デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 3. 井上馨
■綱文

第57巻 p.425-435(DK570189k) ページ画像

大正4年9月2日(1915年)

是日栄一、井上馨ノ訃音ニ接シ、興津ノ同家別邸ニ弔問ス。四日正式ニ発喪セラレ、栄一、葬儀副委員長トナル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK570189k-0001)
第57巻 p.425-426 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
九月二日 半晴
午前六時半起床入浴朝飧ヲ畢リ、八時家ヲ発シ東京停車場ニ抵リ興津ニ向ケ出発ス、井上侯ノ訃音ニ接シテ往弔スル為メナリ、車中同行者甚タ多シ、十二時過興津着、直ニ人車ニテ侯爵邸ニ抵ル、大山公・芳川伯・清浦子、後藤・阪谷男爵等同伴ス、親族其他近親ノ人ヨリ発病ノ模様ヲ聴取ス、午後二時侯爵邸ヲ辞シ、二時十三分興津発ノ汽車ニテ帰京ス、汽車中同行者往時ト略同一ナリ、午後八時過東京着直ニ帰宿ス、此日車中ニテ宇下ノ人言ヲ読ム、夜十一時就寝
九月三日 曇夜ニ入リテ雨降ル
○上略 夜飧後東京停車場ニ抵リ、井上侯ノ柩興津ヨリノ来着ヲ迎フ ○下略
   ○中略。
九月七日 時々驟雨来ル
此日ハ井上侯ノ葬儀執行当日ニ付、午前五時半起床、支度ヲ整ヘ六時半内田山ニ抵ル、葬列諸般整頓シ、八時出棺ノ準備全ク成ルヲ以テ、
 - 第57巻 p.426 -ページ画像 
先発シテ日比谷葬場ニ抵リ場内ヲ一覧ス、午前九時半着棺、葬儀全ク畢リテ、十二時松本楼ニ於テ午飧ス
勅使及各宮殿下御自身又ハ御代拝アリ、葬儀頗ル壮厳ナリキ、会葬者五・六千人許リトノ事ナリ、午後一時ヨリ麻布ナル長谷寺ニ抵リ、着棺ノ後埋葬ノ事畢リテ、午後四時親戚一同解散ス、此日葬儀中及埋葬ノ際時々驟雨来リテ会長《(衆カ)》ノ迷惑アリシモ、格別ノ事ナクシテ諸般ノ事務修了セシハ掛員一同ノ共ニ満足スル所ナリ ○下略


中外商業新報 第一〇五五四号 大正四年九月五日 井侯薨去発表(DK570189k-0002)
第57巻 p.426 ページ画像

中外商業新報  第一〇五五四号 大正四年九月五日
    井侯薨去発表
 従一位大勲位侯爵井上馨氏は二豎の為めに犯され、月の四日午前九時遂に薨去せられぬ、享年八十一、侯は明治の元勲国家の柱石にして、其勲功の赫々たること今更説く迄もなし、此日秋雨蕭々天地為に暗く、上下慟哭喪に服すに似たり、噫
  ▽遂に不起
予て静岡県興津町の別墅に静養中なりし井上侯は、去月初旬以来宿痾の腎臓病の再発と共に全身に湿疹を発し、静岡病院長柴医学士並に東京帝国大学なる土肥博士、赤十字病院長同主幹吉本博士等の診察を受け専ら治療怠りなかりしが、同月三十一日午後に至り病勢俄に革り昏睡状態に陥り、加ふるに尿毒性心臓衰弱を来し頗る危険の容態に立到りたるを以て、一先帰東せんが為夫人始め親戚知友の擁護により、三日午後二時五分興津停車場より臨時列車にて午後七時三十五分東京停車場に着、朝野紳士の出迎を受け、本邸より差廻したる馬車に乗じ内田山の邸に入り、直に侯爵居間なる光琳の室に安臥せられ、同夜は専ら危険状態の裡に経過せしが、遂に四日午前九時眠るが如く薨去せられたり(四日午前十時発表)
○中略
  ▽葬儀委員決定
四日決定せる葬儀委員左の如し
    ▽葬儀委員長       伯爵 芳川顕正
     副委員長        子爵 金子堅太郎
     同           男爵 有地品之允
     同           男爵 渋沢栄一
○下略


