デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
2節 支那・満洲
4款 中国興業株式会社
■綱文

第54巻 p.547-550(DK540102k) ページ画像

大正2年11月(1913年)

是ヨリ先、中華民国大総統袁世凱ヨリ、栄一ニ対シ、当会社ヲ中華民国政府ノ実業開発機関トシ、且ツ、両国親善ノ楔タラシメタキ趣意ヲ以テ、親シク意見ノ交換ヲ行フタメ、栄一ノ来遊ヲ慫慂シ来ル。栄一之ニ応ジ、是月三日出発、十二月初旬
 - 第54巻 p.548 -ページ画像 
帰国ノ予定ヲ以テ、諸般ノ準備ヲ整ヘタルモ、風邪ノタメ中止ノ已ムナキニ至リ、代理トシテ、当会社副総裁倉知鉄吉ヲ派遣ス。


■資料

当社の沿革 三(DK540102k-0001)
第54巻 p.548 ページ画像

当社の沿革 三             (中日実業株式会社所蔵)
○上略 袁世凱氏は孫文氏の意志を尊重し、是非当会社を中国政府の実業開発機関とし、兼て両国親善の源泉とし度く、其の生みの親たる発起人にして且つ現に首席相談役たる「渋沢男爵と面会し親しく意見の交換を行ひたきも、躬は現に大総統の要職に在りて外遊至難なれば願くは渋沢男爵に於て観光旁々来燕あらは幸甚なり、と汪公使を通し慫慂あり」、渋沢男爵に於ては論語の躬行実践者として曲阜の聖廟参詣は多年の宿望なれば、中国実業会社発展の為七旬余の老躯を厭はす敢然渡支の決意され、快く袁氏の招請に応することとなり、十一月中旬を以て発程することとし、当会社幹部並に相談役諸氏との打合せも済み旅程も確定せる処、図らすも同月初旬より風邪に罹られ、宿痾たる喘息併発、就床旬余に及ひたれは、平素如何に健康なりとて、病後の老体にて寒気に向ひ北支那旅行は懸念に堪へず、関係者一同協議の末、今回袁氏との面談は倉知当会社副総裁に於て男爵代理として渡支することに決し、随員一名(野口社員)と当時在学中の男爵令息渋沢正雄氏、支那事情見学の為同行することゝなり、十一月十八日東京出発朝鮮経由にて同月二十七日北京に到着せり○下略


竜門雑誌 第三〇五号・第六八頁大正二年一〇月 ○青淵先生の支那旅行(DK540102k-0002)
第54巻 p.548-549 ページ画像

竜門雑誌  第三〇五号・第六八頁大正二年一〇月
○青淵先生の支那旅行 青淵先生には令息渋沢正雄君・秘書役増田明六君・医師堀井宗一君(本社特別会員)を随ひ、十一月三日新橋を発し支那漫遊の途に就かるゝ筈なるが、旅行日程は大凡左の如しと云ふ
 十一月三日 午前八時三十分新橋発(汽車)神戸着一泊
 同四日   神戸発(汽車)下の関に赴く連絡船に便乗
 同五日   釜山を経て(汽車)京城に赴く一泊
 同六日   京城発(汽車)
 同七日   奉天着
 同八日より十二日迄 奉天に滞在、長春・撫順・大連・旅順等見物
 同十三日  奉天発(汽車)山海関に赴く一泊
 同十四日  山海関発(汽車)北京着
 同十五日より十九日迄 北京滞在、各地見物
 同二十日  北京発(汽車)
 同廿一日  漢口着
 同廿二日  同地滞在
 同廿三日  同地発(船)廿四・五・六日長江を下航し、各地に寄港見物
 同廿七日  南京着一泊
 同廿八日  同地発(汽車)
 同廿九日  上海着
 同三十日及十二月一日 上海滞在、各地見物
 - 第54巻 p.549 -ページ画像 
 十二月二日 上海発(汽船)
 同三日   海上
 同四日   長崎上陸
 長崎上陸後の日程は途中に於て決定の上本社に通知せらるゝ筈なり


