デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 8. 清水家
■綱文

第57巻 p.453-456(DK570209k) ページ画像

 --


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK570209k-0001)
第57巻 p.453 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
六月二十八日 雨 冷
○上略
朝清水釘吉・同一雄・原林之助三氏来リ、清水組半季決算ノ報告アリタリ
   ○中略。
七月十三日 曇 暑
○上略 日本橋倶楽部ニ抵リ清水組宴会ニ出席ス、種々ノ余興アリ、夜食前店員ニ一場ノ訓示演説ヲ為シ、夜十一時散会帰宿ス


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570209k-0002)
第57巻 p.453-454 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十四日 曇 寒
○上略 午後五時日本橋倶楽部ニ抵リ、清水組ノ宴会ニ出席ス、先ツ清水店員一同ヘ一場ノ訓示演説ヲ為ス「竹ノ如ク一時ノ生長ヲ欲セス、槻楠ノ類ノ如ク漸ヲ以テ大ナル事ヲ勉メ、根幹枝葉相俟テ繁茂スル事ヲ注意スヘシト」、畢テ種々ノ余興アリ、食卓上又来賓ノ総代トシテ一場ノ挨拶ヲ為ス、夜十一時散宴帰宿ス
   ○中略。
 - 第57巻 p.454 -ページ画像 
五月十二日 曇 暖
○上略 午後六時日本橋倶楽部ニ抵リ、清水氏ヨリ招宴セラレタル宴会ニ出席ス、同族及第一銀行員来会ス、種々余興アリ、食卓上挨拶又ハ答詞等アリテ夜十一時散会ス
   ○中略。
七月十三日 曇 暑
○上略 午後五時浜町日本橋倶楽部ニ抵リテ、清水組ノ饗宴ニ出席ス、来会者百名余頗ル大会ナリ、種々意匠ヲ尽セシ余興アリ、晩飧席上ニテ一場ノ謝詞ヲ述ヘ、夜十一時散会帰宿ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK570209k-0003)
第57巻 p.454 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十二日 曇 寒
○上略 午後五時日本橋倶楽部ニ抵リ、清水組宴会ニ出席ス、席上一場ノ答辞ヲ述フ、種々ノ余興アリ、夜十一時帰宿ス
   ○中略。
七月十三日 曇 暑
○上略 四時半帝国劇場ニ抵リ、清水組ノ宴会ニ出席ス、清水店員一同ヘ訓示ヲ為シ、食堂ニ於テ夜飧ス、来賓百名許リナリ、食卓上一場ノ謝詞ヲ述フ、畢テ余興演劇ヲ観ル、夜十時半帰宿後、新聞紙ヲ読マシム


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK570209k-0004)
第57巻 p.454 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
○上略 午後五時日本橋倶楽部ニ抵リ、清水組新年宴会ニ出席ス、食卓上一場フ謝詞ヲ述ヘ、色々ノ余興アリ、夜十一時散会帰宿ス
   ○中略。
四月二日 晴 軽寒
○上略 十二時常盤屋ニ抵リ、清水組ノ催フシタル北村氏欧米行ノ送別会ニ出席ス、午飧中一場ノ訓示演説ヲ為ス ○下略


渋沢栄一 日記 大正三年(DK570209k-0005)
第57巻 p.454 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十七日 晴 風寒シ
○上略 五時過浜町日本橋クラブニ抵リ、清水組宴会ニ出席ス、食前ニハ事務者ニ訓示シ、食事ノ時一場ノ挨拶ヲ為ス、夜九時過帰宿ス


渋沢栄一 日記 大正六年(DK570209k-0006)
第57巻 p.454 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十五日 晴 寒
○上略 午後五時日本橋倶楽部ニ抵リ、清水組ノ饗宴ニ出席ス、例ニヨリテ一場ノ挨拶ヲ述ヘ、夜十時帰宿ス
此夜清水ノ宴会ハ、倶楽部ノ洋室ヲ日本坐敷ニ変装シ、恰モ二条城内ニ三百諸侯参会セルカ如キノ観アリキ、頗ル来客ノ興ヲ添ヘタリ


