門社々則改正の件及尾高氏ニ於て磐城炭礦・浅野セメント・東京湾埋立会社の重役辞任の決心なる旨を談話したり
○下略
   ○中略。
十一月三十日 金
○上略
子爵ノ申付ニ依リ、事務所ヨリノ帰途午後七時尾高幸五郎氏ヲ訪問シ同氏カ浅野セメント・東京湾埋立ノ両会社重役ヲ辞任セラルヽヲ見合ハセ留任セラルヽ様子爵ノ御意中ヲ懇談シタルカ、同氏ノ辞意頗ル堅ク、始メ容易ニ承諾セラレサリシカ、遂ニ子爵ノ御懇命ニ反スルハ不本意ナリトテ暫ク留任スルコトニ決セラレタリ、右懇談スルニ至リシ次第ハ、今朝大川平三郎氏子爵ヲ訪問シ、子爵ヨリ尾高氏ニ辞表撤回ヲ為ス様勧告セラレタシト談話アリシニ因ルモノナリ
○下略
十二月一日 土 晴
○上略
今早朝尾高幸五郎氏代理井田英一氏来訪、昨夜尾高氏訪問の際同氏ニ於て承諾したる浅野セメント及東京湾埋立両会社重役辞任撤回の件、其中東京湾の方は已ニ辞表提出したるものなれは、之丈けハ辞任致度きニ付子爵ニ取次を請ふと之要件なりしかば快諾し、飛鳥山邸参上之節、昨夜の談話と合ハセ子爵ニ言上したるニ、同氏の主張尤の次第なれハ、右の顛末大川大川氏《(衍)》ニ伝達すべしと命セられたり


東京湾埋立株式会社ノ沿革ト渋沢子爵トノ関係(東京湾埋立株式会社調)(DK530068k-0006)
第53巻 p.419-420 ページ画像

東京湾埋立株式会社ノ沿革ト渋沢子爵トノ関係
           (東京湾埋立株式会社調)
                     (財団法人竜門社所蔵)
 本社現在社長浅野総一郎氏ハ明治三十七年頃ヨリ京浜間鶴見川崎市地先ノ海面ヲ埋立テヽ、海陸運輸ノ連絡ノ設備ヲ完備スル理想的工業地ヲ建設セントスル目的ヲ以テ、渋沢栄一子爵・安田善次郎氏等ニ諮リ、其ノ賛助ヲ得、約百五十万余坪ノ埋立ノ免許ヲ受ケ、鶴見埋立組合ヲ作リ、大正二年工事ニ着手シ、同三年三月浅野総一郎・渋沢栄一・安田善次郎・大川平三郎・安田善三郎・渡辺福三郎・安部幸兵衛・大谷嘉兵衛・尾高幸五郎・白石元治郎ノ諸氏ノ発起ニ依ル鶴見埋築株式会社ヲ創立シ、斯業ヲ継承シ工事ヲ続行シ、大正九年一月ニ至リテ別ニ浅野総一郎・安田善次郎・大川平三郎・白石元治郎・尾高幸五郎・渡辺福三郎・増田明六ノ諸氏ノ発起ニ係ル東京湾埋立株式会社創立セラレ、同社ハ同年三月前記ノ鶴見埋築株式会社ヲ合併シ、其結果資本金壱千弐百五拾万円トナリ引続キ斯業ニ従事シ、昭和二年七月ニハ計劃埋立並ニ附帯工事ヲ完成セリ、既成埋立地中八拾余万坪ハ既ニ本邦
 - 第53巻 p.420 -ページ画像 
ニ於ケル有力ナル諸会社ノ工場敷地トシテ売却済トナリタリ。(昭和三年十月)



〔参考〕竜門雑誌 昭和五〇六号・第三―四頁 昭和五年一一月 浅野総一郎氏を追悼す 青淵先生(DK530068k-0007)
第53巻 p.420 ページ画像

竜門雑誌 昭和五〇六号・第三―四頁 昭和五年一一月
    浅野総一郎氏を追悼す
                        青淵先生
○上略 セメント事業の外浅野さんの開始した事業は船舶・製鉄・埋立などがあり、何れも国家的の事業であるため、独力ではなかなかやれぬのに、社会の進みが其処まで来ないので、事業そのものが往々未成功と云ふ結果になる惧が多かつたのである。蓋し物事は斯く斯く進むものであるとの考へでやらねばならぬのであつて、浅野さんは何時も社会より一歩先へ出た、従つて各方面がその事業に追ひつき得なかつたと申すべきでありませう。
 私は何れかと云へば質素の方であるが、新事業を進めるに就ては浅野さんと同じやうな考へで、進歩的なことをあれこれと始めさせた。また浅野さんの事業に対しても、出来るだけ賛成して経営にも力を添へて来た。併しその製鉄事業と東京湾の埋立事業には全く賛意を表せず、少しく行き過ぎであるとしたのでありました。尤も私個人としては相談相手ともなり、賛成した事業に対しては出資もしやうとし、資力が少いから充分なことは出来なかつたが、能ふ限りは出資することにした。たゞ第一銀行としての金融の関係は、余り深く立入ることを避けたのであります。
 実際浅野といふ人は、度胸があり時勢に先んじて事を進める、換言すれば、世の進みを呼び出すといふ風な事業の仕振りをする人であつて、進むに勇気があつたが、退くことの出来ない欠点を持つて居たのは遺憾であります。それでゐてなかなか細かな点にまで眼がとゞきました。例へば埋立に関しても、土は一坪幾ら幾らで取れると云ふやうなことまで調べて居たので、安田善次郎さんがひどく感心して事業上の相談相手となり、相当思ひ切つて金融するやうになつたのであります。又仕事に対する熱心な努力振りは驚くばかりで、夜眠らないで工場を見廻つたりしました。兎に角満足に成功したとは断言出来ないがかくの如く努力した結果と安田銀行で多くの金融を継続したため、セメント工場其他のものも今日の如く次第に増設拡張されて来たのであります。
○下略