デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
1節 農・牧・林業
9款 農・牧・林業関係諸資料 7. 其他
■綱文

第54巻 p.307-309(DK540067k) ページ画像

明治45年5月27日(1912年)

是日栄一、山下信義ノ来訪ヲ受ケ、伊豆伊東ニ造ラントスル模範村落ノ計画ヲ聴取シ、其試験場資金トシテ金千円ヲ贈ル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK540067k-0001)
第54巻 p.307 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年        (渋沢子爵家所蔵)
五月二十七日 晴 暖
午前八時起床洗面シテ朝飧ヲ食ス○中略山下信義氏来リ、伊豆伊東ニ模範自治村ヲ作ルニ付談話アリ○下略
五月二十八日 曇 暖
午前七時起床半身浴ヲナシテ朝飧ヲ食ス、後山下信義氏ノ来訪ニ接シテ、伊豆ノ伊東ニ於ル模範的自治村ノ景況ヲ詳話セラル○下略


竜門雑誌 第二九一号・第一一―一四頁大正元年八月 ○地方繁昌策 青淵先生(DK540067k-0002)
第54巻 p.307-309 ページ画像

竜門雑誌  第二九一号・第一一―一四頁大正元年八月
    ○地方繁昌策
                      青淵先生
今日(七月十八日)の中外商業新報に文明界の新問題と題し「所謂社会文明とは都会の一方に偏倚する弊なきや否や、文明の恵沢は唯都会生活の占有する所となりて、田舎の生活毫も之に与らずんば、之を指して社会の文明と謂ふ、果して当れりとするを得べきか、是れ文明に新問題の起る所以云々」と云ふことが書いてあります、恰度四十一年の夏頃であつたと思ふ、米国のゼームス・ヒルの演説筆記の「合衆国の将来」と題せし一小冊子をば井上侯爵が送つて呉れました。詰りヒル氏の説は、合衆国の繁昌が都会にのみ集中するを憂ひて、其改良を論じたものであつた、私はこれを一覧して大に其説に敬服し、其後渡米実業団長として亜米利加へ行つた時ドウかしてヒル氏に逢つて其説を委く聞いて見たいと思つて居ました。幸にセントポールで同氏に逢ひましたから其事を聞いた所が、同氏は私に答へて、さう事を聞いて呉れるは大きに嬉しい、それは別に書籍として出版したものではない如何なる訳で日本に伝つたか知らぬけれども、私は常に国家の富強は田舎の繁昌にありといふ説を主張して居ると言はれた。其後私が紐育に行つた頃ヒル氏から手紙が来た、先頃お目に懸つた時に、私の論説に就てお尋ね下されたのは誠に喜ばしい、私はシカゴの銀行者に招待された時に斯う云ふ説を述べた、都会にのみ人が集つて、段々田舎の人口が減少すると云ふことは、特に亜米利加に於て甚だしい。是れは将来の大なる憂ひであるから、是非此悪習慣を矯め直さねばならぬ、銀行者に対する問題としては誠に不似合であつたが、斯の如き演説をしたから之を見て呉れと云つて、其演説筆記を添へて寄越された。それは「合衆国の将来」と云ふ井上侯爵の翻訳させたものよりは、更に切実なものであるから、私は其二つを一本として友人に配つた事があ
 - 第54巻 p.308 -ページ画像 
ります。ヒル氏の言ふ通り、都会のみが繁昌して田舎が衰頽すると云ふことは、誠に憂ふべき事で、私は我が東京に於ても常に言ふて居りますが、田舎に行くと更に強く其事に論及します。此間も伊豆の伊東で一事業を発起した山下信義と云ふ人が来た、此人は帝国大学の法科卒業の学士で、穂積博士が知つて居るので、其紹介により面会を求めて来ました。段々聞いて見た所が、ドウか伊東附近の土地をして一の模範町村にしたいと云つて、町長の大原坦其他二・三の同志と協力して農園を開いて居るといふことである、而して農業なり、工業なり、漁業なり、各種の事業を営むに就ては、切に其従事者の勤勉を必要とする、但し勤勉と云つても古風の退嬰意念でなく、殊に進取的気象を持つて総て学理に基いて、例へば漁業をやるにしても斯くすれば魚が多く取れて利益が多い、野菜の栽培でも斯くすれば宜いと云ふ模範を示して、さうして伊東町を始め其附近の村落をして、農工漁業総ての方面の文明的発達を遂げしめやうと云ふ計画である。それには是非一の試験場を造らねばならぬが、其資金が足らぬ、耕作に必要なる地面も買ひ、移住者の居処も出来たが、兎に角営利的事業を仕やうと云ふのですから、人から寄附金を請ふ訳にも行かず、試験場の設備には困つて居ると云ふから、私は山下氏に答へて、お前さんは真実に遣る気か、一体お国は何処か、甲州で御座います、甲州の人が伊豆の伊東で起業をすると云ふのはドウ云ふ訳か。