中外商業新報 第一一三五〇号 大正六年一一月八日 ○清水氏母堂葬儀(DK570209k-0007)
第57巻 p.454-455 ページ画像

中外商業新報  第一一三五〇号 大正六年一一月八日
    ○清水氏母堂葬儀
清水満之助母堂むめ子刀自の葬儀は七日午前十一時半自邸出棺途中葬
 - 第57巻 p.455 -ページ画像 
列を廃し、午後一時より谷中斎場に於て執行されたり、喪主満之助氏病中の故を以て同氏義兄定吉氏代り壮厳の儀あり、渋沢男の弔詞あり三時式を終りしが、会葬者には佐々木勇之助・浅野総一郎・和田豊治 ○中略 其他無慮三千五百人に上る盛儀なりき


渋沢栄一 日記 大正七年(DK570209k-0008)
第57巻 p.455 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十四日 晴 寒
○上略 清水釘吉・一雄・揚之助三氏来リ、従来懸案アリシ宗家相続人決定ノ事及一雄ノ次男ヲ宗家相続人ノ弟トシテ親愛スル事ヲ亡母ノ遺命ノ如ク取極メタルヲ報告ス ○下略
   ○中略。
二月七日 雨 朝来雨降ル夕方ヨリ晴又曇
○上略 午後五時半清水氏番町宅ニ抵リ、同族一同会合シテ其家事ニ付テ訓誡ス、佐々木勇之助氏来会ス、夜食後夜九時頃散会帰宿ス


渋沢栄一 日記 大正九年(DK570209k-0009)
第57巻 p.455 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十一日 晴 軽寒
○上略 清水組ノ宴会ニ出席シ、余興後食卓ニテ一場ノ謝詞ヲ述ヘ、夜十時過散会帰宅 ○下略
   ○中略。
一月二十三日 晴 寒
○上略
午後五時半帝国ホテルニ抵リ、清水組ノ宴会ニ列ス、幹部諸氏及場処掛一同ヲ会シテ一場ノ訓示ヲ為ス、後夜飧ヲ共ニシ食卓ニテ演説アリ夜十時散会ス



〔参考〕清水建設百五十年 同史編纂委員会編 第一一六―一一八頁 昭和二八年一一月刊(DK570209k-0010)
第57巻 p.455-456 ページ画像

清水建設百五十年 同史編纂委員会編  第一一六―一一八頁 昭和二八年一一月刊
 ○第四編 昭和時代 終戦迄(一九二六―一九四五)
    渋沢栄一翁の逝去と晩香廬
 昭和六年(一九三一)十一月、渋沢栄一翁は九十二才で歿した。清水組は四代六十年間にわたり、或る時は指導者、ある時は保護者更に得意先または融資者ともなつた育ての親を、失つたのである。
 翁の人生は誠に輝けるものであり、朝にあつては近代日本のため自ら経済政策を樹立し、野に下つては経済界の指導者となり、退いては慈善事業に尽瘁し、しかも天寿を全うするという稀に見る偉人であつた。
 先に清水組は其の恩顧に報いるため、大正六年(一九一七)翁の喜寿に際して飛鳥山の別邸曖依村荘内に瀟洒な小亭を造つて贈呈した。翁は自分の作である漢詩「蘭花晩節香」から「晩香廬」と名ずけて此の小亭を愛したのである。
○中略
 清水組が渋沢翁からうけた恩恵は、顧問とか或は相談役といつた個人的な面もあるが、清水組を興隆期の財界に結びつけたところに其の偉大な意義がある。翁は明治・大正を通じて日本の経済界の先達であ
 - 第57巻 p.456 -ページ画像 
り、翁につながることが即ち日本経済につながることであり、政治・経済・学界にもつながつているのと同じことであつた。
 翁を失つた清水組は、今その大綱を断たれ、自らの力に頼らなければならなくなつた。
   ○右ハ刊行ニ際シテ追補ス。