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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.305-312
四一、立志の工夫
人間の一生涯に歩むべき道――其の大方針を決定するのが所謂立志であつて、己は此の世の中に立つて如何なる方面に向うてよいか、如何なる仕事に従事すべきか、如何にして一生涯を有意味に終らしむべきかを予め決定するのであるから仲々に重大な問題で軽々しく取極めることは出来ない。回想すれば余は寧ろ此の点に就いて痛恨の歴史を有する一人である。
余は十七歳の時武士になり度いとの志を立てた。と謂ふものは其の頃の実業家は一途に百姓町人と卑下されて、世の中からは殆ど人間以下の取扱を受け、所謂歯牙にも懸けられぬといふ有様であつた。而して家柄といふものが無闇に重んぜられ、武門に生れさへすれば智能の無い人間でも、社会の上位を占めて恣に権勢を張ることが出来たのであるが、余は抑々これが甚だ癪に障り、同じく人間と生れ出た甲斐には、何が何でも武士にならなくては駄目であると考へた。其の頃余は少しく漢学を修めて居たのであつたが、日本外史などを読むにつけ、政権が朝廷から武門に移つた径路を審かにする様になつてからは、其処に慷慨の気といふやうな分子も生じて、百姓町人として一生を終るのが如何にも情けなく感ぜられ、愈々武士にならうといふ念を一層強めた。而して其の目的も[、]武士になつて見度いといふ位な単純なものではなかつた。武士となると同時に、当時の政体を何うにか動かすことは出来ないものであらうか、今日の言葉を仮りて言へば、政治家として国政に参与して見度いといふ大望をも抱いたのであつたが、抑々これが郷里を離れて四方に放浪するといふやうな間違を仕出来した原因であつた。斯くて後年大蔵省に出仕するまでの十数年間といふものは、余が今日の位地から見れば、殆ど無意味に空費したやうなものであつたから、今、此の事を追憶するだに尚痛恨に堪へぬ次第である。
自白すれば余の志は青年期に於て屡々動いた。最後に実業界に身を立てようと志したのが漸く明治四五年頃のことで、今日より追想すれば此の時が余に取つて真の立志であつたと思ふ。元来自己の性質才能から考へて見ても、政界に身を投じようなどとは[、]寧ろ短所に向うて突進するやうなものだと、此の時漸く気が付いたのであつたが、それと同時に感じたことは、欧米諸邦が当時の如き隆昌を致したのは、全く商工業の発達して居る所以である。日本も現状のまゝを維持するだけでは、何時の世か彼等と比肩し得るの時代が来よう。国家の為に商工業の発達を図り度い。といふ考が起つて、茲に始めて実業界の人とならうとの決心が付いたのであつた。而して此の時の立志が後の四十余年を一貫して変ぜずに来たのであるから、余に取つての真の立志は此の時であつたのだ。
惟ふにそれ以前の立志は自分の才能に不相応な、身の程を知らぬ立志であつたから、屡変動を余儀なくされたに相違ない。それと同時に其の後の立志が、四十余年を通じて不変のものであつた所から見れば、これこそ真に自分の素質にも協ひ、才能にも応じた立志であつたことが窺ひ知られるのである。併し乍ら若し自分に己を知るの明が有つて、十五六歳の頃から本当の志が立ち、始から商工業に向うて行つて居たならば、後年実業界に踏込んだ三十歳頃までには、十四五年の長日日[月]があつたのであるから、其の間には商工業に関する素養も十分積むことが出来たに相違なからう。仮に左様であつたとすれば、或は実業界に於ける現在の渋沢以上の渋沢を見出される様になつたかも知れない。けれども惜しい哉、青年時代の客気に誤られて、肝腎な修養時期を全く方角違ひの仕事に徒費して仕舞つた。これに付けても将に志を立てんとする青年は、宜しく前車の覆轍を以て後車の戒とするがよいと思ふ。
