デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

2章 栄誉
3節 陞爵
■綱文

第57巻 p.220-233(DK570112k) ページ画像

大正9年9月29日(1920年)

是日、帝国ホテルニ於テ、京浜実業界ノ有志者ニヨリ、栄一ノ陞爵祝賀会開カル。尚、是月二十日交詢社、十月七日東京商業会議所各主催ノ祝賀会開カレ、栄一、ソレゾレ出席シテ、謝辞ヲ述ブ。


■資料

中外商業新報 第一二四〇三号 大正九年九月三〇日 ○渋沢子の陞爵祝賀 近藤男の曰く 君や天下第一(DK570112k-0001)
第57巻 p.220 ページ画像

中外商業新報  第一二四〇三号 大正九年九月三〇日
    ○渋沢子の陞爵祝賀
      近藤男の曰く
      君や天下第一
渋沢新子爵陞爵祝賀会が廿九日夜五時から帝国ホテルに於て開催せられた、四時五十分頃といふに折柄そぼ降る秋雨を衝いて、中島久万吉男が
 ◇自動車 を駆つて先頭第一の顔を見せる、其後から近藤・大倉・古河・岩崎・益田・三井・森村の各男を始め、団・野村・石渡・今泉小田川・今岡・左右田・志田各博士、浅野総一郎・原六郎・和田豊治安田善次郎・松方巌・藤山雷太・馬越恭平・村井吉兵衛・神田鐳蔵・若尾幾造各実業家等朝野の紳士紳商約四百名続々と自動車を連ねて参会する、主賓たる渋沢新子爵は五時夫人と共に例の福々しい笑顔を夜会服に包んで自動車から降りて、設けの大広間に通る、同時に穂積・阪谷各男及令嗣武之助氏・正雄氏・秀雄氏・明石照男氏等も
 ◇夫人と 共に男の後を追つて休憩室に這入る、何れも嬉しい微笑が両の頰から溢れる許りであつた、其内三絃の響と共に余興から祝宴の幕は開かれて、錦城斎典山の講談、松本幸四郎・尾上梅幸の常盤津に一同の感興を弥そゝる、次に祝賀式に移つて、来賓は別の大広間に着席、近藤男の「一代の事業其国利公益に関する広汎なるものに至りては実に閣下を推して天下第一と為さゞる可からす、今次 聖明 閣下の勤労を嘉尚し給ひ、更に陞爵の恩命を下さる云々」と祝辞朗読が朗々と読上げられたに対し、新子爵の簡単なる
 ◇挨拶に 式を閉ぢ、再び席を更めて食堂に入る、堂の周囲は緑滴る青竹を囲らされて自ら若々しき気が漲つてゐた、忙しいホークの音が終ると愈々デザアートコースとなつて、近藤男は再び起つて子爵の功労を賞賛すれば、子爵は懐古の情新らたなる面持ちで「私は廿四歳の時迄は百姓をしてゐた、鍬を取ることに於ては恐らく諸君の誰よりも優れてゐるかも知れぬ」から始め、感涙共に下つて満堂の胸を打ち最後に子爵の万歳三唱にて午後九時盛会裡にお開きとなつた


竜門雑誌 第三八九号・第四九―五三頁 大正九年一〇月 ○青淵先生陞爵祝賀会(一);青淵先生陞爵祝賀会(二);青淵先生陞爵祝賀会(三)(DK570112k-0002)
第57巻 p.220-223 ページ画像

