デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 18. 牛島謹爾
■綱文

第57巻 p.488-493(DK570244k) ページ画像

大正15年1月(1926年)

是ヨリ先、牛島謹爾、ソノ著「別天詩稿」ノ序文ヲ栄一ニ乞フ。是月栄一、右跋文並ニ題言ヲ寄ス。同詩集ハ是年三月牛島歿後、東京ニ於テ、栄一ノ尽力ニヨリ刊行セラル。


■資料

(牛島謹爾) 書翰 渋沢栄一宛 大正一二年一一月一一日(DK570244k-0001)
第57巻 p.488-489 ページ画像

(牛島謹爾) 書翰  渋沢栄一宛 大正一二年一一月一一日
                    (渋沢子爵家所蔵)
                    十二月八日一覧《(栄一鉛筆)》
  子爵 渋沢栄一 閣下
            梧右
    十一月十一日            牛島謹爾
謹啓 愈御老健之段奉欣賀候、錦地再興問題に付御配慮被相成候よし一国柱石として如此際には最も子爵を労するの大なるを見る、是れ亦不止得次第に御座候、どうか一奮発被相成、再建々物は小なりとも米国風の建設を御願申上度候、然されば従来建設にては欧米仲間入したとハ云へぬ、殊ニ便所仕組尤も必用也と被思候、伝染病の上より見ても、衛生上より論しても、必ず小米国風に御工夫必用ハ被存候、後藤氏えも在桑港之折呉々申上置候、よろしく為国家前途奉願候 頓首
 追申
 どう考ても今回震災は日本を神が大ニ強くなさしめ給はんが為と考ふの外ナシ、近来支那・魯・独に打勝ち鼻柱高く相成候間、内ニ省みて自ら疚しき所ナキカ、貯蓄ハアルカ、仁者ハ居るか、学校アルカ、発明者ハ居るか、人民勤倹して居るか、是れ神の問はれんと欲する所ナリと小生愚信罷在候、往年ゴモロ市焼打も国ニ仁者のナカりしニ由るとの事、仁者たる子爵が乍此上再興の事ニ御奮発奉祈候
                           頓首
子爵今や東都再興問題の為ニ忙殺せらるゝ此途端に詩を貴覧ニ入れる閑人あり、是ハ先年長女東部バサ女学校ニ入ルや内子ハ二男子と共に彼地ニ到ル、小子絶句を寄す    寄内子
 香消簾冷坐三更。  夜雨蕭涼感自生。
 児也成功頼卿力。  勿忘当日断機情。
彼女がバサ女校を卒業スル時、小子ハ里五千里を遠とせず彼地ニ到リ其卒業式ニ列す、曰く
 人種何論白与黄。  惟当金玉各磨光。
 妙齢今日終黌課。  喜汝能令我意強。
 - 第57巻 p.489 -ページ画像 
                    是正是祈  別天
 追申
 ○中略
 小子曾て子爵を始めアレキサンダア、レンチ、ヂョウダン諸氏を御招待申上候而昼餐差上たる其次きの島に小学校を建築して、之を郡ニ義捐致し申候、開校今月末ニやり可申候
 白人子児八名と外十余名日本人子児有之候、追てハ四・五十名ニ相成見込ニ候
 一昨年十月二十九日子爵招待宴をフアモント・ホテルニ開きし時、大雄弁を揮ひしジヨン・ピー・アイリッシ氏ハ十月初旬ニ死去致申候、此人ハ所至日本より帰来大ニ賛日本を唱居候、拝別の節子爵ニ小生詩集叙文願上たるもの宿諾果され度よう是又願上候 頓首
   ○ジョン・ピー・アィリッシュニ付テハ本資料第三十九巻所収「其他ノ外国人接待」大正十一年十月十二日ノ条参照。


