デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

10章 葬儀・法要
1節 葬儀
■綱文

第57巻 p.743-756(DK570345k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是日、青山斎場ニ於テ、栄一ノ葬儀執行セラル。勅使トシテ侍従本多猶一郎、皇后宮御使トシテ同宮事務官野口明、皇太后宮御使トシテ同宮事務官西邑清ヲ差遣セラレ、焼香セシメラル。

葬儀及ビ告別式終リテ、谷中ノ渋沢家墓地ニ埋葬ス。


■資料

泰徳院殿御葬儀記録 二 【○第三 葬儀】(DK570345k-0001)
第57巻 p.743-755 ページ画像

泰徳院殿御葬儀記録 二         (渋沢子爵家所蔵)
 ○第三 葬儀
    (五)葬儀本記
十一月十五日 晴
      (イ)天気晴浄
 今日は子爵御葬儀の日である。前日午後から降り出した雨が夜に入つて勢を増し、遂に篠つくやうな大雨になつたので、この日の天候は
 - 第57巻 p.744 -ページ画像 
甚しく憂慮せられたが、子爵の徳に感応せられたのか、朝から実に思ひもかけぬ快晴で、朝日のきらめきもまぶしかつた。ことに久し振りの雨は天地の汚れを悉く洗ひ落して清浄そのものたらしめ、子爵の土に還ります日をして特に清々しからしめたのは、自然の節理《(摂)》とは申せ却て涙ぐましい程である。
      (ロ)最後の御対面
 午前七時と云ふに、早くも出棺前の読経が静かに書院から起つて来る。書院には、うなだれ勝の御遺族の方々、御親戚の方々、門下生、知人など、ぎつしりと椅子により、後と横の廊下にはまた立つたまゝで読経に聞き入る人が少くなかつた。読経が終り、例の如き順序にて敬三氏・令夫人・篤二氏其他が次々に焼香され、参列の者皆がこれをすませると、霊柩を安置場所からやゝ前方に移動せしめ、敬三氏の手によつてその蓋がとられた。子爵は、生前と少しも変らぬ温顔であるたゞ心持ち顔色が白いと思はれる程度で、今にも口を開かれ、慈味深き言葉が聞かれさうでさへある。「行事を切りつめ、最後の告別を落付いて」の予定を以て進んだ為と、渡辺氏の配慮宜しきを得た為、行事を予定時間前に終つた。斯くて最後の告別が悠り行はれたが、今を限りの永別に胸逼り、人々は今更ながら湧き出ずる新らしい涙を止めあへぬものがあつた。
      (ハ)出棺用意
 午前八時二十分霊柩は田中太郎氏の宰領で、次の人々に捧持せられて玄関前に静々と運び出され、すべるやうに霊柩車の中へ移されたのである。
 田中太郎氏   原泰一氏    高橋毅一氏
 八木仙吉氏   皆川巌氏    芝崎徳之丞氏
 上田他敬理氏  斎藤其治氏   平田雅彦氏
 小畑久五郎氏  酒巻幾三郎氏  鈴木旭氏
 大亦義夫氏   井田善之助氏  関比企郎氏
 佐治祐吉氏   鈴木勝氏    中野時之氏
      (ニ)葬列自動車順序
 葬列に加はる自動車には予てそれそれ番号を附し、乗車される方々に合札が渡されてあるので、少しの混乱もなく、所定の自動車に乗り込まれたのは午前九時であつた。葬列に加はる自動車の順序並に乗込まれた人々は次の如くであつた。
  一、先駆  (道路掛・警察関係)
  二、僧侶  (大僧正)
  三、僧侶  (式僧四人)
  四、勲章  渋沢武之助氏・渋沢正雄氏
  五、勲章  明石照男氏・渋沢秀雄氏
  六、香炉  渋沢篤二氏
  七、位牌  喪主渋沢敬三氏
  八、霊柩
  九、御遺族 渋沢兼子氏・同美枝子氏
 一〇、同   渋沢敦子氏・同登喜子氏・同雅英氏
 - 第57巻 p.745 -ページ画像 
 一一、同   穂積宇多子氏・阪谷芳郎男・同琴子氏
 一二、同   渋沢鄰子氏・同和子氏・同博子氏・同正一氏・同純子氏
 一三、同   明石愛子氏・同景明氏・同正三氏・同義雄氏・同百子氏
 一四、同   穂積重遠男・同仲子氏・渋沢信雄氏・同敦子氏・同智雄氏
 一五、同   阪谷希一氏・同寿子氏・同俊作氏・同文子氏
 一六、同   渋沢一雄氏・同栄子氏・同秀二氏・同花子氏・明石春雄氏
 一七、御親族 穂積律之助氏・同季子氏・石黒忠篤氏・同光子氏
 一八、同   渋沢元治氏・同孝子氏・同治太郎氏
 一九、同   大川平三郎氏・同英太郎氏・外二氏
 二〇、同   尾高豊作氏・同文子氏・外二氏
 二一、同   尾高定四郎氏・吉岡平三郎・外二氏
 二二、同   田中栄八郎氏・同寿一氏・外二氏
 二三、同   池田男令夫人・同令息・佐藤用能氏・同令息
 二四、同   福原信三氏・外三氏
 二五、同   久米治平氏・同令夫人・佐々木哲亮氏・同令夫人
 二六、医師  大滝先生・林先生
 二七、看護婦 五氏