竜門雑誌  第三八九号・第四九―五三頁 大正九年一〇月
○青淵先生陞爵祝賀会(一) 今回青淵先生陞爵に際し其祝意を表すべく、京浜の実業家諸氏五十名発起人となり、青淵先生同令夫人を始めとして同族各位十三名を招待して九月二十九日午後五時より帝国ホテルに於て其祝賀会を開催したり。主人側は会員総代男爵近藤廉平氏以
 - 第57巻 p.221 -ページ画像 
下三百十八名にして、其順序を掲ぐれば左の如し。
      ○余興 (午後五時より)
 一講談    豊臣秀吉       錦城斎典山
 一常磐津   積恋雪関扉
    松尾太夫     志妻太夫  歌妻太夫
        (三味線)文字兵衛  文字助
    根元草摺引
        曾我五郎時致     松本幸四郎
        小林の娘舞鶴     尾上梅幸
        (長唄)芳村伊十郎  杵屋六左衛門
             中村兵蔵  中村六三郎
        (三味線)杵屋寒玉  杵屋六一郎
            杵屋六次郎  杵屋弥三郎
        (鳴物)望月太喜蔵  中伝左衛門
             田中伝次  梅屋市左衛門
      ○祝賀会 (午後六時三十分より)
 一来賓著席
 一司会者開会を告ぐ
 一会員総代男爵近藤廉平氏祝辞朗読
   記念品贈呈
 一来賓謝辞(此間撮影)
 一司会者閉会を告ぐ
      ○晩餐(午後七時より)
 一来賓著席 会員著席
 一青淵先生の万歳を祝し乾杯
 一青淵先生の演説
 当日の概略を記すれば、正午後五時余興開始、同六時半祝賀会に移り、会員総代近藤男爵起つて左の祝辞を朗読す。
    祝辞
 渋沢男爵閣下更に国家に功勲あるの故を以て今回特に陞爵の恩命を拝せらる、因て同志胥謀りて賀筵を開き、以て聊祝頌の意を表せんとす
 惟れば閣下中興盛運の日に際し興業理財の才を懐き、拮据経営五十年、凡そ維新以降吾邦産業百般の施設、閣下の提撕誘掖に依らざるもの尠しと謂ふも溢美に非ず、其豊功偉徳世上既に定論有り、何為そ贅賛を須ん、宜なる哉 朝廷曩に閣下を民間に擢抜し賜爵の寵命有り、当時人皆閣下が文勲武功の外に立ち其徳業天聴 に達し異数の栄典を承けられたるを以て、独り閣下の為に其祥慶を祝するのみならず、我が商工界亦与りて余栄ありと為せり、閣下既に帝国商工業開進の木鐸に任じ、関係の事業頗る広汎に其成績固より顕著にして国家経済の事閣下の手腕に待つべきもの将に益多大ならんとし、実業社会の景仰猶甚だ深厚なり、然るに往年喜寿の佳辰を機として殖産興業以外更に力を社会公益の事業と国民の精神教育とに致さんと欲し、或は国民外交的施設に斡旋し、或は社会協調の事業に奔走
 - 第57巻 p.222 -ページ画像 
し、其他近時興風育英の事、救恤感化の業、閣下の参画援助を仰がざるもの実に幾んど罕なり、而して閣下年歯八十又一、心神精明気色温和日夜役々善を楽て倦むことを知らず、其恪勤励精固より天性に出づると雖、之を行ふに剛毅の気象と強健の体躯とを以てするに非れば烏ぞ能く斯の如きを得んや、閣下の如きは蓋英雄の資を以て哲人の事を行ふものと謂ふべき歟
 抑明治奎運に際し朝野の間多士済々、政治に軍事に経済に教育に将た学問芸術に功業天下に耀き恵沢民生に洽き者僂指するに遑あらず而かも一代の事業其の国利公益に関する広汎なるものに至りては、実に閣下を推して天下第一と為さゞるべからず、今次 聖明閣下の勲労を嘉尚したまひ、更に陞爵の恩命を下されたるもの洵に偶然にあらざるなり、閣下平生忠信を主とし、篤実を本とし、恰々として以て事に勗む、聞達は固より其心事に非るべきも、天日私照なきの恩旨閣下亦応に中心に感激して此後社会の為に幾層の功徳を加へらるるなるべし、果して然らば則ち閣下今回の寵栄は一般社会の光華として慶祝するを得べきなり、爰に粛みて賀辞を述べ、並に時辰儀壱個を呈す、仰ぎ冀くは不腆の芹儀を斥けられず、併せて生等の微忱を諒納せられんことを
  大正九年九月二十九日
          渋沢子爵陞爵祝賀会会員総代
              従四位勲一等男爵 近藤廉平
終つて同男爵より恭しく記念の時辰儀壱個を青淵先生に贈呈す、青淵先生には悦んで之を受けられ、恭謙の態度を以て鄭重なる謝辞を述べられ、玆に祝賀会を閉ぢ午後七時晩餐に移り、主客一同緑滴る松竹及秋草を以て繞らされ生新の気あふるゝ許りに装飾せられたる食堂に入り着席、やがてデザート・コースに進むや、近藤男爵は起つて青淵先生の多年邦家の為め尽されたる功労を賞讚し、満場一致、先生の万歳を祝して乾杯すれば、青淵先生は起つて懐古の情に堪へざるが如く、「余は二十四歳の時迄は百姓を営みつゝありしより、鍬を取る事に於ては諸君の誰よりも優り居るやも知れず」とて、縷々其経歴を物語らるゝ所あり、最後に一同青淵先生の万歳を三唱し午後九時大盛会裡に散会せりと云ふ。
 因に当日参会せられたる来賓及会員諸氏(○は発起人)の芳名を掲ぐれば左の如し。
      △来賓
 青淵先生     同令夫人
 男爵穂積陳重氏  同令夫人    男爵阪谷芳郎氏
 同令夫人     渋沢武之助氏  同令夫人
 渋沢正雄氏    同令夫人    明石照男氏
 同令夫人     渋沢秀雄氏   同令夫人
 渋沢敬三氏
      △主人側(いろは順)
○井上準之助氏  ○石渡敏一氏  ○男爵岩崎小弥太氏
○池田謙三氏   ○池田成彬氏   井上公二氏
 - 第57巻 p.223 -ページ画像 
   ○外三〇三名氏名略ス。
○青淵先生陞爵祝賀会(二) 交詢社会員は今回会員中授爵・陞爵・叙勲及び金杯を下賜せられたる諸氏を招待して祝賀会を催すべく、九月二十日午後六時半より同所に於て挙行せられたり。出席者は来賓青淵先生・後藤男・山本達雄男其他七氏にして、主人側としては徳川家達公・森村開作男・長岡外史・鎌田栄吉・室田義文氏等を始めとして百余名、デザートコースに入るや、座長鎌田氏立つて祝賀の辞を述べて祝盃を挙げ、青淵先生・後藤男其他の諸氏は之に対する鄭重なる謝辞ありて和気靄々裡に散会せる由
○青淵先生陞爵祝賀会(三) 東京商業会議所にては十月七日正午青淵先生の陞爵祝賀会を其楼上に於て挙行したり ○下略


竜門雑誌 第四〇三号・第一一―一八頁 大正一〇年一二月 ○実業家有志の陞爵祝賀会に於て 青淵先生(DK570112k-0003)
第57巻 p.223-228 ページ画像

