デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
18節 其他ノ商工業
7款 株式会社三越呉服店
■綱文

第54巻 p.68-74(DK540021k) ページ画像

大正3年9月28日(1914年)

是日栄一、当店ノ新館開館式ニ招カレ、往時ヲ追懐シツツ祝辞ヲ述ブ。


■資料

中外商業新報 第一〇二一二号大正三年九月二六日 巍然天際を摩す 三越の新建築(DK540021k-0001)
第54巻 p.68-69 ページ画像

中外商業新報  第一〇二一二号大正三年九月二六日
    □巍然天際を摩す
      三越の新建築
越後屋が三井呉服店となつたのも大変化なら、三井呉服店が三越呉服店になつたのも大変化であつた、が今度四年越しの大建築が出来上つて、白堊五層の居然たる壮観を日本橋畔に誇る――三越の名に変りはないが、其変化は以前の数者に比して更に一時代を劃すべき大変化である
△高さと坪数 場所は日本橋の大通室町と駿河町との角で、三井合名会社・三井銀行・三井物産などの薄赤煉瓦の建築と対して、建坪六百十九坪二合四勺の上に雪白の飾煉瓦に包まれた五階造が聳えてゐる、之に地下室の一階と屋頂とを加へて七階、更に屋上の塔が四階になつてゐる、地磐から屋頂迄が八丈五尺九寸五分、塔の頂迄計ると百七十尺七分五厘、各階を合せた延坪数は実に四千三坪
△材料と諸装飾 以上の構造は近時建築界を風靡してゐる鉄骨に鉄筋コンクリートが主成組織で、それに石材と煉瓦が併用されてゐる、室町通に開いた表入口は高七間半、巾四間のアーチ形で、左右に伊太利から取寄せた大理石の大円柱が艶美しく立つた下には、青銅で鋳た大きな獅子像が一対悠然として伏してゐる、之は倫敦トラフアルガル広場のネルソンの像の下に取付けてあるのを摸したので、さる英国彫刻家の手に成つたものだと云ふ、上には装飾電球を玉と聯ねモザイツクの色も落付いて、大建築の入口には最も相応しい、此入口を這入ると所謂中央広間で、十本の大理石円柱で区切られた十間に六間半の広場が美々しい中央大階段の前に設けられてゐる、天井は屋頂まで筒抜けで、其処の孔雀模様のステインド・グラスから導かれる光線が軟かに落ちて来る、大柱の上には喇叭を吹いたり、太鼓を持つたりした裸体童の群像が飾られてゐる
△各階の諸室 地下室は電機室・昇降機等の機械室・通風機械室で、屋上六階は写真部・厨房・温室・茶室・四阿・庭園・稲荷社・噴水があり、塔の四階には眺望機や自動消火機・水槽やを配置し、最高十階は露台になつてゐる、其他の五階は
 一階 売場・陳列窓・案内係・注意承係・両替所・忘物承所・喫煙室・出納係・買上品渡所・預品渡所・便所
 二階 売場・休憩室・模様室・誂別室・便所
 三階 売場・休憩室・洋服裁方室・時計修繕室・貴金属部別室・便所
 - 第54巻 p.69 -ページ画像 
 四階 売場・食堂・ルイ室・参考図書室・児童研究会室・医員詰所・編輯室・製図室・図案室・便所
 五階 売場・応接室・電話室・通信販売室・其他事務室
で、其売場は云ふ迄もないとして、食堂は十二間に七間のセヽツシヨン式、屋上の茶室は水屋付の瀟洒たるもの、愈々空申庵の名を発揮して七丈六尺余の高さに構えてゐる
△其他の数々 此建築の様式は復興式《ルネツサンス》で、工学士横河民輔氏の設計になり、明治四十四年七月五日に起工して今年九月十五日を以て竣工し、満三年二ケ月と十二日を費し、職工人夫の延人数が廿二万八千余人と註せられてゐる


集会日時通知表 大正三年(DK540021k-0002)
第54巻 p.69 ページ画像

集会日時通知表  大正三年        (渋沢子爵家所蔵)
九月廿八日 月 午前十一時 三越開館式(御演説ヲ請ノ件)