左様です、私一人ならば伊東と限つた事は御座いません、或は甲州でも遣れぬ事もないが、故郷は誠に範囲が狭い、且つ二・三の同志と申合せた事でもあり、殊に大原坦と云ふ伊東の町長が中々の有志家で、大いに力を添へて遣らうと云ふので、所謂意気相投した為めに伊東と確定した次第で御座いますと答へた。扨て私が斯くの如く念を入れて質問したのは、動もすると、或る事業経営に付て口に唱ふる言葉と事実とは違ふ事がある、それでは誠に面白くないと思ふたからである、併しさう云ふ一種の模範的事業は、口に唱ふる言葉よりは事実の働の多からんことこそ望ましけれ、然るに其実際の事業が其声言に伴はぬと云ふ所謂似て非なるものが世間には往々ある、併し私は敢て山下氏を疑ふ訳ではないがと云つて、段々詰問的に聞いて見ましたが、其説明も正確に、其方法も宜いやうに思ひましたから「夫れなら宜しい、始めてお目に懸つて失礼だが、試験場を設ける金を出して上げやう、幾ら掛りますか」「先づ七百円から千円位」「然らば千円進上しやう、奮励して遣つて御覧なさい」と云つて其金を出して遣りました。山下氏は大層喜んで帰りましたが其後ドウかして一度伊東に来て実地を見て呉れと云ふて来ましたが、未だ行きもしませぬ。蓋し是等も田舎の発達を図る一端と思ふ、果して伊豆の伊東丈けでは何にもならぬか知らないが、兎に角大学生が二三申し合せて、其地方の人々と力を戮せて、真実地方事業の改善発達を図ると云ふことは結構であると思ふ、私は先頃埼玉県の越生に行つても、懇々と地方の有志者に言ふて聞かせ、仙台に行つた時も東北の人は勉強心が足らぬと云つて大いに激励した、又粕壁でも同じやうに言ふて置きました。
要するに、真正なる発達が地方に普及しないと云ふのは、謂はゞ新に
 - 第54巻 p.309 -ページ画像 
享けた文明的教育、霊的作用が唯其頭脳のみに止つて、四肢五体の細胞に能く血管の運行が届かぬので、終には文明の出来損ひになりはせぬか。元来日本の社会は、明治の始めには斯う云ふ有様が強くて、兎角に理屈にのみ走つて、実際の事を粗略にする弊が著しかつた。一例を挙れば、瓦斯の如きものでも、応用化学の上では瓦斯は何であると云ふことは解つて居る、又其瓦斯を作るにはドウ云ふ種類の石炭が宜いか、ドウ云ふ方法にしたら宜いかと云ふことも解つて居る、然るに実際に処して見ると碌な物は出来ない、拠ろなく外国人を雇ふと云ふやうな訳で、夫れから段々覚えて一歩進み二歩進みて今日に至つたのである。実業の方面は此様なる塩梅であつたが、他の一方の政治上では、国際公法は斯うだとか、民法はドウだとか、之を作つて置かんければ外国と対等条約を結ぶことが出来ぬとか、何事も喧しく論じて、精神的に属する働きは一時に進で行つたけれども、実業は之れに伴はない、恰も画にある福助見たやうで、頭許り大きくて足は頗る小にして、試に頭を突くと忽ち倒れて仕舞ふと云ふ体裁だと当時私は口を極めて論じた。所が明治二十四・五年頃から形勢が一変して、実業教育と云ふものも大層進んで来た。私が時々高等商業学校に行つて述べた演説を調べて御覧なさい、必ず其時代の形勢が能く知れる。明治の初は世の中の人がドノ位実業教育に力を向けなかつたかと云ふことは、恰度今日の文明論に就て何も彼も都会のみに集中せしむるを勉めると同様であるが、私はこれは大に憂ふべきことゝ思ふ。現に先頃も桂公爵に言ふた事がある。其際公爵はイヤそんな積りではないと答へられたが、兎角事実はさうなつて来ます。平生さう云ふ憂慮を持つて居る処へ、幸に山下氏の企てが至極宜いと思つたから奨励してやつたのである、而して今日の中外商業新報を見たので、序に此お話をしたのですが、是れは忽にすべき事でないから、他日又一の問題として研究したいと思つて居ります。


(増田明六) 日誌 大正一二年(DK540067k-0003)
第54巻 p.309 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一二年     (増田正純氏所蔵)
六月七日 木 晴
○上略
午後万代重昌氏(岐阜県笠松警察署長)及山下信義氏(模範的理想村落建設熱心家)来訪、子爵と共ニ農村争議問題ニ関する談話を聞いたが、両氏の談話ニ上りし小作争議は、要するニ小作料の減額請求が主たるものであつて、孰れも相当の減少で落着した様子である。