デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

9章 終焉
■綱文

第57巻 p.735-738(DK570343k) ページ画像

昭和6年11月11日(1931年)

是日午前一時五十分、栄一逝ク。享年九十二、法諡シテ泰徳院殿仁智義譲青淵大居士ト曰フ。

同日午後、勅使並ニ皇后宮御使・皇太后宮御使ヲ飛鳥山邸ニ差遣セラル。


■資料

泰徳院殿御葬儀記録 二 【第一 薨去】(DK570343k-0001)
第57巻 p.735-736 ページ画像

泰徳院殿御葬儀記録 二         (渋沢子爵家所蔵)
    第一 薨去
十一月十一日 晴
 この十一日に移つてまもない午前一時五十分、子爵は遂に薨去遊ばされた。
眠るが如き大往生をとげられた。人事を尽して天命を待つて、而して逝かれたのである。竜門雑誌には次のやうに御臨終の有様を記して居る。
 『十一月十一日世界平和記念日』先生が晩年に力を尽された世界平和のその第十三回記念日が枕頭を静かに訪れたのだ。
 言ひ合はせた様にこゝかしこから囁きがおこる。一時半、熱は四十度五分、呼吸は益々御悪く、枕頭に集ふ人々は、今は声もなく言葉もあらず、痰のからまつた低く高く断続する呼吸に、瞬間に驚き瞬間に恐れて、身ぢろぎもせず、石の様にかたく見入つて居る。
      薨去
  一時五十分
 火の様な心臓の働きが、遂にパツタリと止んだ。御臨終を告げられ
 - 第57巻 p.736 -ページ画像 
る林先生の声も衰へて、枕頭にどつと人々が集る。
 せきとめられて居た皆様の、あらしの様な感情は今身もだえと涙と肺肝をつき破る悲しみの声となつて枕頭を震はせ部屋をこめた。
 世界平和の記念日に、まことに世界平和の象徴である太陽の如く悠然と没し去つた青淵先生、大きなものゝ中軸が深い闇の向ふに移つて行つて仕舞つた様な寂しさと空しさが、ひしひしと人々の胸に迫つて来る。
 安らかな永久の眠りについた巨人の遺骸をかこんで、かなしさも淋しさも超越した涙と嗚咽とが、何時までも何時までも続いて居る。あの親しみ深い洋館の御居間の高い寝台の上で、先生はいとも安らかな眠りに入つて居られる。生前から、生と死との間を超越して居られたゞけ、死と云ふ暗い蔭は少しもない、たゞ深夜であることとつゝましい近親の方々の、巨人の薨去に対する心づかいで、あたりがしいんとして居ることが崇厳そのものの感じを与へる。兼子令夫人・篤二氏・敬三氏・穂積男爵御母堂・阪谷男爵令夫人・武之助氏正雄氏・秀雄氏・明石氏・穂積男爵、またそれそれの令夫人その他の方々が眼頭を赤くして立ち並んで居られる。またその傍には、論語を一つぱいに書かれた六曲屏風一双が、永久に先生を護り顔である。また何時もと変らぬ先生の童顔は、心持ち東に向つて居られるが、其処には皇太后陛下・高松宮・竹田宮から賜はつた菊花や西洋花が置かれてある。また幾夜も幾夜も徹宵看護に尽された諸医師や看護婦も厳粛に並んで居る。一代の偉人、我々竜門社の者が慈父と仰ぎ慕つた青淵先生には、和やかにむしろ微笑ましげに、現世からの旅に立たれたのである。思へば十一月十一日は平和記念日とて、あの先生の円転たるお声が、ラヂオに依つて、全国へ否世界へ呼びかけられる日であつたのだ、しかるにこの日のラヂオは先生の薨去を、厳かに放送するに到つたのも深い由縁であろう。
 夜がしらじらと明けそめた時には、もう門から玄関までの間へ、黒白の鯨幕が張り廻され、曖依村荘は昨日に変る姿である。そうして朝靄の晴れきらぬうちから、弔問の人々が馳せつけるのを迎へた。


中外商業新報 第一六四四三号 昭和六年一一月一二日 勅使御差遣(DK570343k-0002)
第57巻 p.736 ページ画像

中外商業新報  第一六四四三号 昭和六年一一月一二日
    勅使御差遣
渋沢子爵逝去の報、天聴に達し、畏きあたりでは、十一日午後二時卅分、勅使として本多侍従、四十分、皇后陛下御使として野口事務官、五十分、皇太后陛下御使として西村事務官を、飛鳥山渋沢邸に御差遣あらせられた、なほ正午、皇太后陛下より、御料理百人前御下賜あらせられた