竜門雑誌 第三二八号・第八二頁 大正四年九月 井上侯薨去(DK570189k-0003)
第57巻 p.426-427 ページ画像

竜門雑誌  第三二八号・第八二頁 大正四年九月
○井上侯薨去 青淵先生と四十有余年来管鮑も啻ならざる親交ありし井上侯は、興津の別邸に於て静養し居られしが、八月三十一日午後容態急変し翌一日午前十時俄然心臓麻痺を起して終に薨去せられたりとの急報に接したる青淵先生の驚愕一方ならず、二日午前八時三十分東京駅発にて興津に急行し、大山公等と与に小糠山の邸を訪ひ、親しく遺骸を安置したる部屋に通りて弔辞を述べ、同日午後八時十分東京駅着にて帰京せられたり。帰京車中青淵先生が東京日々新聞記者の問ふ儘に語り出でたる談片は左の如くなりとぞ。
 - 第57巻 p.427 -ページ画像 
▽青淵先生の談片 井上侯は経済の事を深く研究して居られ、私も此方面に干係してゐるから五十年の久しい間互に打解けて交際してゐた、確か第一西園寺内閣は国の財政を豊にして一方海外の発展殊に支那に手を延ばすと云ふので、時の大蔵大臣山本達雄氏等と屡々会合して着々歩を進め、其後孫逸仙とも会合して握手する手筈であつたがツイ其機会無く其儘になつて了つた、先年私が支那へ行つたのもそれが為めである、侯は支那に対する我が外交振には、大に不満を抱かれて、本年六月内田山へ帰られた時は遂に肝癪玉を飛ばして「こんな始末では俺は興津へ帰る」と云つて憤慨された、私は「まあまあ気永に」と宥めて、心の中では何時の日にか其の理想を実現して侯と共に喜ばうと思つてゐたのに……」
侯の霊柩は九月三日午後二時五分興津発、同七時三十五分東京駅着にて帰京し、直ちに内田山の本邸に入り、翌四日午前九時喪を発し、越えて七日令孫三郎氏喪主となり、葬儀委員長芳川顕正伯、副委員長青淵先生・金子堅太郎子・有地品之允男諸氏指揮の下に、同日午前十時日比谷公園式場に於て荘厳なる葬儀を執行し、午後一時麻布長谷寺に埋葬せられたりといふ。


中外商業新報 第一〇五六〇号 大正四年九月一一日 ○初七日の回向 故井上侯墓前祭(DK570189k-0004)
第57巻 p.427 ページ画像

中外商業新報  第一〇五六〇号 大正四年九月一一日
    ○初七日の回向
      故井上侯墓前祭
十日は故井上侯初七日に相当せしを以て、内田山の同邸にては午前九時より厳かなる霊前祭を行ひ、河野・桑田・荒川正副導師衆僧と共に読経回向を為し、喪主三郎氏・未亡人武子刀自・令孫女千代子、親族伊藤公夫妻・森祐三郎氏夫妻・都筑男夫妻・新田男夫妻・藤田四郎氏同令息・令嬢並に葬儀係長芳川伯・同副係長金子子・渋沢男以下各葬儀委員其他数十名の諸氏焼香参拝を為し、終つて十一時より笄町長谷寺の墓前に於て墓前祭を行ひ、前記諸氏の参拝ありたり


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570189k-0005)
第57巻 p.427 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
九月十二日 曇
○上略 三時半内田山井上邸ニ抵リ、葬儀委員会ヲ開キ、庶務ノ報告ヲ受ケテ葬主ニ其結了ヲ通告ス、是ニ於テ葬儀ニ関スル庶務全ク結了シテ委員一同へ慰労ノ宴アリ ○下略


竜門雑誌 第三二九号・第四一―五一頁 大正四年一〇月 ○井上侯と予との関係 青淵先生(DK570189k-0006)
第57巻 p.427-435 ページ画像

竜門雑誌  第三二九号・第四一―五一頁 大正四年一〇月
    ○井上侯と予との関係
                      青淵先生