 二八、顧問  清水釘吉氏・同令夫人
 二九、同   古河虎之助氏・同令夫人
 三〇、同   大倉喜七郎男・同令夫人
 三一、同   森村市左衛門男・同令夫人
 三二、同   諸井恒平氏・同貫一氏・同四郎氏・同六郎氏
 三三、同   浅野総一郎氏・同令夫人・同良三氏
 三四、同   山下亀三郎氏・頭本元貞氏
 三五、同   星野錫氏・穂積重威氏
 三六、同   木村雄次氏・横山徳次郎氏
 三七、同   井上雅二氏・同令夫人
 三八、本部  渡辺得男氏・白石喜太郎氏
 三九、儀式委員 西条峯三郎氏・内山吉五郎氏
 四〇、    滝野川町長有馬浅雄氏・外三氏
 四一、四二、四三、 予備車
      (ホ)出発までの予定時間表
  予定時間              事項                 所要時間
午前五時三十分          僧侶御迎自動車出発
午前六時三十分          同帰着
午前六時三十分より六時五十五分迄 玄関敷台養生                 廿五分
午前七時             一同着席読経開始
午前七時十五分          読経終了
午前七時十五分より七時卅分迄   焼香                     十五分
午前七時卅分より七時四十分迄   霊前供物撤去、位牌・香炉・
 - 第57巻 p.746 -ページ画像 
勲章位置替                          十分
午前七時四十分より七時四十五分迄 霊柩位置替                  五分
(註、以上の行事予定以上に早く進み、午前七時二十分頃終了したるに付、親族告別の時間余裕を生ず)
午前七時四十五分より八時廿分迄  親族一同告別                 卅五分
午前七時四十五分         一方、葬列用意開始
午前八時二十分          玄関着先駆自動車・道路掛・警察関係
午前八時二十一分         〃  僧侶(大僧正)
午前八時二十三分         〃  同 (式僧四人)
午前八時二十五分         〃  卅五分発霊柩車
午前八時廿分より八時廿五分迄   霊柩車の蓋を覆ふ               五分
午前八時廿五分より八時卅五分迄  霊柩を霊柩車へ納む              十分
午前八時三十六分         位牌(喪主)                 乗車
午前八時三十七分         香炉(篤二氏)                〃
午前八時三十八分         親族(兼子氏・美枝子氏)
                                        乗車
午前八時三十九分         勲章(武之助氏・正雄氏)
                                        〃
午前八時四十分          勲章(明石氏・秀雄氏)
                                        〃
午前八時四十一分より九時迄    親族(自第十号至第二十五号各車に分乗の諸氏) 〃
午前八時卅分より九時迄      医師・顧問・本部・儀式委員其他(自第二十六号至第四十号分乗の諸氏)                乗車
午前九時             葬列出発
      (ヘ)出棺
 葬列に加はる自動車に分乗の人々は、粛然として而も敏活に何等混雑なく夫々所定の自動車に乗り出発を待つ。自動車は番号順に正門内より順次玄関前に、玄関前より曲つて裏門に、更に飛鳥山公園脇に配置され、更に葬列外の自動車が公園前及道路向側に置いてあつたが、全部乗り終つたのが午前八時四十分で、各車声もなく唯出発の合図を待つて居る。やがて定刻九時が来ると共に出発の喇叭が高らかに鳴り響き、葬列は順次正門を後にする。
      (ト)沿道
 沿道は美しく清められて、電車も車馬も影を見せず両側は戸毎に弔旗を掲げて深い弔意を表して居る。滝野川町を離れるまで、多数の町民や子爵関係学校の学生生徒が堵列して見送る。その有様は何にたとへやう、たゞ偉大なる子爵の徳に頭をたれるのみである。
 曖依村荘を出るとすぐ、互親会三百名、在郷軍人分会百七十名、次で左側をずつと見渡すと、滝野川小学校生徒・尋常高等小学校千五百名、第一小学校九百名、第二小学校千百名、第三小学校九百名。そして警察署の傍に第二救護所がある。東京高等蚕糸学校と農事試
