デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
2節 支那・満洲
7款 支那銀行設立問題
■綱文

第55巻 p.540-547(DK550113k) ページ画像

大正5年8月27日(1916年)

是日栄一、欧米旅行中ノ阪谷芳郎ニ書翰ヲ送リ、ニュー・ヨークニ於テ、フランク・エー・ヴァンダーリップ及ビジャッジ・エルバート・エッチ・ゲーリート会見ノ上、中国ニ日米共同出資ノ銀行設立ニ関シ、懇談センコトヲ依頼ス。九月十八日、栄一、右ニ関シ、重ネテ阪谷芳郎ニ書翰ヲ送ル。


■資料

渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛 大正五年八月二七日(DK550113k-0001)
第55巻 p.540-541 ページ画像

渋沢栄一書翰  阪谷芳郎宛 大正五年八月二七日   (阪谷子爵家所蔵)
 尚々紐育ニ於てハ高峰氏・家永氏等ニ御逢と存候、御伝声可被下候又米人側ハ、ラツセル、ホルト、メビー博士其他老生之知人ニハ宜敷御申通し被下度候、又桑港御経過ニ候ハヽ、埴原総領事・牛島氏及川上清・笠井金次氏等、米人ニてハムーア氏・ガイ氏等御伝声頼上候也
五月朔東京御発足後益御清適、各地御巡回之趣、時々之端書又ハ新聞紙之報道ニて承及安心いたし居候、留守宅も各家ともニ無別条ニ御坐候、御省念可被下候
御帰途ハ米国通行と相成候由、先頃大隈総理より承り及、当然之義と察上候、右ニ付而特ニ申進候義は、紐育府ニ於て自然ヴワンデリツプ氏(ナシヨナル・シチー・バンク之総裁)と御会見之機会有之候ハヽ曾而愚見御聞ニ入置候支那之事業開発を、日米共同力ニよりたきとの一案ニ付而ハ、貴台よりも充分御説明被下度候、近々米国ニ於る鋼鉄王ゲリー氏、支那視察を了りて東京着之筈ニ付、老生ハ一日王子へ招
 - 第55巻 p.541 -ページ画像 
宴して直接ニ本文申談し、先方之意見を探り候積ニ候得共、要するニ支那放資之事ハ銀行者之業務ニ付、ゲリー氏も満足ニ其意見ハ吐露致間敷と存候
此件ニ付而ハ昨日も石井外相と種々申談候処、全然同意と被申、又今朝大隈総理訪問ニて、夫是談話候も、同様之意向ニ申居候、乍去他方面より承及候処ニてハ、例之五国借款団ニ独之代りニ米を加ふるの一案ニ付、英国ハ頻ニこれを企望するも、日本ハ其同意ニ蹰躇之由ニ候間、果して此不同意ニして事実ニ候ハヽ、前陳之総理又ハ外相之言語も或ハ例之政事家之御坐成答詞ニてハ無之哉と懸念仕候義ニ候、右等ハ其中米国ニ御越可被成貴台ニハ御参考と相成可申と、内々申上候義ニ御坐候、前陳ゲリー氏東京来着ニ付而ハ、充分歓迎之見込ニて、目下手配中ニ御坐候、同氏ハ九月十四日横浜発ニて帰米之途ニ就き候都合ニ付、十月上旬ハ紐育着と存候、もしも其頃貴台同地ニ於て御会見相成候ハヽ、重畳之事ニ候、米国之近況ハ定めし駸々相進候勢と存候日本とても戦争関係ハ昨今ハ多くハ好影響を齎す事のミニ御坐候
米国聯合準備銀行之現状如何ニ候哉、老生之愚見ハ、曾而帰国之際申述候通ニ候得共、其後追々効能相顕候事共申居候向も有之候由ニ候、真想御探窮被下度候
前陳支那開発ニ付日米共同之一案ハ、目下米国ニてもテートと申銀行者唱道致居、既ニ老生へも其意見申来候、是ハ華盛頓之大使館ニて御問合ニ相成候ハヽ相分り可申と存候、可相成ハ右テート氏之人格伎倆等御探究被下度候
○中略
大正五年八月廿七日
                        栄一
    阪谷芳郎様
        梧下
Baron Y. SaKatani


渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛 大正五年九月一七・一八日(DK550113k-0002)
第55巻 p.541-544 ページ画像

渋沢栄一書翰  阪谷芳郎宛 大正五年九月一七・一八日   (阪谷子爵家所蔵)
○上略
偖玆ニ一書を以て特ニ御報道いたし候要件ハ、貴兄米国御着之頃、紐育ニ於て例之米国鋼鉄王ジヤツヂ・ゲリー氏ニ至急御会見相成、支那ニ対する実業上之義ニ付篤と御協議被成下度一事ニ候、右ニ付而ハ昨日石井外相ニも会見委曲御打合之末、外相ハ其段電報ニて欧洲へ向申進候趣ニ候
(欄外記事)
 石井外相之電報ハ、昨日貴兄英京御発足之電報ニ接し候為め米国へ向け発電致候由、只今書状ニて通知有之候、為念申添候也
又今朝も其件ニ付大隈総理へも顛末陳述せし次第ニ候、故ニ本件ニ付
 - 第55巻 p.542 -ページ画像 
而ハゲリー氏との会話ハ老生之一案たりしも、其後我当局ニ於ても大体ハ愚案を是認せし姿ニ相成候ニ付、其御含ニて、もしも米国側之意向老生之案ニ一致之摸様有之候ハヽ、何か具体ニ相成候様企望仕候義ニ御坐候
右鋼鉄王ゲリー氏之東洋視察ハ七月中之事ニて、紐育よりハ高峰博士ラツセル氏、又華盛頓よりハ珍田大使より鄭重之紹介状ニて、ゲリー氏之現状及其実業界ニ於る勢力等詳細ニ被申越、此同氏之旅行ニ付而ハ充分ニ優待致候のミならす、日本之真想篤と貫徹候様尽力可致旨来書も有之候ニ付、老生主として其主任者と相成、官民間之歓迎方法等相定、且王子之宅へ来訪之節も、帝国ホテル往訪之際も、其他宴会之坐談ニ於ても、第一ニ日米親善之継続方法、第二日米両国共同して東西洋文明之融和、第三支那開発ニ付而ハ切ニ日米共同を要する意見を丁寧反復申述、同氏も再三之会話上、本月十一日午前帝国ホテルニ於る会見之節ハ、十分ニ其胸襟を披瀝せられ、其極右協同経営ニ付而ハ何か具体之案件有之哉とのゲリー氏之質問ニ対して、老生ハ支那之貨幣制度を完全ニ改正する事と、満足なる中央銀行之設立を肝要とするも、両者を完整するは大資本を要し、又大手腕を望むニ付、是非とも日米両国之協同力を以て此際着手致候而ハ如何と申述、幸ニゲリー氏ニ於て同意せられ、紐育金融界ニも異見無之候ハ、貴兄恰も欧洲より帰着ニ付、紐育なるヴワンドリツプ氏抔とも協議せられ、篤と阪谷ニ御相談有之度と相約し、ゲリー氏も能々其意を領して帰国之途ニ上り候義ニ御坐候、支那開発ニ付日米之資本を協同云々之事ハ、昨冬老生米国漫遊之時紐育ニ於て各方面之人士ニ唱道し、ヴワンドリツプ氏とハ特ニ意見を交換し、同氏之東洋漫遊を勧誘せしも其機会ニ接せさるハ残念なりしも、前陳ゲリー氏渡来ニ付頗る企望を以て歓迎之手配を為し、其会談上右様ニ相運ひ、兎も角も同氏ハ衷情喜悦して、貴兄と会話し前陳之要件を篤と協議可致とまて口約せしハ老生之満足ニ思惟する義ニ付、前陳之如く石井外相ニも内話し、直ニ此一書相発候義ニ御坐候、右之御談話ニ付而ハ参考書類とも可相成と存し、先年孫文氏第一革命之際貴兄ニ於て御取調相成候書類写、且銀行集会所ニて立案之支那貨幣制度ニ関する印刷物及後藤新平氏私案之東洋銀行設立之意見書等封入さし上申候、詰り此会談も具体之ものニ相成候程ニハ予期せさるも御会話之材料ニもと相考へ封入仕候義ニ御坐候、ゲリー氏御逢之節宜敷御伝語被下候ハ勿論、ヴワンドリツプ氏其他老生米国之知人へハ可然御申伝被下度、又高峰博士等之邦人にも御致声被下度候
尚相洩れ候事共有之候ハヽ、次便ニ可申上候得共、不取敢要件可得貴意如此御座候 敬具
  大正五年九月十七日
                      渋沢栄一
    阪谷芳郎様
 尚々本書相認候際ニも貴方八月六日附ベニス発、九日附トンネル通行之際之端書弐葉落手いたし候、乍序申添候也