竜門雑誌  第四〇三号・第一一―一八頁 大正一〇年一二月
    ○実業家有志の陞爵祝賀会に於て
                    青淵先生
 本篇は京浜実業家有志諸氏の発起にて大正九年九月二十九日帝国ホテルに於て開催されたる、青淵先生陞爵祝賀会席上に於ける青淵先生の演説及び謝辞なりとす。(編者識)
 会長、満場の諸君。如何なる幸福か、私は斯様に而も平日事を同じうし、志を共にする所謂持ちつ持たれつする多数の皆様が、私の為めに斯様なる盛会を開いて、此度の陞爵を祝賀下さると云ふことは真に夢と思ふの外はございませぬ。先刻式場でも簡単に御答を申上げましたが、殊に私一人のみならず、同族を皆御招を戴いて、婦人までも共に斯かる盛筵に参列せしめ下さると云ふことは、一家一門の光栄、もう再び斯様な事に遭遇することは出来ぬと申上ぐる外ございませぬ。段々先刻来席上の御装置、又余興の御設備、殊に又此食堂の優美にして而も鄭重なるお取設、所謂至れり尽せり、東京市内、京浜の有力なる御方が殆ど挙げて御賛同下すつたればこそ、斯様な至善至美の御饗筵を為し下さることであらう。唯此賓客たる者が、甚だ之に添はぬのを恥る外はございませぬ。会長として近藤男爵が式場で御朗読になりました文章が、如何にも恐懼に堪へませぬ。殊に其中の一句、即ち英雄の資を以て哲人の行を為すと云ふ言は、私は深く身に泌みまして、どうぞさう云ふ事はして見たいと思ふた方ですから、渋沢が気に入つたと今会長はお述になりましたが、気に入つたではないのです。寧ろ気に入らぬので、どうぞそう云ふ身になつて見たいと云ふことを申上げたのであります。洵に至れり尽せりの文字に充分私の平日の希望をお述べ下すつたやうに感ずるのでございます。斯かる場合に御礼とは云ひながら諄々しい事を申上げますると、諸君の倦忘を招くことを虞れますけれども、余り嬉しうございますから、或は重複に亘ることもございませうし、己れは其の事は度々聴いたと仰せらるゝ方もあるかも知れませぬけれども、勢ひ自己の経歴を簡単に、又自己の所思は斯くあつたと云ふことを繰返さゞるを得ぬのでございます。暫時清聴を煩はします。
 私は先刻も申上げまする通り農民の生れで、二十四歳までは百姓で
 - 第57巻 p.224 -ページ画像 
生活をした人間でございます。故に若し鍬柄を取つたならば恐らくは満場の諸君も私に勝つことは出来ぬだらうと思ふのでございます。種子を播いても田を植ゑても或は肥料を施しても、さう云ふやうな事は能う心得て居ります。さう云ふ出でございますから、実に野人礼節に嫺はずと云ふことは自ら謙遜して申す言葉ではございませぬ。併し少年から聊か漢籍を好みまして、志ある武士――武士とは申しませぬけれども、志士は如何に世に処するかと云ふことに就ては、物心を覚えると始終心に往来したのでございます。時恰も内外に事あり、即ち私の十四歳の時がコモドル・ペリーの浦賀に参りました嘉永六年でございます。其頃から外国と云ふことを知つて、是は日本の大事だ、蓋し人の言葉に依つて感じたのでございますから所謂耳学問で、心から発したのではないであらうけれども、併し国の大事だと云ふことは、幼な心にも深く感じたのであります。それから遂に攘夷論者となつて、どうか国家の為めに外国人一人殺しても国威を伸張するのだと云ふ暴虎馮河に陥つて、甚しきは暴挙にも及ばんとするほどの境遇に相成つたのでございます。自己の智恵ではございませぬ。或は天が導き或は時が助けて呉れまして、左様な過激の行動は遂に為し得られなかつたのが今日在る仕合せを得たと申して宜からうと思ふのでございます。遂に二十歳のときに家を出て京都に遊びました。其の遊ぶときには一時の旅行で、再び帰つて鍬柄を取らねばならぬかと思ふて出ましたがさて人は仮令学問が無くても、えらい才が無くても、一旦何か志士と云ふやうな態度を以て家を出で、再び国へ帰つて百姓も情けないと云ふ感触から、遂に他の方面に就いて働くことに考へを付けまして、一橋の家来となつたと云ふのは殆ど窮途に迫つてさう云ふ変通の途を求めたと申しても宜しいのであります。然るに慶喜公が数年にして将軍になられ、此後の行先はどう行つて宜いかと云ふ自己の方向にまで迷うやうに相成りましたが、今日考へますると所謂天が私を導いて呉たと申す外ございませぬ。神か天か其霊的問題は私には解りませぬけれども、偶然にも欧羅巴旅行を申付られて、民部大輔と云ふお人に随従して仏蘭西に参りましたのは丁度二十八の年でございます。併し其時には討幕を心懸けた私が遂に幕府の家来になつて、殆と位置顛倒した身から海外旅行と云ふことに相成りましたから兎に角に窮途は免れたやうなものゝ、意思は殆ど潰れてしまつたと申しても宜いのであります。併し其時自ら念ふ、今迄攘夷と考へて居つたが、迚も刀で軍艦を斬ることは出来ない。物質の文明の進んで居る欧羅巴各国には、どうしても学ばねばならぬ事が多々あらう。晩学ではあるけれども、海外に学んで幾らか得る所があつたならば、之を以て――最初は唯死んで国に尽さうと思つたが、今度は生きて務むるやうにしようと、少し方向を転じて、聊か海外に於て物質上の務めに従事して見たいと云ふ観念を起しましてございます。軈ては王政が維新になり、徳川幕府が倒れ、僅か一年の間に、真に急転直下に日本の政変が進んで参つたのでございます。而して幕府の家来でございました私共は、永く海外に留つて学ぶことも出来ませぬで、丁度其翌年――慶応三年《(四年)》が明治元年、即ち翌明治元年十一月に日本に帰ることになりましたので、其時自身
 - 第57巻 p.225 -ページ画像 