中外商業新報 第一〇二一五号大正三年九月二九日 花々しき三越の開店式 内外朝野の貴紳列席(DK540021k-0003)
第54巻 p.69-70 ページ画像

中外商業新報  第一〇二一五号大正三年九月二九日
    ○花々しき
      三越の開店式
        内外朝野の貴紳列席
三越呉服店は廿八日午前十一時を以て其新築店舗に於いて盛大なる開店式を挙行せり、廿六・七日の両日中に移転と陳列とを終りたるを以て、入口を挟める大飾窓の淡楚掬すべき装飾を始めとして、一階より六階に至る各売場は等しく整然として光彩の美と物資の夥多とを誇れるが如く、尚ほ巍然として立つ雪白の外壁には、窓枠に沿ふて紅葉と菊花との造花を連ね、来賓を迎ふる色彩燦たり、定刻前より朝野の貴紳は馬車・自働車を駆りて集り、青銅大獅子に迎えられて店内に入り荘美と結構とを兼ねし設備を見ながら屋上に出づれば、庭園の花の色様々なる外に眼を放てば富士の嶺を始め房総の山々、秩父の峰々雲間に聳え、東京の街々亦脚下に甍を連ね、壮観比なし、軈て定刻となるや、五階西方に設けられたる式場に導かれ、取締役会長代理藤村喜七氏の式辞朗読を以て式は開始せらる、次いで建築主任技師横河民輔氏工事概略の報告あり、斯くて大隈信常氏は大隈伯の代理として祝詞を朗読し、金子子爵亦立て祝詞を述ぶ
 日本は泰西文物の輸入に怠らざりしが、デパートメント・ハウスに至ては、今日三越の完成に依て初て輸入せられしものにして、日本が世界共通の文明に接触せんと欲せば、当然之が実現を見さる可らざるもの也、実に三越の完成は我国将来に於ける製造工業及び商業界に大なる影響を与ふるものなる事言を俟たず、外国製品と内国製品の比較研究は、唯デパートメント・ハウスに依て之を得べく、従て内国製品を奨励して、遂に外国製品を駆逐すべき事も、三越に依て初めて実現し得べし、欧洲の戦乱は一時的のものゝみ、国運の進展は平時の商工業戦に依らざる可らず、況んや宮中に於かせられては、今や内国品使用の聖旨に基き種々訓令する処あり、此時に際して此デパートメント・ハウスを得たるは、正に千載の一遇にして、三越たるもの亦大に期する処なかる可らず
 - 第54巻 p.70 -ページ画像 
と説き、更に久保田東京府知事の祝辞朗読に次いで、阪谷東京市長は
 三越の新建築は、目前に幾多の活教訓を与ふるものとして、余は喜悦に堪へず、二千万坪の東京市が年々狭隘を感じて、或は寺院墓地を市外に移し、或は海面を埋立て、或は郡部を侵さゞる可らざるの時に当りて、斯の如き未曾有の上層的建築の範を示せるが如きは、偉大なる教訓の一也、其他着々採用する新知識・新事務法等一として社会を刺戟し、促進せざるなきは、偉とすべし、余は此活教訓の応用が、不日市中到処に現はるべきを予想して歓喜に堪へざる也
と巧みなる諧譃を交へて祝辞を述べ、終りに倫敦の百貨店セルフリツチ及ハロツタより送れる祝電を披露して式を閉ぢ、続て旧館二階に設けられし食堂開かるれば、洋々たる奏楽声裡に一同造花の装飾美々しき食卓に着き、玆に主客歓語互に杯を挙げ、軈てデザート・コースに入れば、渋沢男拍手に迎へられ起ちて、祝意を披瀝して曰く
 自分の曾祖父は、当時田舎より東京見物に出で、三越の前身たる越後屋呉服店を見て其営業の盛大なるに深く感奮し、田舎へ帰りて農事に励み産を起すに至りしは全く同店の賜物たるなり、更に自分の出京するや、先づ越後屋呉服店を見舞ひて曾祖父の言を思ひ出し、一入感ずる所あたり、然るに同店は其後益々盛大に赴き、今日斯くの如き宏壮の建物に文明の利器を具備し、総ての点に於て最善を尽され居れるを見ては、感一入深し、向後地方よりの見物は、先つ此三越呉服店を見舞ひ、其壮麗なる建物と盛大なる営業振りを見、更に幾多国産の陳列せらるゝを見て、必らすや大に感奮する事なるべし、されば新たなる三越呉服店は、独り産業上のみならず、国民教育上に資する所少なからざるべし
と、斯くて和気靄々の間に宴を撤したるは午後二時半なりき、当日の来賓約二百名なりしが、其重なる者左の如し、尚本日午後二時より都下の建築家約二百名を招待して店内を観覧せしめ、廿九日・卅日は平常の得意先を招待し、十月一日より花々しく開店する由
 英国大使・仏国大使・米国大使、和蘭・白耳義・瑞西各公使、大隈伯(代理信常氏)・岡陸相・若槻蔵相・蜂須賀侯・土方伯・奥平伯・金子子・渋沢男・岩崎男・三島男・久保田府知事・阪谷市長・久保田男・菊池男・山本達雄・大岡育造・添田寿一・馬越恭平・大倉喜八郎・安田善次郎・豊川良平・中野武営・村井吉兵衛・森村市左衛門・早川千吉郎・和田豊治・末延道成・池田成彬・高橋義雄・原六郎・池田謙三・志村源太郎・小野英二郎・志立鉄次郎・星野錫・今村繁三・手塚猛昌・矢野恒太・三宅雄次郎等諸氏
  ○「竜門雑誌」第三一七号(大正三年十月)ニハ右同趣ノ記事ヲ載ス。