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験場のあたりには、第四・第五・第六・第七・第八の各小学校生徒が四千二百名、それに続いて青年訓練所生徒五十名、武蔵野女学校生徒五十名、それから町役場・小学校辺りには、町内団体たる町光会百名、上中里会百名、町名誉職関係三百名、其処に第四救護所がある。それより巣鴨町境まで各種の団体が堵列する。更に向つて右側は町消防組三百五十名、飛鳥山親友会二百五十名、諸葛医院の傍に第一救護所がある。次に部落町内会二千五百名、九一会五十名、正和会五十名、親睦会五十名、それから東京商科大学々生二百名、小峰病院の前に第三救護所がある。次には日本女子大学校学生二千名、東京女学館生徒五百名、町栄会五十名、公正会五十名、町青年団三百名、町正会五百名で、西ケ原キネマに近く第五救護所が設けられてある。
 粛然たる堵列の中を葬列は静かに進み、大塚仲町を経て護国寺前へ出で、それより左へ音羽の通りを行き、江戸川橋を渡り、矢来下を右へ弁天町通を左へ、柳町市電停留場を経て合羽坂を左へ、陸軍士官学校正門前を右へ、四谷見附を経て、紀の国坂下より赤坂離宮に沿ひ、表町市電停留場に出でた。その他の町々にても、この質素な自動車の行列にて、子爵を送りまつる日と覚つて少からぬ敬弔の目送者があつたことは、特記すべき事柄であらう。
 斯くて心からなる追慕と愛惜の眼に送られて、葬列は市電に沿ひ青山三丁目に至り、左折して青山斎場についた。
      (チ)青山斎場
 これより先、佐々木葬儀委員長・石井副委員長其他の人々は、先発して斎場にあり、全部の飾付を終了して居たが、霊柩は予定の如く午前九時四十分、ゆるやかに青山斎場に到着したので、直ちに霊柩安置にかゝり、午前九時五十五分にこれを終つた。
 祭壇は正面奥に輦輿を置き、その前に子爵の大写真額、その前には各種の御供物がそれぞれ配置され、その前に焼香机があり、その上には、中央に勅使、向つて右に皇后陛下、左に皇太后陛下の御使の用ひられる香炉が置かれ、供物台の直ぐ右には御同族の生花、左には御親族の生花、それからずつと前の左右に、聖上・皇后・皇太后三陛下よりの生花が並べられ、その後に秩父宮・高松宮・閑院宮・東伏見宮・伏見宮・山階宮・賀陽宮・久邇宮・梨本宮・朝香宮・東久邇宮・北白川宮・竹田宮・昌徳宮・李鍵公家の十五宮家よりの十五対が供へられ向つて右の遺族並に親族席に向つて、仏国大使の生花、米国大使の花環、それから徳川家達公の生花、徳川慶光公の生花、徳川圀順公の生花が並ぶ、また顧問その他有力者席に向つて、仏国大使生花、中華民国公使花輪及び徳川三家の生花が並んで居る。
 而して遺族席の前方には徳川家達公・同令夫人・徳川慶光公・同御母堂・徳川圀順公・同令夫人が座を占められ、それから後に御遺族・御親族が粛然と控へられ、それに対しては佐々木勇之助氏・石井健吾氏・永田市長・郷誠之助男・団琢磨男・古河虎之助男・大倉喜七郎男その他顧問の人々が立並ばれた。
      (リ)勅使及御使
 - 第57巻 p.748 -ページ画像 
 式場の準備は出来た。勅使・御使を待つばかりである。大倉男爵等係員は緊張して居る。予定の午前正十時勅使本田侍従御着車、少憩の後橋本実斐伯の先導にて原氏警蹕の声に一同の起立敬礼せる間を進まれ御焼香あり、午前十時五分、皇后宮御使野口事務官御着車、金子武麿氏の先導にて御焼香、次に午前十時十分、皇太后宮御使西邑事務官御着車、大倉喜七郎男の先導にて同じく焼香があつた。
      (ヌ)葬儀
 斯くて直ちに大多喜大僧正以下僧侶の懇ろなる読経があり、此の時弔辞台には数百の弔辞が山と積まれた。而して東京市長永田秀次郎氏は特に市民を代表して次の弔詞を朗読した。
 昭和六年十一月十一日東京市養育院長市参与正二位勲一等子爵渋沢栄一君薨去セラル、洵ニ哀悼ニ堪ヘス、君ハ高潔ナル人格ヲ以テ円満ナル道徳ヲ躬行実践シテ一世ヲ嚮導シ、高遠博大ナル識見ヲ以テ夙ニ眼ヲ経済産業ノ重キニ注キ、鋭意力ヲ其ノ進歩発達ニ致シ、克ク本邦実業界今日ノ盛アルヲ得セシメ、常ニ邦家ノ隆昌ト国民ノ福祉トヲ念トシテ、社会公共ニ関スル万般ノ事ニ尽瘁シ、殊ニ帝都ノ自治政ニ於テハ明治初年東京会議所ノ事務ニ参与セラレテ以来、都政ノ振興発達ニ努力シ、意ヲ市内窮民ノ救助ニ注キ、自ラ養育院ノ事業ヲ主宰シ、其ノ本市移管後モ引続キ院長ノ職ニアリテ、前後五十有余年献身的ニ其ノ経営ニ任シ、同院ノ基礎愈固ク設備益整ヒ、本市社会事業ノ枢軸タルニ至レルモノ、一ニ君ノ熱誠ニ因ラスンハアラス、其ノ市民ノ休戚ヲ思フコト厚ク、久シキニ亘リテ陰ニ陽ニ市政ノ円満ナル進展ニ寄与セラレタル功労甚タ大ナリトス、今ヤ復興帝都ノ施設経営多端ヲ極ムルノ時ニ当リ、市民ハ斉シク君ノ徳風ヲ欽慕シ、長寿ノ無彊ヲ祈リテ止マサリシニ、忽チ訃音ニ接シ、再ヒ君ノ温容ニ見ユル能ハス、追慕切ニシテ哀悼極リナシ、玆ニ市会ノ議決ヲ経、謹テ弔詞ヲ呈ス
  昭和六年十一月十五日
                 東京市長 永田秀次郎
次に日本商工会議所会頭郷誠之助男は次の弔辞を朗読した。