渋沢栄一書翰 森恪宛(大正二年)一一月一七日(DK540102k-0003)
第54巻 p.549 ページ画像

渋沢栄一書翰  森恪宛(大正二年)一一月一七日   (松山小三郎氏所蔵)
 尚々盛氏御逢之節御伝声被下度候、又高木氏目下貴地ニ候ハヽ是又宜敷御申通し被下度候也
其後益御清適奉賀候、然者過般貴兄御出京之際略確定之積ニて申上置候老生之民国旅行ハ、是非本月三日発途と予定し諸方との交渉ハ勿論告別も旅装も稍相整候ニ付、万違却無之と随行者一同も諸般之準備出来候由ニて、勇気勃々罷在候処、三十一日に至り俄然感冒之気ニて終ニ臥床、医師之診察を請候始末と相成候、乍去全く一時之風邪ニて両三日保養候ハヽ快方と相考候間、褥中尚発程之心組ニ致居候得共、本月五日高木博士之診察を受候上ニて出立之時日決定之事ニ打合せ、倉知氏其他之人々も右様相考居候処、高木氏ハ案外にも此際之出立ハ老体ニハ頗る危険ニ付切ニ見合候様と被申聞、再三討論切望せしも極力捩止之旨主張せられ、不得已此度ハ旅行中止いたし、来春暖気相催候期節ニ於て啓行之事ニ相成候、右ハ既往に属する経過ニ候得共、貴地之各位へ事情御通知相願度と存し書中申上候義ニ御坐候、右ニ付尚倉知其外之諸君と種々協議を重ね、更に外務省之人々とも相談いたし、北京へ之電報往復等色々と手続を尽し、弥以倉知氏旅行之事ニ相成、明十八日出立致候間、北京ニ於る中国興業会社必要之事務も、貴地ニ関する要件も、頃日来再三協議いたし委曲倉知氏心得罷越候ニ付、充分御助力被下、貴地之民国側各位に対する事共百事恰好ニ協定相成候様御心配可被下候
周氏其外ニ対しても、老生旅行ハ来春ニ相成、此際ハ倉知氏一人出張之事ハ一書老生より書通候ニ付、是又御承知可被下候
老生罷出候ハヽ、此機会を以て盛氏とも会談を重ね、願くハ中国興業ニ対し充分之力添相望可申と予期せし次第ニ付、其辺ハ倉知氏と御打合被下、可然御勧誘有之度候、又従来上海在勤之領事官と中国興業会社とハ聊親密を欠候嫌有之候様被存候ニ付、右等も此際ニ篤と御相談之上融和相謀申度と存候
事業ニ関する企望ニ付而ハ、老生出立と決定之時より幾回となく倉知・山本・尾崎其他之人々と内談之上、寧ロ多端ニ過候位申談置候、夫是倉知氏より御聞合可被下候、右匆々一書可得貴意如此御坐候 拝具
  十一月十七日              渋沢栄一
    森恪様
      梧下
  ○右ハ上海三井物産会社気付ニテ発信ス。封筒消印ハ2.11.18ナリ。


竜門雑誌 第三〇六号・第五四頁大正二年一一月 青淵先生の微恙;青淵先生の支那旅行中止(DK540102k-0004)
第54巻 p.549-550 ページ画像

竜門雑誌  第三〇六号・第五四頁大正二年一一月
○青淵先生の微恙 青淵先生には前月末より感冒の気味にて飛鳥山邸に引籠り静養せられしが、程なく全快せられ、本月六日より兜町事務
 - 第54巻 p.550 -ページ画像 
所に出勤、平常の如く公私の要務に鞅掌せられつゝあり。
○青淵先生の支那旅行中止 青淵先生には前号所載の如く、本月三日出発支那旅行の途に就かるゝ筈なりしも、去月末より微恙の為め延期され居りしが、去五日高木兼寛男診察の結果、右微恙は何等懸念なき迄に恢復されたるも、該地の寒冷は又格別の事なれば此李の旅行は是非見合せらるゝ様と極めて切なる勧告あり、先生も遂に其意を容れ、此旅行を一時中止せらるゝ事となれり。


竜門雑誌 第三〇七号・第八四頁大正二年一二月 ○支那旅行中の渋沢正雄君(DK540102k-0005)
第54巻 p.550 ページ画像

竜門雑誌  第三〇七号・第八四頁大正二年一二月
○支那旅行中の渋沢正雄君 同君は既報の如く、去る十一月二十日新橋出発、中国興業会社副総裁倉知鉄吉氏と同行支那旅行の途に就かれたるが、其後の消息に依れば同月二十二日釜山上陸、京城・安東県を経て二十五日本渓湖炭礦、二十六日奉天、二十七日長春・吉林、二十八日撫順炭坑、二十九日旅順、三十日大連、十二月一日膠洲湾に至り夫より済南府・天津等を見物して五日北京に至り、約三日間滞在、此間同地を中心として附近の各地を見物し、夫れより漢口・南京の各地を経て本月十六七日頃上海に到り、同二十三日頃長崎に帰着せらるゝ予定なり。
  ○倉知副総裁ハ北京ニ滞在十日余ニシテ、ソノ間大総統袁世凱ニ謁シ、又ソノ腹心楊士琦ト協議シテ、株式ノ引受方法、社名変更、会社ノ国籍、本支店ノ所在地、役員権限等会社ノ組織変更ノ大要ヲ取儘メ、帰朝ノ途ニツキ十二月二十四日東京ニ帰着、翌二十五日栄一ニ其報告ヲナス。(「当社の沿革三」ニヨル)。
  ○当会社ハ、大正三年四月「中日実業株式会社」ト改称シ、中国側株主及ビ重役モ一変ス。右会社ニツイテハ款ヲ改ム。

渋沢栄一伝記資料 第五十四巻 終