渋沢栄一書翰 控 牛島謹爾宛 大正一二年一二月一九日(DK570244k-0002)
第57巻 p.489-490 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  牛島謹爾宛 大正一二年一二月一九日  (渋沢子爵家所蔵)
  牛島謹爾様
拝啓 然は貴方去十月十七日及十一月十一日附両回之尊書正に落手拝見致候、従是は其後意外の御無音に相成候処、貴兄始め御一家益御清適之由慶賀之至に候、小生も幸に健全為邦家微力を捧け居候間、御安心被下度候、扨去九月一日の当地方大震災に会したる弊方の安否御心配被下、御厚情拝謝致候、当日老生は恰も兜町の小生事務所に在りて執務中なりしが、室内の崩潰する四壁の土を浴びつゝも、幸に無事避難致候も、残念ながら其夜同事務所は火災の為めに多年之苦辛経営にて蓄積したる図書、就中老生が過去半世心血を濺き著述したる徳川慶喜公伝記之原稿全部を始として、小生が数十年間日本実業界の為に微力を尽したる各種事業の歴史を語るべき書類、将又内外各方面の名士より寄せられたる書翰、特に明治の元勲諸公よりの重要なる手書等も一塊の灰燼と化せしめたるは真に遺憾千万に候、併し飛鳥山拙宅は震害は多少蒙りしも延焼は免かれ、家族も亦無事避難したるは無此上幸福と存居候、何卒御安意被下度候
今回の大震災は実に我邦有史以来未曾有の大災害にて、東京市の三分二併かも最も繁栄なる地域を焼燼して百億円の財産を烏有に帰し、十数万の生命を殞し、幕府時代より維新後も五十余年を経て築き上けたる大都市を一夜にして寂寞たる曠野と化せしめたる其惨状は、実に筆舌の尽す処に無之候、此間に処して最も肝要なるは申迄も無く人心の安定に候間、老生は九月二日先つ政府に糧食の配給と戒厳令の施行とを献言し、続きて同志を会して民間に罹災者の救護と経済界の復興とを目的としたる大震災善後会を組織して、広く義捐金の募集に着手したるに付き、貴方に対しても御尽力によりて醵集せられたる義捐金を転付せられん事を懇請したる次第に候、然るに貴方に於て募集せられたる義捐金は、始めより日本政府に送附する目的なりしを以て転交する事不可能なりし御事情尊書に依りて委細拝承致候、右は老生の愚衷より貴地義捐金募集の任に当れる各位に御面倒相懸け候事と今更恐縮
 - 第57巻 p.490 -ページ画像 
之至に候、当市復興に付て御希望の点御申越相成敬承致候、小生も帝国復興院審議委員の一人として折角努力致居候、今回の震火災は要するに日本人に対する天譴《(な)》するべしとの御意見は至極御同感に候、右に付ては別紙 ○欠ク新聞紙に散見せし老生の愚説も御参考までに差上候、御一読被下度候
令嬢本年バサ女学校芽出度御卒業の由御慶申上候、又御長男はスタンフオード大学に御就学中の由、目下御家族は小生の嘗て御招待を受けたる別天地園に御団欒之趣、御家庭之御愉快一入遥察仕候、且又令嬢のバサ女学校御入学の際令夫人に寄せられたる一絶、並令嬢の同校卒業の際に於ける御作とも拝見致候、円満なる情緒羨望之至に候
令嬢御良嫁に付て御内示拝承、家内にも申聞け折角心掛可申候
昨年御案内を受けたるスタクトンの一島に小学校を御建設相成、之を郡に御寄附被成候趣、積善の御行為必ず応報無くんばあらずと存候
ジヨン・ピー・アイリシュ氏十月初旬逝去せられ候由、当時新聞紙上にて承知致候間、直に弔電を発し衷悼の意を表し置候、同氏の如き熱心なる親日家の失はれたるは日米親善上真に遺憾に存候
先は乍延引拝答申上度、書外後便に相譲り申候 匆々敬具
 尚々爾来塵事蝟集の為め文雅の事に疎遠に相成、老後の心腸漸く俗化致候事と歎息仕候、来年は此点にも復興を心掛可申と存候
    大正十二年十二月十九日