 本篇は雑誌「実業之世界」に掲載せる青淵先生の談話に係り、他の談話と重複の点なきに非ざれども、最も其の詳を悉せるを以て、後日参照の為め玆に併載するものなり(編者編)
      △ネビゲーションの大失敗
実業之世界社の野依さんが来られて、井上侯が薨去されたに就て、何か話をせよとの事であるが、四十有余年間交際を辱ふして来た私とし
 - 第57巻 p.428 -ページ画像 
ては、一言申述べる資格があらうかとも思はれるから、僭越ながら御依頼に応じた次第である。
井上侯は七年前大病に罹られて、其時既に余程危篤に瀕したのであつたが、御維新当時から鍛え上げた丈夫な健康の所以で漸く回復されて今日に至つたので、お歳も私などよりは五つ上の八十一、先づ甚しい不足はないと云ふものゝ、斯う急に薨去されるとは固より思ひ懸けなかつた所である。私は侯の死に接して何だか真実の兄に先だゝれたやうな、特殊の悲しみに打たれるのである。
井上侯は、維新当時の志士中でも、最も新知識思想に富んで居られた一人で、文久元年の頃挺身英国に洋行された程であつた。嘗つて其時の話を侯から直接承はつた事があるが、其中に『此時伊藤(故公)と上海に渡つたが言葉が能く分らない、何の目的で英国へ渡航するかと聞かれて、海軍研究と云ふべき処をネビゲーションと辛つと覚えた一字を口走つた。相手は之を航海術の稽古の事だと取つて早速三百噸位の帆船に水夫として乗り込ませ、四ケ月間水夫の仕事をしつゝ英国に渡つた。物を知らぬと云ふ事は馬鹿馬鹿しいものだ。一寸した言葉の如きでも斯の通りだ』と笑はれたことがある。
      △初めて井上侯と識る
井上侯は最初攘夷論者であつたけれども、只今申した洋行以来翻然開国論者と変り、同時に討幕論者となつて大に国事に奔走された。それがために藩内の攘夷論者から眼を附けられ、終に彼の俗論党壮士が閃かす憤怒の刃に袖付橋で重傷を負ふ事に成つたのである。
私が井上侯を知つた抑もの初めは明治三年であつた。私は明治二年に大蔵省へ出仕して租税局に勤めて居つたが、其頃は維新匆々の紛糾した時代であるから、私は謂はゞ諸制度改正係とでも云ふべき役目であつた。当時の参議は西郷・大久保・木戸の諸公、伊藤公や大隈伯が実際政治の司宰者であつた。初め大隈伯が大蔵大輔であつたが、伊藤公が米国に特派せられたに就て内閣にも変動を生じ、井上侯が大阪の造幣廠から入つて大蔵大輔となり、私は少丞として其の配下に属する事に成つた。之が侯の知遇を得た最初である。
四年の夏に伊藤公が帰朝せられるに及んで、米国式を日本化して凡百の制度取扱を改革せねばならぬと云ふことになり、井上侯は伊藤公の説を聞いて公債買入とか、銀行条例とか、帳簿の改正、伝票の制度など種々新しい改正に努めた折柄、私は其の直下に在つて微力をなしたのである。
      △井侯雷の由来
銀行条例の施行に就いては米国式か英国式かの議論が盛んであつた、伊藤公は米国式を主張し、井上侯と私との間に居つた、薩藩の吉田氏(大蔵少輔)は英国に遊学した関係上から英国式を提唱し、妙な所に薩長の論争となつては面白くないと思つて居たのであつたが、井上侯はなかなか判断力の強い方で、衆議を排して伊藤公の米国式を採る事に極めて了つた。『宜しい、乃公に任して呉れ』と云ひ残して内閣に出たが、大久保公とでも相談して来た行掛りか、兎に角役所に戻るや否や米国式だと宣告された。其上何でも彼でも三日以内に制度案を完
 - 第57巻 p.429 -ページ画像 
成せよとの命令である。
当時のお役所は何を申せ維新の混雑した時代であるため、事務が動もすれば、公私混淆の嫌があつた、宅調べと称して火急を要するものは私宅で事務を処理する習慣さへあつたもので、私も此の時には徹夜の覚悟を定め、本郷天神下の小やかな喬居に部下の者を召集し仕事に取り掛り、三日の間不眠不休の宅調べを決行したのであつた。