 子爵渋沢栄一閣下忽焉として薨去せらる、寔に哀悼の至りに禁へす惟ふに子爵は我国実業界の大先覚にして、夙に新式事業の創設扶殖に尽瘁せられ、或は商工業の指導啓発に、或は国利民福の発展増進に匪躬の誠を致され、我国経済界今日の隆運に貢献せられたる偉勲真に赫々たるものあり、子爵は又内外の状勢に鑑み、率先商法会議所の創立を提唱せられて以来、多年その発達に鋭意せられ、以て各地商工会議所興隆の基礎を築かれたる功績亦絶大なるものあり、今や我国経済界は多事多端にして、益々その扶翼に待つこと痛切なるの時に当り、病痾のため長逝せられたるは痛惜真に措く能はざる所なり、然りと雖も、子爵の遺蹟は不滅の光明として永く我実業界の進路を光示せらるべきを疑はす、日本商工会議所は玆に謹んで哀悼の誠意を表す
  昭和六年十一月十五日  日本商工会議所会頭
                   男爵 郷誠之助
 - 第57巻 p.749 -ページ画像 
 弔詞の朗読終るや、徳川家達公・同令夫人を最初に、次で徳川慶光公・同御母堂・徳川圀順公・同令夫人順次焼香され、次で喪主敬三氏以下御遺族・御親族の焼香があつたが、また午前十時半よりは任意に各大臣及び各国大公使諸氏の焼香を受けることとしたので、午前十時四十五分の若槻総理大臣を先頭に、町田農林大臣・仏蘭西大使・中華民国公使・米国大使・オランダ公使と続き、更に幣原外務大臣・桜内商工大臣・渡辺司法大臣・井上大蔵大臣・田中文部大臣・安保海軍大臣・一木宮内大臣(代理)・小泉逓信大臣・谷口軍令部長・南陸軍大臣及倉富枢密院議長等の大官が読経裡に焼香し、顧問其他列席者一同焼香した。
 斯くて十一時半予定の如く葬儀を終了し、一同暫時休憩して、告別者を迎へんとするのであつた。
      (ル)告別式
 告別式の予定は午後一時からであつたが、約一時間前の正午頃、早くも会葬者が相踵いたので、式場の扉を開くと共に告別の人は続く。式の初まるのを待つて居た血洗島の人々が、零時五分と云ふに早くも粛々として質朴なる服装のまゝ礼拝する。而してかねて告別者の極めて多数なるべきを予想して、焼香は二人の僧侶によつて代理せしめ、一般の人々はその前方にて礼拝することにし、受付に添ふて「各位の御焼香は僧侶が御代理を勤めて居ります故、右御諒承を願ひます」と云ふ立札が数本立てられた、受附は斎場正門左側に正門より斎場入口迄続き、白木の三宝三十八個が名刺受として並んで居る。定刻近くになるにつれて告別の人々は愈々増し、二列になつて斎場内へ進んで居るかと見る間に、三列となり四列となつて午後二時前後の斎場は人で埋もれ、三宝の上には見る見る中に名刺の山を為す有様で、朝野の名士を網羅した上、子供伴れの老人や学生など、あらゆる階級に亘つて居る、自動車の人々は表正面へ帰るが、徒歩の人々は皆裏門へ抜けて行く、斎場表通りは勿論告別に来る人以外の車馬の交通なく、混雑もなく、堰かれるものゝない水のやうに、人や自動車が流れ入り流れ去る、実に青山斎場開設以来の盛儀であつた。そして尚ほ参拝者の絶えぬ午後四時斎場を出棺し、前刻と同じ順序の葬列にて、谷中寛永寺の墓地に向つた。
      (ヲ)谷中墓地
 葬列は青山三丁目より市電に沿ひて表町に到り、それより赤坂御所に沿ひ、紀の国坂を上り、四谷見附を経て、陸軍士官学校前迄は、往路のまゝを還つたが、同所から外濠に沿ひ、飯田橋に出で、水道橋を過ぎ、順天堂病院横を左へ本郷一丁目に出で、市電に沿ふて東京帝国大学正門前を通り、大学と第一高等学校との間を右へ、逢初橋を経て一路谷中墓地へと入つた。
 薄闇をこめた上野桜木町には、敬弔の意を表した高張提灯が街並に掲げられ、それから左折した墓地内の道路には、鯨幕が天幕の左右に三丁以上も続いて、墓地に達して居る。午後四時半から埋棺式が初められた。読経の声が暮色をこめた墓地から哀音を伝へる。
      (ワ)埋棺式
 - 第57巻 p.750 -ページ画像 
 香の煙もゆるやかに上つて、切々たる悲しみが再び甦つて来る。喪主敬三氏よりの焼香が一順終ると、愈々埋葬の工事にかゝる。檜作りの清々しい御須屋、その柱はみがかれて美しい、軒には黒い幕が下りその両側には春日灯籠が立てられて、何処までも神々しい感じを与へる。屋根の下には間口六尺、奥行十尺、深さ十一尺の穴が鑿たれ、コンクリートと鉛とで二重に張つた函の中に、今や白木の霊柩がしづしづと降され納められる、滑車のきしる哀音が、今更のやうに人々の胸をうつ。霊柩が降され了ると、その上に銅板の墓誌が置かれ、その上をまたコンクリートですつかり固めた。子爵の土に還ります第一歩を此処に初めて進められたのである。近親の方々が赤く泣き腫らした眼をしばたきながら土かけの式を終ると、土饅頭の前に墨の香新らしい墓標がすつくと立てられた、「正二位勲一等子爵渋沢栄一墓」と云ふ文字がはつきりと浮び出で、人々の涙を新らしく誘ふてやまぬ。再び参列者が御須屋に向つて左右にしつらへられた休所に休憩して居る間に読経が初まると、天幕の蔭から楠の木の落葉がはらはらはらはらと散つて心を痛ましめる。読経が終ると、御遺族その他の焼香があり、それから喪主敬三氏より一場の挨拶があつて、こゝにとゞこほりなく埋棺式を終了したのは午後七時半であつた。
