デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第57巻 p.71-77(DK570031k) ページ画像

大正元年8月30日(1912年)

是日、栄一ノ従兄渋沢喜作逝ク。九月四日栄一、芝増上寺ニ於ケル葬儀ニ列シテ、追悼ノ辞ヲ述ブ。


■資料

(芝崎確次郎) 日記 明治四五年(DK570031k-0001)
第57巻 p.71 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記  明治四五年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
(八月)
三十日 晴
例刻出勤候事
今朝綱町ヘ立寄、白金台町ナル渋沢喜作翁死去セラレタル旨奥方ヨリ承ル、午前十一時頃飛鳥山邸ヨリ電話にて為知之アリ


竜門雑誌 第二九二号・第五九頁 大正元年九月 ○渋沢喜作君逝去(DK570031k-0002)
第57巻 p.71-72 ページ画像

竜門雑誌  第二九二号・第五九頁 大正元年九月
○渋沢喜作君逝去 青淵先生の従兄渋沢喜作君は予ねて僂麻窒斯の宿痾あり、日頃囲碁を嗜みて静養怠りなかりしが、八月二十九日に至り脱疽病を併発し病勢俄に募りて医薬竟に効を奏せず、翌三十日午前一時溘焉逝去せられたり、亨年七十五歳。其略歴は左の如し。
 君は武州大里郡血洗島村の郷士渋沢文平氏の長男にして、始め成一郎と称し、後喜作と改む、壮年の頃従弟青淵先生と故尾高惇忠氏と三人立志を誓ひて京都に赴き、一橋家の用人となり、三人同居自炊して辛酸を嘗めつゝ国事に奔走し、後ち青淵先生と与に幕府に仕へ青淵先生は命に依て渡欧し、喜作氏は大政奉還に反対し、天野八郎氏等と共に彰義隊々長となり上野に籠り、次で更に振武軍を組織して武州田無より箱根ケ崎辺に陣取り、上野勢と相呼応して大に為す所あらんと画策する所ありしが、上野の彰義隊先づ敗れ、尋いで振武軍も武州飯能に於て一敗地に塗れて奥州に脱走し、一旦榎本武揚大鳥圭介氏等と共に函館五稜廓に拠りしが、遂に官軍に降り、国事犯として将に斬られんとせしを黒田清隆氏に救はれて特赦となり、後大蔵省に出仕し、命を受けて欧洲の商業を視察し、後官を辞して開港当時の横浜に生糸問屋を営み、また深川福住町に渋沢商店を起
 - 第57巻 p.72 -ページ画像 
し、米穀依托販売業を開き、何れも成功して今日あるに至れり、東京株式取引所創設に際しても発起人となり、其他諸会社の重役を勤めて実業界に貢献したること頗る多し、二十年前商店を長男作太郎氏に譲りしも、同氏は数年前死亡し、其跡を三男義一氏に継がしめ現在に至れり。
葬儀は九月四日午前九時芝増上寺に於て執行せられしが、読経後青淵先生の追弔演説(演説欄参照)あり、会葬者は一入哀悼の情を催ほせりといふ、吾人は謹で玆に哀悼の意を表す、嗚呼悼しい哉。


竜門雑誌 第二九二号・第一五―二二頁 大正元年九月 ○秀総院喜作居士の霊前に於て 青淵先生(DK570031k-0003)
第57巻 p.72-77 ページ画像

竜門雑誌  第二九二号・第一五―二二頁 大正元年九月
    ○秀総院喜作居士の霊前に於て    青淵先生
本日の葬儀に際しまして、私は秀総院喜作居士とは殊に深い因縁を持つて居りまするので、玆に一言の弔辞を述べたうございます、御会葬の道俗各位及御親戚の皆様方にも、炎暑の際長い時間を煩はしまするのを深く恐縮に存じますけれども、此幽明の大別離に於て私の衷情を一言申述べることを、御許容を蒙りたいのでございます。
私が居士との交誼は、親戚の関係は申すまでもございまぬが、第一に郷里を同うし、又年輩を等うし、其嗜好に、其業体に、其教育に殆ど一身分体と申しても宜しい有様に成長致したのでございます、時恰も時勢の変遷に遭遇しまして、共に郷里を去つて、一身の位地を変更すると云ふ場合に至り、再び転じて遂に此聖代に浴すると云ふ境遇に至りまする其径路は、所謂高山もあれば、大川もあり、峻嶺もあれば、懸崖もあり、又或る場合には其道路平坦砥の如く、春の霞の長閑な時にも際会致したのでございます。