三越 第四巻第一一号・第一四―一六頁 大正三年一一月 三越呉服店新館落成の記 其五(DK540021k-0004)
第54巻 p.70-72 ページ画像

三越  第四巻第一一号・第一四―一六頁 大正三年一一月
 ○三越呉服店新館落成の記
    其五
○上略
かくて式を閉ぢ、更に旧館第二階に設けられたる食堂に移り、こゝに午餐の饗応が初まりました。食堂に於ける男爵渋沢栄一氏の演説は当
 - 第54巻 p.71 -ページ画像 
店に対して深き感銘ある興味多きものでございました。
 御臨場の閣下諸君、今日三越呉服店の此新築落成式に御同様参同致しまして、玆に此盛大な家屋を一覧し、且つ斯る盛宴に列しますることは、私は之を光栄として感謝致すのであります、唯今専務取締役日比君の御代理として、藤村君より来賓一同に御挨拶がありました、私は敢て来賓を代表するの意味でなく、別して御懇親を厚うして居りまする関係上から、自己一身の意味を以て一言の祝辞を申述べたうございます、斯る事業に対して何等経験も持つて居りませねば、又知識も積まない、故に只々其盛大に驚き、其設備に感ずるのみでございますから、其点に付ては一言を添へることも出来能ひませぬ、唯々平素考へて居る感じを少し古めかしい事ではありますけれども、一言述べて此盛宴に報ゐやうと思ひます。
 私は田舎に生れて昔から此越後屋と云ふ呉服店の名高いことは、深く記憶して居りまするのです、其越後屋のお店が段々に発達し、段々に変化して今日の有様になりました、故に越後屋の昔を述べることは万更無用な弁でもなからうかと思ふのでございます、私の曾祖父に当る渋沢与三郎と云ふ者がございました、青年の頃に田舎から初めて東京に出て、越後屋呉服店の前を通つて、其盛大に感じて、どうぞ人間はアノやうな店を持つて一生の経営をして見たいと云ふ奮発心を起した、蓋し其時に此与三郎と云ふ人は、極く寒村の一農夫に過ぎなかつたのでございます、近隣の太物など売る店に丁稚を勤めた、不幸にして其主人に逐はれて家を失つた場合に東京に出た、其時の感じが左様であつた、是に於て其与三郎は実に刻苦経営致して、私の郷里は今は八基村と云ひますが、元の血洗島で、農業若くは商売に従事して、聊か寒村中に一商店を開いて遂に大に発達致して、近隣の豪富と言はれるまでに相成つたのであります、其孫が即ち私の親である、故に子供の時から口癖として、総て人は或事物に感触して、斯る事を見たらば斯く思へ、斯る物に感じたならば斯様心得ろと云ふことは、実際人の栄達する大なる基礎である、と云ふことを教へられて居ります、思返せば私が十四の年、即ち六十二年以前に初めて東京に出まして此前を通つて、私の曾祖父の感奮した呉服店は是れであるかと云ふことを、今も尚ほ能う記憶して居ります、其私は昔の有様を眼に見るやうに思ひますが、今日の有様を若し私共が当時見られたならば、どう