 尚ほ葬儀の模様は勿論、その間の工事の有様、焼香の有様、土かけ式の有様、また参列の人々の有様を悉く活動写真に撮影した。
      (カ)殊遇御礼と挨拶
 勅使及御使御差遣あらせられたるに付大倉喜七郎男がそれぞれ手別けして御礼に参上し、参列各国使臣及主なる外国人に対しては頭本元貞氏が挨拶に廻つた。
      (ヨ)告別参拝者数
 本日の告別者氏名中明かのものは別記 ○略スの如くであるが、受付委員が取扱つて礼状を発送した報告は左の通りである。
 一、告別式当日参列者に対しては即日礼状を発送したるが、斎場に於ては到底礼状を発送する余裕なかりし為め、各社分担して本店(又は適当の場所を借受)に於て礼状を書き発送せり、尚伺ひ洩れ等もあるを懸念したるを以て、即日新聞広告を為し、謝意を表したり。
      新聞広告
    渋沢栄一葬儀の節は遠路態々御会葬被成下拝謝の至に奉存候混雑の折抦尊名伺ひ洩れも可有之と存候間、乍略儀以紙上御礼申述度如斯御座候
      昭和六年十一月十五日
                   嗣子 渋沢敬三
                      親戚一同
 一、礼状発送に際しては敬語を左の通り一定せり。
   一般は  様
   団体は  殿
   有爵者は 閣下(必ず爵位を記すこと)
 一、礼状発送部数左の如し。(但手伝者の大部分は名刺を差出さゞ
 - 第57巻 p.751 -ページ画像 
りしことと思はるゝを以て含まず)
   総数六、四一六通
      内訳
    第一銀行引受分   四、一四五通
    石川島造船所引受分   六六七通
    渋沢倉庫会社〃     六二六通
    東洋生命会社〃     五三九通
    東京貯蓄銀行〃     四三九通
  而して礼状の文面は次の通りである。
    渋沢栄一葬儀の節は御多忙中遠路態々御会葬被成下感謝に不堪、謹て厚く御礼申上候
      昭和六年十一月十五日
                   嗣子 渋沢敬三
                      親戚一同
      (タ)交通整理
 次に交通委員の報告を摘記すれば左の如くであつて、その容易でなかつた有様が了知される。
 一、当日は交通係員を左記三部に分ちて早朝より全員其の部署につき予め定められたる手配に従ひ準備を終へて葬列を待つ事とせり
   一、飛鳥山隊
   二、青山斎場隊(神宮外苑入口をも含む)
   三、谷中墓地隊
 一、飛鳥山隊は午前六時邸内に集合、予め用意の葬列番号札を附し八時迄には出口通路に順序を立てゝ配列を了したり、定刻八時半には出棺の用意始まり、順を追ふて御乗車なされ、順次之を正門に進め、九時前には出発用意万端調ひ、正九時には予定通りいとも厳粛に御葬列の出発を見たり。
  邸前並に順路沿道は、町民・関係学校其他各団体の見送人を以て人の山を築き、折柄起るラツパの吹奏に伴れ、粛々として人垣の中を通過せり。午前八時頃より邸前は予想の通り混雑せしが、幸に整理行き届き、事故を生ぜざりしは幸とす。
 一、九時四十分青山斎場着と共に、各交通係員一斉に予定の活動を始む。
 一、葬列其他の自動車は之を二つに別つて、一号より十八号迄は斎場裏手の空地に納め、其の他は青山墓地内の指定場所に停車せしむ。
 一、九時より十二時迄は、自動車の数に於てはさまで多からざるも高位高官の参拝者多きを以て、特に注意を払ひ、自動車置場たる青山墓地内空地と乗車場との間を、メガホン連絡により相呼応して、参拝者の一人々々につき其の自動車を呼び出したり。
 一、十二時を過ぐる頃より一般会葬者の自動車次第に増し、一時より二時迄に於て其絶頂に達す、此の間自動車は殆んど珠数つながりの形にて、間断なく予定の順路整理方法に従ひ、順序よく流れたり、交通係は全員を挙げて、一秒の停車にも心して極力流入流
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出の速度を促したり。三時を過ぐる頃より次第に台数減じ、四時前には一段落の形となる。
  斎場前に於ける係員の計算によれば、十二時より三時迄の間に於ける会葬車体数は一千三百九十九台にて、此の外斎場附近迄自動車にて来り、車を乗り捨てたる者もあるべく、此等を合算すれば自動車による会葬車は約二千人と推測せらる。
