デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
2節 支那・満洲
6款 日華実業協会
■綱文

第55巻 p.409-411(DK550073k) ページ画像

大正15年2月1日(1926年)

是日、東京銀行倶楽部ニ於テ、当協会幹事会開カル。栄一出席シ、外務省通商局長佐分利貞男等ヨリ、中華民国特別関税会議ノ模様及ビ同国政情ノ報告ヲ聴キ、右ニ関スル意見ノ交換ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一五年(DK550073k-0001)
第55巻 p.409 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年        (渋沢子爵家所蔵)
二月一日 寒
○上略 三時銀行倶楽部ニ抵リ、日華実業協会主催ノ佐分利通商局長トノ協議会ニ出席ス、児玉副会長以下幹事及評議員等支那関係ノ有力者十数名来会シテ、現今支那ノ政状及関税改正ニ付、各国委員協議会ノ顛末ヲ詳細ニ説明セラレ、各員ヨリ種々ノ意見又ハ質問アリテ頗ル有益ノ談話会ナリキ、午後五時半散会シテ直ニ帰宿ス、夜飧後各新聞雑誌類ヲ一覧ス、夜十時過就寝


日華実業協会第六回会務報告書 第九―一〇頁大正一五年一二月刊(DK550073k-0002)
第55巻 p.409 ページ画像

日華実業協会第六回会務報告書  第九―一〇頁大正一五年一二月刊
    役員会並ニ諸会合(大正十五年一月以降)
○上略
支那特別関税会議意見交換会 二月一日、午後二時ヨリ丸ノ内銀行集会所ニ於テ、北京ヨリ帰朝中ノ佐分利通商局長・堀内事務官ノ出席ヲ乞ヒ、幹事会ヲ開ク、渋沢会長・児玉副会長及安川・小野・森・入江・森・角田・白岩・奥村・荻野各幹事出席シ、進捗中ノ関税会議ニ対シ意見交換ノ上、五時散会ス
○下略


現代日本文明史 3 外交史 清沢洌著 第四二七―四二九頁昭和一六年六月刊(DK550073k-0003)
第55巻 p.409-411 ページ画像

現代日本文明史 3 外交史 清沢洌著  第四二七―四二九頁昭和一六年六月刊
 - 第55巻 p.410 -ページ画像 
○第四篇 第三章 国際協調時代
    第二節 北京関税会議に於ける自主行動
 ワシントン会議前後から約十ケ年に亘る日本の外交が、列国に対しては国際聯盟を中心にし、東亜に対してはワシントン会議の諸条約を枢軸にしたものである事については前述した。この間における国際関係の特徴は、問題処理のために会議が行はれたことである。古来、大戦の後には所謂会議外交が行はれるのが常であつて、ナポレオン没落後の欧洲が一時それであつた。即ち一八一四年より一八二二年に至る約十ケ年間は、実に会議外交時代であつた。だが十九世紀を通じ、総ての国際会議を合しても百廿余種、重要なものは大約四十にすぎなかつた。然るに大戦後は、五ケ年の間に百種近くの大小国際会議が開かれ、一ケ年平均二十種三ケ月に五種といふ割合であつた。日本は国際聯盟においては五大理事国の一員であり、また他の国際会議に対しても殆んど参加しないものはなかつた。
 支那に関する問題についても、この会議外交はワシントン会議後引続いて行はれた。同会議において決定されたる条項で、後に開かるる会議によつて決定さるべき事項は少くなかつた。たとへば支那における外国郵便局撤廃、外国駐屯軍撤退に関する件、鉄道運賃劃一に関する決議等がそれであり、また山東問題の細則の如きも、既に解決を待つてゐた。殊に華府会議の規定により北京で開かれた支那関税特別会議(大正十四年十月廿六日より翌十五年七月三日)は、過去二十年提携して来た日英両国が、同盟廃棄後、最初に現はれた両国の衝突史と観らるべきものだつた。
 北京特別関税会議は九国関税条約の規定するところにより、過渡期における「普通品従価二分五厘、奢侈品従価五分の附加税の実施期・目的・条件を議定するための会議」であつた。この会議において支那は劈頭第一に関税自主権案を提出した。その主眼は(一)列国は支那の関税自主権を尊重すべきことを支那政府に向つて正式に宣言し、且現行諸条約の上に存する一切の関税上の制限を撤廃するに同意する事、(二)支那は国定税率条例を遅くも民国十八年(一九二九年)一月一日までに実施すべく、その実施と同時に釐金を撤廃すべきを声明する事といふ二点であつた。当時、支那は北京には段祺瑞が臨時執政としてあつたが、孫伝芳は浙江に、蕭耀南は湖北に、周蔭人は福建に、方本仁は江西に夫々蟠居し、更に孫文は広東に独立政府を有して群雄割拠、支那統一の理想とは相距る遠きものがあつた。
 この提案に対して日本は率先してこれに賛成した。列国の多数は、支那の現状に顧みて関税自主権の如きは到底不可能と考へてゐた際だつたので、この日本の態度に驚倒した。しかし、これに反対すれば、支那の反感を買ふ恐れがある。彼等は渋々これに賛同して、日本の指導的立場に追随せざるを得なかつた。折しも会議継続中に支那の内乱は収拾出来ないまでに拡大し、段祺瑞は下野し、大正十五年六月頃は北京は全くの無政府状態を現出した。何とかして関税会議を打切りたいと考へてゐた英国側は、これに好辞柄を発見し、好機措くべしとして会議は打切られるに至つた。
 この会議で注意すべきは、日本は支那援助の側に廻つて、列国協調
 - 第55巻 p.411 -ページ画像 
の共同戦線から一人脱出したことである。日本の外交輿論の特徴が、協調を兎角に追従、好意を兎角に媚態と見て、その反対の行動ならば事の内容如何に拘らず、これに喝采を送る傾向のあるのは、我等の屡屡経験して来たところである。この場合がさうであつた。日本が指導的位置をとつた事、その事自体を自主外交の現出と考へ、平生支那を増長させることを不可とする論者が却つて喝采した。この行為によつて、幣原外交は必ずしも国際協調のみに終始するものに非ざるを実証することが出来た。国際協調の必要を信ずる幣原外交は、それを破つても支那民衆に恩を売ることの必要を信じたのである。
 この時から日英関係は次第に隔離の傾向をとつて行つた。支那民衆の排外熱は最も強く英国に対し向けられたが、これに対して小気味よくさへ感ずる傾向が日本国民の間にないではなかつた。これは日英同盟廃棄に対する国民的感情の一流露でもあつた。ただ特に溢れ出でんとする支那人の民族的洪水は、この日英両国不一致の間隙を狙ふに至つたのは事実である。その後国民党政府は勢力を得て、昭和四年(一九二九年)一月に日本は事実上国民政府を認め、六月三日特命全権公使芳沢謙吉は正式に信任状を国民政府主席蒋介石に提出した。他面、治外法権・関税条約等に関する審議交渉も進んで、支那が穏健なる途を以て進みさへすれば、その完全なる自主独立は最早時の問題とまでになつてゐた。