八月の暑い盛りであつた。井上侯は『三日でやれ』と云はれる。私はさうは出来ませんと答へる。『何出来ないものか、そんなら乃公自身がやる』と頑張る。八釜しく吩附けられ意気地なしとガミガミ叱られたものである。斯ういふ所から井上侯の雷と云ふ異名が生じた事と思はれるが、併し成程性急ではあつたけれども、横暴などゝ云ふべき性質の分子はなく、侯のは全く正直と熱心からガミガミ云はれたのであつた。時として正直と熱心が私人関係にまでも及び、ために公私混淆の気味も多少免かれなかつたやうであるが、是も決して御自分の利益の為めではなく、例の性急と熱心とから来たものである。
      △廃藩置県と藩札整理
明治五年七月十三日廃藩置県の断行があつた。其結果は特に民部と大蔵両省の施設に俟つものが多かつた中にも、藩札の始末は大仕事であつた。維新改革後間もなく新政府を形成つて新政治を布かうと云ふのであるから、諸事なかなかに容易には運ばれない、時も時其の藩札を引上げて公債に換へねばならぬ。之を如何にすべきかは実に朝野の大問題であつた。下手に始末すれば或は比価の差を見込んで投機を試る者があるかも知れない、従つて相場に動揺を来し、収拾す可らざる財政上の困惑に陥るやも計られないと云ふ心配があつた。
井上侯は七月十六日現在の相場で、公債を交付するが可いと提唱された。私も是に賛成した。此の卓見と断行は、誠に侯の識腕を証明したもので、今日と雖も常に賞讚せられたる所である。井上侯は議論は旨くはなかつたが、将来の予見が利き、且明敏なる果断力を有つて居られた。
却説、廃藩置県の公布された七月十三日は盆である。現今では田舎でもない限り別段のこともないが、其頃盆と云へば年中の休日として皆休んだものであつた。当時の政府と云つても恰もお店風なものに過ぎなかつたから、勿論十六日まで休暇と云ふことに成つて居つた。私共もこれから帰つて三日程も休まうと仕度中、井上侯が内閣から帰つて来られて急に臨機の仕事を命ぜられ、休暇を止めてしまつて大車輪で仕事をして大に弱らされた。斯う云ふ中にも侯の雷式には多量の疾風迅雷的の機敏を含んで居ることを察知することが出来る。
      △兌換券の発行
井上侯は当時、熱心な富国主義を持して居られた。陸海軍の必要は言ふ迄もないけれども、先づ国本となる富力を増進せねばならぬといふのが侯の終始渝らざる主義であつた。個人に対しても同様であつた。最も道理を度外視した所謂町人根性の金儲けをする事は不可い、至当に且国家本位に事業を起さねばならぬと常に誡められた。之が私と全然意気相投合したわけである。侯は以上の如き末の末までを観透した
 - 第57巻 p.430 -ページ画像 
実着な見地から、国家の内外をも料理せんと努められたのであつた。斯くて財政上色々工夫創設された事も多い。
元来租税は物納が主であつたが、之は是非とも貨幣制度に改めねば、収支の予算が安全に成り立たない、其には差当つて兌換券を作つて補充せねばならない、其には先づ準備とすべき金貨を集めねばならぬと云ふ事で、其の方策に苦心された。時恰も贋造金貨が多くて二分金の信用は地に墜ち、相場が非常に下落して居た折であつたから、一方紙幣の信用と携帯使用の便利とを人民に説明しつゝ、兌換券を以て金貨の集収に努力したところ、計劃図に方つて約二千万円ばかりの金貨が集つたと記憶して居る。其時引換の取扱を依頼したのは、三井であつた。侯の金貨制度は中途少しく躓いた観もあるが、兎に角侯の明敏な判断力には常に敬服して居たのである。
      △余の辞表提出と井侯と大久保公