 一、結局第二段・第三段の手段として準備せし神宮外苑使用、並に移動受付は之を利用する事無く事足りたる次第なり。
 一、会葬自動車の数、最初の予想に比し比較的少かりしが、当日は非常なる大混雑を一般会葬者に於て予想せし為、前以て御本邸に於て御焼香を済まされる向きも多く、又途中にて車を乗り捨てたる等の理由にて、此結果を見たるものと思惟さる。
 一、斯くて四時には再び葬列出発の用意を調へ、一路谷中墓地に向ひ、四時三十分到着、されば時間は全く予定通りに取運ぶ事を得たりと云ひ得べし。
 一、谷中に於ても沿路人の山をなし、相当混雑を見たりしも、寺内其他空地相当あり、且つ予めの準備よかりし為めか、予想以上に好成績を得たり。
 また医務救護班に於ては殆んど事故なく、無事であつたが、たゞ午後二時過青山斎場に於て告別式中、参拝者に代つて焼香に熱中して居た泉竜院の青沼寂諶師は脳貧血を起し、気分悪しく中途退席したが、大したことのなかつたのは幸であつた。
      (レ)放送
 一方此の日堀越善重郎氏は、門下生代表として、午後六時半より七時まで、愛宕山の放送局でラヂオによつて、「渋沢子爵を憶ふ」と題して放送した。その講演は次の如くである。
 我々の景慕せる渋沢子爵は、十一月十一日午前一時五十分、九十二歳の高齢を以て永遠の眠につかれました、私は門下生の一人として葬儀が漸く終り、悲しみの涙の尚ほかはくひまもない今日、申したいことが胸一ぱいでありながら、斯うしてこのマイクロホンの前に立ちますと、何から御話してよいやら判断に迷ひ、適当な言葉が出ないのであります。
 渋沢子爵は、日本のみならず、世界的に知られた人でありまして、中にもアメリカに於ては、大変な人気のある方でありました、私は今まで何十回となく日本と米国との間を往復して居りますが、アメリカで子爵の御消息を尋ねられない時はなかつたので、何処へ行つても、日本のグランド・オールド・ゼントルマンと呼ばれて居たのであります。私共は余りに子爵に接近して、いろいろと御指導を受けて居りました関係から、遠くから仰ぎながめた程、大きな方のやうには感じて居なかつた傾きがありますが、只今となつて、子爵御病気中、世人が憂慮の余り、見も知らぬ人から、神社仏閣の御守や御札、また見舞の手紙を沢山送られたことや、また御逝去後の哀悼の客や、手紙電報の机上に山積した有様を目のあたり見まして、子爵の高潔な人格が、かくまで満天下から仰かれて居たのかと、私は
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今更ながら子爵の偉大さを感じたやうな始末で、誠に申訳ない、迂闊千万なことであつたと、御霊前にて深く御詫したやうな次第であります。子爵は明治六年官を辞して以来、一度も官吏や政治家になつたことのない、純然たる民間の人であらせられましたに拘らず、その功績の特に偉大であつたために、畏れ多くも病気の報が雲の上に聴えますと、早くも皇太后陛下より御心入れの御見舞があり、また聖上よりは葡萄酒の御下賜があり、更に十日深夜に侍医を御差遣下され、危篤の際には位一級を進められまして、正二位に叙せられ薨去の後には三陛下から御弔問の勅使及御使があつた上、更に民間の者が未だ曾て賜つたことのない御沙汰書を賜はりました、この事は一渋沢子爵の光栄のみならず、実に我実業界の名誉でありまして殊に子爵から恩顧を受けました私共に至りましては、天恩の有難さに只々感泣致すばかりであります。
 扨て斯様な渋沢子爵の如き偉大な人が、どうして生れたかと云ふことを研究するのは、大変面白い、また社会のため有益なことでありますが、それは私の任務ではありませんから、此処には別に子爵の履歴を詳しくは申しません、しかしたゞ斯様な人は生るべくして生れたのでなく、今日になられるまでには、それだけの理由があつたのであります。即ち生れながらの素質の非常によかつたことも勿論でありますが、其天分を琢磨して、此の偉大な人格を築き上げられるまでの修養努力は、実になみなみならぬものがあつたのであります。子爵は天保十一年、武蔵国血洗島に生れました、その父たる市郎右衛門氏は、渋沢家の基礎を固めて、村でも、指折の家柄となられた人でありまして、誠に訳の分つた方で、よく子爵を理解して、其大をなさしめられました、子爵は此の人の血をうけた一方、尾高藍香先生を師として学問とされたので、少年の頃から常人に勝れ、覇気縦横、青年となつては尊王愛国の志已み難くして、家を出でゝ国事に奔走し、其後不思議の機縁で、徳川慶喜公に仕へ、其弟君たる民部公子に随つて仏蘭西に留学されました、此間偶々公子に従つて白耳義に使し国王レオポルド陛下に謁見を賜つた時、陛下より鉄の御話がありまして、鉄は産業の基礎である、而して白耳義の鉄は其品質が上等であるから、鉄を買ふなら白耳義の鉄を買へと、陛下より御奨めがあつた。