で覚悟を致しましたのは、不肖の私、仮令国を憂へるの誠意あるにも致せ何等知識なく学問なく、又門地もなく、国家の事に力を尽さうなどと云ふ考へは抑々過つたのである。故に政治界と云ふものは私の性に合はぬ。性に合はぬではない力に応ぜぬのだ、寧ろ方向を転じて此欧羅巴の富む有様を見ると、どうしても物質的文明を進めねば、日本の将来を如何にせむと云ふ覚悟を深く持ちましてございます。故に言葉も出来ず、書物も読めず、学ぶと云ふことも所謂盲の垣覗きお恥しい事ではございましたけれども心窃にさう思ふた為めに、銀行の制度はどう云ふものだ、会社の仕組はどう、鉄道は如何に、海運はどう、或は仏蘭西のブールスに迄行つて株式取引の有様迄も、甚だ朧げながら視たのでございます。恰も幕府が倒れて帰ると云ふことに相成りました際に、尚更そこ等に心を著けて帰りまするや、仮令微力ながらも其方面に於て聊か尽して見ようと斯う考へたのであります。故に明治元年の十一月日本に帰りましてから、直ぐ駿河に参つて、慶喜公の御尋を致し、続いて駿河に居つて、微力ながら其事業を起して、甚だ失礼の申分ではありまするけれども、日本の欧羅巴式商工業を進めると云ふ端緒を開いて見たいと思ふたのは、今御称讃を蒙つた其念慮だけはあつたに相違ないのでございます。故に駿河に参つて紺屋町と云ふ所で商法会社と云ふものを組立てゝ、藩の政治を執るお人に、或は願ひ或は勧めて彼此十箇月ばかり経過しますると、明治政府に召されて遂に大蔵省に這入ると云ふことになりましたのでございます。此時に私の観念は、願はくは辞して遣りかけた事に力を尽したいと思ひましたけれども、今も記憶致します大隈侯爵若くは伊藤・井上などゝ云ふお方々が、兎に角此処に暫く居れと云ふお勧めから、其先輩に引留められて、数年官吏として微力を尽したのでございます。併し其時の心がどうしても此姿ではいかぬ。是非一つ事業界の発展を図らねばならぬと云ふことを、自分に出来やうとは思ひませなんだけれども、人の一たびでする事は、己れは百たびすると云ふやうな覚悟を以て取掛らんと欲したのであります。丁度第一銀行の出来ましたのが明治六年でございます。其時に漸く実業家の仲間入を致して、爾来此合本会社と云ふものに就て是非共進歩発展を図らうとすると同時に、他の方向に於て是にも斯様な教育が必要である、彼れにも斯様な準備を立てねばならぬと云ふやうなことに相成つて、多少の微力を尽しましたが、併し今の御称讃はお前があつたから大に発展致したと仰しやいますが、是は誠に私に仕合せなる位置をお与へ下さるので、例へば此処に花があつても、早咲の花は余り佳い香も持たず、美い色も持たぬもので、追々後から良い花が咲くのでありますが、唯先に咲く為めに梅の花は其香を称へられるのであります。追々学識に人物に後から良い者が出ます。早咲に余り良いものはございませぬ。後に出でたるものが駸々と発達するに於て、前の者まで良かつたやうになるのですから、或る点からは多少苦んだと云ふことの御称讃の辞を受け得られるか知らぬが、実は御列席の如き諸君がある為に私が誉を荷ひ得るのでありますから、諸君は御自分を称讃すると思召して下されば私も共に余慶を蒙り得られるのでございます。若し事業界が或る二・三の人であつたな
 - 第57巻 p.226 -ページ画像 
らば、日本の今日が見得られませうか、是で尽したとは申せぬでございませうけれども、今晩のお集りの如き所謂腕揃・力揃・智恵揃のお方が、数を尽して輩出したればこそ、日本の実業界の名誉を得られるやうになり、力も増したのではございませぬか。果して然らば私をお讃め下さるより、私が諸君に御礼を申上げるが甚だ適当であらうと思ふのでございます。さりながら一番早かつたと云ふことに就てお讃めを戴くと云ふことであつたならば、仮に私が諸君の御名代たることも敢て辞さぬのでございますけれども、併し左様な沿革から今日の此事業界に相成つたのは、実に私は諸君のお力であると思ふと共に、相慶賀するのでございますが、さてそれで安んじ居られるかと云ふと、決して左様は申せぬと申上げざるを得ぬやうに考へます。仮令今日の日本が、昔日と比べて雲泥黒白の差、天淵啻ならずと申しませうとも、併し是も他に比較して見ると、決して自ら安んじては居られぬのであります。況や或は人格と云ひ思想と云ひ、諸君に対して申上ぐるは失礼か知れませぬけれども、英米あたりの実業界の人々の其人格思想、其経営する所、決して我より劣るとのみは申せまいと思ふのでございます。唯単に其力が勝るのみならず、其思想行動に於て或は吾が一籌を輸すると云ふことがあつたなら、決してお互に之に安んじては居られぬではございますまいか。殊に今近藤男爵が、私の甚だ微々たる働きを、海外の関係に就て御称讃を下さいましたが、亜米利加に於ける支那に於ける、独り此両国に於けるのみならず、他の条約国に於ても今日我帝国の受けて居る様な観察は、私は甚だ憂ふべきもの多くして喜ぶべき者は少いと言はねばならぬと思ひます。亜米利加の事に就て十数年苦んだと云ふ御讃辞は有難うございますが、実に其讃辞を戴くすら心に悲みを以て拝聴するのでございます。如何となれば、何事ぞ加州方面の行動は。若し吾々の至誠が貫徹するならば改めさうなものではないか。さては吾々微力極まるものである、斯く迄思ふても精神が徹底せぬかと中宵窃に暗涙を催すことが数多いのでございます。又翻つて支那を顧みましても、もう日貨排斥は幾年経ちませう。成程向ふの仕方が不道理でもありませう。野蛮でございませう。併し其野蛮不道理が何処へも加はることはない。唯吾にのみ多いとするならば吾自ら顧みねばならぬでありませうが、併ながら之を解く方法が未だ無いと云ふは何事ぞ。仮令実業上若くは政治上・軍事上、五大国の一に這入つたとは云ふものゝ、斯の如き非難排斥を受ける五大国はありませぬ。左様考へますると、どうしても一方には実業の進みを図ると同時に、其実業上に於て、或は嫌忌するとか、或は嫉視するとか云ふ事のない程度に於て物を進めると云ふ観念が、甚だ必要ではございますまいか、私の微力決して是等に対して貢献はし得られませぬけれども既に国家の進運を図ると云ふことは、唯自己の富を増すばかりではいかぬ。一身一己の間にも、人の立つのは己れの立つ所以だと云ふなら一国の間にも、他国を進めるが矢張自国の立つ所以であると、類推して考ふるは決して間違でなからうと思ふのでございます。故に微力ながら亜米利加に対し、支那に対し、是非斯くありたいと思ふ為めに、丁度七十七を機会に、限りある余命を唯実業界にのみ終るも甚だ面白