渋沢子爵親話日録 第二 自大正十二年十二月 至 高田利吉筆記(DK570244k-0003)
第57巻 p.490 ページ画像

渋沢子爵親話日録 第二  自大正十二年十二月 至  高田利吉筆記
                     (財団法人竜門社所蔵)
十二月十七日 ○大正一二年
○上略
△秘書白石喜太郎・小畑久五郎両氏を招きて、在米内外人より寄せ来れる書簡を点検し一々処置方を指示せらる、中にも牛島謹爾氏ハ桑港の日本人会長にして、日米関係につきて多年共に力を尽されつゝある人なれば、特に増田明六氏に回答書を草せしめ、自ら雌黄を加へて発送せしめられたり
○下略


(牛島謹爾) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一三年)(DK570244k-0004)
第57巻 p.490 ページ画像

(牛島謹爾) 書翰  渋沢栄一宛 (大正一三年)   (渋沢子爵家所蔵)
  青淵先生                別天園主
        梧右
  封内弐百円也みかん届け賃として御受取祈ル
謹啓 一昨年春先生此地を去らるゝや、別天園詩集序文御願申上候処御快諾ニ相成、船中ニ而御作被相成候よし、其后御多忙とは被存候得共于今不来、一詩にてもよろしく候間御投与被下間敷哉、詩なれバ例之荘田要次郎君拙詩稿抄托置候故、本人ニ御渡被下をCopy当地ニ御届被下候得共本懐不過之候《(者)》
   ○本書ハ大正十三年中ノ来書ナルガ如シ。


(牛島謹爾) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一三年)三月二八日(DK570244k-0005)
第57巻 p.490-491 ページ画像

(牛島謹爾) 書翰  渋沢栄一宛 (大正一三年)三月二八日
 - 第57巻 p.491 -ページ画像 
                     (渋沢子爵家所蔵)
米暦三月廿八日               別天地園主
  渋沢青淵閣下
  其中日本銀行より香柑御手数料差上可申候
謹啓 先般船解纜間際ニ当り忙はしく一書拝呈仕候、大ニ其意を得ざりしこと不少、此ニ更ニ一書補上仕候間愚意の尽ざりしことを言上せんとす、華府移民会議ニ付而は是より大ニ干渉せし処、幸ニ長官ジヨンソン氏の考一考を煩はし、帰化権ナキ国民といふ一句を刪去せる由を耳に致し候、即ち一千八百九十年滞在国民数の四分ノ一ニ準せられたるよし、二百七・八十名位に上るよし、数の上より論ずれバ少小云ふに足らざるも、欧洲移民と同格といふ点ニ付而多少満足するに足るといふに外ならす候
○下略


(牛島謹爾) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一四年)一二月八日(DK570244k-0006)
第57巻 p.491 ページ画像

(牛島謹爾) 書翰  渋沢栄一宛 (大正一四年)一二月八日
                     (渋沢子爵家所蔵)
              本状ハ落手後回答遷延之処《(栄一鉛筆)》、二月中ニハ牛島氏所用ニ付帰国之由確報ありたる趣ニ付而ハ返書之発送ハ相合可申事《(見)》
  青淵先生
    十二月八              牛島謹爾
謹啓 久敷御伺不申上候処高堂御揃之御事欣賀罷在候
日月如流、先年来拙著ニ対する序文の義どうか代作ニテモ差支ナク御勇断を以て一臂の力を御労被下度奉願候、九仭の上一簀に欠くとハ、此際先生序ナクテハナラヌといふことに相成居候、若し文意のみ御書ヲクリ被下候ハヽ小子之を漢文ニ致して土屋翁の是正を乞可申候
追申
 先般来申上候小生野伯兄突然不帰の客と相成、墓参を兼ね一応帰朝いたし度、唐突思出、二月二日便船位ニテ出発致度存居候、或ハ三月半ニ相成可申やとも被存候得共、孰れ共帰郷ハ間違無之事に存候中洲・井々二翁已ニ物故せられ、斯道を談する吾翁を措て復孰か之れ有之、憮然之至ニ不堪候 頓首