偖、生れながらの聖人なら知らぬこと、吾々凡人は志を立てるに当つても兎角迷ひ易いが常である。或は眼前社会の風潮に動かされ、或は一時周囲の事情に制せられて、自分の本領でもない方面へ浮々と乗り出す者が多い様であるけれども、これでは真に志を立てたものとは謂はれない。殊に今日の如く世の中が秩序立つて来ては、一度立てた志を中途から他に転ずる抔のことが有つては非常の不利益が伴ふから、立志の当初最も慎重に意を用ふるの必要がある。其の工夫としては先づ自己の頭脳を冷静にし、然る後自分の長所とする所、短所とする所を精細に比較考察し、其の最も長ずる所に向うて志を定めるがよい。又それと同時に、自分の境遇が其の志を遂ぐることを許すや否やを深く考慮することも必要で、例へば身体も強壮、頭脳も明晰であるから学問で一生を送り度いとの志を立てゝも、これに資力が伴はなければ思ふ様にやり遂げることは困難であるといふやうなこともあるから、是ならば孰れから見ても一生を貫いてやり通すことが出来るといふ確かな見込の立つた所で、初めて其の方針を確定するがよい。然るに左程までの熟慮考察を経ずして、一寸した世間の景気に乗じ、うかと志を立てゝ駈出す様な者がよくあるけれども、これでは到底末の遂げられるものではないと思ふ。
既に根幹となるべき志が立つたならば、今度は其の枝葉となるべき小さな立志に就いて日々工夫することが必要である。何人でも時々事物に接して起る希望があらうが、それに対し何うかして其の希望を遂げ度いといふ観念を抱くのも一種の立志で、余が所謂『小さな立志[』]とは即ちそれである。一例を挙げて説明すれば某氏は或る行に由つて世間から尊敬されるやうになつたが、自分も如何かしてああいふ風になり度いとの希望を起すが如きまた一の小立志である。然らば此の小立志に対しては如何なる工夫を廻らすべきかといふに[、]先づ其の要件は、何処までも一生を通じての大なる立志に悖らぬ範囲に於て工夫することが肝要である。又小なる立志は其の性質上常に変動遷移するものであるから、この変動や遷移に因つて大なる立志を動かす様なことの無い様にするだけの用意が必要である。詰り大なる立志と、小さい立志と矛盾するやうなことがあつてはならぬ。此の両者は常に調和し一致するを要するものである。
以上述ぶる所は主として余が立志とその工夫とであるが、古人は如何に立志をしたものであるか、参考として孔子の立志に就いて研究して見よう。
自分が平素処世上の規矩として居る『論語』を通じて孔子の立志を窺ふに、『十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知る云々』とある所より推測すれば、孔子は十五歳の時既に志を立てられたものと思はれる。併し乍ら其の『学に志す』と曰はれたのは、学問を以て一生を過す積りであるといふ程志を固く定めたものであるか如何か、これは稍〻疑問とする所で、唯此から大に学問しなければならぬといふ位に考へたものではなからうか。更に進んで『三十にして立つ』と曰はれたのは、此の時既に世に立つて行けるだけの人物となり、修身斉家治国平天下の技倆ありと自信する境地に達せられたのであらう。尚『四十にして惑はず』とあるより相[想]像すれば、一度立てた志を持ちて世に処するに方り、外界の刺戟位では決して其の志は動かされぬといふ境域に入つて、何処までも自信ある行動が執れるやうになつたと謂ふのであらうから、此処に到つて立志が漸く実を結び、且つ固まつて仕舞つたと謂ふことが出来るだらう。して見れば孔子の立志は十五歳から三十歳の間にあつたやうに思はれる。学に志すと曰はれた頃は、未だ幾分志が動揺して居たらしいが、三十歳に至つて稍〻決心の程が見え、四十歳に及んで始めて立志が完成されたやうである。
これを要するに、立志は人生てふ建築の骨子で、小立志は其の修飾であるから、最初に確とそれ等の組合せを考へてかゝらなけれは[ば]、後日に至つて折角の建築が半途で毀れるやうなことにならぬとも限らぬ。斯の如く立志は人生に取つて大切の出立点であるから、何人も軽々に看過することは出来ぬのである。立志の要は能く己を知り、身の程を考へ、それに応じて適当なる方針を決定するといふ以外にないのであるから、誰も能く其の程を計つて進むやうに心掛くるならば、人生の行路に於て間違の起る筈は万々無いことゝ信ずる。