何時の政府でもさうであるが、此時代も矢張り大蔵省が就中勢力があつた。従つて此処の長官たる井上侯の勢威を嫉むやうな人間も多少はあつたらしかつた。偖て侯や私共は例の国力充実論を振り翳して、陸海軍に莫大の金銭を投ずることは常には反対の態度を取つた。正直申せば財政の方のみを考へて居たので、大久保公などの参議側から見れば軍備とか教育とかには知識のなかつたやうに思はれたかも知れない当時何でも千三百万円から軍費に支出すると云ふ案があつたが賛成しなかつた。其結果が、其年の九月二十三日と思ふが『一体お前方は大蔵大蔵と大蔵一点張りで、陸軍などは眼中に置かぬのか』と大久保公から憤られた。私も自分が赤誠を尽くして居る志の報ゐられざるを慨し、且は血気盛りの時分ではあるし、辞表を懐にして一日私は当時日本橋の浜町にあつた井上侯の居宅を訪ふて辞意を陳べた。処が井上侯は其の問題は何も言はれず、『時に渋沢君、日本の経済は一体何うしたら宜しいだらう』と云つた様な風で、日本帝国の財政経済の話を持ち出された。仍で私も縷々意見を吐露して討論に時を移した。けれと更に辞職の件には言及されないから、耐え切れずに私から再び云ひ出すと、『まあまあ我慢をせよ、まだ野に下るには早い。君も止めるなら乃公もやめる、何さま新政府が出来たばかりだから、お互に自重して邦家の為めに献身せねばならぬ、乃公にも考があるから今暫く見合はせろ』と懇々言はれるものだから、私も踏み留まる事に成つたが、軈て大阪の造幣局へ転任する事になつた。口には云はれぬが井上侯の腹では、岩倉大使の一行が欧米に出発さるれば大久保公も一緒に行かれる。後を我々が存分に塩梅すると云ふお考であつたらしく思はれる四年九月大阪に赴任した私は、十一月復た東京に戻つた。大久保公が不在になつたからである。東京へ帰つたのは十三日、十六日に父の病報に接して郷里に帰省したが二十二日に遂々父が亡くなつた。其頃井上侯は大蔵卿の職に就かれた、私の留任に報いらるゝ意味からか、侯の直ぐ下に吉田少輔が居られたので、少輔を二人拵へるわけにも行かぬ所から、私を少輔代理に昇進さして下された。
禄高制を廃して秩禄公債を給付するやうに成つたのも此頃の改革で、士族などの遊食を戒める上に非常に効があつた。而して此の施設に就
 - 第57巻 p.431 -ページ画像 
ても井上侯の発案は与つて力が多かつた、要するに井上侯は財政上の創案が多かつた方である。特に物を纏める堅実性に富まれて居つた。人は動もすれば消極的だと云ふけれども、実は財政の基礎を固めて仕事に着手すると云ふ積極心から生じた消極なのであつた事は注意すべきである。
      △故侯の辞表振り
是も明治五年の出来事であるが、『井上は大蔵には金を出すが、司法などには金を出さぬ』と江藤新平卿などが喧しく井上侯を攻撃した。当時岩倉・大久保・伊藤の諸卿は外遊中で、参議西郷・板垣・大隈諸卿が内閣に居残つて居たが、皆井上侯を非難するので、侯も此時は大に憤慨せられ、『勝手にせよ』と家に帰つて了つて、そして使を派しても出て来られない。仍で三条公なども大に心配せられ、私の如き微臣の処をも顧みず、三度駕を抂げて、井上侯の辞意を翻すことを御依頼せられた。三条公は格別私を重く見られた訳でもなからうが、親切なお方だけに侯の身上を慮られて三度も省られたことは誠に恐縮の至りで、私も熱心侯に説いて辛く留任せられる事にした。