 - 第57巻 p.227 -ページ画像 
くないことゝ考へましたから、老躯仮令数年の間たりとも、所謂太く短くと覚悟して、此外交関係などには敢て知識もございませぬけれども、所謂精神一到何事か成らざらんと云ふ心で今まで多少力を尽しましたが、前に申上げまする通り、亜米利加と云ひ支那と云ひ、聊かも我意嚮に向いて来ないと云ふことは、実に諸君と共に歎息せざるを得ぬのでございます。さりながら是は今夕の謝辞に加ふる言葉ではなくて、世の全体の関係でありますから、決して私が独り落胆するばかりのものではない。又落胆する必要はないので、諸君と共に是非其局面に達せしめねばならぬ。又達せしめ得るだらうと自ら信じて進まねばならぬのであります。凡て事物は斯く申しますと大層に苦しさうにございますけれども、併し私は常に斯う思ふて居る。人は皆我楽みに向つて進行くものである、是は孔子が教へて居ります。之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽む者に如かず。真に良い教へで事物はどうしても此楽みに進んで行くのが私は最上だらうと思ひます、蓋し満場の諸君も或る場合には苦しかつたと仰しやるが、其苦しかつたと云ふのは蓋し嬉しかつたと云ふ言葉の裏である。苦みばかりに安んずるは辛いが、真に之を好み之を楽むに至つて初て妙所に至れるものと思ひますから、お互に楽みたいと考へるのでございます。私が少年の折に父に斯う云ふ事を教はりまして、甚だ野卑な言葉であるけれども、頗る楽むと云ふことに於て味ある事と思ふて、今も記憶して居りますが、或る一人の勉強家があつて非常に丹誠を尽したに依つて段々家が富み貨財が多くなつて来る、老衰しても尚勤恪少しも怠りがない。段々に資産が積んで行く、資産が積んで行くけれども、驕奢の事などは嫌ひだから、勤倹を怠らなかつた。さうすると友人が、君はさう云ふ風に勉強して実に食べるものも食べず、着るものも着ず頻に苦むが、其溜めた貨財はどうするか、溜めた物を背負つて行く訳にはいかぬぢやないか。余り吝な男だと窘めたら、其勉強家曰く、洵に意外千万の忠告を受くるものだ。人は凡て楽むに於て精神が慰安し得るものである――その人は左様な六ケ敷い言葉を使つたかどうか知りませぬが、私は斯うして勉強するのが何よりの楽みだ、其勉強の結果追々に貨財が殖えて来るが、是は楽みの滓だ。即ち楽めば楽む程糟粕が生ずる。私の家の貨財は楽みの殻のやうなものである。楽みの滓などは私は何も要らぬのであるから、楽みさへすればそれで宜しいではないかと答へたさうである。人はどうしてもさう云ふ観念が必要だと父に始終言はれました。父の意見に従つて私は頻に屈託して、幾らか国の為め人の為め――到底なることは出来ぬかも知れませぬが、それが唯一の楽み故に、楽みの余り、それ程余計には溜りませぬでも、それでも楽めば幾らか滓が溜る、或は物質で溜るか名誉で溜るか、今夕此御祝を受けたのも即ち楽みの滓の一つと、斯う思ふて、実は此楽みの滓は私の心余り深く喜ばぬ所でございますから、諸君の御称讚を戴くことは有難く感謝致しますが、私の精神は今陳上致した通りであることを御承知を願ひます。併し楽むの一事は諸君と共に楽みたいと思ふのでございます。(拍手喝采)
      謝辞
 - 第57巻 p.228 -ページ画像 
 近藤男爵閣下、満場の閣下、諸君。実に存じ寄りませぬ斯様な盛大なる祝賀の筵をお張り下さいましたことは、何とお礼を申上げて宜しいか拝謝の言葉を見出すことが出来ませぬのでございます。殊に只今会を御代表なすつて近藤男爵閣下から私の生涯に就て数十年の間微力を尽したことを事細かにお述べ下さいまして、更に喜寿を迎へました後の境遇に就きましても、尚且丁寧に御称讃の辞を賜りましてございます。殊に文章の中に英雄の資を以て哲人の行を為すと云ふお言葉は如何に私をお讚め下すつたか、余り過称溢美ではないかと私自身が甚だ恐懼に禁へませぬのでございます。
 此度の陞爵に就きまして、平日知遇を辱うして居る皆様から斯様な御款待を受けましたことは、私は今夕初めて斯の如きものであるかと云ふことを知悉したと申上げたいやうでございます。身農民に生れまして、所謂野人礼に嫺はず、決して斯様な身柄を自身の希望とは致しませぬので、敢て古人を気取るではございませぬけれども、富貴は我願に非ず、帝卿は期すべからず、陶淵明の帰去来の賦にございます。野人は野人として唯国家に微力を尽せば本望足れりと思ふだけであつたのでございます。にも拘らず屡々朝恩を蒙りまして、寧ろ恐懼に禁へず甚だ進退に窮する位に感じました所が、思ひきや同時に皆様から否左様に考へぬで宜い、朝恩の辱いものは名誉として受けよと云ふことのお言葉に、今日初めて実に其辱さを理解致したと申しても過言ではないと思ふ位でございます。未来に於きましても残躯用に足らぬことは申す迄もございませぬけれども、業に既に献身的と考へて五十年微力を尽しました此使ひ余りの身体でございます。役に立たぬことは申す迄もございませぬけれども、飽迄も奮闘致して朝恩に、且つ斯の如き皆様の御厚情に御応へ致さなければならぬと深く感じますのでございます。殊に今日は私一人のみならず、悉く家族を御招き下さいまして、斯様な鄭重なる御饗応を蒙ると云ふことは、且つ祝品として結構なる御品を頂戴致すと云ふことは、重ね重ね御礼を申上げる言葉はございませぬが、唯微衷を一言述べて感謝の意を表しまする。(満場拍手)