居士と私との生涯は之を別けて三段に言ひ得ると思ふのでございます郷里に成長致して、共に其業を勉め、其業務の間に農民ながら文武の道に心懸け、聊か社会国家に貢献しやうと考へたことも、全く同一でございます、その初め幼少の時などを回想しますると、多分私が七歳の時であつた、疱瘡を病んで居る際に、他の友人では自分が安じられぬ、是非新屋敷から喜作が来て呉れねば、私は食事をせぬと云うて母親を大層困らせたことがある、依て之を通ずると、居士は喜んで来りて終日私を慰撫して呉れたなぞと云ふことは、今も尚ほ記憶に存して居ります、軈て成童になりましてから互に家業に従事し、相共に其業を勉励しました、両人の父が兄弟であつて、其志を同ふしたから、勢ひ両人も親しく相交はることは、理の当然でございます、共に郷里に於て業体を発展しやうと考へて居つた、然るに前申す通、世の変遷が吾々の心を刺戟して、居士が二十六歳、私が二十四歳の時、遂に故郷を去らねばならぬと云ふ境遇に立至つたのでございます、其玆に至りましたのも唯両人が自ら求めて詭道に走り、暴戻を企図したと云ふばかりではなかつたのでございます、居士は私より二歳の兄であつて、身体も大きく、総ての方面に私よりも長ずるだけ、それだけ発達して居りました、手を携へて故郷を去り、行末如何に相成るか、目的なしに京都に遊びましたのも、一橋家に政権を執つて居る平岡といふ人に聊かの便りを持つて参つたのでございます、但し斯る場合になつたの
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は両人の一身上に危惧を避けねばならぬと云ふ必要に迫つたからであります、此郷里を去るまでが、前に三段に別け得ると申した其第一期と云うて宜からうと思ふのでございます。
さて両人とも京都に着しましても、未だ官途に職を求むると云ふ意見ではなかつたので、互に此頽敗した幕府を、如何にしたら廓清が出来るであらう、又目前跳梁跋扈する外人を如何にしたら掃攘することが出来るであらう、此の如き式微の王室を如何にしたら回復することが出来るであらうと、是等の事柄が、居士と私の胸には始終蟠つて居つたのでございます、然るに前に申す一身上の危殆といふのは、其頃の幕政は、農民若くは町人の国家を談ずるは頗る禁物でありました、苟めにも右やうな挙動がございますれば、忽ち逮捕すると云ふのが時態であつた、而して不幸にも両人の親戚が二人関東に於て危禍に罹つて捕縛を受けました、其連累が居士と私に及ばむとした、左なきだに嫌疑を受けて居る身は最早免るゝに地なしと云ふ場合に至りまして、玆に於て互に節を屈して一橋の家来に相成つたと云ふのが第一段の変化でございます、両人とも一橋の藩士と相成りました以来、国家は益々多事、藩務も頗る匆忙、居士は性質上多く軍務に従事しました、私は其時から聊か経済上に得る所でもありましたか、会計事務に従事しました、相携へて藩務を整理拡張し、小藩たりとも一橋をして幕末に大に発揮する所あらしめたいと努めたのでありましたが、これも事、予期と違ひまして、賢君と仰ぐ慶喜公は、十四代の将軍の薨去に付て、入つて将軍家を継ぐといふことに相成りました、此時に居士と私は、実に涙を揮つて止めたのでございます。若し今大統を継がれたならば如何に賢明と世間から言はれても、決して此衰退した幕府を恢復することは出来ぬ、所謂飛で火に投ずると同じやうな訳になる。幸に夫れ迄は守衛総督といふ職掌を以て朝幕の間を調和するの位地に立つて居るから、諸藩の見る所も緩和して居るけれども、若し之を正面に立たしめたならば、各藩幕府を悪むの情は真向に来るから実に危険であるといふ趣意であつた、此議論は特に居士の主張した所でございました私も勿論同論で、相共に再三再四要路に説きましたけれども、悲哉両人とも、位地も卑し力も乏しく、遂に用ゐられずして、大統を継がれたのでございます、折柄に私は海外行を命ぜられ、居士は国に留つて大に慶喜公を幕府に補翼するといふ立場になりましたが、一橋に居ります時と異りて幕府に遷つて後とは、居士と雖も昔日の如くなり得なかつたので、稍や失意で其職務に拮据されたと言はねばならぬのでございます、此時は私は海外に居りましたから、内地の事情は精しく知り得ませなんだ、又之を精しく知るも今日居士の為に弔辞として語るを好みませぬのでございます、遂に王政復古に際して一騒擾を起しました、もしも大義名分から論じたら其是非は解りませぬけれども、居士の如き負じ魂からは所謂武士の意気地、已む得ず君公の謹慎恭順にも拘らず、どうぞ君公をして、逆賊である、朝威を蔑ろにしたものであると云ふ冤枉は解きたいと云ふ意念が、玆に彰義隊と云ふものを起すに至つたのと想察致します、私の欧羅巴から帰りましたのは慶応四年即ち明治元年の十一月でありましたから、今述べたる彰義隊の事柄