副啓 本状ニ申上候日米両国之協力を以て支那之貨幣制度改正及中央
 - 第55巻 p.543 -ページ画像 
銀行設立之大業を完成致度との一案ハ、突然老生よりゲリー氏ニ提案せしニ無之、最初先つ日米親善ニ付両国有力者之採るへき方法ニ付而各自之意見を交換し、順次日米協力之問題ニ推移し、客冬老生紐育ニ於て、政事家・経済家等ニ向つて、支那之実業開発ニ付而ハ、是非共日米両国交譲戮力して之ニ当るを最良之方法と提案せし理由をゲリー氏へも丁寧ニ陳弁し、同氏之同意を求め、且同氏帰米之後ヴワンドリツプ氏と謀り、目下紐育ニ設立せる一大会社之主義をして此点ニ一致せしめ、此際可成ハ中日実業会社と提携して各種之事業を経営するハ両国之為ニも、両会社としても、利益多き次第を詳話し、ゲ氏よりヴ氏ニ其段を篤と伝言相成候様依頼し、更ニ一段遠大なる問題としてハ前陳貨幣制度・中央銀行設立之案件ニ論及し、彼れゲ氏も頗る同案と相見へ、其手段ニ付て反問有之候ニ付、老生之答は此一案ハ軽々ニ決定すへきものニ無之、老生も幾分之腹案有之候も、阪谷男爵ニハ先年第一革命之際、孫逸仙之依頼ニ応し一案を設定せし事も有之、而して現ニ米国巡回之途ニ有之候間、ゲ氏紐育帰着之時、先つ同地銀行者間之意向を諮詢せられ、同意之事なれハ、阪谷氏へ貴方之御意向を示され度、然時ハ阪谷氏よりも其意見ハ開陳可致と存候、而して弥以双方之一致を得る之見込有之候ハヽ、両国政府にも同意を請へ、支那政府より適当之方式を以て嘱托相成候様之手続ニ出候方歟と存候、要するニゲ氏・ブ氏等ニ於て、本案ニ充分之同意あるや、又日米協同ニて之ニ当るを可とするや、其辺之御瀬踏呉々も御注意之上御交渉可被下候
(欄外記事)
 先年御取調之契約案、又ハ後藤新平氏立案之東洋銀行案及手形交換所之起案せし貨幣制度ニ付而之私案等封入差上候ハ、只御交渉之御参考ニ供し候迄ニ御坐候也 栄一
ゲリー氏日本旅行就中東京滞留中ハ老生殊ニ其接待ニ担当し先以相応之歓迎を為し其情意も融和し得たる様存候、乍去北京滞在中例之ゼンクス博士も同地ニ逗留せられ同人ハ排日念有之候由ニ付或ハゲ氏へ対し日本之悪声を放ち候事と存候、其上支那現今之有様ハ排日論満朝と申勢ニも有之ゲ氏も多少烟ニ巻かれ候事と存候、但し日本到着後諸方之交讙《(驩)》ハ大ニゲ氏をして我を敬愛するニ至らしめたる哉之観有之候
昨日石井外相之談ニハ、ゼンクスも今日ハ全然排日説ニハ無之様申居且ゲリー氏之去ル十二日東京商業会議所ニ於る演説ニハ、余りに日米協同を断言せしを驚き候哉ニ承り申候、乍去ゲリー氏ハ他人之問に対して、余は真実ニ所感を陳述せしまてなれハ、帰米之後も、排日派之人々より種々之批難攻撃も可有之、只我所信を以て之ニ応答するのミと申居られ候由ニ御坐候
ゲリー氏之此行ニ付而ハ、高峰博士も力添有之候事と存候、老生も書通ハ致候得共、宜敷御申通し可被下候、又博士主張之理化学研究所之事于今相運ひ不申候、乍去雲烟と消散ハさせ不申候ニ付、此上とも引続き御尽力頼上候旨御申通し可被下候
○中略
  九月十八日                 栄一
    芳郎殿
 - 第55巻 p.544 -ページ画像 
BARON Y. SAKATANI