併し政府の方では容易に大蔵省の言分を聴かずに盛んに濫費する。井上の説なんか何でも構はぬと云ふやうな本当の喧嘩沙汰に成つて了つたから、井上侯も到底我慢が出来ず、六年の五月三日と思つて居るが内閣から帰つて来て『もう乃公も辞職の他はない』と私共の昼飯を喫して居る処へ来られて述懐せられ、『さあ辞表を認めて呉れ』と無雑作に秘書官へ吩附けられた。今日から見ると、こんな開けつぱなしの態度に出るのは思ひも寄らぬ事であるが、当時はマアこう云つた調子であつた。そこで私は、『貴卿が辞任されるなら私も止めます』と申出ると、国家のためだ、是非後任者のためにと云つて、何うしても承知して下さらない。私が、『其は貴卿は御勝手過ぎる。以前私の辞職を申入れた節は、一緒に止めると仰しやつたではありませんか』と大に議論した末、それではと云ふので二人同時に辞表を提出する事にしたのである。私は此時会計制度に関する政府糾弾の論文を草して之を侯に示した処、侯も大に同感なりとして自らの意見をも加へ、之に連署して政府に提出し、且新聞に公開した、そのために二人は罰金を科せられたと云ふ奇談もあつた。
      △一生忘れぬ侯の親切
辞表提出と共に私は各係の者に叮嚀に事務の引継をしたが、後で陸奥さんから『渋沢は仕事をするに親切だ』と誉められました。愈々辞職の許可に成つたのは五月二十七日、それから御用滞在と云つて、免職以外の退任者は色々の残務の始末に出仕する慣ひで、侯と私とは同年の十一月に及んで純然たる浪人に成つた。
そこで二人とも野に下つて、是から大に事を為さうと云ふので、六年井上侯は先収会社を起して、益田孝・馬越恭平・木村正幹諸氏を包容した一種の貿易会社を作つた。今の三井物産の前身が夫れである。私は六年の七月三十一日第一銀行を創設することに成つた。当初私は極僅少の株を所有するのみで、三井と小野組が大株主であつた。先代三井八郎右衛門と小野善助両氏が頭取、私は商法上何等責任のない、さ
 - 第57巻 p.432 -ページ画像 
う申しては何んだか変だが、今の実力ある一種の相談役と云ふ形の総監といふ名義であつた。処が七年の冬の事、創立も未だ間もないといふのに小野組は不幸大失敗を演じた、何しろ頭取の破産であるから、私も大に痛心して善後策を議したが、窮して了ひ、寧ろ第一銀行を抛棄せんとまで考へて居た折、某日井上侯が突然私を尋ねて来て一緒に飯を食ひに八百善にお伴した。処が侯は私が特に御依頼もせぬに、食事をしながら、時に渋沢君と云つて、銀行の事に就て種々配慮せられ小野組と第一銀行との間に立つて奔走して下される事になつた。三井と小野組とは均しく政府の御用を承はつて居つたが、三井と小野組と第一銀行の関係を巧に切り放して、侯は小野組の不都合を明にして三井や第一銀行やの関係を都合よくして、政府にもヒドイ迷惑の残らぬやうに取計つて下された。此時の侯の親切は私の一生忘るゝ能はざる所である。
斯く親身に成つて世話を焼いて呉れる代りには、対手の振舞が思ふやうに行かねば、ついお小言が出たものと思はれる。一体が我意の強い所以か、やゝ偏狭に見えるのが侯の損な点であつたらうと思はれる。
      △乃公若し軍人なりとせば
伊藤公は論理の優れた人で、事を断ずるにも必ず論理からこられて大政治家らしい所があつたに反して、井上侯は論理は下手で、その結果を直覚して事を断ずる方であつた。侯がついに総理大臣になられなかつたのはこゝの相違から来て居るのではあるまいかと思はれる。井上侯は飽く迄も名を捨てゝ実を取る方であつた関係上、花々しい政治家とは成れなかつたけれども、そして又、実務家であるために兎角消極的に見えたけれども、侯は決して世界の大勢、日進の進歩に遅れる人ではなかつた。軍事の事、外交の事、なかなか通達して居られたものである、外交官としては公使として大臣として相当の経歴もあられるし、軍人としても一通りの見識は持つて居られた。天性が軍人肌で、山県公の如きもさう云つて居られたさうだが、侯自身でも『乃公も軍人になつて居たら大変豪い者に成つたらうに』と述懐して居られたと承はる。私もあなたは軍人になられたら、一方の猛将になられたらうと申した事もある。