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は既に済んだ後でございました。日本に帰つて親戚古旧、殊に志を同うした居士を尋ねても其影だも見ることは出来ない、時に居士は函館に榎本武揚氏其他永井・松平・大鳥・沢などの諸氏と、頻に官軍に抗して奮闘して居つたのです、併し私が帰国の後大勢を推察しますると到底其事の成功するものではなからう、数年前故郷を離るゝ時、是から先共に何れの地に死所を得るか、時勢とは言ひながら、生れるは其郷を同ふしても、死ぬ処は違ふであらうと相語つたことが、丁度慶応四年の冬に至て、事実となるを歎息せざるを得ぬやうな場合でありました、私とても其儘已む訳にいかぬ為に、駿河に参つて、我一身を保ち、余所ながら御謹慎中の慶喜公を補翼すると云ふことを努めました居士は此際に辛苦艱難残兵を集めて悪戦苦闘を重ねましたが、時利あらず、遂に官軍に降服すると云ふことに相成つて、続いて陸軍省の糺問所の囹圄の人と相成つたのでございます、居ること三年、其中私は官途に就かねばならぬ場合に相成りまして、明治二年の冬大蔵省に出仕致しました。併し其頃は居士は未だ囹圄の人たる際であつた。三年を越えて私が大蔵省に居る頃に、聖世の余沢、大赦を得て、始めて放免されて、居士は私の宅へ引取り得るといふことに相成つたのであります、これが即ち明治五年と覚えて居ります、続いて私が大蔵省に居りましたから、今更に他方面で働くは心苦しいやうに思ふて、等く官途に就くことを勧めまして、居士の好む所ではなかつたやうですが、終に大蔵省に出仕されましたのが明治五年であつたと覚えて居る、前にも申す通故郷に居る時の生長工合が、或は農業に或は養蚕に、実務に経験の多い居士でありましたからして、大蔵省に出仕するや、多く其方面の事務に鞅掌されました、明治五年の冬、日本の養蚕製糸及び殖産工業を、海外のそれと比較研究すると云ふことを、大蔵省から命ぜられまして、伊太利・仏蘭西及び其他の国々を視察し、帰途亜米利加を廻はるが宜からうと云ふことで、海外派遣の命を受けました、丁度十一月の五日頃でもありましたか、私は為に横浜に行きて送別をしたことまで記憶して居ります、併し其翌年即ち明治六年には、私の境遇が大蔵省に職を執ることの出来ない場合に立至つた、故に居士の海外留学中にも拘はらず、私は職を辞した、蓋し其職を辞すると云ふことは、敢て私一身に係つたことでない、時の財政当局者と、他の政務官との衝突とも申すべきもので、今に繁昌してお出の井上侯爵が大蔵卿に《(マヽ)》任じて居られましたが、其説と太政官の諸公との意見が相一致せなんだに坐したのであります、居士の海外から帰られたのは明治六年の十月頃であつた、其出立や大蔵省主脳者の井上侯、之を補翼する所の渋沢などゝ相談して出掛けられたものが、帰られると其人が変つて居りますから、居士の気牲としては引続いて官務に従事することを好みませぬで、其年であつたか、七年の初めであつたか、遂に官途を去りましたのであります。故に政治の方面は新旧二つに別れますけれども、一橋に仕へ、幕府に任じ、再び朝廷に出るといふ此歳月が殆ど六七年許でございませう、之が前に申す第三期の中の第二段に属する居士身上の経過であると申して宜からうと思ふのでございます、此間居士の各方面に苦心尽瘁されたことは、種々なる記憶から玆に縷述しま
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すると、中々に短時間に申し尽すことは出来ませぬのです、其間には種々な事情もあり、亦義理もあり、殊に居士の人となりは負じ魂の至て強い、義侠に富むところの気質でありましたから、此間に処するに随分困難のことがあつたらうと察するのであります、而して私は始終行動を一にして兄弟も啻ならぬ身柄であつたから、或る場合には大に其助力を受け、又は之を緩和したことがあつたと記憶致すのでございます。