是に於て子爵は大に驚き、苟くも一国の君主であらせられる陛下までが、商売気を持つて居らせられる所から察すると、商売と云ふものは国家に取り実に大切なものであると云ふことを自覚せられて、己れも帰国の後は大に商工業を盛んにして国富を図らんと決心されたのであります。然るに其留守中、明治の御代となりましたが、帰朝後頻りに招かれて明治新政府に出仕し、今日で申せば大蔵次官の仕事をされました、しかし官途にあるのはその志でない処から、明治六年野に下り、第一国立銀行を創立経営されたのであります。そしてその関係から、当時の新日本の実業の発展に尽力され、一時は日本の株式会社で、子爵が役員をされて居ないものは殆どないと云ふ程でありました。その間、単に対内的な事業のみでなく、対外的な事業の開発に尽され、私共の仕事である生
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糸並に絹織物貿易事業などには、少からぬ御指導を与へられたのであります。かくて明治四十二年七十歳の時、各会社の役員を辞任されましたが、第一銀行だけは、特別の関係から七十七歳まで御従事になりました。その後は専ら社会事業に尽し、又所謂国民外交の中心人物として活動されましたが、実業方面に於ては、依然として精神的指導者であり、万人の斉しく仰ぐ所でありましたのに、今俄に幽明境を異にすることと相成りましたのは、真に遺憾極まりない次第であります。子爵は非常に常識の発達した、円満な大人格の持主でありましたから、突飛な面白い逸話と言つたやうなものは少かつたのでありますが、其の御話の巧みなることなどは驚くばかりで、座談と云ひ、演説と云ひ、実に手に入つたものでありました。演説に就ては、予てラヂオで皆様は御なぢみでありませうが、恰度亡くなられました十一月十一日は平和記念日とて、毎年此日国際聯盟協会の会長として、国際平和に就て放送されて居ましたので、今年も病気になられる前には、「放送せねばならぬ」と云つて居られたのであります。然るに今年其日のラヂオは、子爵の御声を伝へる代りに、子爵薨去の報を放送することとなりましたのは、実に奇蹟でありまして、また悲しみの極みであります。
 次に座談に就て斯う云ふことがありました、明治三十五年子爵は欧米を巡遊されましたが、其時アメリカでルーズベルト大統領に会見されました処、大統領は子爵に対し日本の軍隊の強い事、美術の発達して居ることを褒められました、すると子爵は「私は銀行をやつて居ります、此次に御目にかゝる時には、日本の実業界の発展を御褒めいたゞく様に致します」と答へられたのであります。そして其後、明治四十二年に又渡米された時、再びルーズベルト氏が子爵の御顔を見るとすぐ「日本の実業界は非常な発達を遂げられまして感嘆に堪へません」と述べられました、誠に愉快な話であります。
 又子爵の日常生活は、実に質素そのもので、日本の大実業家とか華族とかの一般生活とは比較になりません、こう申しますと、実業家や華族の方々に失礼かも知れませんが、子爵の実際の生活振りを御覧になつたならば、驚かれたであらうと存じます。これも子爵の念頭に聊かも私欲がなかつたからで、只常に子爵の頭を離れなかつた事は、国家の隆昌と、世界の平和と、そして大きく一口に申せば、人類の福祉と発達にあつたのであります。而して子爵の生活は、徹頭徹尾「論語」の実践でありまして、真に言行一致を以て終始されました。従つて子爵が孔子を尊崇されて居た事は頗る厚く、言々句句論語の言葉が挿まれ、孔子をして今日に在らしめたならば、其の教へが自国に於てよりも、日本に於て此の偉大なる実行者を見出したることを喜び、「千載の下知己あり」と云はれただらうと存じます。嘗て大正三年、子爵は支那各地を旅行されました、其時支那の各地では、日本の大実業家の訪問とて、歓迎会の席上などで、さぞ致富の話があるのであらうと考へて居た処、案外にも経済道徳合一論、即ち論語と算盤の説を説かれましたので、さすが論語の本場の人々が驚嘆したと申します。斯様な次第で子爵の枕頭には論語全文
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を書いた屏風を立廻されてありましたが、遂に亡くなられましたので、普通なら屏風は逆さに立てるのでありますけれども、論語が逆になつては面白くないと云ふので其儘に置かれたのであります。