東京商業会議所報 第三一号 大正九年一一月 ○渋沢子爵陞爵祝賀会(DK570112k-0004)
第57巻 p.228-229 ページ画像

東京商業会議所報  第三一号 大正九年一一月
    ○渋沢子爵陞爵祝賀会
大正九年十月七日正午当所に於て、渋沢子爵陞爵祝賀の為め午餐会を開催したり、出席者は正賓渋沢子爵、陪賓横田法制局長官・田中農商務次官・鶴見同商務局長・芳沢外務省政務局長・田中同通商局長・岡警視総監、井上・木村の日本銀行正副総裁、土方・小野の日本興業銀行正副総裁、大倉男・阪谷男・有賀・和田・池田・服部・浅野・大橋団・福井・藤瀬・橋本・井上公二・成瀬・堀越・伊東の諸氏其他主なる実業家、東京実業組合聯合会正副会長、新聞通信社員、主催側当所議員・特別議員等総員百十二名にして、正午一同食卓に着き、「デザート・コース」に入り、藤山会頭は渋沢子爵の功績を称揚して挨拶の辞を述べ、次に渋沢子爵は既往の事歴と所感を演説して謝辞を述べられ、主客歓を竭し午後二時三十分散会せり(各演説の速記は五頁以下
 - 第57巻 p.229 -ページ画像 
に掲く、但し渋沢子爵の演説は都合に依り次号に載す)


青淵先生演説速記集(二) 自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本(DK570112k-0005)
第57巻 p.229-233 ページ画像