明治七年現政府の職を辞しましてからが、実業界の居士であります、時に自ら思ひらく、如何にして将来に身を立てるが宜しいか、恰も其頃はそろそろ会社組織なども起り掛つて居りましたけれど、文明的組織を以て事業の経営をすると云ふことは社界《(会)》も知らず、私も亦甚だ未熟であつたが、居士も尚ほ然りと謂はねばならぬ、而して私は明治六年に官を辞すると同時に、どうしても日本の金融の基礎を立てねばならぬと云ふことを感じました為に、今も引続いて其職に居りまする第一銀行に従事した、即ち未熟なる銀行者となつて居つた、明治七年に居士が向後一身の方向を如何にしたら宜からうかと云ふ相談に、種々協議の末、重なる日本の産物に付て力を入れて見たいと云ふことを希望された、現に今尚ほ渋沢の店として、相当な経営を為し居られまする横浜に於ける生糸の売込商売、又東京に於ける米の委託販売、此二ツの事業は即ち明治七年に居士が事業界に力を入れるには、斯くしたが宜からうと云ふことを創意され、創意と共に経営され、経営と共に刻苦され、其間には或は躓き殆ど倒れんとしたことも無いではございませぬが、併し其刻苦経営の功が遂に其事業は、独り居士の店にのみ盛になつたではございませぬ。東京に横浜に、大に其発達を見たとするならば、即ち之を開く必要ありと見た居士の明は、決して今日に没却し得られぬものであらうと思ふ。殊に此米に対しては、一方に米商会所といふものがあつて、限月の売買約束をするけれども、併し段々に都会の人口は増す、其常食たる米の需要は甚だ多い、然るを此米をして唯一場の投機的業体に委して置くのは宜しくない、是非之が実物売買の方法を完全に開きたいと云ふことで、深く謀り審かに努めて、深川に正米市場を起したのは、決して居士の力が少なくないと思ひます、蓋し居士一人の力ではございますまい、多数の同意者があつて今日を致したのでありませうが、少くとも其発意者たる一人にはなるであらうと思ふのでございます。又今日横浜に於ける我日本の重要物産たる生糸の商買が、未来に又如何に変化するか判りませぬが、今日の優勢を見まするのも、当時に於て相当なる方法と、精励なる努力と相待つて、地方の斯業者を誘導し、或は翼賛し、其売買宜しきを得せしめたから、此事業が盛に発達したと申して宜からう、明治の初めは漸く前橋産の提糸を売買し、当時はまだ荷為替などゝいふことは申しませぬで、秤差と称へる行商的商人が行李に造つて持つて参つて、商館番頭に頼んで、競呉服屋が反物を売るやうな有様に売込んだのが生糸商売の始めである。玆に於て一つお話して置きたい事は、此外国商館と、日本の横浜に於ける売込商店との間に大なる葛藤を起したことである、それは即ち明治十四年の秋の事で、而して其主脳者とも申すべ
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きものは居士であつた、此処に至ると肝腎の商業に応ずる才能よりも侠心より溢るゝ感情が更に強いと云ふ居士でありましたから、殆ど渾身の力を以て此悪風を改革したいといふことに尽されたのであります余り細かに述べますると時間を費しますけれども、其時の事の起りを極く簡単に申しますると、前に述べた競呉服的の生糸の売込方でありましたから、横浜の外国商館に対する売買の仕方が、売込問屋の店に来て、見本に依つて直段を取極め直に引込といふことをされる、引込といふのは其売込問屋にある生糸荷物を商館に入れることである、引込をしても商館から別に其荷物に対して預書を出すでもなし、又其荷物に火災保険を附して呉れるでもない。其取引期日と云ふものが定つてゐない。此取引期日に貫々拝見抔といふ術語があつて、生糸を検査して目方を懸改めするのである。而して其期日が一週間もあれば二週間もある、事に依ると一ト月もある、故に悪い批評をしまするならば先づ値を極めて引込ませて置てから、海外の市場に電報して、景気が好いと成べく其荷物を余計に取る、景気が悪いと刎を出す、之を号してペケといふた、此ペケと云ふのは幾ら出すと云ふ定めが無いから、例へば一梱の中から仮に九貫三百目あるとするも、八貫目のペケを出しても、何故出したとは売込問屋から苦情は言へない、又九貫目取つて三百目のペケを出しても、何とも言はれない。