泰徳院殿御葬儀記録 二 【第三 葬儀 (一)葬儀第一日記録】(DK570343k-0003)
第57巻 p.736-737 ページ画像

泰徳院殿御葬儀記録 二         (渋沢子爵家所蔵)
    第三 葬儀
      (一)葬儀第一日記録
        (イ)殊遇、勅使御使御弔問
 畏くも子爵の薨去天聴に達したるより、昭和六年十一月十一日午前
 - 第57巻 p.737 -ページ画像 
至急の印を捺された宮内大臣一木喜徳郎氏より渋沢敬三氏宛左の如き通知があつた。
 正二位勲一等子爵渋沢栄一薨去ニ付
 特旨ヲ以テ弔問トシテ本日午後二時三十分
 勅使ヲ 同二時四十分
 皇后宮使ヲ 同二時五十分
 皇太后宮使ヲ其邸ニ被差遣候此段及通達候也
  昭和六年十一月十一日
                 宮内大臣 一木喜徳郎
    渋沢敬三殿
 混雑せる邸内もこの有難き御沙汰を受けて、これ等尊き御使の御来邸を待つべく準備して居る中、予定の如く、午後二時半勅使本多侍従同四十分皇后宮御使野口事務官、同五十分皇太后宮御使西邑事務官、それぞれ御来車、近親者廊下に侍立して御迎へ申上げ、光栄ある御弔問の御言葉を賜つたので、喪主敬三氏御請したが、中にも皇太后陛下には特に
 慈恵会や東京市養育院に対する渋沢の心尽しを大変喜んで居た、また癩患者の救恤に就ては色々と心配して居たが、此時に際し渋沢を亡つたことは返す返すも惜しいことである。
との御言葉を頂戴し、喪主初め一同直接承つた者は勿論、これを伝へ聞いた者何れも感泣せざるはなかつた。
 尚ほ高松宮妃殿下の御使として亀井属来邸、御盛菓子を賜つた。因つて男爵大倉喜七郎氏は渋沢家を代表して、それぞれ御礼に参伺し、遺族の感恩をしるして帰邸した。
        (ロ)戒名
 寛永寺門跡大多喜守忍大僧正によつて、昭和六年十一月十一日法号を左の通り定められた。
  泰徳院殿仁智義譲青淵大居士


泰徳院殿御葬儀記録 二 【(二)葬儀第二日記録】(DK570343k-0004)
第57巻 p.737-738 ページ画像

泰徳院殿御葬儀記録 二         (渋沢子爵家所蔵)
 ○第三 葬儀
      (二)葬儀第二日記録
        (イ)新聞記事(薨去の日の状況)
十一月十二日 曇
 哀愁の第二日は明けた、昨日に引続き早朝から弔問の客が絶えない前日の曖依村荘に於ける有様を新聞紙は次の如く報じて居る。
  弔意と謝恩の渦(東京日日新聞)
    哀愁の渋沢邸
      弔問者の中に町の児童も交り
        聖者の如き翁の死顔
 十一日午前一時五十分、子爵渋沢栄一翁は九十二歳の高齢で遂に逝去した、渋沢邸に悲しみの一夜が明けて、初冬の冷い陽光が病室にしのび入つた。故翁の遺骸はベツトの上に北枕におかれ、翁が生前愛誦した論語を書いた屏風がめぐらされ、香煙縷々と立ちのぼる。
 - 第57巻 p.738 -ページ画像 
兼子夫人・令嗣敬三氏・長男篤二氏など、近親達がみまもる翁の顔は、九十二年の永い間広汎なる使命を果した満足さが浮んで、聖者のやうな清らかさに輝いてゐる、時々すゝり泣きの声が漏れる。邸外は黒白の鯨幕が張りめぐされて、青年団や消防組の人々が喪章をつけて立つ、悲しみは滝野川の町一つぱいに広がつた、未明から弔問客が続々とひきもきらず、自動車は屋敷内からあふれ、坂上から飛鳥山下まで数町の間長蛇の列、政界・財界・教育界・宗教界・社交界・軍人・芸術家と、全日本のあらゆる層の知名の人達が日本文化の育ての親である翁を弔ひに集つた。玄関式台には喪服の応接係が左右に六人づつ居並び、白木綿をかけたテーブルを前にしめやかな弔問の挨拶が交される、故翁を神様のやうに尊敬してゐる滝野川小学校の児童代表が玄関で泣きじやくつて、人々の涙をさそうた。関係会社の人々が一切の事務に当つてゐる。悲しみと疲れに絶えられなくなつたかね子未亡人と近親の人々は、しばし別室で休んだ、やがて昼となれば庭の紅葉に陽光が輝いて、ざわめく風に色づいた桐の葉がサラサラと地上に散る、遺骸の安置された病室の窓は、カーテンと鎧戸を閉さして音もない、正午ちよつと過ぎに、かね子夫人・令嗣敬三氏・長男篤二氏以下近親や深い関係のある人々、恩顧を蒙つた人達などが、改めてお別れをつげた。幼い令孫・曾孫の人達がうたゝ寝から呼びさまされ、眠さと悲しさに眼を真つ赤にしておぢいさまの遺骸に最後の別れを告げた。