青淵先生演説速記集(二) 自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
大正九年十月七日正午《(朱書)》
  東京商業会議所主催渋沢
  子爵陞爵祝賀会に於て
               子爵 渋沢栄一君 演説
 満場の閣下、諸君、今日東京商業会議所が御首唱になりまして、他の諸君も御集りになつて、玆に私が此度子爵に進んだことを御祝下さる為に、此盛宴を御開き下さいましたのでございます、誠に感謝此上もございませぬ、殊に唯今藤山会頭より祝辞の御趣意に於て私の経歴若くは心事を御評論下さいました、如何にも希望は其通りであつたと申上げたうございますけれども其実は得ませぬので、甚だ過賞と云ふか、溢美と云ふか、汗顔に堪へないのでございます、殊に御演説の終局に、将来の黄金世界を望むならば成るたけ自我を棄てなければならぬ、其自我を棄てる一人としては渋沢の行動抔は先づそれに擬すべきものであると云ふやうな意味で、殆ど其師表なりと仰しやるやうな御言葉があつた、最も以て私の任じ能はぬ所でございます、去ながら今日の身柄、又志す所は藤山会頭の御評論に唯己の力の足らぬ、徳の及ばぬだけであつて、希望は左様であると云ふことは事実でございますから、度々各方面で身の上話を申上げて頗る御恥しうございますけれども、斯る御賞讚を得ました時に唯有難うございますと云ふのみの言葉は余り情に切なる心から、已むに已み兼ねますので、自己の経歴を聊か申上げたうございます。私自身は此昭代に爵と云ふものはあつて善いものか悪いものかと云ふ観念を当時持ちましたが、今尚其思を持たざるを得ぬのでございます、是は少し一歩乗越えたる評論になりますから、斯る御席に於て申上ぐべき事柄でございませぬ、去ながら己一身が今日変化して玆に参りましたと云ふ経歴は、今藤山会頭の御述べ下された通り偶然玆に至つたやうなものゝ、其間に自身が斯うありたい、斯くありたいと思つた観念が幸に老後聊か健康も続きます為に今御賞讚を受けるやうにまで階段が進んで参つたのでございます、或は進んだでない、退いたかも知れませぬけれども、元百姓から家を出ます時の考は如何にも天下国家を自身が治めやうと云ふ考を有つたのである、仮令智慧がなくとも、力が乏しくとも、富める所がなくても念慮はさうであつたに相違ない、其時の観念は矢張尊王攘夷、さうして階級制度を破ると云ふことが唯一の目的で家を出ましたのでありますから、誠に無鉄砲と云へば無鉄砲、併ながら純粋に国家に尽さうと云ふ観念だけは有つて居つた、決して栄達を望むとか、富を作ると云ふ覚悟ではございませなかつた、今日と違つて世の変遷の激しい場合でありましたが、丁度一橋家の家来をして居る頃にも色々変化があつて、慶喜公が将軍になられると共に日本――日本と云ふては悪うございますが、其政権が必ず急転直下に変ずるに相違ない、仮令私共の近眼者でも其事を思ひつゝ欧羅巴へ旅行を命ぜられて参りました、果し
 - 第57巻 p.230 -ページ画像 
て其想像は誤りませぬで出ると直ぐ翌年は大変化がございました、徳川家が倒れて明治政府になると云ふことになつた、そこで吾々は思つた、治国平天下と云ふやうなことは吾々の手に依つて出来得べきものでないと云ふことを発明せざるを得ぬのでございます、殊に其境遇が討幕論者が反対に幕府の家来になると云ふやうな如何にも身の不都合を来したものでありますから、悪く申せば首でも縊つて死ぬのが一番宜かつたのである、併しどうもそれも甚だ残念だと思ひまして、玆に如何したものであらうか、最初一命を棄てゝと思つたのが是は死ぬ訳に行かぬから、死んだ覚悟を以て他の方面で微力たりとも国に尽す手段がありさうなものだ、既に仏蘭西に居る時分に頻に考へました、良い智慧が出ぬものでありますから、四・五年の間には多少の学問をして科学的知識を持つて帰つて来て何かやつて見やうと思つたのが、直ぐ翌年帰らなければならぬやうになつたから、幾ら急速力で学ぶと云つても言葉は出来ず学びやうがない、唯一つ資本を合同してやると云ふ会社組織だけを朧気ながら英仏の有様を聞き知つたのであります、それから公債証書と云ふものは甚だ面白いものだと感じた、銀行制度が大変結構なものだと思つたのであります、更にもう一つは商売人と政治家、若くは学者・軍人等の階級の有様が日本と全く変つて居ると云ふことに深く注目したのでございます、物質上の有様を見て迚も私共の微力で日本へ帰つて大に之を進めるの、拡めるのと云ふことは出来るものでないけれども、もう死んだ気になつて、今迄の渋沢は無いものとして、更に生れた渋沢として此事に就て微力を尽して見たならば何か出来はせぬか、斯う云ふ観念が仏蘭西に居る間に幕府が倒れた時の深い思でありまして、之を以て聊か微力を尽したいと云ふことが全く祈念でございました、帰つて早々其事に手を着けたうございましたけれども、信用はない、地位はない、資本はない、中々そんなことが出来やう筈がございませぬ、殊に静岡藩士の末に居つたから、静岡に参つて静岡の藩の要路の人々に右等の意見を話して見ますと、多少之を賛同して呉れました、平岡順造と云ふ人がありまして、御勘定頭と云ふ職である、此人が此方法に就て成程それは面白い考だ、さうやつたら日本の事業は進歩するであらう、此人も能く知つて居たら却て同意しなかつた、知らぬ為に同意したか知れませぬが、兎に角賛同して呉れました、それで大久保さん抔に御頼みすると宜からうと云ふので、駿河で小さい一の商会的のものを組織したのであります、其事が未だ緒に就かぬ間に、到頭今の政府に出なければならぬことになつたのでございます、蓋し是は私の本志でない、私は苟も役人になりたい抔と思つたことはなかつた、又友達もありましたけれども、夫等を便ると云ふやうな考は微塵もなかつた、唯偶然に郷男爵のお父さんの郷純造と云ふ人が平岡と懇意であつた為めに平岡から聞いて、彼は役に立つ若者だから呼んだら宜からうと云ふことで、私が大蔵省の役人になつたのであると云ふことが後で分つた、其内大隈さんや、伊藤さん井上さん抔に聊か知られたのでありますが、併し自身は本志でございませぬから、どうかして之を逃れて駿河に帰つて、今の企てを細々ながら成立てゝ見たいと思つて、今でも覚えて居りますが、十二月十八
 - 第57巻 p.231 -ページ画像 
日に築地に大隈さんが御座る時分で、大蔵大輔と云ふ御役人であつた私は租税頭と云ふ官名であつた、其租税頭が大蔵大輔に自分の意志を陳情したいからと云ふて、一日の会見を求めてそこで色々御話しました、勢ひ詳しいことを申さなければなりませぬから、元私は百姓でございました、斯う云ふ観念で斯うしました、丁度今申上げたやうなことを申して、さうして是から斯う云ふことをやつて見たいと思ふ、役人にして呉れた所が何も仕事は出来ませぬから、寧ろ野に還して下さいと云ふことを申しましたら、其時の大隈さんの法螺と云つて宜いか或は大言壮語と云つて宜いか、私今も記憶して愉快に思ふのみならず誠に敬服せざるを得ぬやうに論破されたのであります、第一お前は階級制度を止めなければならぬ、それが百姓を止める原因だと云ふでないか、それはどうしてもさう致さなければならぬ、改造と云ふことは其時分には言ひませぬが、新に日本を造り直すには、所謂高天原に神集ふて神謀りに依つて造つて行かなければならぬでないか、私も神の一柱にならう、君等も神の一柱となつて貰ひたい、大蔵省と云ふ名があつても是は唯時の勢で斯うなつたのである、どうしても財政経済と云