 又子爵は自ら仁義にかなつた徳行の人でありましたが、御自分の徳の高いことは聊かも口にせられず、人の徳行を讚美して已まぬ人でありました、でありますから、さきには徳川慶喜公伝を編著して、其の大政奉還の際に於ける公明正大なる御心事を明かにし、又松平楽翁公の身を殺して仁を為すと云ふ人格に服し、其伝記を御著作になり、訂正加筆中でありましたが、これは出版までに至らなかつたのであります、さぞ此事は御心残りであつたことゝ御察し申して居ります。其他子爵に就ての御話を致して居りますと、何時尽きるか判りませんから、これ位に致しまして子爵が薨去の直前に、はつきりと「私は死んでも皆さんの御事業と御健康とを御護り致しますから、皆さんは一層国家社会且つは経済界のため御尽力あられたいのであります」と云はれた御言葉を、皆様と共に永く身の護りとして子爵の御努力の百分の一なりとも尽し得ますならば、子爵の御期待にも副ひ、国家の為めにもなる事だらうと存じます。目下内外とも国事多端の際、子爵の御指導を受けねばならぬ事柄が非常に多いのでありますが、もはやこの偉大なる人はこの世に居られなくなつたので、誠に遺憾に堪へませんが、御精神は残つて居ります、私共はこの御精神を守りませう、その御志に副ふて参りませう、皆様にも是非渋沢子爵の偉大なる御志をよく知つていただきたいのであります、これで私の御話を終ります。


東京朝日新聞 号外 昭和六年一一月一五日 数万市民も告別 巨人葬送の日 けふ渋沢翁告別式(DK570345k-0002)
第57巻 p.755-756 ページ画像

東京朝日新聞  号外 昭和六年一一月一五日
    数万市民も告別
      巨人葬送の日
        けふ渋沢翁告別式
渋沢青淵居士の地下に眠る日―十五日朝は前夜来の雨はあがつたが、滝野川の曖依村荘の木立に宿る露も心なしか涙の様だ、午前七時大多喜寛永寺住職が式僧四名を引具して見えるとやがて奥六十畳の日本間にはしめやかに出棺前の
 読経 があげられる、三陛下御下賜の寄せ植の前で親族一同が焼香を済ますと、ひのきの棺は部屋の真中にだされ、今度は最後の告別だ
 面やつれした兼子夫人が、暫し棺の側を離れ得ず、ガラス越しに故人の温顔に接し涙にくれるのも一入哀れに、そちこちからすすり泣きの声がもれる
九時、玄関から門まで張られた天幕の下に整列した町内在郷軍人団のラツパが奏される時、僧正を先頭に霊柩自動車は静々と滑りだした
 旭日桐花大綬章その他を捧持した武之助・正雄・秀雄諸氏につづいて香炉を手にした篤二氏、白寒冷しやに包まれた位牌を捧げた喪主敬三氏、金色さんとした霊柩車、黒むくにうなだれた夫人等、次いで近親者、実業界の諸名士等もこれに連り延々とつゞく
滝野川町内は戸毎に
 - 第57巻 p.756 -ページ画像 
 弔旗 を掲げ、その両側は喪章をつけた町内各小学校児童、虎ノ門武蔵高女・日本女子大・商大・早大の学生等々二万人、その後に町民も総出で悲しい行列の見送りだ
 同町役場前に「謹而送霊柩」の黒わく付大きな立札が目立ち上富士前町に並んだ聖学院中学校生が「吹きなす笛」のラツパと「頭右!」とで見送る
自動車百台、約廿町にわたる行列の進む所、街上、市電上、四つ角…いづれも「財界の巨人」を黙送する市民の敬けんな顔・顔・顔の連続だ、その数無慮三万、順路を経て九時四十分青山斎場に着く
 徳川家達公・関屋宮内次官・永田市長・床次竹二郎氏等二百名許りが待ちうけてゐる
 斎場 の正面には三陛下からの菊の花の寄せ植、秩父宮・高松宮を始め奉り、各宮家からの生花が白・黄・かばと緑でさびしいかい調をなし、くぢら幕の前には諸大公使の花環も見える、その真ん中に「供物」と「泰徳院殿仁智義譲青淵大居士」の位牌とを前にした黒わくの肖像が、らふそくの光、両側から放たれる映画撮影用ライトに照され生けるが如く、柔和に微笑んでゐる
 正面右側に家達公夫妻・慶光公・徳川公母堂・敬三氏・兼子夫人等親族一同が、左側には市長・矢野恒太・大橋新太郎氏等財政界の名士がひかへれば
十時「勅使!」の前ぶれも厳かに 天皇陛下から御差遣の本多侍従、皇后陛下からの野口事務官、皇太后陛下からの西邑事務官がそろつて見え、一同
 敬礼 のうちに懇に香華をたむけて退下、間もなく正面に僧正が進み、両側の約二十名の僧りよが一せいに読経を始める
 十時四十分永田市長・郷日本商工会議所会頭が弔辞を読み、十一時から親族の焼香に移る、徳川家達公・同夫人・公爵御母堂・徳川慶光公・喪主敬三氏の順で進み、少し前に式場に見えた若槻首相がこれに続き、田中・渡辺・町田・井上・幣原等の各閣僚も親族にごして香華をたむける、入沢博士も又この間に焼香をすまして感慨深げに退出するのが人目をひいた
かくて十一時半葬儀は終了、午後一時から一般の告別式に移つた、定刻斎場近くは自動車の行列、斎場は後から後からとつゞく人垣で受付の三十八個の三宝が見る間に名刺の
 山を 築き、霊柩前の香炉からは、香煙もうもうと立ちのぼる、一般参拝者には礼拝のみを許し、僧りよ二人が代つて絶えず焼香してゐるのだ。この悲しい混雑は、予定より三十分延ばした三時半に至るまでもつゞき、その数二万人と目され、午後四時斎場出棺、谷中墓地に向つた