デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
1款 同族
■綱文

第57巻 p.46-47(DK570020k) ページ画像

昭和7年1月31日(1932年)

是日、栄一長女穂積歌子逝ク。


■資料

竜門雑誌 第五二一号・第一一四頁 昭和七年二月 穂積歌子氏逝去さる(DK570020k-0001)
第57巻 p.46 ページ画像

竜門雑誌  第五二一号・第一一四頁 昭和七年二月
    穂積歌子氏逝去さる
 青淵先生の長女にて故男爵穂積陳重氏夫人歌子氏は、本社評議員男爵穂積重遠氏の御母堂であるが、去る一月十三日より感冒にて引籠御静養中の処肺炎を発し、入沢達吉博士を主治医として阿久津博士・林金子・広瀬の諸国手により慎重療養を続けて居た。然るに経過順調ならず、剰へ食欲不進、疲労増加して、三十日重態に陥り、遂に三十一日午前十時十七分逝去された。
○下略


穂積歌子 蘆谷蘆村著 第二八四―二九〇頁 昭和九年一月刊(DK570020k-0002)
第57巻 p.46-47 ページ画像

穂積歌子 蘆谷盧村著  第二八四―二九〇頁 昭和九年一月刊
  第十章
    晩年と臨終
○上略
 昭和三年、渋沢子爵米寿のお祝ひが目出度く済みたる後は、子爵の健康漸く衰へましたので、歌子刀自の孝養は一としほ厚きを加へましたが、昭和六年十一月十一日、父君つひに薨去せられました後は『わが務め既に終れり』といふ安心のために、張りつめた心が一時にゆるんだのでありませう。めつきりと老いの色が濃くなりました。
 其の年の十二月二十八日、郷里血洗島に、故子爵の追悼式が挙げられましたので、大雨の中を帰郷され、八基村小学校に於ける追悼式に臨まれましたのは、毎年のやうに親しみ仰いだ刀自の姿を、八基村の人々が見た最後でありました。翌二十九日は、飛鳥山の渋沢邸に於て
 - 第57巻 p.47 -ページ画像 
四十九日の法要が営まれる筈なので、刀自はゆつくりと疲れを休められる暇もなく早朝帰京、右法要に列席されました。三十日もあはたゞしく過ぎ、三十一日には、信州善光寺より放送された除夜の鐘をきいて床に入られましたが、その夜の鐘の音は、いかにさびしくひゞいたことでありませう。
 翌けて昭和七年一月一日には、葉山の別荘に赴かれ、わびしい元日をすごされました。 ○中略 十一日には、亡き父上の忌日に当りますので家族一同で墓参をすました上、夜は飛鳥山邸で追善の読経を聴聞されましたが、此時既に感冒にかゝつてをられたと見え、頻りに『寒い、寒い』といつてをられたとのことです。
 十二日は何事もなく過ぎましたが、十三日の朝、髪を洗らつて居られる間に、急に悪寒を感じ、急いで髪を束ねたまゝ床に入られると、発熱三十九度に上りましたので、近くの医学士広瀬巍氏を招き、診察を受けられました。 ○中略
 三十日には、刀自の病状いよいよ危篤に見えたので、呉鎮守府の律之助 ○次男氏に宛て、頻繁に電報が発せられました。 ○中略 翌朝、律之助氏の帰られてから、まだ一時間も脈搏を保たれ、三十一日午前十時十七分いとも安らかに大往生をとげられたのであります。 ○下略