(阪谷芳郎) 家庭日記 大正五年(DK550113k-0003)
第55巻 p.544 ページ画像

(阪谷芳郎)家庭日記  大正五年     (阪谷子爵家所蔵)
九月二十四日
紐育安着(○イギリスヨリ)○下略
九月二十五日
○上略
高嶺博士《(高峰)》ノ事務所ヲ訪ヒ午餐ノ饗ヲ受ク、余、鶴見 矢部 高嶺 田口 高嶺氏談話
○中略
  一、八月廿七日付渋沢男来状ヲ示サル、ゲリー氏ノコト、ダルブルデー氏未着ノコト
○下略


阪谷芳郎談話筆記(DK550113k-0004)
第55巻 p.544 ページ画像

阪谷芳郎談話筆記             (財団法人竜門社所蔵)
                    昭和十三年二月十六日 於阪谷邸 佐治祐吉・山本勇記
    青淵先生の支那に於て日米両国共同出資による銀行設立計画について
 私が巴里に居る時(註、大正五年聯合国経済会議に出席せられしを指す)渋沢さんから手紙で、亜米利加のヂヤツヂ・ゲーリーが丁度日本に来たから、自分はゲーリーと会つて、日米の共同出資で支那に銀行を作らうぢやないかといふ話をしたところ、ゲーリーも之に賛成した。尚ほ、お前もゲーリーと会つて話を進めて呉れ、といふことだつた。それで私は巴里から帰途、亜米利加でゲーリーと会つたが、ゲーリーからは何とも其話は出なかつたので、其儘私は帰つて来た。
 日本に帰つて渋沢さんにさう話したら、渋沢さんは大さう残念がられて『日米共同の銀行が支那に出来れば、日本の支那に於ける経済的発展の基礎となるし、又日米親善の為めにもなるのに』といふことだつた。
 だが、渋沢さんの私への手紙には、ゲーリーの方でも賛成だといふことであつたし、又渋沢さんはゲーリーにバロン阪谷が行くから会つて呉れと手紙をやつてあるといふことだつたのに、私が亜米利加でゲーリーと会つた時、ゲーリーは其事について何とも切り出さないので向ふが言ひ出さぬのに、私の方から言ひ出すのも変なので、黙つて帰つて来た訳だつた。
 其後もこれはとうとう問題にならなかつた。