       △たつた一度真剣の喧嘩
其後井上侯も私も実業界とは益々密接の関係が結ばれた。殊に戦争の後はいつも国運に異常の変動を来すために、侯などの補導に待つものが少くなかつた。西南戦争の時は不換紙幣を余りに発行し過ぎた。私なども侯と共に其を唱導した所が、或人が時の大蔵卿大隈伯に、渋沢等が再び井上を大蔵に入れようとする運動の為めの反対だと讒したと後で聞いた事があつた。
日清戦争の結果、日本と朝鮮との関係は益々緊密になると私は考へた最も私は既に明治十年に支那に渡つて金を貸し付けようと考へたこともあつた。明治十一年から朝鮮に第一銀行の支店を設置した。此は大倉喜八郎君などにすゝめられた事もその動機の一となつて居る。十六年には朝鮮の税関の収支を第一銀行で代理取扱をすることにした。と云つたやうな深い交渉もあり、また日鮮両邦のために経済上益々朝鮮
 - 第57巻 p.433 -ページ画像 
と密接の関係を結ばうとして、三十年の松隈内閣に私共が発起して、三井・三菱・大倉・安田・原(善三郎)・大谷(嘉兵衛)・前島(密)松本(重太郎)・今村(清之助)・原(六郎)・益田・瓜生(震)の諸氏とシンヂケートを作り、米人モールス氏が権利を得て既に多少敷設しかゝつて居つた京仁鉄道を二百五十万円で買受けることにした。之れは大隈伯も賛成を表して政府から百何十万円か無利子で貸下げることに運びが着いたが、三十一年伊藤内閣が代つて成立し、井上侯が大蔵大臣たるに及んで、侯は大隈伯の保護は違法だから更めて取消すと言ひ張られた。何んと言つても承知されぬ。蓋し伊藤公も井上侯も、朝鮮に手を展ばすと露国と衝突する恐があるとの外交上の杞慮から考へられたのであつた、そこで私も其時ばかりは憤慨して、『外の人はいざ知らず、ソンナことを言はれるなら私は今後一切政府の仕事には関係をせぬ、政府とも井上侯とも絶縁する』と激論を放つて、大蔵省で後にも先にもたつた一度の喧嘩をしたのであつた。其時秘書官(都筑馨六氏かと思ふ)が傍に居られて、そんな事で永年の交誼を絶縁なぞしてはつまらぬと言つて色々仲裁されたけれども、そんな事では私は承知出来ぬので、其日はそのまゝ帰つて仕舞つた。すると翌日伊藤公から来て呉とのことで行つて見ると、『昨晩井上と激論したと云ふのぢやないか、まあ一切乃公に委せて呉れ、前政府の承認を取消すのは井上が間違つて居る。前政府の通りさせるから、喧嘩丈けせんで呉れ』と調停の労を取り、前政府通り遂行する事に纏つた。当時、山県松方・桂の諸氏は私の意見に賛成であつた。
又三十一年の夏京釜鉄道を二千五百万円の資本で初める事になつた時伊藤公の如きは渋沢が又アンナ事をして『国を亡ぼす』と迄で極言された。其時も山県・松方・桂・児玉の諸氏は賛成された。井上侯も対露関係論を持ち出されて大に反対した。併し私はどうしても将来の為め必要と思つて同志と共に断行した。
      △井上侯の消極論
其後明治三十六年の九月の頃、銚子の暁鶏館に滞在して居つた処が、井上侯が相談があるから至急帰つて呉れぬかと招きであるから、何かと思つて早速帰京して見れば、伊藤公と共に京釜鉄道の経営を取急いで貰ひ度いとの話である。曩きには国を亡ぼすとまで極言して置いてと異様の感に打たれたが、そこが井上侯の直を直とし、善を善とする正直な豪い処で、資金が不足だと云つたら大に尽力して金の心配までして呉れた。対露関係が危急に逼られたからである。其後は用事のある毎に何でも渋沢を呼べと云ふ有様で、私も亦出来るだけの微力を致した。私の朝鮮経営は故児玉伯なども大に賛成されたものである。
