デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第57巻 p.66-67(DK570025k) ページ画像

明治43年7月4日(1910年)

是日、栄一ノ従兄渋沢喜作長男作太郎逝ク。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570025k-0001)
第57巻 p.66 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
七月一日 晴 暑
○上略 午後三時本郷大学ノ病院ニ抵リ作太郎氏ノ病ヲ訪フ ○下略
   ○中略。
七月三日 曇又雨 冷
○上略 十一時渋沢喜作氏来話ス、作太郎病症ニ付種々ノ談話ヲ為ス ○中略 午後電話ニテ入沢氏ニ明日ノ会見ヲ申遣ス
七月四日 雨 冷
○上略 九時前一来人ニ接シ直ニ自働車ニテ入沢博士ヲ本郷ニ訪ヒ、渋沢作太郎氏ノ病ヲ問合ハス、後青山博士ヲ大学病院ノ詰所ニ訪フモ出勤前ニテ面会セス、依テ作太郎氏ノ病室ヲ訪ヘシテ終ニ《(ニ)》病死セリ、依テ後事ニ関シ種々ノ事務ヲ処理ス
○下略
七月五日 曇 冷
○上略 白金ニ抵リ、渋沢作太郎歿後ノ事ニ関シ種々ノ協議ヲ為ス ○下略
   ○中略。
七月八日 曇 暑
○上略 一時麻布白金ニ抵リ、作太郎ノ葬儀ニ列ス、目黒村祐天寺ニ抵リ葬式ヲ行フ ○中略
作太郎葬儀ハ午後二時出棺五時埋葬ヲ終ル、会スル者内外人士頗ル多ク盛式ナリキ
○下略


(八十島親徳) 日録 明治四三年(DK570025k-0002)
第57巻 p.66 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四三年   (八十島親義氏所蔵)
七月五日 晴
渋沢作太郎氏春来胃壊《(潰)》ヨウ、接護腺炎《(摂)》ニテ悩マレシ処、膿毒症《(尿)》ニテ昨日大学医院ニテ逝去、五十才、追惜ノ至也、今朝白金ノ氏ノ邸ニ至リ弔ス ○下略


中外商業新報 第八六九〇号 明治四三年七月九日 渋沢作太郎氏葬儀(DK570025k-0003)
第57巻 p.66-67 ページ画像

中外商業新報  第八六九〇号 明治四三年七月九日
    渋沢作太郎氏葬儀
去る四日逝去せられたる故渋沢作太郎氏の葬儀は八日午後芝白金今里なる自宅出棺、目黒祐天寺に於いて仏式を以て施行せられたるが、氏は横浜実業界の重鎮として渋沢商会を経営したる外に各種の事業に関係し、尚ほ横浜市の重要なる名誉職を帯び各方面に活動せられし事とて、内外人間に交友極めてひろく且つ多かりしかば、当日の会葬者は大谷・原・小野・左右田・来栖・朝田の横浜実業家諸氏、各商店主、横浜在留の外国紳商、同市各名誉職を始めとし益田・大倉・森村・朝吹・日比谷・加藤・中野・福原等主なる東京実業家諸氏、其他米穀・
 - 第57巻 p.67 -ページ画像 
株式両仲買、正米問屋店主等無慮一千余名、喪主及び親戚側としては渋沢男を始め同家一統何れも徒歩にて棺に従ひ、他の葬送者は車馬にて従へたるが、生花・造花は同家にて堅く謝絶したるに関はらず、親近者より寄贈せられたるもの数十、列は蜿々として約二十丁に渉り、粛々白金台町を真一文字に火薬庫前を横り目黒停車場傍より右に馬見所を迂回して式場祐天寺に到着、玆にて厳かなる読経あり、遺族親戚一同順次焼香を終りて、遺骸は同墓畔幽邃の地に埋葬せらる、此盛大にして而も荘重沈痛なりし葬儀は故人在世当時の交情の程も偲れて痛く会葬者の心を惹きたるが、別けて人生の一大逆命に遭ひ万重の悲哀を胸底に蔵める白髪の父君喜作翁が、未亡人及愛孫等と共に葬送せられし一事には会葬者悉く袖を絞りき