デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
1款 東京商業会議所
■綱文

第56巻 p.136-140(DK560041k) ページ画像

大正12年5月24日(1923年)

是日、当会議所、商業会議所聯合会第三十回定時会出席ノ大阪・神戸・京都・名古屋・横浜等各地商業会議所議員ヲ、東京会館ニ招待シテ晩餐会ヲ開ク。栄一、陪賓トシテ出席シ、演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一二年(DK560041k-0001)
第56巻 p.136 ページ画像

集会日時通知表  大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
五月廿四日 木 午後四時 山科東商副会頭ヨリ御案内(東京会館)食後帝劇ニテ観劇


東京商業会議所報 第六巻第六号・第一九頁 大正一二年六月 ○商業会議所聯合会員招待会(DK560041k-0002)
第56巻 p.136 ページ画像

東京商業会議所報  第六巻第六号・第一九頁 大正一二年六月
    ○商業会議所聯合会員招待会
 大正十二年五月二十四日午後四時丸の内東京会館に於て、商業会議所聯合会第三十回定時会参会員を招待し晩餐会を開催したり、出席者は大阪・京都・横浜・神戸・名古屋其他の各地商業会議所員百四十五名、陪賓鎌田文部大臣・渋沢子爵・宮田内閣書記官長・馬場法制局長官・西野大蔵次官・岡本農商務次官・芳沢外務省亜細亜局長・永井同通商局長・黒田大蔵省主税局長・野中専売局長官・鶴見農商務省商務局長・村上同水産局長・長満同農務局長・田島同商事課長・橋本同省事務官・近藤同商事課員・山口同課員・九鬼東京府商工課長・中林同課員・永田東京市長代理・新聞通信社員、主催側本会議所議員・特別議員等総員二百十八名にして、午後五時二十分一同食卓に着き、「デザート・コース」に入り、劈頭東京山科副会頭は挨拶を為し、且商業会議所の起原並沿革の概要を説き、兼て聯合会が玆に第三十回を重ぬるに至りたる事績を称讚し、次で京都浜岡会頭は会議所の沿革に就て所感を述べられ、鎌田文部大臣は会議所と実業教育の関係を説きて此招待に対する謝辞を述べられ、最後に渋沢子爵は会議所の沿革と其発達を絮説して此招待宴を感謝せられ、主客一同歓を竭し、午後七時より帝国劇場に移り観劇を為し、午後十時二十分散会したり(各演説の速記は次号に掲ぐ)