日露戦後には財政の強固を唱へられた。所謂消極主義と称せられる軍備縮少論であつた。是は私の持論で、其の主張の根本は寧ろ私に発したらうと思ふ。戦後事業勃興の折も井上侯は図に乗つては危いと大に抑へ、私が幾多の事業に顔を出した時も、少しやり過ぎると侯は懸念して居られたらしく思はれた。三十九年西園寺時代にも二人で出掛けて行つて色々談合し、私は此の時侯と反対に一人断然国有に反対であつた。それは戦後二十幾億かの多額な国債を負ふ上に、内債二億円募
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集の必要に迫られ、新に鉄道国有の為め五億からの国債を発行するのは邦家の前途に弊根を貽す所以だと思惟して、之を井上侯に計つたら侯も『乃公も君の意見を聞いて見ると悪いとは思ふが、西園寺内閣組織の保証を得て居るから致方がない。乃公は今更そんな事は言はれぬから、せめて君が行つて話して見て呉れぬか』との事で、私が西園寺侯に会つて大に論じたのであつた。其後四十一年十一月、井上侯と二人で首相西園寺侯に、政府が余り積極に過ぎはせぬかと苦言を呈したこともあつた。大正元年の第二次西園寺内閣の成立に際しても、二人は盛んに消極論を唱へて、内閣の反省に資した行政整理・租税軽減を主張した。二人の意見が期せずして何時も大同小異に合致したことは寧ろ不思議な程であつた。
      △対支策に対する侯と私
とは云ふものゝ二人と雖も、有望な事業、国運の進展に必須の計劃には最も積極的に出た。井上侯の如き特に支那問題には留意したもので彼の漢冶萍の鉄山に就ては色々目論まれて居つた様子である。何でも日本人が支那で仕事をして、その仕事の為め、言はゞ日本の働きで、外国の資本が自然に這入つて来るやうにせねばならぬと云ふのが根本方針であつた。支那の事、到底一朝一夕に成るべくもないが、侯の眼識だけは確に肯綮に当つてゐる。私も大に同感であつて、及ばずながら中日興業会社や、日仏銀行の成立には多少の骨折を惜まなかつた次第である。
中日興業の前身は孫文第一回革命の後設立した中国実業会社である。孫文が第二次革命戦に敗衂して日本に亡命客たるに及んで、我々が苟も一国の謀叛人たる人々と事業を共にするとあつては、支那の袁内閣に対しても名分が立たぬと云ふ訳から、私はわざわざ支那に遊んで其の真意を語り、支那政府を納得せしめた。支那政府でも南方の孫一派を除名するならば当方から人も金も出さうと話が進捗し、ついに中日興業会社が出来上つた次第である。
      ▽私行上から見た井上侯
以上は私と井上侯との関係の大体である。要するに侯は直覚の極めて勝れた、明敏な果断力に富んだ方であつた。政治家たるべく稍々正直過ぎる。然し斯かる欠点があつたとは云へ、創案に豊かな経綸はなかなかに敬服すべきものがあつた。侯は確かに明治の一功臣たるを失はなかつた。
私人として又は私行上の侯に就て私は自ら材料を有たない。度々会食もし遊びにも行つたが、其以上深くは知らなかつた。金銭上の相談は二人の間に曾て話されなかつた。従つて侯の遺産は幾許位のものか、その見当も着かない。但だ道具・書画骨董の類は少くないことを知るのみである。是に世間兎角の評判もあるらしいが、安いものも時世の進むと共に高くなる、値段の昂騰したのに悪声を放つ理由は無いと思ふ。かゝる事で侯を誹謗するのは当を得ぬのである。
又、三井・藤田・鴻池などの富豪を世話した結果、是非の論を立てる者あるも、之を云ふものは多くは誤解の先入性に囚はれて居るものゝ如くである。侯は人並以上に潔白な、公平な人であつた。只だ自分が
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斯うと思ひ掛けられた事物に余りに熱心に尽力するが為めに、世間一般からは絶えず不可思議の眼を以て見られたのであらうと信ずる。