ふものを立つて行かなければ、民間の事業を発展させると云ふことが出来ぬでないか、だから今直ぐそれをやらうと云ふことは少し早合点である、それよりも此処で四・五年働いたら宜いでないか、僕等と共にやつて、それから後ならば決して私は留めない、今日の場合直様実業家――実業家と云ふ言葉は其時ありませなかつた、商工業者になると云ふのは大早計である、斯う云ふ説得を受けて神の一柱にならうと云ふやうなことで、敢て自ら神に任ずる積りでなかつたけれども、さう言はれゝば甚だ御尤だと思つた、それならば一身はどうでも宜いからやりませう、謹んで仰せに従つて何なり唯命是れ従つて奔走努力を敢て辞しませぬと申して、大蔵省の省務に頻に働いたのであります数年の内に大隈さんは内閣に帰つて参議となられ、井上さんが其後を継いで、井上さんの指図に依つて私は働くと云ふ身柄になつた、夫等の始末は今申上げる必要はありませぬが、玆に国立銀行制度が起つて来た、其銀行制度の組立は誰が考へて来たかと云ふと、伊藤公爵が亜米利加から調べて来た、私も仏蘭西でそれを見てどうしても是は必要だと思つた、国へ帰つたらこんなことをしたらと云ふ観念が其処に至つて始めて事実に当つて来たやうな気がしまして、此伊藤公爵の持つて来た国立銀行制度を是非布きたい、それに依つてやつて見たい、就ては一身をそれに投じて行ける行けないは第二として、倒れて後已むの覚悟で以てやつて見やう、是は甚だ無鉄砲か知らぬが、併し銀行者にならうと云ふ覚悟はさう云ふ経歴であつたので、決して偽を言ひませぬ、全く其所存である、此時に丁度銀行成規と云ふ書物と云ふ程でありませぬが、其時分は法律が教訓書見たやうな風に出来るのが日本の始めでございました、私共は始終教訓的の法律許り拵へさせられたのでありますが、銀行条例に銀行成規と云ふものを付けた、一の営業指南のやうなものである、此営業指南の中にギルバードと云ふ万国英蘭を経営した人《(バンク・オブ・イングランドカ)》の教訓があります、其教訓を私は見て如何にも銀行者は斯う考へなければならぬ、銀行者は斯う考へなければならぬのみな
 - 第57巻 p.232 -ページ画像 
らず、実業家は斯う考へなければいかぬ、凡そ此時代に事業を経営する者は斯る所存でやつたならば誤りはないと云ふ観念を深くしたのであります、ギルバードと云ふ人は哲学者であつたか、或はどう云ふ人であつたか、私は知りませぬ、唯ギルバードと云ふ人があつて、それが万国英蘭に永年勤労した人で有名な銀行者であつたと云ふだけ其時に聞きましたが、銀行経営に就ての殆ど信条とも申すべき数箇条がありますが、今丁度藤山君が言はれたやうに、福沢先生が藤山君に示した御話と殆ど一致して居る、妙なものである、哲人の観念と云ふものは時の古今も問はず、道の遠近も問はず、真理と云ふものは自ら或点は適合するものであります、斯う云ふやうな言葉がありました、凡そ銀行者は政治界の政治家になつてはいけない、政治界に入つて仕舞つてはいけないけれども政治の観念は始終あつて、政治の傾きがどうなると云ふことを知らねば真正な銀行者になれない、自身が政治家になつてはいけない、政治の変遷、政治の勢力がどう云ふ風に推移して行くと云ふことを知るだけの見識がなければ、本当の金融業者でない、それから銀行者は金融に処して、金を借りに来た人に向つて腹を立たせて帰すと云ふやうなことでは迚も物にならぬ、必ず喜んで帰るやうに仕向けなければいけない、それから銀行者は其事務を執るのに大体に通ずるのみならず、詳細に能く処理し得るだけの力が無ければ真正の銀行者とは言はれない、丁度今の御話に似て居ります、皆覚えませぬが、斯う云ふやうな箇条が数箇条ありまして、是は成程謹まなければならぬ、実に金科玉条としなければならぬと深く観念致して、其頃は今より若かつたから能く勉強しました、今日は中々書記と頭取とを一緒にすることは出来なくなりましたけれども、実に此戒めは丁度福沢先生の今の御話と恰も符節を合する如く思ふのでございます、是等の理由に依つて私自身は先づ銀行者で一生を終らう、斯う云ふ観念で第一銀行に入りました、其間に色々困難もあつたけれども、そんなことを今申上げる必要はありませぬが、幸に四十三年頭取を勤めて、大正五年に辞退したと云ふ次第でございます、そこで私自身は今申上げたやうな身の成立でありますが、勿論富も望みました、全体不調法で富を成すことが出来ないので、藤山さんは自分を買被つて仰しやるので誠に汗顔の至りで、私は儲けたくも儲けることが出来なくて、今のやうな中産階級で安んじて居るのでございます、けれども富貴非吾願帝卿不可期と云ふ陶淵明の言葉のやうに、私は官辺のことは誠に嫌である、男爵になつた時も、ならば御免を蒙りたいと思ひましたが、今日も尚其通りで、此論理から申上げると、斯様な盛大な御宴を張つて御喜び下さることは恐入るやうな感じがするのでございますけれども去ながら私は此実業界に名誉がないものとは申さぬ積りでございます元来政治界とか軍人界には名誉が存するけれども、実業界には名誉がないと云ふことは大間違であると云ふことを、私は高等商業学校の卒業式抔に申して居る、必ず名誉と云ふものはある、真に在野の天爵があるであらう、斯う云ふことを始終申して居る、私は其名誉が得られなかつたのは残念だが、併し私が得られぬ為に実業界に名誉がないと諸君が思召して下さらぬやうに願ひたいのでございます、而して右の
 - 第57巻 p.233 -ページ画像 
やうな行掛りから起つた身体でありますから、まだ努力の続く限り、仮令数年でも利害関係を離れた位置に於て、世の為に何か尽したならば私の丁度生れた家を出ました時の罪亡しにもならうか、首尾貫徹するやうになるかと思ひまして、どうしても実業界の道徳を高めることは何方にしても望んで居ることであるが、此利害に就て道理を失つて相争ふやうな世の中にはしたくない、同時に社会政策としては、或は資本と労働の関係、更にもう一歩転じましては貧富の懸隔から甚だ世の不幸を来すやうなことをなからしめたい、是等の三点に就て微力ながらも、暫時の間でも其事に力を尽すが私の家を出ました時の趣旨を貫徹せしむることにならう、斯う考へて居りますのでございます、実業界に入つて実業家と相成つたと云ふ理由は前に申上げました通りであります、唯今商業会議所も創設者であると仰しやられたが、丁度明治十一年にどうしても海外との関係から商工業者が打寄つて意見を一致して物を言ふ場所がなければならぬ、是は政治上にも大に望むと云つて、大隈・伊藤の両君から頻に望まれた、そこで色々と御打合を致して、其時に商法会議所と云ふ名に依つて創立したのが今の商業会議所の最もの始めでございます、是等も前に申上げました通り、商工業の進歩は斯様な場所が必要だと云ふことを感じた、それが段々進化し段々拡大し、段々整頓して今日斯の如き宴会を御開き下すつて、其創設者だと云ふ趣意に依つて、私が斯の如き名誉を蒙ることは実に有難いと云ふのと、又恐縮と云ふのと二つを以て御礼を申す外ございませぬ、度々各方面で御話しました我身の歴史を申しまして、何の効能もございませぬけれども、唯今藤山君から御評論的に段々御賞讚下さつたに就て、勢ひ幾らか事情を申上げなければ御答にならぬと思つて、玆に有触れたことではございますが、熱心の余り意見を申上げて我が心事は斯様であつたと云ふことを諸君の御領納を請ふたのでございます、今日御祝下された此名誉は私は実に末期の此上もない喜びとして拝受致します、玆に満場の諸君の御健康を祝する為に盃を挙げます。