殆ど商権が彼にあつて此には無い、約束が双務でなくて片務であつた、前に申す如く呉服を背負て行つた丁稚が、御得意のお内儀さんのお気に入るやうに三拝九拝お辞儀をして、始めて商売が成立つと云ふ方法であつた、是では迚も日本の貴重なる物産を海外の人と取引することは出来ない、是に於て十年前の居士の攘夷気骨が、そこへ現はれて来たと申して宜いかも知れませぬ、私は此挙を聞くや大に賛同して、共に倶に昔の攘夷家にならうと思ふた位でございました、併し商売でありますから、左様な過激な行動は勿論しませぬが、唯外国の商館が、我が処置を道理であると認めて来るまで、売買取引を暫く見合せやう、其間は内地の糸屋に対して金融の便利を附けなければならぬ、玆に至ると銀行者も亦大に努力しなければならぬ訳に相成つて、同業者申合せて、金融の便を図つた、丁度八月から始めて十一月までの全三月の間横浜の生糸の取引が杜絶されました、今日の如く多数の荷物ではなく、又其金高も今日の十分の一にも足りませぬから、左まで大事らしうは聞えなかつたか知れませぬが、中々海外貿易に対しては一重要事件と申して宜かつたのであります、結局どう治つたかと申しますと、当時日本駐在の亜米利加公使に「ビンガム」と云ふ人がありまして、此公使が大分痛心されまして、英吉利一番の「ウイルキン」、亜米利加一番の「トウマス・ウオールス」と云ふ両人を外国側からは推選し、日本の側からは私と益田孝君とが望まれて、四人で亜米利加公使館で数回の会合を致しまして、結り引込んだ荷物に対しては必ず預書を出す、又荷物の火災保険は必ず附ける、生糸の拝見及貫々等の取引は一定の場所を設立したいといふ日本側の希望でありましたけれども、未だ場所がないから、追て其場所が出来た上のことにしやうと云ふので、所謂双方折衷の調停談が成立ちまして、玆にさしも大なる紛擾が終結したのであ
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ります、蓋し其事柄は発端から終局まで実に居士が最も尽瘁され、精力を傾注して其結果を収めたと申して宜いのでございます、此等実業界に於ける居士の経過が即ち第三期に属するものと申して宜からうと思ひます。
数へ来りますると、幼少から致して凡庸ならぬ才能を抱持し、逞しい気力を以て郷里に生長し、遂に農民に安んずることの出来ぬやうに成つたのは、其身の幸か不幸か、これは世間の公論にお任せする外はございませぬが、郷里を去つて遂に前に申述べました如き変化を致しましたのでございます、之を要するに、家に在ては孝悌の子、国に在ては忠義の臣、又聖世に処しては良民たることを失はぬやうに私は思ふのであります、但し居士の性質は或は実業界の人たるよりは他方面に力を伸すことが出来たであつたかも知れぬと思ふのでございます、否実業界に力が無いとは申さぬが、より以上他の方面にあつたかも知れぬ、併し斯の如く聖世であるから、時非なりと申す言葉は、甚だ穏当でございませぬが、此秀総院喜作居士に取つては、必ず其時勢が総て居士に利益ある場合であつたとは言へぬかも知れぬのでございます、誠に居士をして軍務に従事せしめ、或は政治に従事せしめたならば、更に大に為す所があつたかも知れぬと思ひます、これは唯私が親みを厚うし情を同うしたからの偏頗な評に失するかも知れませぬ、唯自ら信ずる所を述べて居士を慰めたいと思ふのでございます、併し居士は決して現世に十分我能力を発揮したと云へぬ嫌はありますが、仮に第三期に於ける生糸に米穀に、是等の事業に於て身自ら其端緒を開き、後継者孜々として之を整理拡張して居るとすれば、居士の長所は充分発揮せしものと言ふべくして、居士も瞑し得られるであらうと思ふのでございます、述べ来つて殆ど七十年に近い居士と私との関係を、玆に弔辞として手向けまするのは転た感慨に堪えませぬのでございます私は玆に甚だ蕪辞でございますが、一絶の詩を得ましたから霊前に手向けたうございます。蓋し喜作居士は蘆陰と号しましたから、これを用ゐたのでございます。
    哭蘆陰兄
 従此与誰談旧思  人間無復認雄姿
 潸然今日炷香処  却憶高歌弾鋏時
                   青淵 渋沢栄一
   ○本資料中渋沢喜作ニ関スル主ナル参照個所ヲ左ニ掲グ。
    第一巻―在郷時代・亡命及ビ仕官時代ノ各章。
    第三巻―明治五年正月。
    第十三巻―東京株式取引所。
    第十四巻―横浜洋銀取引所。東京銀塊取引所。小野組糸方。
    第十五巻―聯合生糸荷預所。渋沢商店。
    第十七巻―東京商法会議所。