〔参考〕竜門雑誌 第三三六号・第一二二―一二三頁大正五年五月 ○阪谷男爵の渡欧(DK550113k-0005)
第55巻 p.544-545 ページ画像

竜門雑誌  第三三六号・第一二二―一二三頁大正五年五月
○阪谷男爵の渡欧 聯合国経済会議に、本邦の特派委員長として参列
 - 第55巻 p.545 -ページ画像 
仰付けられたる本社評議員会長阪谷男爵は、同委員鶴見農商務書記官田大蔵省書記官・矢部大蔵省技師と共に、五月一日午前八時三十分東京駅発汽車にて渡欧の途に上りたり。見送りの重なる者は大隈首相・青淵先生・石井外相・箕浦逓相・武富蔵相・大島陸相・出羽海軍大将・高橋男・大倉男・後藤男其他官民の紳士淑女無慮一千余名に達せり。



〔参考〕大日本紡績聯合会月報 第二七七号・第八―一〇頁 大正四年九月 日支銀行設立意見(DK550113k-0006)
第55巻 p.545-547 ページ画像

大日本紡績聯合会月報  第二七七号・第八―一〇頁 大正四年九月
    日支銀行設立意見
 本篇は今回対支貿易調査会に提案されたるものなり
                 日本棉花株式会社取締役
                      喜多又蔵
      一、支那財界の現状
支那財界の現状は一見貧弱を極め、資本甚しく欠乏し、遊金皆無の観あるも、実は然らざるなり、試に内外商業の最も殷盛なる上海の事実に徴するに、支那人の所有に属する土地家屋・商品・有価証券は巨億に達し、資産家の外国銀行に定期預金を為せる額四千万両内外あり、而して一方支那銀行銭荘仲間は、独力にて数百万両を一時調達するの能力を有たずして、右の如く財界貧弱の外観を示せる所以のものは、社界より完全なる信託を享くに足るべき機関存在せず、資金集散其途を得ざるに職由せること、世人の周知せるところなり
由来支那に於ける旧式銀行業は、資本金二・三万両を超へざる変則無限責の合資組織に成る銭荘の掌るところにして、彼等は直接地方金融の衝に当る中枢金融機関也、而して革命以来《(前カ)》に在りては、比等銭荘は支那各地間の為替及金貸を本業とし、巨額の融通力を有せる山西票号の援助と、在支外国為替銀行よりチヨプローンと称する信用割引制度により、上海にては三・四千万両、香港其他の開港場にて二・三千万両程の融通とを享け来り、所謂一種の親銀行を有したりしを以て甚しき欠陥を感知せざりしも、革命後山西票号は旧政府及民間の貸借棒消に逢いて相踵いて倒閉し、外国銀行も亦チヨプローンを廃し、融通の途ひたと絶へしを以て、銭荘の機能及其の運用又昔日の如くなる能はず、玆に欠陥生したり、而して銭荘以外の中国・交通・通商等の数百万乃至一千万両の資本を有せる数個の新式銀行は、現時存続し、本年又新に殖辺銀行の設立を見、何れも可也の営業成績を挙げつゝあるも素より微力に且つ其の経営不整頓にして幼稚なれば、到底親銀行の任務を完し得る所に非ず、是れ支那財界が前に述べたるが如き現象を呈せる所以なり
更に各地間の為替業に至つては、山西票号大半廃業後、前記新式銀行は何程かの用務を弁じつゝあるも、勿論不充分にして、各地金融の伸縮調和殆んど絶無の現状なるが故に、外国銀行所在地以外に在りては全くパリテイを無視し、為替打歩の騰落極まりなく、或は正銀の輸出禁止を地方官憲に依り妄りに行はるゝの奇観を呈しつゝあり
(此禁止令は外商に適用せらるゝことなければ、有名無実なること云ふ迄もなし)
社会の信託を享くに足るべき金融機関の欠如を最も能く語るものは、
 - 第55巻 p.546 -ページ画像 