変るか実に是は誠に想像の外でございます、其頃の有様を御列席の諸君の中には僅かしかお眼に残つて居る方はないでありませう、私は其時に是が即ち私の曾祖父が奮起感憤した越後屋である、自身は其頃には果して呉服屋にならうとか、商売人にならうと云ふ感じを持ちませなんだが、唯々人は或事物に付て奮起の必要があると云ふことだけは、青年ながらも記憶致して居りましたので、是は誠に昔の事であつて殆ど申上げる価値もないのでございますけれども、私は玆に思ふ、先刻来金子子爵若くは阪谷男爵が式場に於て、此設備、此経営に対して賛辞をお述べになりましたが、誠に御尤千万であつて、果して未来に於て此国の経済上又東京市の繁栄の為に大に資する所であることは申上げるまでもございませぬのであります、又古い事を申上げますが、四十八
 - 第54巻 p.72 -ページ画像 
年前に仏蘭西に参つて、千八百六十七年に仏蘭西の博覧会を見ました時に、其開場式に三世ナポレオンが述べられた言葉があります、但し此三越呉服店を博覧会と同視する訳ではございませぬが丁度今の人の心を感奮せしむるは、或事物に接触すると云ふ意味に適合する言葉であつた為に更に玆に敷衍して其事を述べて見やうと思ひます、三世ナポレオンの言葉に曰く、仏蘭西が博覧会を起した所以は斯々であると其沿革開場に至るまでの有様を叙して、更に一歩を進めて曰く、此式場を見渡したならば、頗る古代の品物の中には直ぐ其隣に極新発明の物もある、又粗大なる器械に相接触して至つて緻密な設備が備へてある、海外万里から来た品物の側には、遂い近所に産する品物も大分置いてある、文明に野蕃に、極く粗い物に緻密な物の総てを備へて、此所に人の知識観察に供すると云ふことは、蓋世の人文、国の進歩を進める上に資する所ありと考へて、此式場を備へた訳である、若し斯る有様を見て、或は国の進歩、人の文明に接触して充分な感奮の心の無い者は、或は人でないと言はれねばならぬかも知れぬと。其言葉は甚だ誇大に亘る様でありますけれども、事物に接触して感奮の情があるのは、即ち人間の人間たる所以である、其趣旨は頗る言ひ得て妙であつたと私は今に覚えて居ります、丁度前に述べました渋沢与三郎、此私の曾祖父が青年の頃、越後屋呉服店の前を通つて感奮した事も、十四歳の時に私が一言当時に於て、将来如何なる人になりたいかと思うた事は、尚ほ一種の感奮に過ぎぬと思ひますが、それは昔の未だ野蕃時代の感奮である、尚ほ今三越呉服店の、殆ど欧米の粋を蒐めた其新式な有様より、現在未来に大なる感奮を惹起す者があるであらうと思ふのであります、(拍手)果して然らば斯る企ては、唯単に内地の生産が大に増すであらう、東京市民を利益するであらう、と云ふよりも更に広大な利益を社会に与へるであらうと心得ます、(拍手)玆に三越呉服店の繁盛を祝し、従事諸君の御健康を祝ふ為に諸君と共に盃を挙げます。(拍手)