 - 第56巻 p.137 -ページ画像 

東京商業会議所報 第六巻第七号・第一三―一五頁 大正一二年七月 ○聯合会祝賀招待会速記(DK560041k-0003)
第56巻 p.137-140 ページ画像

東京商業会議所報  第六巻第七号・第一三―一五頁 大正一二年七月
    ○聯合会祝賀招待会速記
 五月二十二日より三日間、東京商業会議所に於て商業会議所聯合会第三十回定時会を開催したるが、東京商業会議所は聯合会の第三十回定時会を祝賀するため、五月二十四日聯合会閉会後、参加会員を東京会館に招待し晩餐会を開催したる事は前号処載の如くなり。而して当日の演説速記を掲ぐれば左の如し。
      山科副会頭演説
 今日は全国商業会議所聯合会の第三十回の定時会を開会致しましたに就き、之を祝福する意味に於きまして、玆に御招待を申上げた次第で、尚ほ併せて今回定時会に御出席になりました各位の労を謝する意味に於て、玆に宴を設けして、幸ひ御繰合せを願ひ斯く多数御来臨を忝ふ致しましたことは、主催者東京商業会議所と致しまして、光栄且つ喜びに堪へない次第であります、玆に謹んで御礼を申上げます。回顧致しますれば明治十一年、此処に御在になりまする渋沢子爵の御力に依つて、商法会議所の設立を見たのであります、而して其後又更に此商法会議所が商工会と確か明治十六年になりました、更に二十四年に至りまして、始めて商業会議所なるものに改称せられた次第であります、而して明治二十五年には全国会議所の聯合会の第一回の会議を京都に於きまして、今此処に御出席になつて居りまする浜岡光哲君の会長の下に御開きになつたのであります。之を数へ来たれば正に三十二年に相成ります、其間に於きまして明治四十一年、二年は余程問題がありましたものと見えまして、数回臨時会がありました為めに定時会がありませぬでした、其故に本年は三十回、即ち三十年目の定時会に当りますのであります、即ち之を祝賀する所以であるのであります私は今日は多くは申上げませぬ、是で止めて置きまして聯合会の益々隆盛ならんことを希望致しますると同時に、玆に盃を挙げまして御来臨各位の健康を祝したいと思ひます。(拍手起る)
      浜岡光哲君演説
 此度聯合会に御出席になりました諸君を代表致しまして、東京商業会議所に御挨拶を申上げます、只今山科君から御挨拶がありました通り、此全国聯合会と云ふものは既に三十年の齢に達しました ○中略
 回顧しますれば、只今山科さんの御話に依る通り、会議所は御当所即ち東京が初めてであつて確か明治十一年であつたと記憶致します。此処に御在になる私の尊敬致しまする所の渋沢子爵が、此方で御やりに成つたのでありまして、どう云ふ具合で其東京商会議所《(法脱)》と云ふものが出来たかと申しますと、確か其時には英吉利の公使は『パーク』氏《(ス脱)》であつたと存じます、其頃は条約改正の洵にやかましい時代で、其時分此『ゼ・チエンバー・オブ・コンマルス』と云ふものは其時の外交官は余り御承知なかつたと見えまして、此方にも商法会議所を造らんければならぬと云ふやうなことが、或は動機になつたのではないかと思ふ、そこで渋沢子爵は是非之を起さなければならぬと云ふ予ての御考がある所より、又其説が当路者間にも起つた為めに、渋沢子爵を首めとて益田孝・福地源一郎それらの諸君が創立せられたのが此商法会
 - 第56巻 p.138 -ページ画像 
議所の即ち起源であると思ふ、所が段々やつて見ました所が一年や二年は何うやらやつて行けましたが、それから十五・六年から向ふになるとどうしても経費が足らない、随分苦情が多かつた、其時は今日のやうな法律はありませぬから、全く会員組織でやつたのでございますが、或は気息奄々と申すやうな風であつた、そこで二十年に是ではとうもならぬと云ふので、商業会議所と云ふものを、うんと盛にして商業並殖産の奨励をせんけれはならぬ、と云ふことに就きまして、渋沢子爵も非常に御心配に為られました、吾々も憂慮致した結果、海外旅行を企てまして、特に彼方の商業会議所の組織、それから方法を段々取調べて参つたのでございます、それから帰りまして何処の例に倣つたが宜いかと思つて、ずつと調べた上では、米国のに仏蘭西のを加味したものを造つた方が先づ日本の商業会議所としては一番適当であらうと云ふて、其案を造りました。確か其時の農商務大臣の井上伯に御話申上げた所が、それは宜からう、どしどしやれ、さうしてそれをやつて商業会議所を盛にして、而して全国の商業を盛んにする方が宜からうと云ふことに御承知を願ひまして、其省令案を造りましたのが即ち今日の商業会議所の法規の基であるのであります。それから愈々之を実施せられましたのは、後藤伯の農商務大臣の時こございまして、実現して参つたのが確か二十四年と存じます。そこで兎角地方の商工業の発達奨励を致しまするに就てはそれで宜しいが、日本全体の商工業の輿論を決めて大いに進めて参ると云ふには此商業会議所だけではいけませぬので、そこで商工会と云ふものを造りまして、さうして是で日本中の商工業を政府の総ての法規総ての条例でやる積りで居りましたが、是も一回か二回で終つてしまつた、所が地方に商業会議所が起つて漸く成立つた次第であります、併しまだ是では迚も互に相連絡して事を為すと云ふことは出来ないと云ふので、二十六年に聯合会を開きましたのが聯合会の初めであります、只今何方か簡単と云ふ御言葉がございましたから、是で私は終ります、斯様にしてそれが三十歳に達しまして祝賀会をすると云ふことは洵に結構なことであります、厚く感謝を致します。終りに望みまして東京商業会議所の益々隆盛ならむことを祈ります。(拍手起る)