昨年及本年募集せし支那政府内国公債取扱手続の一事なり、即ち中央銀行たる中国銀行及他の新式銀行は、民衆の信用を繋ぐに足らずとし香上銀行を其募集取扱に当らしめ、幾許の信用を買はんとせしことありき
支那財界の消長に深甚の関係を有せる我が国は、此が欠陥を済すは至然の使命なり、而して之が実現は我邦人が支那経済界の牛耳を握るてふ一大発展たるべきのみならず、支那国内の経済調節は支那人自身の福祉を増進するものにして、亦実に彼我親善相済の連鎖たるべき也
      二、如何なる銀行を設立すへきや
資本金は二千万円以上たるべし
株主は日支両国人に等分し、若し支那人の応募数に充たざるときほプレミアム附売出、又は日本人の随意応募に委すべし、株主は日本人のみとするも差支なきは勿論なり
日本の特別法の下に成立し、紙幣・債券発行及補給利息等の特典を享有すること欠くべからざる必要条件なるべし
 因に紙幣及債券発行は、目下支那政府の承認を要せず、日本政府の特許だにあらば、支那何処の地に於て之を為すも自由なれども、特に支那政府の賛同を得ば更に妙也
営業種類
  各種商業手形の割引 動不動産の抵当貸附
  支那各要地間為替業 倉庫業等 一般銀行業の外に鉄道・鉱山及利権に関する貸付又は仲介
  国債・社債・地方債の中次、地金銀売買、貨幣交換を営み、且つ支那財界の親銀行を以て任ずべし
 営業地範囲
  満蒙を主とするは本企図の目的に副はざるべければ、支那要地全体を営業目的地とする銀行たるを要す、此意義に叶はゞ、所謂満蒙銀行をして兼営せしむるも可なり
  但し支那に於ける銀行業者は特殊の技能と経験と準備とを要するを以て、創設の初に当りては、上海の如き枢要地よりし、一切の準備成るを俟て漸次に営業範囲を広め、順々に支店を増設し行くこと、台湾銀行の例に傚ふべし
      三、経営困難なりとの世上所説は
        事実なりや
言語風習を殊にせんを以て日本内地の経営に比し多少困難なるは勿論なり、乍併、左の事実を根拠とし困難を云ふは一種の誤謬に隔《(陥)》れるものなるが如し
対人信用 銭荘と取引先との間は、只相手方を信用して無担保当座貸越可也行はるゝも、之は相手方の実際の資力を慎重に計量しての上なること、恰も我銀行家の約束手形に対するが如きものにして、而かも此制度は二回の革命乱により段々廃りつゝあり、現今目星しき貸借は担保附と云ふも妨げなし、左れば新式銀行取引方法に慣馴すること至難に非ず、従て左程の支障に非るや自明なり
外国銀行の不発展 外国銀行の未だ大に発展を見ざる所以は、外国為
 - 第55巻 p.547 -ページ画像 
替を本位とし、自国人に対する取引を別とし、支那財界に対する普通銀行の業務に志励せざるに因るなり、之を以て経営至難の一例とするは当らず
貨幣の不統一 一寸不統一の外観を具へるも、実は各地共銀塊の品位重量を標準とし一定の本位を有せるもの也、而して市上に散布せる雑多の通貨は、一種の商品と見傚して取扱はれつゝあり
銀貨国 資本を銀に切替ゆることも亦危険視さるゝ所なるが、目下の相場にて切替ゆるは大体大した危険なかるべし
仮りに是有りとするも、香上銀行のそれの如く、銀価変動基金を積立て行き保護するも可、又政府をして利子補給せしむれば危険なりと云ふべからず
  銀行開設地
 第一着手
  北京 上海 漢口 重慶 広東
 第二着手
  長沙 天津 寧波 青島 汕頭 香港
 第三着手
  南昌 襄陽 太原 西安 成都 南寧 重南 杭州 済南 営口 南京又は鎮江 其他各省首府大商業地