竜門雑誌 第三九八号・第三六―四二頁 大正一〇年七月 ○青淵先生観 健堂生(DK540021k-0005)
第54巻 p.72-74 ページ画像

竜門雑誌  第三九八号・第三六―四二頁 大正一〇年七月
    ○青淵先生観
                       健堂生
  左の一篇は雑誌雄弁三月号及四月号に連載せるものなり、其記述せる所、青淵先生の片鱗を窺ふに足るものあるを以て本誌に転載することゝせり。(編者識)
○中略
      四
○中略
 蓋し彼は、かねて王朝政治が武門政治に移つた径路を知つて居た。彼の愛読した政記の中に、信長の入朝を論ずる末段に、「その変ずるものは天運なり、而して必らず人事に由つて変ず、その未だ変ぜざるに当つてや、上尊下卑、天地の如し。然るに尊者、日に驕逸し、卑者日に勤労す、驕者、日に愚にして、勤労者は日に智なり。智の極まる者、以て天下を取るに足る。愚の極まるもの、以てその身を保つに足
 - 第54巻 p.73 -ページ画像 
らず、愚、上にありて以て智者を役せば、久うして変ぜざる能はず、これ即ち天運なり」といふ文章を、脳裏に深く印象して居たのでそれに由つて、代官の御用金事件に触れて、感憤興起したのであるといふ
 此の話は、彼が武士にならうといふ志を起した動機であるが、彼が奮発して大人物になりたいといふ所謂立志の動機は、これよりも前にあつた。三・四年前、今の三越呉服店の新館の開館式の卓上演説に於て、彼は次の話をした。彼が十五歳の頃同姓の叔父保右衛門といふ人と共に江戸に出て、はじめて越後屋を見た。天下の越後屋である。その壮大なる光景は、少年気鋭の彼を鼓舞して、慨然として大志を起さしめた。これが即ち彼が立志の動機である。当年の越後屋すら、一人の渋沢を作つた。況して越後屋は三越とかはり、此の如き巍々然として七層楼の大建築を現出せしめたる今日、必らずやその壮大繁栄なる光景に対して、感憤興起する渋沢以上の人物が沢山にあるだらうと。此の話は恐らくは、満場の来客に深甚なる興味を与へたに違無い。わたくしも、この話は彼の率直なる告白であると思つて聴いた。此の話は彼の自伝たる青淵百話には書かれて無い。
      五
 彼が武士たらんとする理想を実現したものが、則ち彼の浪人時代である。十七歳の彼が代官の圧迫に憤慨したのを見れば、彼の頭が既に政治思想に燃えて居たことが分る。米艦の渡来は彼の十四歳のときであつた。時勢の波濤は田舎の空気をも、動揺せしめた。世の中がだんだん騒がしくなつて来た。彼はその年始めて父に伴なはれて江戸に出て、動きつゝある時運を見た。その翌年、叔父と共に再び江戸に来てそのとき始めて越後屋を見た。そのときは、日本橋で、二本立の本箱と懸硯とを買つて帰郷した。彼は、いよいよ攻学の志を固めたが、彼の頭の中は一変せられてもはや血洗島の旧田舎児ではなかつた。その後二年を経て、代官の御用金の事件があり、時運の刺激は彼をして、献畝の間に安んぜしむることを許さなかつた。彼は郷関を出て江戸に来て留学したが、まだ江戸と郷里との間を往復し、郷里との関係は頻繁であつた。彼が長らく郷土を離れなかつた事は、彼の人物を陶冶する上に少からざる関係があると思ふ。
 天下の大勢は急転直下しつゝあつた。彼は時勢の急流に投じて、既に一箇の政治青年となつた。時勢の感激につれて、彼の性格・学問は悉く熱して輝やいて来た。然れども彼が江戸に於ける留学は、学問をする為ではなく、友人を求むる為であつた。広く諸方の人物に交はり同志を糾合する為であつた。彼は大事ある毎に、郷里の藍香先生を思ひ出した。彼の素養は郷里で出来たのである。廿四歳のとき、義挙の失敗から、彼は一身を保つ為め、京都に脱走して、旧知の平岡円四郎に頼つて一橋家に出仕した。勤王討幕の急先鋒が、一転して幕臣となつた。此の奇異なる運命の変移が、彼をして天下の人物たらしむる序幕であつた。
      六
 人生感意気、功名誰復論といふは関東児たる渋沢の意気であつた。彼が最初の知己は平岡円四郎である。平岡は一橋の用人で、立派な人
 - 第54巻 p.74 -ページ画像 
物であつた。彼は平岡の知己に感激して、一橋に仕へることに決心した。徳川氏の運命は既に傾きつゝあると知りつゝ、甘んじて亡国の臣となるは彼の気慨であつた。しかし彼が先づ慶喜卿に拝謁して、而して後に褐を釈くべき事を要請したのは彼の大出来であつた。当年の土百姓にして、出仕に当り、これほどまでに地歩を進めた交渉を武家に向つて為した前例は、蓋し稀有であらう。これまた彼の伝記に特筆すべき一要件である。此の事、啻に彼が特立の気風が然らしめたるのみならず、人権要求といふ時代思潮が彼の口を藉つて表現されたのに外ならぬのである。
 彼は一橋家に奉仕中、破格の抜擢を蒙り、案外に重用された。幕末に、各方面とも人才を求むるに急なるの時運は、漸く農家の青年を駆つて中原の風雲児たらしむるに至つた。○下略