別天詩稿 牛島謹爾著 跋・第四―五頁 大正一五年三月刊(DK570244k-0007)
第57巻 p.491-492 ページ画像

別天詩稿 牛島謹爾著  跋・第四―五頁 大正一五年三月刊
余与君郷里相遠。年歯亦相隔。而一朝邂逅於海外万里之境。倶論国交親善之理。意気歓然而投合。爾来雁魚往復無間断。頃其詩編正成。徴余序言甚切矣。試一瞥巻中。諸大家各有賛評。無復余蘊。幸有拙作別天地園記。得君旧師中洲翁評語者。乃併録以代跋辞。嘐嘐空言。固雖不渉于韻事。而老来憂世之私情。不覚而発露者。君請諒焉。
  大正十五年一月        青淵 渋沢栄一識
別天地園記
   ○前掲ニ付略ス。
 三島中洲曰。此篇自余前記末論推究。拈出天理公道四字為骨子。前
 - 第57巻 p.492 -ページ画像 
後照応。文理一貫。中間証以芙氏牛島氏之実事。確乎不可抜。蓋借園記。諷加州人豆眼隘見者。試使州人読之。何辞能弁之。
   ○尚、栄一ノ題言ハ本資料第四十八巻所収「栄一ノ題言」ニ収ム。


渋沢栄一 日記 大正一五年(DK570244k-0008)
第57巻 p.492 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年     (渋沢子爵家所蔵)
三月三十日 晴 寒
○上略 佐倉氏ノ来訪ニ接シ、牛島別天詩集ノ事ヲ談ス ○下略


渋沢栄一電報 控 滝本為三宛 大正一五年三月三一日(DK570244k-0009)
第57巻 p.492 ページ画像

渋沢栄一電報 控  滝本為三宛 大正一五年三月三一日  (渋沢子爵家所蔵)
    電報         大正十五年三月卅一日発信
 桑港 日本人会
  滝本為三殿                渋沢
電見タ、詩集ハ千部出来テ居ル、此内少クモ五百部ハ進呈ノ積リ、外ニ尚ホ千部ヲ要スルヤ、返電請フ


(滝本為三) 電報 渋沢栄一宛 一九二六年四月二日(DK570244k-0010)
第57巻 p.492 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

(滝本為三) 書翰 増田明六宛 大正一五年七月六日(DK570244k-0011)
第57巻 p.492 ページ画像

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(在米日本人会) 書翰 渋沢事務所宛 大正一五年八月四日(DK570244k-0012)
第57巻 p.493 ページ画像

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(増田明六) 書翰 控 宮崎小八郎宛 大正一五年九月二二日(DK570244k-0013)
第57巻 p.493 ページ画像

(増田明六) 書翰 控  宮崎小八郎宛 大正一五年九月二二日
                     (渋沢子爵家所蔵)
  宮崎小八郎様              増田明六
拝啓 時下益御清適奉賀候、然ハ過日尊書御申越ノ牛島氏別天詩稿ノ義ハ合計四百部製本、其内百部ハ渋沢子爵ニ於テ引受ケ其代金ヲ支払、参百部ハ桑港滝本為三氏ニ送附シ同氏ヨリ牛島家ヘ御届スル様発送致候(滝本氏ヨリ受領シタル旨通知有之候)ニ付此参百部ノ代金六百六拾円別紙領収証 ○欠クノ通御支払願度ト存候間、此旨牛島氏に御伝被下度候、乍延引貴答致候 敬具
 尚々本文ノ外ニ故牛島氏ヨリ二松学舎ノ友人ニ嘱託調成セラレシモノ四百冊有之候、此ノ費用ハ渋沢子爵ニ於テ寄附セラレ、既ニ滝本氏ニ送付シテ同氏受取済ニ候、為念申添候也
    大正十五年九月廿二日
   ○第四十九巻所収「牛島謹爾追悼会」大正十五年五月十二日ノ条参照。