      鎌田文部大臣演説 ○略ス
      渋沢子爵演説
 会長、閣下、満場の諸君、時間もごさいませぬし、且つ声の嗄れた私が、長々しいことは申上げませぬから暫時の御聴き取りが願ひたうこざいます、私は今日斯る席に参上すべき資格はないのです、併ながら明治十一年の昔を考へますと、生きて居る限りは参上せむければならぬと思ひまして、玆に罷り出た次第でございます、只今副会長から三十年を記念し将来を祝賀する為めに此盛宴を張られたと云ふ御話がございました、又浜岡君はまだ御若い方と思つて居りましたが、昔のことを私以上に御承知で詳しい御話がありました、商業会議所の設立頃のことは私が申上げたいと思つたことは、既に同君の御話で皆様の御耳に入りましたから、重ねて御申上げませぬけれども、丁度数へますと四十五年前で、今浜岡君の御話は少々の違ひがあつて、浜岡君は
 - 第56巻 p.139 -ページ画像 
私の骨折があつたと云はれましたが、中々以て骨折所ではなくて、私が叱かられつゝやつて、漸く商業会議所が出来たのであります。其時の英国の公使は『パークス』氏で、大蔵大臣は故伊藤さん、内務大臣の故大久保さんが危険なことがあつて、其代りに一時内務大臣の職に就かれた伊藤さんが、其頃税目問題に就いて御話をして、一体輿論が云々と云ふことを言ふたのです、さうすると『パークス』氏が夫を聞込まれて、輿論とは何をさして言ひますか、貴方の意見を輿論と云ふのでございませうか、一体日本に輿論なるものが何処にございますか斯うやられたので、返事が出来なかつたのであります。此事があつてから輿論を告ることがどうしても必要であると云ふので、夫れが商業会議所と云ふものゝ生れ出る原因となつたのである、先程浜岡君も言はれましたが、実は情けない有様に成立したと申さねはならぬ、何しろ四十五年以前のことですから、昔を考へると洵に情ない有様でありました、其昔を見た眼から、山科君が全国商業会議所の御代表で総理大臣に御話があつたことを考へますと、実に今昔の感なきを得ませぬ総理大臣が之に答へて、商業会議所の言葉は決して吾々は鵜呑みには致さぬと挨拶された相ですが、此の鵜呑に致さぬと云ふ言葉は、解釈のしやうによつては、否やなものは果さぬと云ふ意味にも聞えます、然し若し諸君がさう解釈するなら、此言葉の意味を十分に咀嚼したと申されませぬ、即ち斯の如く商業会議所の意見を厚く重く見られると云ふのは、如何にも四十五年の歳月を費した結果首肯されるのであります、今日の此進歩発達を来したと云ふことは実に喜ばしいことでございます、私は三十九年に商業会議所を辞しましてから、最早や十数年の歳月を経て居りますが、此間に斯の如く進歩致したと思ふと実に喜ばしいのでございまして、是は諸君に対して、夫こそ厚く御礼を申上げねばなりませぬのでございます、併し世の中のことは唯だ喜んでばかりは居られませぬ、畢竟さう云ふ様に進んで来たのは唯だ日本それ自身ばかりの力ではない、世界的の関係から進んだと云ふことを諸君が御考へなさらなければいかぬと思ふ、名誉には伴ふ責任がある、更に進んで商業会議所を如何に進めつゝ維持して行くかと云ふことは名誉に伴ふ皆様の責任ではないかと思ふのであります、世の中が段々に世界的になることは単り商業会議所ばかりではございませぬ。此世替的関係《(界)》に就て諸君に一言申し上げて置きたいことがあります、夫れは欧羅巴戦乱に依つて生れ出た所の国際聯盟に因んだ国際聯盟協会と云ふものが各国々に成立して居ると云ふことです、或る点から言ふと無用の仕事のやうに見えますけれども、国家の進歩、未来を考へるとどうしても国際的関係を粗略にすることが出来ぬと云ふことは、私の喋々を要する迄もない、日本の同協会にては、私の如き外国の事情を知らぬこんな年寄を尚ほ会長に任じて、さうして之に努力せざるを得ざらしめ居るのは、どうか御察し下すつて宜かろうと思ふのであります、此国際聯盟協会は是非東京ばかりの仕事でなく、日本国家の進歩発達の為めに必要である、斯う思ひますので、追々に各地に罷り出て聯盟協会の宣伝を致そうと思ひますからどうぞ宜しく……。
 今日の祝賀に際して私は玆に一言申上げた次第であります。(拍手
 - 第56巻 p.140 -ページ画像 
起る)